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彼と出会ったのは、前の会社で働いていた時のことだ。僕は大学卒業後、大手航空会社の子会社に就職して羽田空港で働いていた。就職活動中は化学関連の会社ばかり受けていたが、何度も面接で落とされていた。やる気を失っていたところに、姉が勤務している会社のグループ合同セミナーを教えてもらったのだ。
僕は理系だったが、周囲がどんどん内定をもらっている中でいつまでもこだわっているわけにもいかなかった。それに一応大企業のグループだし、安定もしているだろう。そう思い、この際専攻については忘れることにしてエントリーした。筆記試験、面接はスムーズに進み、内定をもらうとすぐに就活を辞めた。この決断を就職後の数年悔やんだが、今となっては英断だったと思う。
空港という巨大な施設には驚くほどたくさんの人が、異なる立場で勤務していて、同じ制服の航空会社のスタッフに見える人でも所属する会社が違ったり、別の航空会社だと思っていたら同じ会社が業務委託を受けていたり、複雑な人間関係や立場がまるで社会の縮図のようだった。同じ仕事をしていても、所属や勤務体系、そして給料が違うことも当然で、姉弟で親会社と子会社に分かれて働いていると、ますます自分の境遇が気になって、僕はそんな〝社会〟に嫌気がさしていた。
彼もそんな社会の中では上位に居る人間で、ようするに僕が働いていた会社の親会社の人間だった。この社会では人材交流も盛んで、出向や転籍(僕が見た限り転籍はほとんどが左遷だった)などもよくあり、僕は一時的に空港を離れて親会社で勤務をすることになった。新卒で入社してさほど年数が経っていなかったため、同期からは栄転だと祝われて、自分でもまんざらでもない気分だったが、実際には前任の出向者がうつ病になってしまったからその代わりに僕が送り込まれることになっただけだったと、出向直前の面談で知らされた。僕が配属されたのは、親会社の広大なフロアで働く大人数が、それぞれ細かに部署分けされた中の、もっとも過酷なIT関連の部署だった。そこはグループ全体のシステムを統括するところで、しょっちゅう問題が起こる老朽化したシステムを新しいものに移行するプロジェクトが進行中だった。部署内には他の子会社からも〝生贄〟が捧げられていて、同じような立場だから仲良くなれるかと思ったけれど、皆常にピリピリしていて、ミスをすればオフィスのど真ん中で怒鳴られるし、助けてくれる人もない。人前で叱責されるのはかなり堪える。前任者が鬱になるのも仕方ないと思えた。
ある台風の日、いつものように残業をしていると、だだっ広いフロアのあちこちの電気がポツポツと消えていって、僕の席の列はまるでスポットライトのように残されてしまった。
大量の仕事が残った状態で、ただでさえ親会社の中では弱い立場なのに、こんな時間まで一人で残業して、見せしめみたいにスポットライトが当たっては、心が折れそうだった。カタカタと自分がキーボードを打つ音と、高層ビルの窓が割れるんじゃないかと思うくらいの強風の音だけが聞こえていたが、突然後ろの方で話し声が聞こえた。後ろを振り返るとスポットライトがまだ残っている列があり、電話をしている人がいた。振り返った時にあちらも僕を見た気がした。
(あの辺りなんの部署だっけ……)
と思いながら自分のモニタに視線を戻したが、まだフロアに人が居るという安心感で少し心強くなった。
しばらくして話し声が消えたので、帰ったんだろうなと思いつつ、雨脚が強まる大きな窓の外を眺めては、果たして今日帰れるのだろうかと考えていた。
「帰らないんですか?」
斜め後ろから声をかけられてびくっとした。窓の外の東京タワーの先っぽが、風で折れないか気になって見ていたら、人が近づくのに気が付かなかった。声の主はさっき向こうで電話をしていた人だった。
「帰らないんですか? 帰宅命令出てましたけど」
「帰宅命令……? 出てるんですか?」
「はい、イントラに。で、帰らないんですか?」
「え、じゃあ、帰ります」
「じゃあ、一緒に出ましょう。戸締りあるし」
その人はそう言って隣の席に腰かけた。
親会社の社内イントラで、台風のため早期帰宅命令が出ていたのに、僕が普段見ているグループ会社版イントラではその命令が出ていなかったので、知らずに仕事をしていたのだった。一応僕も出向という立場から親会社のイントラへアクセス権を与えられていたのだけど、どうせ親会社のこと見ても仕方がないとあまり見ていなかった。それにしても周囲の人も教えてくれてよさそうなものだが、早々に皆帰宅したのは、誰かを留守番にする必要があったからかもしれない。当然だが台風が来ていない地域では皆まだ普通に働いているのだ。システムに問題が発生すればすぐに問い合わせがくる。
パソコンをシャットダウンしている間に机を片付け、帰り支度をしていると
「そんなに急がなくていいですよ」
と言われた。そんなに急いでるように見えたのだろうかと思ったが、きっとこれは癖だ。出向でここに来てから、何をしても叱られてばかりだから急かされてるわけでもないのについ焦ってしまう。
「お待たせしました、準備できました」
僕が支度を済ませてそう言うとその人は立ち上がって、
「んじゃ、行きますか」
と言った。二人で空調のスイッチを手分けして確認した後、施錠してエレベーターを待った。
「あの、それ」
彼の視線が僕の胸元に向けられた。まだ社員証を首から下げたままだった。
「樫原さん、出向の方なんですね。僕は坂柳 晋之介といいます。広報に居ます」
ニコリと笑うと自己紹介をした。なぜ彼が僕のことを出向者だと分かったかと言えば、僕がカードケースの表面に出向先の社員証を、裏面に自社の社員証を入れていて、この時裏面が見えていたからだ。
「IT部、いつも遅いですよね。不夜城だって言われてますもんね」
「はあ、そうなんですか」
疲れていたのと人見知りなのが相まって、そっけない返事をしてしまった。
「あ、すみません、大変だなって思って言っただけで悪気があったわけではないんです。気を悪くしてたら謝ります」
「いや、別にぜんぜん気にしてないです。実際残業ばかりだし、いつ終わるのかもわからない仕事に途方に暮れちゃいますね。あー、えーと広報部もいつも遅いんですか?」
自分の話をするとつい愚痴ってしまう。親会社の社員に対してあれこれ愚痴るのはあまり気が進まないので、相手に話を振った。
「いや、広報は基本的に一年のうちで忙しい時期が決まってるんで、それ以外はそうでもないですよ。ただ去年、今年あたりはオリンピック関連でバタバタしてて」
エレベーターが到着した。ビルの管理室へ鍵を返却後、通用口から外に出た。風は多少収まっていたように思えた。もしくは風がましになったと思えるくらい雨がひどすぎたのかもしれないが、とにかく豪雨だった。
「あ」
僕の手元を見た坂柳さんが言った。
「傘忘れてきちゃった、上に」
一見すごく仕事が出来そうな人なのに結構天然だったりするのかな、と思いながら、
「僕、鞄に折り畳みなら入ってますけど、この雨だと使えるか微妙ですが、使います?」
と聞くと、
「うん、上まで戻るのはさすがにめんどくさいから、借りてもいい?」
背中のリュックを前に持ってきて、底から折り畳み傘を取り出して渡した。
「ありがとう、助かるー」
豪雨の中、二人で傘を飛ばされそうになりながら駅まで歩いた。雨の音がうるさすぎて、会話にならないのに僕たちは大声を出してまで会話をしていた。台風の街を歩いているのは僕たちだけで、坂柳さんはいつの間にかタメ口になっていた。
次の日、台風一過の青空が広がる中、出社して自分のデスクへ行く。
「おはようございます」
誰に向けているわけでもない挨拶にはもちろん誰からも返事がない、居心地の悪い部署だ。パソコンを立ち上げて途中で買ってきたコーヒーを飲んでいると斜め後ろから話しかけられた。
「おはよう、昨日はありがとね、はいこれ」
坂柳さんだ。昨日貸した折り畳み傘を返してもらって鞄にしまう。
「今日さ、昼飯行かない?」
「あ、ええいいですけど、いや、はい行きます」
「じゃあまた後でくるわ、じゃね」
そう言って戻っていった。なんか唐突と言うか、距離感が近いというか、不思議な人なのかな、と考えながら飲みかけていたコーヒーを飲んだら熱すぎて衝動的に出してしまった。隣の席の同僚から迷惑そうな目で見られた。
「ゲホゲホッ……すみません」
同僚は無言で自分のティッシュボックスを渡してくれた。結構いい人なのかもしれないと思った自分の単純さと、そもそも他人を悪く思いすぎていることを反省しながらこぼれたコーヒーを拭いた。
昼休み、また斜め後ろから話しかけられた。
「行ける?」
「はい、ひと段落したんで」
僕がここに出向してきて誰かと昼ご飯を食べるなんて初めてのことだった。いつも朝コンビニで買ってきたおにぎりをお茶で流し込むように食べて、五分昼寝した後仕事をしていた。ゆっくり休んで残業するくらいなら、昼休みに仕事を片付けて一秒でも早く帰りたかったからだ。なので、実は鞄の中におにぎりが二つ入っていたが、それは晩ご飯にすればいいと思った。
「何食べよっか、何か食べたいもんある?」
「あー、そうですねー、肉か魚? ですかね?」
「肉か魚か、んじゃハンバーグにしない? うまいとこあんだよ」
そう言って会社のビルから二つ、通りを挟んだ路地にあるハンバーグ店へ向かった。昼休みが始まってすぐに行ったからか、店の中にはまだ空席があり、すぐに入れた。店の人がお冷を運んできてランチ用のメニューを置いて行く。
「俺は決まってて、いつもCランチにするんだよね、唐揚げついてるから」
お手拭きで念入りに手を拭きながらニコニコしている。
「じゃあ僕も唐揚げ好きなんでCにします」
「うん、それが正解だと思う、すみませーん、Cランチ二つお願いします」
やや遠くにいる店員さんに指を二本立てながら注文してくれた。店員さんはちゃんと聞こえてたようで厨房にオーダーを通していた。水を一口飲んで坂柳さんが言った。
「ところでさ、樫原さんって、お姉さんとかいる?」
「え? います、五つ上です」
「もしかしてお姉さんもうちで働いてたりする?」
「ああー、します、ね……。もしかして姉のこと、ご存じなんですか?」
「やっぱり! 珍しい苗字だし、顔というか、雰囲気って言うかどことなく似てたから、もしかしたらって思って聞いてみたんだけど、すごい、当たっちゃったよ」
ニコニコしている。こんなにニコニコしてたら皆に好かれるだろうなと思うくらい、いい笑顔をしている。
「姉弟で同じ会社で働くことなんてあるんだね」
そう言われて、自分の中で何かが少し疼いた。
「いや、僕は子会社の方なんで……」
少し、眉を上げるような表情をして
「まあ、俺もお姉さんと特に親しいわけじゃないんだけどね、同期だから知ってるんだ」
と言った坂柳さんを見て、つまらないこと言ってしまったなと思った。こういう時、意図せず姉に対するコンプレックスが出てきてしまう。
「同期なんですか? 奇遇ですね!」
つまらない愚痴を言ってしまったことを拭うように、少し大げさにリアクションをした。でも姉と同期だと聞いて親近感を覚えたのは確かだった。誰とも心が通う気がしないあのオフィスで、こういう人に出会えたことが単純にうれしかったのかもしれない。
「たくさん同期いるからね、パイロット、営業、整備、CAだろうが、空港勤務だろうが同期だし。でもお姉さんとは新卒の時の現場研修が同じだったから覚えてるんだよ。懐かしいな、成田で働いてた」
「僕は羽田にしか居たことないんですけど、成田ってどんな感じですか?」
「成田は、そうだな、地方都市って感じでのんびりしてたな。仕事はめちゃくちゃ忙しかったんだけど、休みの日とかは、なんか田舎の休日って感じで。地元にいるみたいで落ち着いた」
「地元ってどこなんですか?」
「九州。熊本」
「てっきりこっちの人だと思ってました」
[それって都会っぽいってこと?]
「ああ、まあ、そんな感じです、方言とかもないし」
「あはは、だってちゃんと隠してるもん」
ハンバーグとライスが運ばれてきた。ジュージューと鉄板の上で音を立てて食欲をそそる。付け合わせのじゃがいもとニンジンとインゲン、そして唐揚げもおいしそうだ。
「うまそー、いただきます」
きちんといただきますって言う人を久しぶりに見た。割り箸を横にして上下に割ってるのを見て、育ちがいいんだなと思った。僕はなんとなくナイフとフォークで食べようとしていたけど、割り箸をとって同じように上下に割った。
「あ、割り箸派? 俺ナイフとフォークでご飯食べるの苦手でさ、ごはん食べる時うまく食べられないし、かといってフォーク右手に持ち代えるのも面倒だし」
そう言ってモグモグとハンバーグを食べる。なんというか口の動きが大きくて本当にモグモグという音が聞こえてきそうで、おいしそうに食べる人だ。ハンバーグはすごく柔らかく、粗挽きなのか肉っぽさが残っていておいしい。唐揚げはどうだろうと食べて思わずうねった。
「んー、おいしいですね……唐揚げ」
「でしょ? ハンバーグもうまいんだけど唐揚げが最高にうまくて、なんていうんだろ、ちゃんとこの店で作ってますよ、って味?」
ウンウンと大きく頷いて同意した。二人とも食べるスピードが速くてあっという間に食べ終わってしまった。店先を見ると行列ができていたので長居はせずに店を出た。
それから二人でよく昼食をとるようになった。といっても僕は昼休みまで仕事がおしてしまうこともよくあって、断ることも多かったのだけど、それでも坂柳さんは懲りずに誘いに来てくれた。
一年半が経ったある日、僕は自社の上司との定期面談で羽田に向かっていた。モノレールに乗るのは月に一度のこの面談の時だけで、いつもなんで浜松町が始発なんだろうと思う。モノレールが出発してビルの合間を縫うように進むと、車両の左側が開けて、川沿いに出る。その後少し進んだところで見えてくる団地、そこに僕の実家がある。都会の工業地区にできた人工的な大規模団地、少し歩けばコンテナが山積みにされた港があって、夜になると不思議なことに海の匂いが強くなる。昔読んだマンガでよく似た風景が出てきたから、きっとうちがモデルなんだろうと思っていたのに、実際には川崎がモデルだと知ってがっかりした。子供の頃は姉や団地の友達と自転車に乗って城南島海浜公園に行った、飛行機を見るために。飛行機は好きだった。コンテナを運んでいく船が見えなくなるまでぼーっと見続けることも好きだったけど、それよりもあっという間に見えなくなってしまう飛行機が好きだった。なんていうか、自由みたいなものを感じた。もしかしたら姉もあの頃、空港で働くと決めていたのかもしれない。
実家が都内にあって、就職した勤務地が羽田なのに、大学卒業後、僕が一人暮らしを始めたのは実家に居ると居心地が悪いからだ。僕はゲイで、親には隠している。ただそれだけで、優しい両親が居て職場から近い実家の居心地が悪くなるのだから、損な性格だなと思う。一人暮らしを始めて東京の家賃が給料に占める割合と、実家のありがたさを痛感したが、実家に戻る気にはなれない。
整備場駅で降りると古びたビルが立ち並ぶ殺風景な区域に出る。少し向こうへ行けば滑走路だ。その古びた雑居ビルの一フロアに僕が所属する会社の本社がある。いつも出勤している親会社のオフィスと比べると完全に見劣りするが、僕はあくまでこの会社の社員なのだからここが本来いるべき場所だ。
「お疲れさまです」
内線用の電話が置いてあるだけの受付を抜けて、一応挨拶をしてオフィスに入る。僕はここで働いたことがないので親しい同僚はいないのだけど、何人か研修でお世話になった先輩や、空港から本社勤務に異動になった上司など知り合いはいる。
「おー、樫原、お疲れ、会議室とってあるから先に行って待ってて」
総務部付で出向になっている立場の僕の上司はこの総務課長で、毎月この人と面談するたびに申し訳なさそうにされる。僕が働いている環境は別の部署にいる他の出向者からも伝え聞いているようだ。会議室に入ってパイプ椅子に座る。窓からは隣のビルしか見えないが、飛行機が飛ぶ音は聞こえる。
「お待たせ」
ドアを閉めて向かいに課長が座る。
「どうだ、あいかわらずか」
「そうですね、忙しいです。でも新システムが導入されて時間も経ったし、徐々に問い合わせなんかも落ち着いてきてます。最近は昼ごはんも普通に食べられるようになりましたし」
また課長が申し訳なさそうな顔をする。
「そうか、落ち着いてきたんならよかった。実は会社的にも新システムが導入されて時間も経ったことだし、いいタイミングってことで樫原をこっちに戻そうって話になってるんだよ」
ずっと待っていた言葉だった。何度も仕事を辞めようと思ったけど辞めなくてよかった。報われた、と思った。
「ほんとですか、それはよかったです」
口から出た言葉は、感情がまるでこもっていない、平坦なものだったため、課長は拍子抜けした様子で
「あれ? あんまり嬉しくない? 何か気になることでもあるのか?」
と言った。嬉しくないことはないし、報われた、と思ったのも正直な気持ちだった。けれど、その後すぐに思い浮かんだのは、もう坂柳さんと昼飯食べられないな、ということだった。何度も仕事を辞めようと思ったけど辞めなかったのは、きっと、そういうことなんだと気づいた。
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