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二重橋の近くの通りはオフィス街に近いからか、クリスマスのイルミネーションも控えめで、道行く人もビジネスの出で立ちで足早に通り過ぎていく。このイタリアンには二人でよく来た。落ち着いた店内では充分にプライバシーが保たれるスペースが確保されていて、かと言って閑散としているわけではない。繁華街の店よりもビジネス街のひっそりとした場所の方が最近の僕たちには合っていて、東京駅からの閑散とした夜の道を歩く時は、俗世を離れて隠れ家へ向かうようだった。この店で坂柳さんは無邪気に笑う。目じりにできる皺、口が大きく開いて、それを見ている僕もきっと同じくらい笑顔になっている。いつもだったら。でもこの日は違った。

 今、僕たちの前に女性が立っている。品のいいコートを羽織り、ブランド物のバッグを持って、清潔なショートヘアから爪の先まで隙がない、有無を言わせぬ迫力を放っている。彼女が現れたのは僕たちが店内に入り、席についてすぐのことだった。

「この人ね、やっと会えた」

女性はコートを脱いで、後ろで様子をうかがっていた店員に渡すと、坂柳さんの隣に座った。僕を見るまなざしが鋭い。

「お前、こぎゃんところで何しよっとや……」

その言葉を無視して女性はバッグから封筒を出した。手を突っ込んで中身をテーブルに広げる。中には数枚の書類と写真が入っていた。写真に写っているのは、坂柳さん、そして僕だ。

「どぎゃんもこぎゃんも、兄ちゃんたちこういう関係やろ?」

僕たちは言葉を発することができなかった。やっと口を開いた坂柳さんが、店を変えようと言うと、妹さんだと思われるこの女性は、それを拒否して店員を呼ぶと、メニューからいくつかの前菜とピザ、ボトルワインを注文した。グラスを三つ。

「この店におる二人の写真もあるよ」

無造作に混ざり合った写真をかき分けて見せられた写真にはいつものように笑う坂柳さんと、向かい合う笑顔の僕が写っている。

「まだお義姉さんには見せとらんけど、ほんと女として同情するよ、お義姉さんには」

「……なんでこぎゃんこと、友莉恵に頼まれたとか」

不機嫌そうな声で、坂柳さんが発したのはきっと奥さんの名前だ。僕は名前も知らない。僕たちの間には一切持ち込まれなかった、結婚を匂わせるものは。

ワインが運ばれてきてグラスに注がれると、妹さんはすぐ飲んで、

「乾杯しよる場合じゃないけん、ごめんけど」

僕の目を見てそう言った。僕を威嚇することになんのためらいもない彼女の態度に、以前の僕だったらきっと萎縮したのだと思う。でも今日は穏やかな気持ちだった。

「妹さん、ですよね?」

二人を交互に見ながら言うと、

「うん、そう」

今度は視線を合わせず、吐き捨てるように言う。

「僕たち、今日別れるとこなんです」

そう言うと坂柳さんが目を見開いて僕を見る。

「ちょっと待て、こいつが来たけん……、来たからってそんなこと言わなくてもいいんだぞ、今日俺は」

「バイリンガルは大変ねえ」

「うるさい! 茶化すな!」

瞬間、店内の雰囲気が張り詰めた。誰に向けるでもなく坂柳さんがすみません、と言った。少しずつ店内はざわつきを取り戻した。

「僕、今日は聞いてほしい話が合ってきたんです。すごく突拍子の無い話をしますけど」

そう言って、僕は父と倉さんのことを話した。妹さんも黙って聞いていたが、途中料理が運ばれてきて話が中断した時に

「あきれた、親子そろって」

と言った。

「ほんとその通りですよね、でも僕は逆によかったなって思いました。父のことがなかったら僕は気づけなかったかもしれない。自分がしていることがどれだけ人を傷つけるのかを。それに、僕は倉さんみたいに強くないんです。傍から坂柳さんが家庭の幸せを築いていくのを見ているのなんて我慢できない」

妹さんのグラスのワインだけが減っては増えていく。

「気持ちわる、同性愛って遺伝するとかね」

「……お前いい加減にしろよ?」

怒りに満ちた声にもひるむ様子はない、まっすぐな視線で僕を蔑む。

「じゃあもう別れるとね、思ったより話の早うしてよかった。絶対もう会わんって、その書類に署名せんね」

そう言って封筒に入っていた書類を指さし、バッグから出したペンをテーブルに投げた。

僕がペンを取ろうとする手を坂柳さんが止めた。

「署名しなくていい。俺が離婚するから」

 妹さんの顔が歪む。

「は? なん言いよると? そぎゃんこと許されんよ。お父さんもお母さんも、兄ちゃんにどれだけ期待しとると思っとると? 離婚とか恥よ」

「恥でよか、もう昨日、友莉恵とは話した。離婚するって二人で決めた」

「なんて言ったと、理由は?」

「転勤で別居しとるうちに気持ちがなくなったって言った」

「嘘ついたと? 最低」

「じゃあ本当のこと言ったほうがよかったか? もっと恥かくぞ」

「……お義姉さんは? それで了解したと?」

「した」

「そぎゃん、すんなりって……、春にうちに相談してきた時はあれだけ悩んどるごたったとに信じられん」

「じゃあ友莉恵に電話でもして聞けよ」

そう言われると妹さんは黙った。しばらく沈黙が続いた後、写真をすべて集めバッグにしまって言った。

「離婚するなら揉めてもうちの家が恥かくだけ。兄ちゃんとは縁切るけん。子供おらんでよかった。うちの家に変態の遺伝子はいらんけんね。家はうちが継ぐけんもう帰ってこんでよかよ!」

そう言うと店員のところへ行き、コートを受け取って店を出て行った。嵐が急に吹き荒れて去っていったようで、戻った静けさに夢だったのかと思うくらいだったが、飲み干されたワイングラスがその存在を確かにしていた。


「もうあの店行きづらいな……」 

歩きながらそう言って二人で少し笑った。嵐が去った後いたたまれなくなって会計を済ませ出てきた。通りは閑散としているのに、イルミネーションは誰から見上げられることもなく輝きを放っている。

「正直な気持ちを言ってもいいですか」

「いいよ」

「すごくうれしいです。人が離婚するのを喜ぶなんて最低だと思うけど、うれしいです」

 倫理的に咎められることだとわかっていても、ずっと心の中にあった重苦しい感情が溶けてなくなったような清々しさがあった。それは理屈で説明できるものではなかった。

「いや、最低なのは俺だよ。なんか、何から謝ればいいのかって感じだけど」

そう言うと歩くのを止めて、僕の方に向き直った。

「今までごめん、俺のせいで苦しい目に合わせた。俺はもっと早く実家と縁を切るべきだったんだ。独りよがりな義務感なんか持って生きても、それが周囲の人を傷つけていい理由にならない。東京に戻ることが決まった時、いよいよ逃げられないと思った。俺はどこに帰るのかを選ばないといけないって。やっぱり俺は将人のところに帰りたかった」

僕は初めて外で坂柳さんに抱き着いた。背中に回される手が優しい。

「それに、さっきの話聞いて思った」

「さっきの話?」

「将人のお父さんと倉さんの話」

「ああ……」

「年取って、余命が少なくなってからじゃ遅いって。一緒に居たい時に一緒にいないと後で後悔しても遅い」

「六日の菖蒲、十日の菊、ですね」

「そう、俺たちはまだ間に合うだろ」

そう言って、いつもの笑顔を見せ僕の手を取り歩き出した。

「今、心が満たされて、胸がいっぱいです」

「俺も」

「でもお腹がすきました」

「俺も」

その時世界には二人だけが存在していて、初めて自分たちの関係を自分たちで認めることができたのだと思う。僕たちは笑いながら人で賑わう繁華街へ、メキシコ料理店へ向かった。

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