六日の菖蒲十日の菊

teran

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午前中の会議が長引いて、昼休みの半分が失われようとしている。営業部長の話があちこちに脱線するので、そのたびに時間が無駄になり、結局二時間半がこの会議に費やされていた。誰かがやっと

「もうお昼ですね、午後、続きやります?」

と言うと、営業部長自ら

「ああ、もういいよいいよ、大体のことは決まったし、議事録作って共有してね」

と言ってさっさと会議室を出て行ってしまった。残された者たちはため息をついてノートパソコンを閉じながら、ぶつぶつと愚痴をこぼしている。僕もその一人で、パソコンとノートを閉じて、持っていたペンをノートのリング部分に差し込み立ち上がったところで、ポケットから振動を感じた。

 スマホを取り出して見ると母からの着信だった。皆が昼食をどうするか話している。自分もその昼食のメンバーに入っている様子だったが、母から着信があることなど稀なので、同僚たちの誘いを断り、母からの電話に出た。

「もしもし? 母さん? どうしたの?」

「ああ、やっと出た。ごめんね、お昼ご飯食べてたでしょう」

心なしか、いつもよりも母の話し方がよそよそしいというか、なんだか気を使っているような印象を受けた。

「あの、驚かないで聞いてほしいんだけど、あの、お父さん、こないだ区の健康診断に行って、それで、再検査になったから、また検査しに行ったんだけど」

「うん、それで?」

「それで、その、お母さんもね、一緒に来てほしいって言われたから今日一緒に行ったのよ」

「んー、そうなんだ、それで?」

「そしたら、その、お父さん……、あのね、癌だって。ステージ3だって」

癌。母の話しぶりから、いい話ではないとは思いつつ聞いていたので、その場で狼狽することはなかったが、ショックだった。父はまだ六十代で、ついこないだ験担ぎする姉から赤いちゃんちゃんこを着せられて、照れながら写真に収まっていた父が、癌になった。

「とにかくね、お姉ちゃんと将人には伝えとかないといけないから、電話したんだけど、心配しなくてもお母さんが世話はするから、とりあえず入院のことなんかが決まったらまた連絡するわね、ごめんね、お昼休みに。お仕事頑張って」

 返事をする間もなく一方的に話して、母は電話を切った。まるで僕の反応を聞くことを怖れるように。

 癌……。一昨年、祖父が癌で亡くなって、その時は父が介護をしていた。痛みで感情のコントロールができなくなった祖父が父に当たり散らして、腕に痣を作った父が疲労困憊した様子で僕に話してきたことを思い出す。

「じいちゃんもさ、痛みがない時は機嫌がよくてさ、昔話なんかしたりするんだよ。俺も成人してからはじいちゃんとじっくり話す機会なんかもなかったから、こうやって一緒に居ることなんか考えてみたらもう五十年ぶりくらいだもんな。ニコニコして、やれお前をどこへ連れて行っただの、お前は皆から可愛がられてた子供だっただのって、話をしてくるんだよ。そんな話を聞いてたらさ、こうやって人生の最後に一緒に居られるってのも親孝行だなって思ってさ、そしたら痣くらいなんてことないよな、親孝行したい時には親はなしっていうからな」

 僕が父とそんな昔話をするのは、もっと、ずっと先のことだと思っていた。


 雨が降る日曜日、駅で姉と待ち合わせた。駅前の電光掲示板に湿度八十パーセントと表示されていて、湿度が百パーセントになる時というのはあるのだろうか、と考えていた。日常的に目にして、知っているつもりでいる指標のことも、実はあいまいにしか知らない。癌といえば誰だって知っている病気だが、実際に何が原因で、どんな治療法があるのかも知らないし、最初ステージ3と聞いても、もちろんぴんと来なかった。ネットで調べればすぐにわかることだけど、自分の身近に起きないことは調べることすらしない。誰かにとって人生を左右することも、自分に関係がなければ一生知ることもないんだな、なんてことを考えていたら、後ろから名前を呼ぶ声がした。

「まさとお兄ちゃん!」

姉の長男の智貴の声だった。来年小学校に上がる甥っ子は三十歳の僕をお兄ちゃんと呼んでくれるが、どのタイミングでおじさんと呼ばせるようにするかが悩ましい。

「ごめん待たせて。あんたとおじいちゃんのところに行くって言ったら、智貴が行くって聞かなくて、結局連れてきちゃった。ごめん」

 現在二人目の育休中の姉は、長女の世話を義兄に頼んできたらしい。義兄は子供好きで面倒見がよく、弟の立場としては、こういう人が夫で姉は助かるだろうなと思う。

母の電話の後、父に会うのは僕も姉も今日が初めてだ。きっと深刻な雰囲気になるお見舞いに幼稚園児を連れてくることが憚られたのだろうが、幼稚園児なんて何事もよくわかってないのだから問題ない。

「いや、別にいいよ。じゃあ雨降ってるしタクシー乗ろうか」

そう言って3人でタクシー乗り場へ歩き始めた。


 病院に着くと、母から聞いていたとおり五階へ向かい、ナースステーションで病室の位置を確認して父が居る四人部屋へ向かった。

 病室の手前に立っている人がいて、急に振り返って歩いてきたのでぶつかりそうになった。

「あ、すみません」

「いえいえ、こちらこそ」

父と同じくらいの齢だろうか、元気そうに歩いて行く人をみて、これから顔を合わせる自分の父の姿に少し不安がよぎった。

窓側のベッドに父は居た。ベッドの横の棚には、入院する時の持ち物一式、湯吞みや急須なんかが揃っている。なんだかすっかりここの住人という感じがして、少し心が痛んだ。

「おー、誰かと思えば連れだって。あれ、智くんも来たのか?」

嬉しそうな顔で父が僕たちを迎える。特に孫の顔を見てはすぐ自分の近くに寄せて、楽しそうに話をしている。智貴は手に持っている飛行機のおもちゃについて一生懸命説明していた。姉が勤務する航空会社のロゴが入ったものだ。それをうんうん頷きながらえびす顔で聞いている父の顔色は思ったよりもいいし、正直全然元気そうにも見える。聞けば治療はまだ始まったばかりで、薬の投与を始めているらしい。

「母さんに聞いてびっくりしただろ、実際俺よりも母さんの方がショック受けたんじゃないかってくらい、母さん無口になっちゃってな。子供たちには私からきちんと説明するから大丈夫、心配しないで、って言ってたけど正直心配だったよなー、あの調子じゃ」

と言って、軽くハハハと父が笑ったが、自分の病状の話になると、その眼は不安を隠しきれない様子で、誰を見るでもなく言葉だけが僕たちに向けられていた。


 四人部屋ということもあり寝ている人もいるため、あまり騒がしくしてもということで、また来るからと伝え十五分程で僕たちは病院を出た。見送る父は寂しげでもなく孫とハイタッチしていた。病院を出ると雨は止んでいて、駅まで歩けない距離でもなかったが、智貴がしきりに目をこすって眠そうにしていたため、タクシーで駅に向かうことにした。

「父さん、無理してたよね……」

膝枕でうとうとする息子の頭を撫でながら姉が言った。

「そう? 思ってたより元気そうというか、落ち込んでないみたいに見えたけど」

「落ち込んでないわけないじゃない。智貴も居たし、私たちにあからさまに落ち込んだ姿見せたくなかったからよ。父さん、会話しててもどことなく上の空っていうか、私たちと話してるのに他のこと考えてるみたいな感じだった。やっぱり癌って宣告されたらそうなるよね」

 駅に着くと二人とは改札で別れて、反対方向の電車に乗った。母も今日は一緒にお見舞いに来る予定だったが、少し風邪気味で咳が出るため「病室に風邪もちこんだら大変」と言って来なかった。姉と智貴はこの後実家へ行って母の様子を見ると言う。一緒に来るよう誘われたが、この後予定があると嘘をついた。正確には予定は夜で、まだ時間があったし、母のことが心配じゃないわけではないが、今日は顔を合わせたくなかった。

 一度帰宅して、シャワーを浴びた。なんだか病院に行ったことで体が汚れてしまったような気がして、このまま人に会うのは憚られたからだ。


 待ち合わせは午後七時、丸の内線からJRの改札までは歩いてすぐで、時間に余裕をみて行動する癖がある僕は、いつも早く着きすぎてしまう。新しいショッピングエリアが完成していたので、時間つぶしに見に行くと、観光客でにぎわっていた。東京駅の構内はスーツケースを持った日本人、外国人が行き交っていて、東京に住んでいる自分はむしろこの場から浮いた存在に感じられる。行列ができているスイーツの店を見て、そんなに並んでまで買っていってあげたい人がいるんだな、と感心していると、そういえば今日お見舞いに何も持っていかなかったことに気づいた。知人や親戚の見舞いとなれば、まず何かお見舞いの品を考えるところからスタートする気がするのに。実家に帰るような身軽さで行ってしまうあたり、やはり親というのは特別なものだ。そんなことを考えているうちに時間になりそうだったので、待ち合わせの場所へ戻った。

 改札の向こうに姿を確認して、胸の鼓動が早くなり、少しの緊張と、嬉しさが混じったような表情になったのを自分で感じた。改札を通る時には向こうもこちらの姿に気づいており、笑みを浮かべながらまっすぐにこちらへ近づいてくる。

「お疲れさま」

僕が声をかけると、彼はニコリと笑みを浮かべて

「うん、疲れた」

と言った。

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