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「あー、昼間っから飲むの最高―!」
代々木公園に居た。今日は家で映画でも見ようと思っていたが、朝、電話がかかってきて急きょスペインフェスというイベントに来ることになった。誘ってきたのは大学時代からの友人、マキだ。
「いやー、最高だよ、つか樫くん急だったのにきてくれてありがとねー」
「いや僕も暇だったしちょうどよかったよ、渡りに船って感じ」
「でた、ことわざ! 樫くんって感じするなー、変わらないね」
梅雨が明けて最初の土曜日、今年は去年に比べると暑さが控えめな冷夏だそうで、日陰に居れば適度な風が心地よく、ピクニックにはちょうどいい陽気だ。百均で買ってきたレジャーシートの上に屋台で買ってきたアヒージョやパエリア、家の近くで買ってきたチーズやオリーブを並べてワインを飲んでいる。マキと会うのは三年ぶりだ。旦那さんの転勤で地方に行っていたが最近東京に戻ってきた。いや、元旦那さんか。
「やっぱあたしは東京が合ってるよ~、なんかもう居るだけで安心するもん」
「でも自然好きだし、海も山もあって最高って言ってたじゃん」
「最初はね。もともとあたし地元が田舎だからさ、地方暮らしも全然いけるって思ってたんだよね。でも気づいたの。自分の地元じゃない田舎ってなんもよくない。ただただ寂しいの。夜になるとさ、夜空に山の稜線が浮かび上がって、まるで都会の生活を忘れろ、って立ちはだかる門番みたいに見えた。星空は綺麗だったけどね」
「そういうもんなんだ」
「そう、そういうもん。樫くんは東京生まれ東京育ちだから、逆に馴染めるかもよ」
そう言いながら、スペイン産のワインを空いた2つのグラスに注ぐ。このフェスは料理も飲み物もとても良心的な値段で提供されているので、酒飲みの僕たちにはとてもありがたい。
「元旦那にはさ、悪いことしたって思ってる。最初から転勤が多い仕事の人だってわかってたのに、それで自分は仕事を辞めて家庭に入って生きていくって決めたはずだったんだけど、知らない土地で子供もいないとほんとにどこにもつながりを持てなくて。旦那が飲み会でいない夜とかに、自分だけが社会から断絶された檻の中にいるみたいに感じてさ。パートでもすればよかったんだろうけど、そうするともう二度と昔の自分に戻れないような気がして、結局覚悟が足りなかったんだよね」
ざわざわと気を揺らす風が芝生の匂いを運んでくる。
「そっか、でも僕はマキにとって、よい選択だったと思うよ。その感情を隠したままずっと生活してても、自分の人生もったいないっていうか、誰のために我慢してるの? って思う。自分の転勤のせいでずっと後悔している奥さんがいる旦那さんも辛いだろうし。子供がいたりしたら別かもしれないけど」
マキがうんうんと頷いてグラスを傾ける。
「やっぱ樫くんだわ、さすがあたしが告った男なだけある」
「あー、えー、それは、その節はすみませんでした」
「いやいや、冗談だから。ん、パエリアおいしー」
よくみる魚介のパエリアではなくて、牛肉がのったどっしりしたパエリアをパクパク食べている。僕はアヒージョのエビとブロッコリーを食べる。公園には家族連れやカップル、大学生っぽいグループがそれぞれ食事と会話を楽しんだり、バドミントンをしたりしている。傍から見れば僕たちもカップルにしか見えないだろう。
「で、彼氏さんとはどう? うまくいってんの?」
ワインを注ぎながら尋ねてくる。僕はうまくいっている、というのがどういう状況を指すのか少し悩んだ。
「あれ……、もしかして別れちゃった?」
空になったボトルに栓をしながらマキが言う。
「たぶん、別れた方がいいんだと思う」
「え、なにがあった?」
「坂柳さん、結婚したんだ、半年前に」
「はあ?」
「でも月に一度は会ってる。今、坂柳さん大阪だから」
「ええ? ごめんちょっと全然わかんない、そしてその話に対応するためのワインが足りない、ちょっと買ってくるわ」
マキはそう言って、屋台が並ぶ一角へ走っていった。この状況を人に話すのは初めてだったけど、改めて口にするといったい自分は何をしているんだろうと思った。最初に結婚の話をされた時は、当たり前だけど別れ話だと思った。そしてこの人はバイだったんだな、と思った。正直裏切られたと思ったし、一瞬で世界が真っ白になるのを感じた。聞こえている音が遠くなって、しっかり目を見つめているはずの坂柳さんがとても遠くに、小さく見えた。何かの間違いか、冗談かな、とも思ったけど、まっすぐに僕から目を逸らさないのを見て観念した。
いつの間にか太陽の位置が変わったのか、髪の毛が日差しに焼ける匂いがした。子供の頃外で遊んでいた時の匂い。立ち上がってレジャーシートごと日陰へずらしているとかかとに何かが当たった。振り返るとボールがあって、数メートル先から三歳くらいの子供が走ってきた。ボールを取って渡してあげるとそのまま振り返って走っていった。向こうで親らしき人が笑顔で会釈している、僕も笑顔で会釈を返す。また靴を脱いでレジャーシートに座ると両手にボトルを持ったマキが走ってきていた。
「で、どういうこと? 結婚って」
「半年前に結婚したんだよ」
「でも月一で会ってるんでしょ?」
「うん、いまのところ」
「それって、不倫、になるのかな」
「……、なると思う」
気づいたら空になっていた僕のグラスにマキがワインを注ぐ。
「正直、樫くんが不倫してるとか予想外すぎてちょっと驚いてる」
「僕もそういうことしない方だと思ってた」
「坂柳さん、なんで結婚したの?」
少し、間をあけて答えた。
「たぶん、もし、これを人が言ってたら馬鹿じゃないのかなって僕は思うと思うんだけど」
マキがワインを飲みながら相槌を打つ。
「坂柳さん、ほんとは僕のことが好きなんだって」
咳ばらいをして何か言おうとするマキをけん制するように続けた。
「坂柳さんち、地元の名家らしいんだよ。駅前にずっと塀があってそれが全部坂柳さんの実家なんだって。お姉さんと妹さんがいるらしいけど、息子は坂柳さんしか居なくて、家を続けさせるのは長男に生まれてきた自分の義務だってのはずっと、子供の頃から、自分がゲイだってわかっても思ってたって。だから別に時期が来たら結婚して子供つくればそれでいいって思ってたけど、僕の……」
「僕の?」
「僕のことが好きだから、結婚しても僕と別れたくないって」
大きなため息が聞こえる。自分でも馬鹿みたいなことを言ってるとはわかっているけど、事実をありのままに伝えているだけだ。
「だったら結婚しなきゃいいのに。そんなの奥さんにも樫くんにも、生まれてくる子供にもひどいよ、あたしが金持ちでもない一般市民だからわからない世界なのかもしれないけど、好きな人を辛い目に合わせて守るものって何? 守るもの間違えてるよ」
「その通りだと思う。それでも僕はその時、じゃあ別れよう、奥さん大事にして生きていきなよって言えなかった」
マキが黙る。空気が重かった。平穏な公園で別れ話を始めたカップルのように見えたかもしれない。
「なんか樫くんの人間っぽいとこ初めて見た」
落としていた視線を上げると笑顔が見える。
「正直これが赤の他人だったらさ、今すぐ別れなよって言うんだけどさ、どうしてもあたしは樫くん側についちゃうから、なんも言えない。お金持ちの家っていろいろ大変なんだろうね」
ポケットティッシュをバッグから出しながら言う。
「あたしは自分のことも行き当たりばったりだから、人生の正解なんてわからないけど、できるだけ傷付く人は少ないほうがいいね」
僕はいつの間にか泣いていた。受け取ったティッシュで思い切り鼻をかむと直後、新しい空気が肺に満ちた。
「ごめん、なんか最近いろいろ重なってて」
「いいんだよー、あたしなんて何回樫くんの前で泣いたと思ってんの」
向こうの木陰で女子のグループがこちらを見てひそひそと話をしている。
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