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「お疲れー」

ビール瓶がぶつかる音。午後七時過ぎ、丸の内のメキシコ料理店は賑わっていて、客の半分は外国人だ。大きめの音量のBGMと、皆それぞれが思い思いの会話を楽しんでいるざわついた店内は、誰にも干渉されない、誰にも気を使わなくていい。二人でいる時はこういう店がいい。

「大阪慣れました?」

「お前いつもそれ聞くけど、もう慣れたって。前から出張でちょこちょこ行ってたし、都会だからな、知らない田舎だと慣れるのも大変かもしれないけど東京とそんなに生活変わんないよ」

「そのわりに大阪弁ぜんぜん話さないなと思って」

「半年で話せるようになるかよ、それに俺は地元の方言か標準語しか話さないって決めてんの」

「じゃあ熊本弁でいいですよ」

「やだよ」

坂柳さんは普段標準語しか話さないが、酔っ払ってかなり気分がよくなってくると方言で話し出す。正直何いってるのかわからないこともあるけど、別人みたいで面白い。九州出身の同僚と話してた時なんかは外国語のようだった。正直方言で会話できるのはちょっと羨ましかった。

「……、奥さん元気ですか?」

「うん、元気だと思うよ」

去年、坂柳さんは見合い結婚した。本人曰く、実家が〝まあまあの地主〟らしく、姉と妹に挟まれた長男かつ一人息子の結婚を親御さんは相当喜んだようで、式に呼ばれた昔の同僚から聞いた話では華族かと思うような気合の入り方だったらしく、国会議員や有名人もいたそうだ。奥さんは大阪転勤を聞いて、自分の仕事は辞めたくないし、ついていく気はない、と今も東京に住んでいる。

「それよりも、今日病院行ったんだろ? どうだったのお父さん」

「元気そう、でしたけど実際は元気じゃないでしょうね」

病院での父の姿を思い出していた。まだ治療が始まったばかりで体調的にはさほど変化はなかったのかもしれない。笑顔で僕たちを迎えて、孫と話をする様子はいつもの父だった。ただ、ふと遠くを見るような眼をしていたし、姉も様子が変だったと言っていた。病気になるとそれまでは気にもしなかったことが急に気がかりになったりするという。父はあの時何を考えていたのだろうか。

「そうか、治療がうまくいくといいけどね」

「はい、できるだけ見舞いにも行こうと思ってます」

父の話はなんだか暗くなる。せっかく久しぶりに会えたのにできれば違う話題がいい。父には申し訳ない気がするけど、大切な人との大切な時間は楽しく過ごしたかった。なんとなく周囲に視線を移すと、店内の賑やかさがさらにこの話題の暗さを際立たせるような気がした。けれどこの人たちの人生もそれなりに辛いことや大変なことが起きていて、ただ、この瞬間は皆楽しく過ごしているんだろうと思うと、僕が今、楽しい時間を過ごすことも赦されるのかもしれないと思った。

「そういえば、姉のとこ、二人目、生まれたって言いましたっけ?」

「うん、聞いたよ? 半年前くらいだろ? 女の子って言ってたっけ?」

「そう、すごい目がくりっとしてて、あと天パがくるくる巻いてて、リアルに天使みたいなんですよ、あ、写真あります」

スマホを取り出して姪の写真を見せる。

「すごいおじバカじゃん、どれどれ、うわ、ほんとかわいいなー、ていうかなにこれ? フォトスタジオ? ほんとに天国にいる天使みたいになってる」

「でしょー? すごい綺麗ですよねこれスマホで撮ったのかな」

「いやスタジオ行ってんだからプロが撮ってるだろ」

「ああ、そっか縦位置だからスマホかなって思ったんですけど、よく考えたらカメラも縦に構えますね」

「そうだよ、スマホ依存症だなー」

「デジタルネイティブなんですよ!」

「はいはい、なんか飲む? 俺適当に白ワイン頼んどいて」

おかわりを頼んで坂柳さんはトイレに行った。オーダーした後、壁一面の大きな窓から東京駅を見る。到着しては大勢の人を飲みこんで去っていく電車。吐き出された人たちはきっとここでまた乗り換えて帰路に着くのだろう。でも今この時間に東京駅から出てくる人たちはどこへ帰るんだろうか。会社に戻って一仕事あるのかもしれないし、僕たちのように酒を飲むのかもしれない。そんなことを考えるのもなんだかおかしいと思った。彼らのことは僕には関係ないし、僕のことも彼らには関係ない。じゃあ僕のことは誰に関係があるだろう……。視線を店内に戻すと坂柳さんが電話をしているのが見えた。

「今日、どうするんですか?」

スマホをポケットに入れながら戻ってきた坂柳さんに尋ねる。坂柳さんは運ばれてきていたグラスのワインを一口飲んだ。

「将人んち泊まるよ」

「……でも、奥さん大丈夫なんですか」

「うん、大丈夫」

ニコリと笑う。つられてほっとしたように僕も笑った。大丈夫と言われてこの笑顔を見せられると、何の問題もないのだと錯覚してしまう。馬鹿げた質問をした。大丈夫なわけがない。自分の夫が単身赴任から帰ってきているのに家には帰ってこないのだ。僕が逆の立場だったら眠れないだろう。奥さんは知らない、夫には結婚する前から今現在も付き合っている男がいることを。

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