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スーパーに居た。天気予報が外れて突然の豪雨に見舞われた僕は、走って近くのスーパーに避難した。冷房がガンガン効いている店内では濡れた体が一気に冷却されて、勝手にぶるっと震えた。雨が小降りになることを祈りながら少し店内を歩いて回ることにしたが、特に必要なものがない、というか出先なので肉や魚、牛乳を買うことはできない。とりあえずビニール傘を探すことにした。雨が小降りになるのを待ちながら、歩き回っていた店内を一周して入り口付近に戻ってきた時に、時季外れのすいかが目に入った。すいかってお見舞いの品として、アリなのか? 根っこがある植物はだめだとか、お見舞いの品にはいろいろなルールがあるらしいけど、すいかにも何かいわくが在ったらどうしようと思ったが、別に自分の父親の見舞いなのだからそんなに気を使う必要もない、とすいかの前に立った。父はすいかが好きだ。果物は全然食べないし甘いものも食べない父だけど、すいかは好きだった記憶がある。一玉は大きすぎるし、半分でもきっと食べきれないので、四分の一に切ったものにしようと探したのだけど、春のこの時期に出荷されている小ぶりなスイカは一玉ずつ箱に入っていた。すいかをまるごと病人に差し入れするのってどれだけざっくりした人間なんだろうと思ったが、父が食べたくないと言えば自分が食べればいいか、と思って一番おいしそうに思えたスイカを持ってレジに並んだ。

 昼過ぎ、家を出る時は晴れた日曜日で気持ちがよく、絶好の運動会日和だったのに、今頃どうなっていることやら、と思いながら病院までの道を歩いた。今日は智貴の幼稚園の運動会で、姉夫婦と母は応援に行っている。僕も誘われたのだけど、さすがに甥っ子の運動会に行くほどのおじバカでもないし義兄にも遠慮するので行かなかった。それに家族が皆で運動会に行っている時に、一人病院に居る父のことが気になったので、見舞いに来ることにした。

 病院に着くとエレベーターで病室があるフロアへ向かう。もう部屋はわかっているのでそのまま廊下を進んで、途中、そういえば包丁ってあるのかなと思ったが、だいたい病室では林檎を剥いていたりするし、あるだろう、などと考えていると、病室に着いた。

引き戸が開いたままの四人部屋に静かに入ろうとすると、父のところには先客があるようだった。知らない人だったが、真剣に会話している様子からなんとなく邪魔しては悪いような気がして一度廊下に戻った。

 廊下に置いてある長椅子に座って、すいかを膝の上に置く。かすかに二人の会話が漏れ聞こえてくる。なんだか盗み聞きをしているようで居心地が悪い。でもせっかく友達? が来てくれているのに、ここで息子が行ったら気兼ねして帰ってしまうかもしれないし、と考えていると看護師さんに大丈夫ですか? と声をかけられた。膝の上にすいかの重みを感じる。そんなに悩ましい顔をしてたのかなと思いつつ、意を決して病室の中に入った。

「父さん、来たよ。あ、こんにちは。はじめまして。息子の将人です」

自己紹介まで一気に済ませて、母に頼まれてすいかを持ってきたとか言い訳をしてすぐに帰ろうと思っていた。

「ああ、息子さん、君が」

初対面のはずだが、まるで僕のことを知っているかのようだった。

「私は倉。倉 章弘と言います。お父さんとは昔からの知り合いで、今回入院したって聞いたものでお見舞いにきたんです」

「そうなんですか、ありがとうございます。そうだ、ちょうど良かった、母からすいかを持っていけって言われてきたんですけど、良かったら一緒にいかがですか?」

「いや、もう帰るところでしたので。すみませんせっかくですが。それじゃ。」

そう言って父を一瞥すると、鞄と帽子を持って倉さんは去っていってしまった。

「なんかごめん、邪魔したかも」

振り返って父を見ると、父はまだ病室の入り口の方を見ていた。

「すいか。食べる?」

表面があいた化粧箱のすいかを見せながら言うと、父は頷いた。

「食べる、ありがとう、そこの棚の中に皿と包丁入ってるよ」

包丁と言っても果物ナイフのようなもので、まな板もないためどうやって切るか一瞬思考が止まってしまったが、化粧箱の中にティッシュを詰めてこぼれる果汁を吸わせながらギコギコと切った。刃を動かすたびにすいかの匂いが広がって、一足早く病室に夏がきたみたいだった。苦労して切り終えて、やっぱり、今度来る時はカットフルーツにしようと思った。切り分けたすいかを皿にのせて父に渡すと、少しずつかじって食べている。人がものを食べるのって、こんなに一生懸命に見える行動だっただろうか。一口かじっては、咀嚼して、嚥下する。父が癌を患っているという先入観がそう思わせているのかもしれないが、これほど生きようとする意志が伝わってくる行動だとは、それまで思ったことがなかった。

「うまいな、これいいやつだろ」

化粧箱をみると〝植木すいか〟と、書いてある。一瞬、植木ってどこだろうと思ったが、文字の横に有名なくまモンが印刷されており、その上に熊本産、と書いてあった。

「なんか、有名っぽいね。あ、ていうか熊本ってすいか生産量全国一位なんだってさ、知ってた?」

スマホで検索しながら父に伝えると、父は種を手に取りながら首を横に振った。結局父は四分の一に切ったものをさらにスライスした一つだけしか食べなかった。僕はその残りを食べたが、すいかはまだ全体の四分の三残っている。もう食べられない。

「倉さん、だっけ? やっぱ一緒に食べてもらえばよかったなー、切ってあるやつ売ってなかったからさ」

「あれ、このすいかお前が買ってきたの?」

「あ、え? うん、そう」

「母さんが持たせたんじゃなかったのか」

「うん、なんかなんとなく母から持たされてって言った方が、気を使わないで食べてくれるような気がして」

「ちょっとよくわからんが…、これ高かっただろう」

父が財布を取り出そうとするので、いいよいいよ、と止めるが、無理やりお金を渡される。ここで突き返しても、問答しても仕方ないので、ありがたく受け取った。

「でもお見舞いに来てくれるって、ありがたいね」

「そうだな……、ありがたいことだよ」

ふわっと窓から日差しが入ってきて、雨が上がったのがわかった。病室にすいかの匂いが充満するのを申し訳なく感じていたので、窓を少し開けた。雨がアスファルトを打った後の匂いが、すいかの匂いをかき消していった。思えば普段、父とはそんなに話をしなかった。どちらかと言えば、姉と父は気が合いよく話す。姉は誰と話す時でも次から次に話題に事欠かないが、僕は親と話す時にぜんぜん話題が思い浮かばない。沈黙が気まずいわけでもないが、これではすいかを食べに来ただけになってしまうので、なにか少しでも父の気がまぎれる話でもしたかった。

「彼女は」

突然父が口を開いた。今度はこちらを見て

「彼女はいるのか?」

と言った。これまで父と恋愛の話をしたことはなかったので、少し驚いて、新鮮で、不愉快だった。嘘をつくのはあまり得意ではないし、いい気もしない。できれば正直に答えたい。

「いや、いないけど」

思ったよりもぶっきらぼうな声が出た。

「そうか、お前も今年三十だし、いい人いればいいけどな」

話はあっさりそこで終わった。嘘をつくことも、痛くない腹を探られることもなくてほっとした。次の瞬間、父は余命のことを考えて言っているのだろうと気が付いて、自分の秘密を探られることに気が向いていたことを恥ずかしく思った。

「すいか、実家(うち)に持っていきなさい」


 袋の口を縛ってもそこはかとなく、すいかの匂いがしている気がする。幸い車内には立っている人もおらず数人の外国人観光客が乗っているだけで空いていた。モノレールはビルの合間を抜けると川と並走し始める。病院を出た後、駅で電話した時にはすでに母は家に居た。幼稚園のあたりは大して雨も降らなかったらしく運動会は予定通り行われてさっき帰ってきたところ、と言っていた。

 駅を出るとまっすぐに家の方へ伸びる道路を歩き始めた。橋の上に出ると一気に風が強くなって海の匂いを一層強く感じる。自転車に乗って通り過ぎる中学生を見て、自分の母校の制服だと気づく。ここが自分の地元なんだなとしみじみと思う。大学の時や社会に出てから、地方出身の友達と話すと、皆が地元を持っていることを少しうらやましく感じて、自分には地元がないような気がしていたが、一度実家を離れて帰ってきてみれば、まぎれもなくここは僕の地元だと感じる。帰るところがあるというのはいい。ただずっと居るには不自由だというだけで。

 団地のエレベーターを降りて右に曲がりさらに右に曲がった4つ目のドアが実家だ。子供の頃、間違えて別の棟の同じ階、同じ部屋へ帰ったことがある。鍵が開かず不思議に思ってガチャガチャやっていると、中から知らない女性が出てきて驚いた。一瞬自分は捨てられたのかとさえ思った。この巨大な団地で、複製された同じ建物の別の棟には、同じ階の同じ場所にまるごと違う世帯が住んでいるというのが、まるでパラレルワールドのようだ。よく皆迷わずに自分の家にたどり着けるもんだなと思う。もう実家の鍵は持っていないので、インターフォンを鳴らすと、はい、という母の声が聞こえたので、将人です、と言うと、少し間を置いてドアが勢いよく開いた。智貴だった。

 居間へ行くと、姉と義兄、姪の茜音が居た。運動会からそのまま来たらしい。

「おー、将人君久しぶり、元気してる?」

義兄と会うのは茜音が生まれた時以来なので、半年ぶりだ。また少し太ったような気がする。義兄も空港で働いていて、姉とはグループ会社同士だ。外で飛行機に積み荷を持って行ったり、飛行機をプッシュバックしたりする仕事をしている。僕も同じ時期に空港で働いていたことがあるが、その時は義理の兄になるとは思っていなかった。

「元気ですよ、今日休みとれたんですね、最近は落ち着いたんですか?」

「うん、まあまあ、人も増えたし辞めるやつも少なくなったしね」

「そうなんだ、昔からするとよくなりましたね」

姉の会社も義兄の会社も、大企業では働き方改革、の御旗のもとに急激に労働環境が改善しているようだ。もともと女性の育児休暇などに手厚い業界ではあるので、素地があるのかもしれない。男性でも育児休暇を取る人がいると姉が言っていた。

「ちょうどよかった皆が居て。すいか持ってきたから」

台所へ回ってすいかの入った袋を置く。母がいぶかし気に眺める。

「あら、どうしたのこれ」

「父さんのとこにお見舞いに行ってきた。すいか好きだったなと思って買ってって食べたんだけど、食べきれなかったんだよ」

「一玉買っていったの! あきれた。ほとんど食べてないじゃない」

球形の一部を三日月型に切り取られたすいかを袋から出す母が笑いながら言う。

「うん、意外にすいかって量食べられないね。あと切るのが大変だった」

「そうよね、病室には果物ナイフしか置いてないものね。でもお父さんうれしかったと思うわよ。これ冷やしておいて後で食べましょう」

すいかは半分に切り分けられて野菜室に入れられた。

「晩御飯食べてくわよね」

「僕の分あるの?」

「今日焼き肉だから大丈夫。お肉多めに買ってある。お母さんも応援疲れしちゃって今日はご飯作るのさぼっちゃった」

タタタタ、と智貴が走ってきた。

「智くん! お料理してる時は、危ないからお台所きちゃだめよ!」

母が言うと智貴は僕の手を引っ張って居間へ連れて行く。

「メダル! 一等賞とった!」

小さいけど結構本格的なメダルを見せてくる。

「おー、すごいじゃん、かけっこ?」

「リレー!」

「智のチームすごい足が速い子ばっかりだったの。くじ引きかもしれないけど、ちょっと他のチームの子がかわいそうなくらい速かったよね」

姉が台所からよく通る声で解説する。へー、と返事をしながら僕がダイニングテーブルの椅子に座ると膝の上に智貴が乗ってきたので、後ろから抱きかかえて、義兄が茜音をあやしながら見ているテレビに目をやる。

 ちょうど夕方のニュースの時間だった。全国ニュースで国際関係や政治について一通りやったあと、関東ローカルに切り替わった。そこで出てきた話題に僕はヒヤッとした。

「……本日目黒区では同性パートナー制度が正式に承認されてから初めての宣誓式が行われました」

家族と居る時にテレビでこういう話題が出るのは、濡れ場に匹敵する気まずさを感じる。誰かが肯定するにしろ、否定するにしろ、僕は無関係を装って適当に合わせたコメントをする。母が何か言おうとした時、姉が遮るように言った。

「そういえば、うちの会社の後輩、同性婚してたよ、社内結婚」

野菜を盛った皿を運びながら姉が言った。

「え? それ職場の人たち知ってるの?」

母が訪ねる。台所に居るので表情はわからないが、これまでにこういう話題が出た時と同じ、あからさまな嫌悪感を隠さない声色だ。

「うん、普通に社内で結婚した時に報告する範囲の人は知ってるみたいよ」

今度は肉とタレを運んできた姉が言う。

「親御さんとか知ってるのかしら?」

「そりゃ知ってるんじゃないの? 結婚したら言うでしょ」

姉はもう台所へは戻らず僕の向かいに座った。

「でも普通の結婚じゃないんだから、親御さんも気の毒よ」

母が言うと、姉は返事をせず僕をちらっと見た。僕は首を少し横に振った。会話はそこで終了した。ニュースは次の話題に移っていた。

 

 焼き肉を食べ終わった後、すいかはよく冷えていた。切り分けようとする前、義兄がちょっと待って、と止めに入った。ユーチューブで種が簡単に取れる方法を見ているらしい。一通り動画を見た義兄が切り分けると、すべての種が表面に出てくる形になった。あとは見えている種をささっとスプーンで落としてしまえば、種を気にせず食べられるというわけだ。

「これ考えた人天才」

姉が言うと皆が頷きながらすいかを食べている。冷えているからか昼間に食べた時よりも甘さが際立っているように感じた。よく考えたら冷えてもいないすいかを、それも丸ごと病室に持って行って食べさせるなんて、たまに自分で自分の突拍子の無さに驚く。違う人格でも出てきているのではないかと思うくらいだ。大人四人と幼児一人でもすいかを全部食べ切ることはできず、残りは明日のおやつにすることになった。

「じゃあ、俺お先に失礼します、将人君、また」

明日、早朝勤務のシフトだという義兄はそう言って早めに帰っていった。姉と智貴、茜音は、明日幼稚園が運動会の振り替え休日のため、実家に泊まるらしい。

 姉が子供たちを風呂に入れて寝かしつけている間、母がコーヒーを淹れてくれた。

「お父さんどうだった?」

「まあ、普通、かな。落ち着いてた」

僕は母と目を合わせずテレビを見ながら答えた。

「手術ができないって話はこないだしたと思うけど、そうなると抗がん剤治療よね、よくなるのかどうかわからないけど、やっぱりもっと大きな病院に移った方がいいのかしら」

「今の病院も十分大きいよ」

「手術できる病院、インターネットとかで調べられないの?」

「ネットで調べても不安になるだけだから、医者が言ってること信じた方がいいよ」

「そうは言っても、なんとかならないかしら」

母は心底父を心配しているようだった。僕は正直なところ、そこまで心配していない、というかそこまで現実味がない。心のどこかで親はいつまでも元気でいる、と高を括っているのかもしれない。父が死ぬかもしれないということに向き合えていないのだと思った。父と母はお見合い結婚だが、子供から見てもいい夫婦だと思う。互いに対して優しく、尊重しているのがわかる。記念日や誕生日に父は必ず母を食事に連れて行くし、母は父のワイシャツやハンカチ、スーツなどをいつも丁寧に手入れする。昔のホームドラマから出てきたような夫婦だなと思う。父が定年してからあちこち旅行に行こうとしていた矢先の癌の発見で、幸せな老後は一気に先行き不透明になってしまった。

「寝た。コーヒーまだある?」

隣の和室から戻ってきた姉が自分の分を注いで母の隣に座る。

「私も手術できるんならした方がいいと思ったんだよね」

「聞こえてたんだ」

「うん。でもやっぱり父さんの癌は血管に張り付いてる? だかで無理なんだって、まあネット情報だけど」

そう言ってコーヒーを飲む。横で母が深いため息をつく。

「お母さんも毎日でもお見舞いに行きたいんだけど、お父さんが、無理しなくていいから、って言うの。お母さんまで倒れたりしたら困る、って」

そう言うと母の目にじんわり涙が浮かんできた。姉が母の背中をさする。

「そうだよ、母さんが元気で居てもらわないと私たちだって困るから、無理しなくていいよ。代わりに私や将人が交代でお見舞い行くからさ」

目をティッシュで押さえながら母が何度も頷く。

「……そういえば、今日父さんの知り合いの人がお見舞いに来てくれてたよ、倉さん、って人。母さん知ってる?」

「倉さん……、聞いたことあるような、ないような、お父さんの学生時代のお友達じゃなかったかしら。わざわざ来てくださってありがたいわね」

そういうとまた母はティッシュで目を押さえた。昔の知人までお見舞いに来るということで、父の死がより現実味を帯びたのかもしれない。

 母が落ち着いた頃合いをみて、僕は実家を後にした。姉に任せるのは申し訳ないけど仕事があるから仕方ない。外の空気は雨が降りそうな湿気を帯びていて、そろそろ春が終わることを知らせていた。季節が一つ終わる時、また次に巡ってくるまで自分が生きているかどうか、考えたことはなかった。水平線近く、コンテナ船が遠ざかっていくのが見えた。

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