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遠距離は無理だと思っていた。僕はできれば一緒に住みたいし、住めないのであれば、せめてタクシーでいつでも会いにいけるくらいの距離にいたかった。それが今は東京と大阪に離れてしまって、月に一度しか会えない。職場の後輩が遠距離恋愛をしていると聞いた時には、僕には絶対無理だなと思っていたし、二週間に一度会いに行くために節約している、と毎日弁当を作って持ってきているのを見て、健気なもんだなと思っていたけれど、今ならその気持ちがわかる。その後輩はめでたく婚約したらしいが、僕たちの関係に目指すべきゴールはあるのだろうか。新幹線に乗ってぼんやりと考えているとスマホが鳴った。

「何時に着く? 車で迎えに行く」

メッセージは坂柳さんからだった。

「21時33分に新大阪です」

返信すると、オッケーと返ってきた。車内で読もうと思って買った文庫本も集中力が続かなくて読んでは閉じて窓の外を見る、というのを繰り返していた。車窓を流れる全然知らない街の夜景を眺めていると、あの灯りの一つ一つに人が住んでいて、家族が住んでいるんだなと当たり前のことを考えては、きっとどの家もいろんな事情があるんだよな、と思った。そう思うと僕の両親、姉、僕という家庭は平穏そのものだった。父が外で働き、母は家を守り、姉は弟の面倒をよく見て、弟は無邪気に笑っていた。

 僕が十五歳の時、姉にゲイであることがばれた。姉はやっぱりね、という感じで驚く様子はなく、むしろ自分の予想が当たっていたことに満足げだった。物心つく前から僕を見ていた姉からすれば、普通の男の子っぽくはなかったらしい。小学校の夏休み、姉と一緒にスーパーに行った時、内股を直しなさい、と言われたことがある。姉がハマっていた漫画の男性キャラクターに姉と同じテンションでハマっていたのもおかしいなと思っていたらしい。僕に格闘技を習わせるよう親に直訴していたこともある。結局僕が断固拒否したことでうやむやになったのだけど。しかし姉は僕がゲイであることを親には言わなかった。なので平穏な家庭に波が立つことはなかった。かといって姉がゲイに対して肯定的なのかはわからない。僕たちには互いの恋愛の話はしないという暗黙の了解ができているから。姉もまさか弟が自分の会社の同期、それも既婚者の男と付き合っているとは思っていないだろうから、これがばれたらいよいよ親にも言われるかもしれない。ただ、今は父の病気のことでそれどころではないけれど。

 名古屋を過ぎると京都までは早い。まもなく新大阪に到着するというアナウンスを合図に降りる支度をする。

 改札の外で坂柳さんが待っていてくれた。いつものようにニコニコしている。

「飯食べた?」

「はい、駅弁買って食べました」

「オッケー」

 坂柳さんの車の匂いが好きだ。この車に乗るのがうれしいからこの匂いが好きなのだけかもしれない。いまだに馴染みのない大阪の地名をいくつか通り過ぎてマンションに到着すると、入り口にタクシーが停車していて、少し待つと発車していった。駐車場に車を停めて、オートロックのマンションに入る。ロビーを抜けてエレベーターに乗った瞬間、坂柳さんが手を握ってきた。モニタに二人の後姿が映っている。

 部屋に入るとソファの横にバッグを置いてベランダに向かった。大阪の夜景がよく見える。

「好きだなー、夜景」

「夜景見る機会なんてあんまないですからね、うちは2階だし、東京タワーとか登ることもないし」

「そう言われればわざわざ夜景見に行くことないな」

台所へまわって冷蔵庫を開ける。

「なんか飲む? ビール?」

はい、と返事をしてカウンターへ取りに行く。

「俺晩飯食べてないから軽く作るけど食べる?」

「いや、いいです。ていうか食べてなかったんですか? ならどっか寄ってきてもよかったのに」

「いやそんなに腹減ってないから。じゃあ風呂でも入ってくれば?」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

バッグの中から着替えを出して浴室へ向かった。

 頭と体を洗って湯船に浸かっていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。何か買い物に行ったのかもしれない。けれどいつもなら一声かけてくれるので、なんとなく不安になって風呂から出るとドアの前に走り書きのメモと車の鍵が置いてあった。

「ほんとにごめん荷物持ってとりあえず俺の車に乗ってて」

状況がまったく理解できなかったが、何かが起こったことは間違いないので、荷物と鍵を持って部屋を出た。エレベーターで一階へ降りて、ロビーを歩いているとソファに坂柳さんが座っていた、向かいには女の人がいた。知らないふりをして駐車場へ向かい、車に乗った。

あれが奥さんだろうか……。胸の鼓動が速くなった。くしゃみが連続で二回出た。ドライヤーをかけるのを忘れたのですっかり冷えている。バッグの中から着替えのTシャツを出してとりあえず水気を拭いた。

奥さんの写真はみたことがあるが、正直記憶から消したかったのでよく覚えていない。あんな人だったような気もするし、違う気もする。十月末の夜は思ったよりも冷える。エンジンをかけて暖房でも入れようかと思ったが、ペーパードライバーなので外車の仕組みがどうなっているのかわからず、変なことになっては困ると思い、バッグの中から着替えを出してとりあえず体に巻いた。

 みじめだ……。そう思った。僕は彼氏じゃなくて愛人なんだ。奥さんが来たら濡れた髪のままで逃げ出さないといけないような存在なんだ。またくしゃみが出た。こんなひどい格好で車に待機していて、なんの意味があるんだろうと思うと涙が出てきて、声を殺すように泣いた。大声で泣けなくなったのはいつからだろう。子供の頃のようにわんわん泣ければまだすっきりするだろうに、体が泣こうとするのを心で押さえつけるような泣き方は、苦しい。

 十分くらい経って、運転席のドアが開いた。

「ごめん、ほんとにごめん」

そう言いながら坂柳さんが乗り込んできた。ドアを閉めた後、服を毛布代わりにしている僕を見て、もう一度謝った。泣いていたところは見られていないと思う。

「……奥さんですよね、とりあえず僕帰りますね」

「いや、あれ妹なんだ」

「妹?」

「そう、なんか知らないけどいきなり来て、泊まるとこないけん泊めてって。インターフォン鳴って出たらいきなりあいつ映るけん、びっくりして、とりあえずロビーで待たせとる間に将人には車で待っとってもらおうって思って……」

「坂柳さん、方言になってますよ」

「えっ?」

思わず笑ってしまった。こんなに焦って方言を話す坂柳さんを見るのは初めてだ。

「ああ、ごめん、妹と方言で口論してたから」

「いいですよ、別に方言で、ちょっとよくわかんないとこありますけど」

二人ともふっと笑う息が漏れた。

「ごめん、ホテル代くらい出してやるからって何度も言ったんだけど、あいつ聞かなくて、なにかやましいことでもあるんじゃないのか、お義姉さんがいないからって誰かいるのか、って」

「きっと疑われてるんですね」

「あいつ嫁と仲いいから、もしかしたら嫁が頼んだのか。それともあいつが勝手に来たのか、わからないけど」

「だったら仕方ないですよ、僕どっかに泊まります」

「ほんとごめん、俺が支払う。どこか今からでも空いてるとこ探すわ」

スマホで検索したホテルへ向かった。その間何度もくしゃみをしたので、鎖骨が痛くなってきた。

「風邪ひいたんじゃないか? 薬買ってくか?」

「大丈夫ですよ、もっかい風呂であったまって寝ます」

ホテルの車寄せにつけてもらって降りる。

「明日朝、妹追い出して迎えに来るから」

そう言って坂柳さんはマンションへ戻っていった。

 チェックインして部屋に入ると、コンプリメンタリの水が置いてあってほっとした。コンビニへ買い物に出るのは面倒だなと思っていた。ボトルの水を一気に飲む。泣いたからか喉がカラカラだった。喉が渇くほど涙を流したのだろうか。もう一度温まるために湯を張った。体の隅々まで熱が染み渡るのを感じる。心が冷えている時には体から温めるだけでも安心できる。

 今夜のことはいつか起こることだった。人の目を憚って逢瀬を続ける関係なのだから。それでも坂柳さんの婚約が決まってから、結婚するまではそれほどやましい気持ちはなかった。心のどこかで結婚がなくなるかもしれないという期待があったからだ。今こんなにもやましい気持ちで、みじめなのは僕が結婚相手ではないからだ。ゲイだからでもなんでもなく、僕自身がやましくみじめな存在なんだと思い知った。

「このままお湯に溶けて無くなりたい……」

 

 次の朝、妹を駅まで送ってきたので、これから迎えに行けるけど大丈夫か、と連絡がきた。くしゃみが止まらなかった。

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