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「ねえ、どう思う? こういうことはあんたの方がわかると思うんだけど」

姉弟ならではの遠慮のない物言いに少し閉口するが、そんなことを口論している暇はない。昼休みの喫茶店に呼び出された僕に残されているのはあと三十分だ。

「それだけじゃわからないよ。すごく仲のいい友達かもしれないし」

「すごく仲のいい友達がなんで数十年もあたしたちの前に姿を現さなかったのよ。隠されてたのよ、存在を」

 僕たちが話しているのは倉さんのことだ。昨日姉が実家に行くと、倉さんが居たそうだ。母は今、伯母の見舞いに田舎へ帰っている。年を取るとみんな病気やケガのあれこれで、病院の世話になることが多くなる。自分の周りの元気だった大人たちは、揃って老人になった。その分自分も年を取っているのだけど。

「友達だって久しぶりに会って親交が深まることもあるんじゃない?」

全然、心にも思っていないことを口に出した。でもそうであったならいいと思った。

「ないでしょ、なんかとにかく得体のしれない雰囲気を感じたのよ、なんでお母さんが居ない時に限って家に来るのよ、今まで家に来たなんて聞いたことない。知らないうちにうちの家に侵食してきてるような、一言でいえば気持ち悪い」

そこまで早口で話したが、黙って聞く僕の顔を見て、少し気まずそうにコーヒーを飲んだ。

「別にゲイだから気持ち悪いっていってるわけじゃないの、あんたがそんな悲しそうな顔しなくてもいいじゃない。気を悪くしてたらごめん。でもこれは異性とか同性とか関係なくて、人様の家庭に土足で踏み込んでくるようなことが嫌だって言う話。……わかった。倉さんがゲイじゃなくたっていいわ。それだったらなおのこと不気味よ、なんで疎遠だったのに死の間際で近づいてくるのよ、死神じゃあるまいし、詐欺とかだったらそれはそれで嫌」

僕が話す間もなく時間がどんどん過ぎていく。姉は僕から同意を得たくて来たのだろう。けれど同意したところでどうなる。余命わずかな父を問いただすのか。僕たちの父はもう僕たちとは違う世界に居る、死の宣告を受けた人間だ。明日があるという漠然とした安心感に包まれている僕たちの常識が、死の間際にいる者に通じるだろうか。

「僕もいい気分はしない」

「だからそれは悪いっていってるじゃない」

「そうじゃなくて! もし父さんが母さんを裏切ってきたのだとしたら、いい気分はしない」

僕の中でさまざまなものが混ざり合って、いったい誰がどの口で、どんな立場の意見を言えばいいのかがわからなくなっていた。

「でも父さんの気持ちもわかるんだ……」

「どういうこと?」

「姉さんは一生義兄さんと添い遂げる覚悟があって結婚した?」

「何言ってんの、あたしの話は関係ないでしょ」

姉が睨みつけてくる。それを見て、なんで僕を睨むんだよ、と思った。どうして僕たちは当事者不在の状況でこんなに険悪になってるのだろう。誰のために。

「……ごめん、そうだね、関係ない話した」

「あんた大丈夫? なんかあった?」

「いや、ちょっと仕事が今忙しいから、ごめんまた電話するよ」

伝票を持って席を立とうとすると

「電話されてもうちじゃこんな話できるわけないでしょ! 仕事と家族どっちが大事なのよ!」

と伝票を奪われて腕を引っ張り座らされた。

「えっ?」

「え、じゃないよ!」

一生自分が言われることはないと思っていたセリフを姉から聞くとは思わなかったので、面食らってしまった。と同時に少し冷静になった。

「じゃあ姉さんはどうしたいの、もし姉さんが思っているとおりだったとして」

「え?」

「え、じゃないよ。そうだったとして、母さんに言うのか? 言ってどうなる? このまま知らぬが仏ですべて終わった方が母さんだって余計なことで悩まずに済むんじゃないか」

姉が言葉に詰まる。

「父さんはもうすぐ死ぬんだ。死ぬ人間が残り少ない時間を自分の思うように使うことを僕たちに止める権利なんかないよ。最期は父さんの好きなように死なせてあげたい」

父が死ぬということをこんなにはっきり言葉にしたのは初めてだったので、自分で言って自分で少しショックを受けた。父は死ぬ。まもなく。姉もショックを受けていた。これまで僕たちは父が死ぬことを現実として受け止めていなかったのかもしれない。

「それ言ったら身も蓋もないけど……、確かに権利はないかもね、父さんの人生にとっては、あたしたちも外野だもんね」

「……また電話するからさ」

今度は伝票を奪い取られることはなかった。


 午後の仕事は身が入らなかった。父のことに関しては自分で言った通りだと思う。彼の人生の最期は誰にも邪魔できない。問題は自分のことだ。こんな時でも自分のことを気にしてしまう、つくづく自己中心的な人間だなと思った。ただ人を好きになっただけだと思っていたけど、どんどん自分が姑息で醜い人間に堕ちていっているような気がした。モノレールに乗っている間、ずっとそんなことを考えていたので頭が痺れてきた。心ここに在らずで橋の上を歩いていると水たまりだと思っていた氷で滑った。なんとかバランスを取ろうとしたが右肩を地面に打ち付けてしまって、つい「痛ってえ!」と叫んでしまう。別に大したことはないと思うのだけど、痛いのは痛かった。おかげで痺れていた頭もすっきりした。

「大丈夫ですか?」

背後から声をかけられる。

「ああ、すみません、大丈夫です、ちょっとこけただけなんで」

「結構派手にこけてましたけど」

振りかえると、見たことのある顔だった。

「……倉さん? ですよね」

少しいぶかしげな顔をしたあと、僕のことを思い出したようだった。

「ああ、息子さん」


 肩に湿布を貼ってもらう。

「なんかごめん、具合悪いのに手当してもらって」

救急箱をしまいながら父がはははと笑う。気のせいか声が細くなった気がする。

「でも頭打ったりしなくてよかったよ。打ちどころが悪かったらそれこそ笑いごとじゃないからな」

ゆっくりとした動作でテーブルへ戻ってくる。ポットから急須にお湯を入れて、三人分の湯飲みにお茶を注ぐ。家まで付き添ってくれた後、帰ると言う倉さんを僕は引き止めていた。

窓の外、狼の遠吠えのような冬の風の音が聞こえる。今日僕は父に確認したいことと、伝えたいことがあってきたのだけど、状況は思ったより一気に進みそうだ。

「あのさ、フェアに話をしたいんだ」

「フェア?」

父が繰り返す。倉さんは穏やかな表情で僕を見ている。

「僕、ゲイなんだけど」

二人とも一瞬ピクリと反応したが、表情に変化を出さないようにしているように見える。倉さんは反射的に何か言おうとして止めた。代わりに父が話した。

「そうなのか、それで、恋人はいるのか」

「うん、居るけどその話はまた後でするから、その前に確認させてほしい。もう一つフェアに話をするなら、僕は以前父さんと倉さんの会話を聞いたんだ。病室の外で」

父の表情が険しくなり、痩せた顔に以前より深く刻まれた皺が現れる。

「盗み聞きするつもりはなかったんだけど、真剣そうに話しているから邪魔しちゃ悪いと思って、廊下の椅子に座ってたら思ったより内容が聞こえてきちゃったんだ。二人は、恋人同士なの?」

「そうだよ、学生時代から」

 倉さんがまた何か言おうとしたが、父が押しきるように言った。その眼はしっかりと僕を見ている。

「母さんと結婚しても別れなかったんだね」

「悪いという気持ちはあった、ただ父さんたちの時代は結婚しないという選択肢はなかった、そこは割り切るしかなかったんだよ」

「倉さんは結婚されてるんですか」

倉さんの方を見る。

「結婚しました、すぐ離婚しましたけどね。息子も居ます。もうずっと会っていませんが」

「自分は身軽になって、父さんには守るべき家庭があった。身勝手だと思いませんか」

自分でも率直すぎる言い方だと思ったが、それでも最後まで語気を弱めず言い切ったのは、それは僕が自分に対していつも問いかけていることだったからだ。

「おい」

黙っていた父が制止するように言ったが、倉さんは答えた。

「いや、いいんだよ。その通りだから。私は身勝手だったと思います。」

「そうですか。本当に辛かったでしょうね、倉さん」

「私が?」

「そうです。倉さんが。辛かっただろうなと思って」

「それはどういう……」

二人とも要領を得ないという表情をしている。

「僕が今付き合ってる人、結婚してるんです。付き合い始めたのは結婚するよりも前なんですけど、相手は家の事情で結婚しないといけなくて、僕はそれでも別れることを切り出せなかった。身勝手なんです、僕も。でも僕は、このまま彼に子供ができて、彼の未来が僕抜きで築かれていくのを、そばで見ているなんて耐えられないんです。だから倉さんは辛かっただろうなと思いました」

父は何も言わなくなった。自分の息子がこんな恋愛をしているとは思っていなかったのかもしれない。代わりに倉さんが会話を続けた。

「私の時は、そういう時代だって割り切っていました、いや、思い込もうとしていた。どうやったって男同士で結婚することも、一緒に暮らすこともできないんだから、これが一番幸せな形なんだと思っていました。実際、僕は幸せでしたよ。自分が好きなように人生を生きて、愛する人と一緒に居られなくても、最終的にはこうやって今日まで心がつながっていたんだから。でも……」

「……でも?」

「最期になって、欲が出ましたね。こうやってあなたにも知られてしまって、嫌な気分にさせてしまいました」

「それは父が望んだことじゃないですか」

あの日病室で、最期の時を一緒に過ごしたいと父は言っていた。

「正直、息子の立場としては、特に母のことを思うと、複雑な気持ちです。でもさっき言ったように僕も同じようなことやってて、やっぱり相手の立場に立ってみないとわからないもんだなって思ったりして……。自分が社会的に間違ったことしているとは思うんですけど、でも、僕たちが一緒になれなかったのは、僕たちが悪いのか、生まれた時から決まっていたことなのか、とかいろいろ考えました、結局誰かを傷つけようとしていることに変わりないんですけど」

湯飲みを持つ手が震えた。温かいお茶を飲むと身体にじんわりと熱がひろがって、自分の体がこわばっていたのだと気づいた。

「二人のことは誰にも言いません。実は姉は疑っています。けれどそれは僕がごまかします。とにかく、僕は母には傷付いて欲しくない。二人が一緒に過ごしてきた時間があったように、母には父と一緒に過ごしてきた人生があったんです。それを壊すことは避けたい。でも父さんの人生は父さんのものだから、父さんの決めたことは尊重したい」

父がうなだれるように頷く。

「過ごしてきた時間……か」

そう言って倉さんの方を見るが、倉さんは視線を落としたままだ。

「だから、僕と倉さんはすごく気が合って、父の友人だけど家族ぐるみの付き合いってことにしませんか、そしたら今よりも少し自然かもしれないし。こうやって母の居ない時だけじゃなくても、会えるように」

「……、ごめんな、父さんの身勝手のツケだな」

そう言って父は頭を下げた。

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