不死鳥伝説物語

燦々東里

永遠の魂


 広大な森があった。その名はヴェロッタムール。

 ヴェロッタムールには不死鳥が住むと言われる。その不死鳥は、朱色の美しい姿で、その生き血を飲めば、不死になるという言い伝えがある。

 しかし、いまだその姿を見た者はいない。


           *


 ある日、ヴェロッタムールに一人の男が足を踏み入れた。その男の名はレナード・ジョンソン。不死鳥を手に入れようと、街からやってきたのだ。今は森の近くの掘っ立て小屋に一人で暮らしている。

レナードは弱弱しい足取りで、森の中を歩いている。手には太い木の枝を、杖代わりにして持っていた。

 ここ数か月、森に来てはこうして不死鳥を探しているが、一度も会えたことはない。それでも諦めずに毎日訪れるのだから、大した根性だ。

 遅々とした動きで着実に進んでいたところ、突然レナードの右手側で光が瞬いた。その光は朱色で、通常森では見ることのないもの。木々の隙間から断続的に漏れてくる。

 その方向に小道はないため、自分で道を切り開くしかない。レナードは木の枝を捨てると、茂みの草木をかき分けながら進み始めた。歓喜と緊張から汗を垂らしつつ、なるべく音を出さないように進む。

 四苦八苦しながら光源が見える位置まで辿り着いた。数メートル先にいたのは朱色の鳥。木一本分ほど空いた地面に細い足で立っている。その整った毛並みや長い睫毛を生やす瞳は、今まで見てきた数々の不死鳥伝説の文献に記された姿より遥かに美しい。

 レナードは茂みに隠れて、光を放つ不死鳥の様子をじっと窺う。

 すると不死鳥の放つ光は、急に目も開けられないくらい強くなった。思わず目を閉じたレナードが、次に目を開けた時に目にしたものは――

「なっ……」

 女性だった。

 不死鳥のいた位置に、綺麗な女性がいたのだ。どうやら不死鳥は、人間へと変化できるらしい。柔らかな風が、彼女の艶やかな朱色の髪の毛を揺らす。その姿はあまりにも人間離れした美しさで、神秘的でさえもあった。

 驚嘆で半ば思考の停止したレナードは、放心状態で一歩後ろに後退した。しかし不注意で地面に落ちている葉を踏み、微かに葉擦れの音を鳴らしてしまう。

「誰かいるの?」

「……っ」

 途端に女性がレナードのいる方を向く。レナードは一回深呼吸すると、静かに茂みから出た。

「こんにちは。わたしはレナード・ジョンソンです。いやあ、驚きました。まさかヴェロッタムールで人に会えるなんて、思ってもみませんでしたから」

 レナードは人当たりのいい笑顔を浮かべながら、女性に近づく。

「こんにちは。私は……セレナです。私も驚きました。ここで何をしてらしたんですか?」

 するとセレナも笑顔を作る。整った顔立ちに浮かぶ笑顔は綺麗だが、人間の真似をして張り付けただけのようなそれは、彼女に感情がないように見せる。近づきがたい雰囲気を放っていた。

 レナードはセレナから視線を逸らせないまま、おもむろに口を開く。

「……わたしは、森の植物の観察に。植物に興味があるんです」

「そうなんですか。きっと素敵な植物が見れますよ。ここは広いですし。それでは」

 口早にそう伝え、セレナは最後に軽く会釈する。

「あ、あの」

「はい?」

 早々に去ろうとしたセレナを、レナードが慌てて引き止める。セレナのこの態度にも関わらず話しかけることに、レナードは申し訳なさそうに、眉を垂らした。そんなレナードに対して、セレナは変わらず笑みを向ける。

「よろしければ、森を案内していただけないでしょうか? なんだか詳しそうに見えたので……」

 レナードの申し入れに、セレナの動きが一瞬止まる。レナードはその反応に息を詰める。

「……ええ。いいですよ」

「ありがとうございます……!」

 レナードは溜めた息をそっと吐いた。セレナはその様子を、何の感情も読み取れない瞳で見つめてから、口を開く。

「では、行きましょうか」

「あ、もう少しゆっくり歩いてもらえますか?」

「……。はい」

 いたって普通の速さで歩き始めたセレナが、レナードの様子を見つめる。それからすぐに優しげな笑みを向けた。

 そうして二人は並んで、ゆっくり森を歩き始めた。



「これはリュシアンという花です。ヴェロッタムールにしか生息しないと言われています。滋養強壮によく、花弁は生で食べられます。そして……」

 セレナが青い花を指さしながら説明している。見たことない花にも関わらず、レナードの視線はその花には注がれていなかった。セレナを見つめていたのだ。

 煌めく髪に、薔薇水晶のような頬。長い睫毛に縁取られた碧眼は、愛しそうにリュシアンを見つめる。そして木漏れ日がその様子を温かく照らす。

 人間が近づいてはいけないような神聖な存在。それでいて森を愛するその姿は、何をも包み込む聖母のようでもあった。

「では、次の場所に行きましょう」

「あ、はい」

 セレナが振り向くと、レナードはすばやくリュシアンに視線を移す。いかにもリュシアンを見つめていた風な態度をとりつつ、セレナに笑いかけることも忘れない。

 セレナがレナードを先導して歩き出すと、その後ろでレナードは頬に手で風を送った。



 夕焼けがヴェロッタムールを優しく照らしていた。

 レナードとセレナは、あれから一日森を歩き回った。セレナは植物や木々だけでなく、珍しい動物のことも快く説明してくれた。他にも他愛ない会話を交えたりもした。本来の目的とは違くとも、レナードはこの日を存分に楽しみ、セレナは後半、饒舌になっていた。

 今は木々が途切れて辺りを見渡せる丘にいる。

「そろそろ日も暮れます。終わりにしましょう」

「あ、あの……」

「なんでしょう?」

 最初より幾分柔らかくなった笑みがレナードに注がれる。しかしレナードは躊躇して、視線を彷徨わせながら、口ごもった。顔を隠すように、眼鏡を指で持ち上げる。

「その……これからも、こうして会っていただけないでしょうか?」

 だが意を決し、些か勢い込んで言葉を吐き出した。相手の機嫌を窺う不安げな視線をセレナに送る。

「……ええ、もちろん。明日もまたここで落ち合いましょう」

 レナードの提案をセレナは変わらぬ笑顔で了承する。しかしその瞳は嬉しさや悲しさが入り混じった、形容しえない感情を湛えていた。

「ありがとうございます!」

「これくらいお安い御用です」

 今日一番の大声でお礼を言うレナードからは、純粋な感情しか伝わってこない。一点の曇りもないその笑顔に、セレナも破願した。

「では、今日は帰りますね。さようなら」

「ええ。さようなら。また明日」

 普段の落ち着いた外見や雰囲気では隠し切れないほど、今のレナードは興奮しているようだ。小躍りでも始めそうな足取りで、彼は森を去って行く。その後ろ姿をセレナは微笑ましそうに眺めていた。



時が過ぎるのは早いもので、セレナとレナードが出会ってから早一か月が経った。妙に馬が合った二人は、ほぼ毎日会っているということもあってか、瞬く間に距離を縮めていた。

不死鳥探しのために小さな家で一人暮らすレナード。不死鳥であるがゆえに他の生き物から一歩距離を置かれるセレナ。独りぼっちの二人がお互いに大切な存在となるのは、考えてみれば何ら不思議なことでもないだろう。

レナードが丘へとやって来た。

「セレナー?」

 普段ならセレナが先に来ていると言うのに、今日はその姿が見当たらない。レナードは辺りを見渡し、それから森の木々の方へと向かう。

「セレナ、いないのかい?」

「レナード、こっちよ!」

 声を上げれば、森の中からセレナの声が聞こえてくる。しかし姿までは見つからなかった。

「セレナ……? 今日は出てきてくれないの?」

 何を考えているのかはわからないが、とりあえず森の中へと分け入る。自身の足と地面が擦れる音を聞きながら、セレナを探す。

「レナード早くー」

 楽しそうなセレナの声がした方を見ると、一瞬だけ彼女の裸足が見える。しかしすぐに幹の後ろに隠れてしまった。その木の元まで行って覗き込んでもセレナはいない。

「セレナ、一体どこにいるんだよー」

「うふふっ。ここよ、ここ」

 今度は別の木の後ろから朱色の髪が覗いた。もちろん見えたのは一瞬で、耳を澄ますとセレナがそこから移動する音が聞こえた。一応、髪の毛が見えた木まで行くが、やはり求める人物の姿はない。

「おーい、セレナってばー」

「レナード、こっち」

 今度は周りの木々より一回り太い幹から、セレナが顔を覗かせる。これまた一瞬で隠れてしまうも、セレナの歩く音は聞こえない。

 完全に遊ばれていることは理解できるが、あまりにも楽しそうなセレナの様子に怒る気力を削がれてしまう。それどころか寧ろ、レナードもこの状況を楽しんでいた。

「よーし……」

 レナードは楽しげに口角を上げると、忍び足で太い木に近づいていった。なるべく地面と靴が擦れないようにしつつ歩みを進め、ついに木の幹まで辿り着く。

「セレナ、見つけた!」

 勢いよく木の裏側を覗く。しかしセレナの姿はない。

「あれ……いると思ったんだけどな」

 レナードは先程のセレナのように顔だけを出したまま、不思議そうに左右を見る。近くの木にもその奥の木にも、彼女の気配は感じられない。

「レナード!」

「うわっ!」

 すると突然セレナの声とともに、背後から首に腕が回る。飛びつかれた反動で、レナードが一歩前によろけた。

「セ、セレナ……びっくりした……」

「んふふ」

 セレナがしゃべるたびにその吐息がレナードの耳にかかり、背中からはセレナの体温が感じられる。レナードは不自然に前方を凝視したまま、よろけた状態から動けないでいた。

 するとセレナが、よっと、という声とともにレナードから降りる。レナードは高鳴る心臓に手を当てながら、ほっと溜め息を吐いた。

「回り込み作戦大成功!」

「まんまと引っかかっちゃったなあ」

 セレナが得意げに笑う。レナードもそれに笑って返しながら、紅潮した頬を指で掻いた。それと同時に今の戯れで荒くなった呼吸を整える。

 一方でセレナはレナードの反応に気を良くしたのか、さらに笑みを深めた。

 セレナはこの数か月で、本当によく笑うようになった。最初の頃の機械的な冷たい笑みとは違い、柔らかい人間的な笑みが増えたのだ。それだけじゃない。今のようにふざけることも多くなった。セレナはレナードとの日々で、次々と違う表情を表す。その様子はまるで失った感情が取り戻されていくようだった。

 そしてレナードも彼女と出会うことで変わらなかったわけではない。落ち着いてまじめな印象のレナードは、セレナと出会ったあとから、より優しげに笑うようになった。以前より活発に行動するようにもなり、どちらかといえば病弱だった見た目も、今では健康的である。

 変化を見せていくお互いに、ますます二人は惹かれていってしまう。

「あれ? レナード大丈夫……?」

「え? ああ……ちょっとはしゃぎ過ぎたかな」

 いまだに苦しそうな呼吸が収まらないレナードは、ごまかすようにへにゃりと笑う。けして興奮だけが原因ではないそれ。まるで自分の目的や自身の想いから目をそらし享受した穏やかな時間を、終わりにしなければならないと告げられているようだ。

「そう……?」

「うん。さあ、今日も探索に行こう」

「……わかった。行こっか」

 心配そうにレナードを見つめるセレナだが、レナードの笑顔に安心して笑みを返した。



いつものように時間をかけて森の探索をしたレナードとセレナは、待ち合わせ場所にしている丘に戻ってきていた。この丘からはヴェロッタムールを照らす夕日がよく見える。

二人は丘に並んで座っていた。夕日に照らされ伸びた二人の影は、仲良さげに重なっている。

「今日も楽しかったわね」

「うん。幸せ過ぎて死んでしまいそうなほどに」

「何それ。そんなんじゃ毎日死んじゃうじゃない」

「ああ……」

 セレナが面白そうに笑いながら、隣のレナードを見る。しかしレナードはもの淋しそうに夕日を眺めているだけだった。

「レナード……?」

「わたしと君が出会ってから、ずいぶん経ったよね」

「……そうね。とても充実していたわ」

「ああ。本当に楽しかった」

 セレナのことを一度も見ることはないレナード。その理由を聞きたくとも、なんとなくいけないような気がしてセレナは口をつぐんだ。

 レナードは夕日を見つめる瞳を細めていた。セレナも所在無げにしつつ、眩しい夕日を眺めた。二人の視線の先の夕日は、どこか儚さをはらんでいる。

「わたしは、原因不明の心臓の病気を患っている。だから、激しい動きや運動ができないんだ」

 そんな幻想的とも言える雰囲気の中、レナードがおもむろに話し出す。その手は彼の心臓の上に置かれていた。

「ヴェロッタムールを探索していたのは、植物じゃなく、不死鳥が目的だった。不死鳥伝説に縋るしか、もう……わたしには残されていなかったから」

 レナードは夕日から目をそらし、手で服を強く握った。次の言葉を迷うかのように、俯いたまま視線を揺らす。

「そしてあの日、君と出会った日に、君が不死鳥から人間になる様子を見てしまった。だから、君に……」

 そこまで言ってどうしても続けられなくなったレナードは言葉を切ってしまう。

「黙っていて、ごめん」

 震える声を絞り出すと、口を引き結ぶ。辛そうに歪む瞳は閉じられた。

 不死鳥ではない。セレナという女性と過ごした日々の思い出が、レナードの頭の中を駆け巡る。いつ止まるかもわからない身体の核に追い詰められた暗い日々から、救い出してくれたのはセレナだった。しかし信じられないほど輝いていた日々は、もう二度と手の届かない場所に消えてしまうかもしれない。それでもこのままではいけないと、レナードの良心が訴えていた。

「知っていたわ。全て」

「……え?」

 レナードが俯いていた顔を上げ、セレナを見つめる。だがセレナは切なげに夕日を見るだけだ。それに反して口元は弧を描いているようにも見える。

「あの日、不注意であなたに、私の変化を見られてしまったことも。あなたが……」

 セレナは一度視線を下に向ける。長い睫毛が瞳に影を落とす。それからレナードに目線を移した。

「私の血を目当てに、近づいたことも」

「……っ」

 レナードは目を見開いて、息を詰まらせた。

 そうだとしたらどれだけ下卑た男に見えていたことだろう。どれだけ酷なことを強いていただろう。

「でも……! でも今は違うんだ! だってわたしは君をっ……」

 畳みかけるレナードの口を、セレナが塞ぐ。悟ったような瞳で、それでもなお笑みを浮かべるセレナ。彼女が左右に首を振るのを見れば、レナードは黙る他に選択肢はない。

 有限の時と、無限の時。二人の間に流れる時間は全くの別ものだ。そんな中、互いの想いを言葉にすれば、全てが変わってしまう。

幸福を手にすることはできるだろう。しかし刹那の幸福を得るためには、多大な代償を払わねばならない。一人残される辛さを、セレナは痛いほど知っていた。だからこそ続く言葉を聞く勇気が出なかったのだ。

「ねえ、レナード」

 口から手を離して、セレナは体育座りした膝の間に顎を置いた。レナードは地面に片手をついて、後ろに体重を預けた。

「なんだい?」

「何で私が全てを知ったうえで、あなたと過ごしたかわかる?」

「……わかんないな」

 夕日が徐々に沈み、辺りは暗くなる。二人の顔に影が掛かり、それに合わせるかのように静かな声で会話を交わす。

「あなたは、違ったのよ。他の人と」

「……君の血を求めに来た人と?」

「そう。邪心が感じられなかったの。優しさで満たされていた」

 レナードは上空を見るともなしに眺める。レナードに見られているわけでもないのに笑んでいたセレナの口角がゆっくり下がった。

「だから心を許してしまったんだわ、きっと……」

 地面の芝生を見つめる瞳がかすかに揺れる。

 柔らかな風が丘を吹き抜ける。まるで意思を持ったかのような風は、セレナの頬を、髪を、腕を、優しく撫で上げていく。

「レナード」

 思考に耽る沈黙を破ったのは、セレナの声だった。レナードはセレナに振り向いて、続く言葉を待つ。

「私の血を、飲んで」

「……え?」

 セレナがレナードの手を取って、両手で握る。温かさに満ちている、無理をした笑顔とともに。

「あなたの街に伝わる伝説は迷信よ。でも血を飲めば、多少なりとも寿命は延びる」

「でも……」

「私のためにも、あなたのためにも、飲んでほしい」

 懇願してくるセレナの眼光は、今までにないほど鋭い。逸らすことを許さぬその瞳を見つめながら、レナードは唇を噛んだ。嬉しさや辛さ、迷いが見て取れる表情だ。

「わたしには……飲めない」

「どうして?」

 レナードが視線を落とす。セレナは小さく首を傾けながら、眉を垂らした。

「君を傷つけてまでわたしは長生きしたくない。それなら今まで以上に、君との時間を大切に過ごしたいよ」

 レナードはセレナの両手を上から包み込み、今度こそ、逸らすことなく彼女を見つめた。けして揺るがない意思を解したセレナは、首を縦に振る。

「うん。わかった」

「ごめんね、セレナ……。わたしのための決断なのに」

「ううん。レナードは私のために断ったんだもの。その気持ちが、とても嬉しい」

 セレナはつっかえが取れたような、晴れ晴れとした笑顔を浮かべる。レナードも普段のようにへにゃりと笑い、手に力をこめた。

 夕日はすっかり沈んでしまい、二人の頭上では星が輝く。満月の光も淑やかに降り注ぐ。

「いつの間にかこんな時間だ。そろそろ帰るね」

「暗いから気を付けてね」

「うん。じゃあ、また明日」

「またね、レナード」

 レナードがセレナの手を引いて立ち上がる。最後に微笑みあうと、レナードは小さく手を振った。セレナも笑顔で手を振り返しながら、緩慢な動きのレナードを見つめる。セレナはその後ろ姿が見えなくなっても、ずっと見つめ続けていた。

 



 翌日、レナードが気持ち新たに丘へと姿を現す。昨日の出来事で、セレナとの仲がより縮まった気がして上機嫌だ。

 しかし今日もセレナはいなかった。ぐるりと開けたこの場所を見渡しても、全く見当たらない。

「セレナ! おはよう!」

 大声を出しても、彼女は一向に現れない。また驚かせるつもりかと、レナードは楽しそうに笑いながら森の入り口まで行った。

「セレナいるんだろ? 今度は騙されないぞ」

 森の中を覗きこむと、近くの茂みから音が鳴る。

「セレッ……なんだ、鳥か……」

 茂みから出てきたのは、地面の何かを啄む鳥だった。レナードは意気消沈して溜め息を吐くと、その場から引き返した。

 どうやらセレナは本当にいないようだし、むやみに探して入れ違いになるのは困る。レナードは丘に座って待つことにした。



「ん……」

 目を覚ますと、あたりはオレンジ色に染まっていた。横向きの木々と、芝生が視界に入った。どうやら眠ってしまっていたらしい。昨日家に帰り着くのが遅かったせいだろう。

「レナード、おはよう」

 寝起きでまだぼんやりとしていると、急に頭上から声が降ってくる。驚いて首を捻ると、目の前にいるのはセレナ。

「あ! わ! セレナ! ごめん!」

 それと同時に膝枕をしてもらっていることに気づき飛び起きる。後頭部に残る柔らかい感触に、顔が見る見るうちに紅潮していった。

「ほんとごめん、来てくれたのに……」

「とても気持ちよさそうに寝てたわよ」

 真っ赤になった顔を俯かせながら、目だけでセレナの様子を窺う。セレナは一見すれば綺麗な笑顔だ。しかしどこかおかしい。出会ったばかりの冷たさが再び現れたかのようだ。

「……セレナ? あの、やっぱり……」

「あのね、レナード。今日はお別れを言いに来たの」

「……え?」

 相変わらず笑顔は綺麗なのに、やはりとても冷たく、恐ろしさしか伝わってこない。レナードは笑みを引きつらせながら、セレナを見つめる。

「もうあなたと会うつもりはないから。ここにも二度と来ないで」

 セレナは表情とは真逆の酷い内容をレナードに突きつける。そしてさよならも言わずに背を向けた。

「セレナ! 理由も教えてくれないのかい!?」

 驚きで固まっていた口を必死に動かす。速足で歩き去る背中は止まることはない。何故か足は地面に張り付いたように動いてくれなくて、手をただひたすら前に伸ばす。

「セレナ! 待ってセレナー!!」



「……っ」

 目を開けると今度もまたオレンジ色に染まった世界が見える。体中に嫌な汗をかいていて、腕は真上に伸びていた。数秒考えて、今のが夢だったことに気づく。

もうすっかり夕方だ。目をこすりつつ、体を起こした。ぐるりと周りを見渡すが、セレナはいない。

 今日来ないのは昨日のことが原因。普通に考えればそうなるだろう。会うのが嫌になる可能性の言葉を言ったことは否めない。

 ――もしかすると、今の夢は現実に。

「……今日は何か用事があったんだな」

 気障りな予感を振り払って、帰路を辿り始めた。



 あの日から一週間、レナードはセレナに一度も会うことはなかった。

 血を目的に近づいたから。血を飲むのを拒否したから。もしかしたら最後の笑みは、離別の嬉しさを語ったものだったのかもしれない。あの夢は未来を予言していたのかもしれない。

 嫌な思考は止まることはなく、それを否定するために、毎日森に訪れては様々な場所を探し回った。セレナが案内したこともないような危険なところまで行った日もある。無理して走ったりもした。

 そうやって過ごしていれば、疲労は回復することなく蓄積していく。だが限界をとうに超えていても、レナードは諦めなかった。

 彼女の影を、どこまでも追い続けた。

「セレナ……! 姿を見せてくれ……!」



 朱色の鳥が、空を飛んでいた。ヴェロッタムールを遥か上空から眺めながら、気分良さげに飛んでいる。その首には何か包んでいる布が巻き付いていた。

 向かう先は、いつもの丘。残り数百メートルで着く頃に、地面に向かいながら急降下を開始する。

「セレナ……! 姿を見せてくれ……!」

 その時、レナードの声が耳に届く。かなり弱弱しい声に、彼女の心臓のあたりが一気に冷えていく。一度上昇してから森を見ると、細い小道に茶色の頭が見えた。不規則に揺れるそれを見て、鳥は慌てて降下を開始する。時間が惜しくて変化をしながらだった。

 すると朱色の光に気づいたレナードが、希望に満ちた眼差しを向けた。まだ僅かに発光するセレナと、レナードの目が、合う。

「セレナ……」

「レナード!」

 レナードがセレナに両腕を伸ばしながら歩く。セレナが走り寄ると同時に、レナードが倒れ込んだ。間一髪のところで抱きとめて、その顔を見ると、青白いのに汗をかいていた。疲労の溜まったその様子で、かなり心配をかけてしまったのだと今さらになって気づく。

「ごめんなさい、心配かけたよね……」

「いや、いいんだ。君が無事だって……わかったから」

 そう言っていつもの笑顔を浮かべてくれるレナードに、セレナは更に申し訳なくなった。レナードを安心させるように笑顔を作りながら、息の荒い彼をセレナは幹を背もたれに座らせてやる。心臓に手を当て、苦しそうに短い呼吸をしていた。

「レナード、これを見て」

 首に巻いていた布を広げると、眉根を寄せ目を瞑っていたレナードが、その中身を見る。布に包まれていたのは、セレナと森を探索していたレナードでも見たことも聞いたこともない植物の数々だった。

「こ……れは……?」

「あのね、あの日あなたと別れてから急に心臓に効く薬を思い出したの。これならあなたも飲んでくれるって思ったら、居ても立っても居られなくなって、何も言わずに材料集めに繰り出してしまったの。そしたら予想以上に時間がかかってしまって……。でもこれでレナードは治るの! 治るのよ!」

 セレナは申し訳なさと興奮で、身を乗り出し大きな身振りでまくしたてる。明るく輝く瞳は、未来への希望で埋まっていた。

「わたしのために……遠くへ……?」

「そう、あなたのため。飲んでくれる?」

「もちろん……。ありがとう、セレナ」

 徐々に呼吸の感覚がゆっくりになってきたレナードが、目尻を垂らす。セレナは嬉しさの押さえきれない笑顔を漏らしながら、薬の材料に向き直る。

「さっそく薬を作ってしまうわね」

「ああ、おねが……うっ!」

「レナード!?」

 レナードが急に呻き声をあげ、上体を曲げる。整ってきていた呼吸は再び早まっている。全身から脂汗を流しているが、顔は真っ青だ。

「レナード! レナードしっかり!」

 セレナはレナードの傍に寄り、抱きしめながら顔を覗く。レナードは顔を歪め、掠れた吐息を口の隙間から漏らしていた。セレナと目は合わない。

「レナード! どうしよう……レナードが! このままじゃレナードが!」

 セレナがおろおろと辺りを見回す。薬の材料が目に留まるが、即効性はないし、そもそも今から作っても間に合わない。冷静を欠いたセレナでは、いい考えは思いつかなかった。ただ時間を浪費してしまうだけ。

「セ……レナ……」

「レナード!」

 レナードが苦しそうな呼吸の合間に、必死に言葉を紡ぐ。死の間際に瀕してもレナードの瞳には強い光が宿っている。セレナは伸ばされた彼の手を強く握り、続く言葉をしかと待った。

「あ……い……して……る……」

 セレナが目を見開く。

 それは二人の間で、声になることはなかったもの。声にしては、いけなかったもの。

 レナードはやっと言えたと、嬉しそうに微笑む。

 その瞬間、急に映像がフラッシュバックした。

 腹から血を流す茶髪のセレナと、その体を抱きしめる朱色の髪の男性。セレナは優しく微笑んで、男性の頬に触れる。すると男性は涙を流し、ある言葉を口にした。そして二人は、口づけを交わす――

「……っ」

 唐突に現実に引き戻される。かつての愛しい人の記憶が、大昔の人間だった頃の記憶が、一気に頭になだれ込んできて、セレナの頭は爆発しそうだった。

 しかし今にも息を引き取りそうなレナードを見て、すぐに現実を思い出す。

「レナード……! 私もよ! 私も愛しているわ!」

 目を真っ直ぐ見つめて叫ぶと、レナードの口から、よかったと言葉が漏れる。そしてとうとう瞼が落ちていくレナードに、セレナの瞳からついに涙が零れる。声を上げて泣き出したいのを必死に堪えた。

「レナード、今までありがとう。さようなら……」

 小さく囁いて、瞳を閉じる。するとセレナの体から、変化の時より濃い朱色の光が発せられた。どんどん強くなる光の中、セレナはそっと目を開け、愛しそうにレナードの頬に触れた。

「Eternita(エテルニタ) spirito(スピーリト)」

 微笑みながらそう言って、レナードと唇を重ねる。

 眩い光が二人を包んだ――



「ん……」

 レナードの眼が開く。まず目に入ったのは森の木々と、隙間から見える青い空。なぜ寝ていたのかを考えて、発作を起こしたのだとぼんやり思い出す。しかし心臓の痛みは既になく、それどころか人生の中で一番といっていいほど調子がいい。今まで常に感じていた息苦しさがないのだ。

「そうだ、セレナ……」

 きっとこの状況を作りだしてくれたであろう女性の姿を探す。上体を起こすと、レナードの膝に頭を置いて眠る、明るい茶髪の女性がいた。見知らぬ女性を抱き起こすと、その顔は紛れもなくセレナだった。

「セレナ……だよね? 起きて。薬が効いたようだ」

 どうして髪色が変わったかはわからないが、とりあえず揺り起こそうとする。しかし一向に起きる気配はない。嫌な予感がしてその体に触れると、驚くほど冷たい。頬を口に近づけてみるが、やはり息は感じられなかった。

「どうして、セレナが……」

 手掛かりはないかと顔を上げる。手つかずの薬の材料が目に入った。ということは薬以外の方法で助けてくれたということ。

それから目の前にちらつく前髪に違和感を感じ、引っ張って見ると、それは朱色をしていた。信じられなくて抜いた髪の毛も、やはり朱色。

「いったいどういうことなんだ……」

 レナードは困惑して、セレナの亡骸を見つめる。その時だ。なんともいえぬ感覚に気づいた。力が体の中心から湧き上がってくるような、全身を駆け巡るような。その感覚に従って体に力を入れる。

 その瞬間、レナードの体から朱色の光が湧き出た。それに驚いているうちに、光は強くなっていく。全身に羽毛が生え、口はくちばしに、背中からは翼が。

 瞬く間に不死鳥へと変わったレナードは、翼を広げ自分の姿を確かめる。それからすぐに再び朱色の光がレナードを包んだ。

「セレナ……君なんだね」

 人間に戻ったあとのレナードは、悟ったような顔をして彼女を見つめた。意識を失う直前の、彼女の言葉、表情、そして口づけが自然と思い出される。

「セレナ……」

 ごめんと続けようとした口をそっと閉じる。命を与えてくれた彼女は、死の直前まで笑っていた。さらに死してなお、その表情は穏やかだ。そんな彼女が、謝罪を望むわけがなかろう。

 レナードは瞳を閉じ、今はもう冷たくなった想い人の唇に、自身の唇を重ねた。

「ありがとう、セレナ……」

 彼女が好きと言ってくれた笑顔で、彼女が喜んでくれる言葉を。

 そのまま愛しい人の顔を見つめているうちに、笑顔が崩れ、大粒の涙が零れ始めた。レナードはセレナの屍を強く抱きしめ、声を上げて泣いた。瞳から落ちる温かい雫は、セレナの服に染みていった。



「これでよしっと……」

 レナードが両手をはたいて土を落とす。

 今いるのは、待ち合わせ場所にしていた丘。小さく盛られた土と、その上に少し大きめの石を置いた墓を作ったのだ。芝生の中の茶色はよく目立つ。

その墓に摘んだばかりのリュシアンを添える。一番初めに教えてもらった思い出の花だ。それからその横に、不死鳥となることで必要なくなった眼鏡を置く。

「さよならだ、セレナ」

 最後に墓を見つめる瞳は、まだどこかに悲しさが残る。それでも笑顔を浮かべて、別れを告げた。

そしてレナードは不死鳥に姿を変えると、翼を大きく広げて大空の中を飛んで行く。まだ知らぬ場所へ向かって、真っ直ぐ、どこまでも。

 こうして命は繋がれていく――

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