10

父が新しい薬を使うことになった。ノーベル賞を受賞した薬に切り替えるらしい。これまでの薬では思ったような効果が出ていない。懸命な治療の代償として、以前の父の面影はほとんど失われてしまったにもかかわらず、病状は悪化するばかりだった。副作用の説明などはいつものように姉が母に付き添って聞いたらしい。僕は相変わらず仕事の忙しさにかまけてたまにしか見舞いに行かなかったが、その時はいつも病室に倉さんがいた。そして今日も倉さんは居る。

「倉さん、こんにちは」

声をかけるとすっかり馴染みの笑顔で「こんにちは」と返ってくる。いくらかやつれているようにも見えるが、ベッドの父を眺める表情は平穏そのものだ。しかしその顔はすぐに曇る。

「またいらしてるんですね、父は寝てますし、お帰りになったらどうですか」

僕に遅れて後から部屋に入ってきた姉が、平穏をかき消そうとするように言う。手には母の病室から持ってきた洗濯物が入ったボストンバッグ、それをパイプ椅子に置いて開くと父の分の洗濯物を雑に詰め込んだ。倉さんは返事をしない。


 先週、仕事中に姉から着信があり、すぐ父が入院する病院に来るように言われた。上司に事情を説明して会社を出ると、大通りの向かいで客待ちするタクシーに乗った。病院へは十五分ほどの距離だったが、渋滞していてなかなか進まない。するとまた姉から着信があった。

「今どこ?」

「タクシーに乗ってるけど渋滞にはまってる。なんか事故があったみたいで」

「そう、お母さん脳梗塞だって。手術はしなくて大丈夫らしいけど、入院することになったから、私一度実家行って荷物取ってくる」

姉の説明によれば、母は近所のスーパーの入り口で倒れたらしく、気づいた周囲の人が救急車を呼んでくれたとのことだった。空いていて一番近いということで搬送されたのが父と同じ病院だった。渋滞の原因と思われる大破した乗用車とトラックの横を通り過ぎると、五分程で病院に着いた。

 病室へ行くと母は眠っており、点滴を打たれていた。姉はすでにおらず四人部屋の他のベッドの患者も眠っているのか、本でも読んでいるのか、静かだった。窓から入る風でカーテンが揺れる音だけが聞こえ、そのたびに母の顔に西日が当たる。なんだか眩しそうだと思い窓を半分閉めると、母も心なしかほっとした表情をしているように見えた。その顔には皺が刻まれて、自分の中の母の印象からすればずいぶん年を取ったように思える。

 母は完璧だった。朝五時に起床し家じゅうを掃いて拭き掃除をする。その後夫と子供たちの朝食と弁当を作り、時間になっても起きてこない僕を起こしに来る。自分は朝食を素早く済ませ、家族が新聞を読んだりテレビを見たりしている時に終わった洗濯物を持ってベランダへ。夫と子供たちを送り出した後は、自分も工場での事務の仕事へ向かう。五時に仕事を終えると帰りに近所のスーパーに寄って買い物をする、帰宅すると子供たちにおやつを与え、洗濯物を取り込み、風呂掃除をしてお湯をため、夕食の準備をしてちょうど父が帰宅する頃には温かい食事ができている。子供たちが成人してからは父よりも先に仕事を辞めて専業主婦になったが、規則正しい毎日は変わらずだった。そんな風に何十年も過ごしてきた何気ないある日、スーパーで倒れた。その完璧な毎日を崩した原因は、きっと僕だ。

 僕が父、そして倉さんと会話をした夜を境に状況が変わった。それは僕が期待していたものとは違った。正確には僕も具体的に何を期待していたのかはわからない。ただ、漠然といい方向へ向かって、皆が幸せになれるような気がしていた。死期が迫った病人とその恋人の愛を陰ながら支援するという行動は、言葉にしてみれば美しさしかないように思えたのだけど、それまで控えめに、おぼろげに世界に存在していた二人の愛の輪郭が、くっきりと形を持つことで、その鋭利さは周囲を傷つけ始めたようだった。

 父には迷いがなくなり、倉さんには遠慮がなくなった。父の病室にはいつも倉さんがいた。一時退院になると父は実家に戻らず、倉さんの家へ行った。二人のことを本人たちから、はっきりと言質を取っていたのは僕だけだったが、あの夜のことは母にも姉にも伝えていなかった。姉はやはり怪しんでいて、何度も僕にどう思うかを聞いてきたし、次第に倉さんに対して不躾な態度をとるようになった。母は違った。姉が母と見舞いに行った時に倉さんがいても、母はにこやかにお礼を言っていたという。いつもいることがわかっているものだから、田舎から送ってきた野菜や果物なんかを持って行っておすそ分けするくらいだったらしい。それを姉は「母さんは人が好いと思ってたけど、あれは鈍感すぎる」と言っていたが、僕には何度も二人の関係について愚痴ってきた姉も、さすがに母には気を使って言っていなかった。あの二人の親密さはもはや友人の域を超えているのは明らかだったので、母が気づいていないとは思えない。でもそのことに関する愚痴を姉も、僕も一切聞かされていないことを考えると、母はずっと一人で我慢していたのだと思う。

 限られた時間を父自身のために使ってほしいという気持ちは、今も間違っているとは思わないのだけど、母にとってそれがどれほど残酷なことか、考えなかったわけではない。死ぬ人間にかけられる情けの前では、生き続ける人間の人生は無視されてもいいのか。そうは思わない。それでも父の背中を押したのは僕自身がゲイだからだろうか、もし僕がゲイじゃなかったら? 結局自分の境遇を中心にしてしか物事の善悪を測ることができないのかと、結局自己中心的な自分に嫌気がさした。坂柳さんの顔が浮かんだ。

 

「聞いてるかわかりませんけど、母が倒れたんです。倉さんのせいですね」

姉はもう我慢の限界とばかりに早口で言った。父を見ていた倉さんがゆっくりと体をこちらに向けた。姉はその顔を見下ろし、裁きを下すように

「ちょっと話をしましょう。はっきりさせてください」

と言った。目を伏せた倉さんは頷いて、寝息を立てる父を一瞥するとボストンバッグを持つ姉について部屋を出て行く。その後に続く僕が見た倉さんの背中は憔悴していて、それはまもなく愛する人を失う者の後姿だった。

 病院の前の大通り、向かい側の喫茶店に入った。コーヒーを注文すると姉はすぐに話し始めた。

「父とどういう関係なのかを全部話してください」

最近の倉さんはどこか吹っ切れたような印象だった。以前は病院で僕たち家族と出くわすと申し訳なさそうに帰っていったし、実家に来る時も居心地の悪い中、半ば仕方なく、義務であるかのように父と時間を過ごしていた。でもここのところは、それが自分の使命だと受け入れたような、敢えて遠慮なく僕たちに接してくるような雰囲気があった。それは確かに僕にとっても予想外の親しさ加減で、姉や、母からすれば家族の敷居を勝手にまたがれたような気持ちになったかもしれない。姉の問いかけに対して、倉さんは僕に話したことと同じ内容を答えている。まもなくコーヒーが運ばれてきたので、なんとなく飲んでいると姉には話を聞いていないように見えたらしく

「ちゃんと聞きなさいよ」

とたしなめられた。相槌を打ちつつ、たまに視線も向けていたのだけど、自分が一度聞いたことがあるからか、どこかで他人事のような気がしていなかったわけでもない。姉はこういうことにすごく敏感だ。倉さんが一通りのことを話し終えると、姉はゆっくりとコーヒーを飲んだ。促すような間があって倉さんもコーヒーに口をつけた。

「私は、同性愛に対して偏見を持っていないつもりです。職場にも同性婚を挙げた同僚もいますし、それに、弟……」

そこまで言って少しためらった様子だったので

「僕のことは倉さん知ってる、あと父さんも」

と伝えた。すると姉は

「そう。弟のこともあるから、可能な限り理解するよう努めてきました、だから私には偏見はないんです」

そこまで続けて言って、ふといぶかしげな表情をした。

「ちょっと待って、あんた自分がゲイだってことを父さんや倉さんに話したの? なんで? 二人の関係も知ってたってこと?」

しまった。と思ったが後の祭りだった。父、そして倉さんと話したあの夜以降、僕はずっと二人の関係をそれとなく擁護してきた。もちろん本当の関係についてはシラをきってきた。結局はそれが誰も傷つかない方法だと思ったからだ。

「何? お仲間同士で庇い合ってたってわけ?」

姉の眼が鋭く僕を捕らえる。意図したわけではないが、僕は姉一人を道化にしてしまったような罪悪感を覚えた。

「別にゲイだからかばったわけじゃない、ただ、父さんに悔いのないように最期を過ごしてほしかったんだ」

「きれいごと言うわね、父さんにとって私たち家族は悔いそのものだったっていいたいの!」

「そうじゃない! いや……、父さんが本当にどう思ってるかはわからないけど……でも僕自身の経験からすると二人に同情する部分もあったんだ」

同情、という言葉の選択はひょっとすると適切ではなかったかもしれないし、そもそも僕の経験なんてこの話に関係なかったのだけど、姉を謀った後ろめたさから、つい反動ですべてを正直に話さないといけない気がしていた。

「僕も同じなんだよ」

「同じって何がよ、あんたも既婚者と付き合ってるんじゃないでしょうね」

「既婚者と付き合ってた、けどその人は奥さんと別れたからもう既婚者じゃない」

姉は心底あきれたという顔をして、のぞき込むように僕を見た。

「あんた……何やってんの」

「仕方なかったんだ、僕の付き合ってる人の家はうちとは比べ物にならない名家で、長男の重責をずっと背負ってきて、自分の人生と期待されている役割の間でずっと苦しんできたんだ。確かにもっと早く決断していれば奥さんに迷惑をかけずに済んだかもしれない、だけど世の中でどれだけの人が、いつも正しい決断だけをして生きていられる? それでも僕たちは今、現代に生きていて、まだ世間の重圧を逃れることができる。でも、父さんや倉さんの時代は結婚するってことが僕たちにとってのそれとは比べ物にならない当然のことだったんだ。社会人として、成人として、人間として社会の一員になるために必ず必要なことだったんだよ、それを僕たちは想像することしかできないけど、やっぱり僕は同情してしまう、二人に。そういう時代に生まれたことに」

倉さんは黙って僕たちの会話を聞いている。姉は僕が話している間、口を挟むのをずっと我慢していた様子で、僕が話終わると自分を落ち着かせるように、深いため息をついて言った。

「私から言わせれば言い訳にしか聞こえない。いい? これは、同性愛だから云々じゃなくて、人としての倫理観の問題よ。私には偏見はない。でも今わかったことは人を犠牲にして自分の身を守るような同性愛者に寄り添うこともできないってこと。時代が違ったから、社会で生きていくために結婚しなくてはならなかった? 時代の犠牲者だっていうけれど、本当の時代の犠牲者は母さんよ! 父さんは自分が社会から爪弾きにされないために母さんを犠牲にしたってことでしょう! 母さんがあまりにも不憫じゃない!」

 それは確かにその通りで、だからこそ僕は母のことが気がかりだった。

「……僕だって母さんのことを考えるとかわいそうだよ。ただ、ゲイとして生まれて、自分の家族や周囲に誠実であろうとすればするほど、自分の人生が失われていく気がするんだ。すべて放棄してしまえばいっそ楽かもしれないけれど、ゲイとして生まれても人の子なんだよ、親の期待には応えたい、社会の一員として生き延びたい。異性愛者だって、社会で生きていくために誰かを犠牲にするか、もしくは家族や社会から途絶された場所で生きていくか、どちらかを選べと言われてどれだけの人が後者を選べる? ゲイとして生まれただけでこんな選択を余儀なくされるような、自分達の存在を認めてくれない社会の一員として、それでも生きていくしかないんだよ。僕たちは」

その時、親の仇のようにお互いを見据える姉と僕の話を黙って聞いていた倉さんが口を開いた。

「私は、すぐに離婚したんです」

僕たちのテンションとかけ離れた、どこか遠くの星から語り掛けているような声で、倉さんは続けた。

「私は息子が生まれると、自分の義務はもう果たしたと思いました。あとは一刻も早く離婚するだけだと、それだけを考えていました。私は妻をまったく愛していませんでしたし、息子はとても可愛かったけれどこんな自分の子供で居ることがどこか憐れでした。離婚することで父のない子にしてしまうことを申し訳なく思う一方で、こんな父であればいない方がいいだろうと思いました。私は自分をどこまでいっても同性愛者だと思っていましたし、自分を偽り続けて生きていくほど強くなかったからです。きっと今、目の前で繰り広げられているような光景を自分の息子に味合わせてしまうと思っていました。僕には好きな人がいましたから」

姉が何か言おうしたが、倉さんの落ち着いた声はそれを柔らかく制止した。

「でもその好きな人は、自分が築いた家庭を大切にしました。家族を本当に愛していたんでしょうね。絶対に離婚してくれなかった。私ね、何度も言ったんですよ。離婚してくれって。いつからだろう。少しずつ世間の偏見というか、関心がなくなってきたんですよね、同性愛だけじゃなくていろんなことに対して、他人に対して昔のように皆干渉しなくなってきた。だからもういいじゃないか、自分を偽って生きる必要なんてないじゃないかって、言ったんです。でも、彼は……、お二人のお父さんは言ったんです。もうタイミング逃したって。もう家族になってしまったって。本当に奥さんと、お子さんたちを愛しているんだなと思いました。だから僕はもう会わないことにした。二十五年前のことです」

「二十五年……? 二十五年会ってなかったんですか? てっきりずっと、隠れて会ってたんだと思ってました……」

姉が言うと倉さんはお冷を一口飲んで咳ばらいをした。

「はい、二十五年会っていませんでした、ですから正直に言えば、彼の結婚後、十年間は関係がありました。でも十年も経てば恋愛なんて終わっても不思議じゃないですし、彼が私ではなく、自分の家庭をとったんだとは思わないようにしました。ただ、終わっただけだと」

僕は完全に倉さんに自分を重ねていた。病床の父を亡くすことを怖れ、健気で憐れな母に申し訳なさを覚える息子としてではなく、一人の同性愛者として彼の話を聞いていた。

「じゃあなんで、今さら?」

姉が聞くと倉さんは少し笑った。

「フェイスブックで、友達申請がきたんですよ」

「フェイスブック?」

僕と姉の口から同時に声が出た。正直還暦を過ぎた人がSNSをやってるなんて思っていなかったけれど、会社の五十代の上司が活発に更新しているのを考えるとそういう時代なんだと、逆に自分が時代に取り残されているような気持ちになる。

「お父さん、フェイスブックなんてやってたんだ……なんか……イメージ合わないね」

姉が少し笑いながら言う。倉さんが続ける。

「友達申請がきた時は、いったい何なんだって思ったんです。二十五年も音沙汰なしですから。でもまあ、過去は過去のことだし、申請承認したんですよ。そしたらメッセージで、もう長くないから会いたいって」

倉さんは笑っていたが、目にはうっすらと光るものがあった。

「不思議なもので、一気に昔に戻ったような感じがしました。でも、遅いよ、と思いましたね。連絡をくれたことは嬉しかったけど、人生を一緒に過ごすことはできなかったのに死ぬ時になって呼ぶなんてひどいなと思いました」

姉はもう、黙って頷いていた。

「それで、病院を訪ねて行ったんですが、一度目はやっぱり会わない方がいいのかもしれない、と思い、病室の前まで行って帰りました。でも病気と闘いながら待っている姿を思うと、会っておこうと思って、その時に息子さんにもお会いしたんです」

そう言って僕の方を見た。

「彼は、まず私に謝りました。私としてはもう、はるか昔のことですし、とっくに整理はついていたんですよ。そんな辛気臭い話をするために行ったわけじゃなかった。顔を見て、昔話でもして、気を紛れさせてあげられればそれでいいと思ってたんです。でも彼はきっと、ずっと何か抱えていたんでしょうか。ずいぶん謝られましたよ。そして、死ぬ時まで一緒に居られないかって言われたんです」

それは僕も聞いた言葉だった。

「その後、病院からの帰り道、なんでしょうね、漠然と思ったんです。これが私たちの恋愛の形だったんだなって。こういう運命だったんだろうなと。一生を添い遂げるような形ではなかったけど、最期の時間を一緒に過ごす形なんだろうと。だから、私は一緒にいることにしました。ご家族にはずいぶん厚かましい振る舞いをしてしまって、それは申し訳ないと思っています。でも、私は自分と彼の運命を全うしようとしています」

気づけば夕暮れ、病院の向こうの山に日が沈もうとしていた。

「私、正直よくわからなくなってきた」

姉が窓の外を見ながら言う。その表情は僕からは見えない。

「でも、父さんの最期に、倉さんが戻ってきて、一緒にいてくださることは、ありがたいことだと思う、娘としては」

僕は冷めたコーヒーを飲む。微笑む倉さんからは姉の顔がよく見えているようだった。

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