第243話 悪夢と誘惑

意識が朦朧とする中で、夢を見ていた。


そこは真っ暗な雪山だった。


荒れ狂う猛吹雪の中、僕は裸足で雪の上を歩いていた。



寒い。


冷たい。


眠い。



どうしてこんな所にいるのか。

どうしてこんな無防備な状態なのか。

ここはいったいどこなのか。


そんなことを茫然と考えながら、ただただ前に向かって進んでいた。


手足の感覚が既に無い。


かと言って、ここでうずくまっては、二度と立ち上がることができない気がする。


そんな絶望だけを抱いて、ただひたすら前に進んでいた。



だが、それにもついに終わりが訪れる。


ふと何かに躓いて転んでしまった。


ガクガクと震えながら後ろを振り返る。


そこには、石の出っ張りがあった。

これに躓いたのだ。


起き上がろうと思うのだが、もう足が動かない。


力を入れるため、自分の右足がある方に目を向けると、真っ暗であるにも関わらず、周辺の雪に赤い点が付いているのを発見した。


その赤い跡を辿っていくと、石の横に小さな欠片が落ちてる。


どこかで見たことのある、小さな物体だった。


よく見ると、爪のような物がある。


そこで僕は気づいた。


自分の右足の一部が真っ赤に染まっていることを。

そこにあるべき物がないことを。


落ちていたのは、僕の右足の小指だったのだ。

凍りついて、もげてしまったのだ。


戦慄した。


指が無くなったという感覚すらない。

血液すらも凍りつき、ほとんど流れていない。


もしも治すなら、指は拾わなければダメだ。

すぐに手を伸ばそうとした。

ところが、猛吹雪のために僕の指はコロコロと転がっていった。


追いかけるために慌てて起き上がろうとする。


しかし、この時、僕の左側でベキッという音がした。


恐る恐る振り返る。


そこには、凍って地面に張り付き、僕の左手から離れてしまった薬指と小指があった。


僕は嫁さんに常々語っていた。「目と指さえあれば、僕はいつまでも仕事ができるんだよ」と。


そのエンジニアの命とも言える指が、もげてしまったのだ。


痛みさえ感じない左手を見ながら、僕は絶叫した。



「うあああぁぁぁぁっっっ!!!!!」



悪夢から目覚めたのは、この時だった。


「こ……ここは……?」


そこは、木造の小屋だった。

部屋が一つだけで、暖炉があるだけの小屋。


いわゆるゲームに出てくる”山小屋”のような、倉庫とほとんど大差ないような、そういう小屋だった。


小屋には窓も無い。ただ、外から聞こえてくるゴーゴーという音から、猛吹雪であることが推測できた。また、小屋の扉の隙間から、わずかに白い光が差し込んでいる。雲に覆われながらも太陽が昇りはじめていると考えられる。


思わず自分の手を確認する。

無事なことを知り、ホッとした。


だが、僕の状態はと言えば、部屋の隅に置かれた簡素なベッドの上に転がされ、両手と両脚をそれぞれ縄で縛られていた。『宝珠システム』のブレスレットも無い。靴と靴下が脱がされているので素足だったが、さらに驚くことに上半身が裸であった。


「こっ!こんな格好してるから、あんな夢見るんだろうがっ!!」


と、悔しさを叫ぶ。

気分を紛らすために寝返りを打った。


今までの僕は右側を向いていて、部屋を一望できていたのだが、背中の方に身体を向けたのだ。


そして、固まった。


そこには薄着の綺麗な女性が寝ていたのだ。


桜澤撫子だ。


「えっ!……なっ!?」


驚いて、のけ反った。

その勢いで、ベッドから落ちてしまった。


僕の気配と声と物音で目覚めた桜澤撫子は、眠そうに目を擦りながら、起き上がった。


「あ……白金くん、おはよう」


彼女は、魔王としての角を再び隠しており、嫁さんとの戦闘で負傷した左腕も驚異的な回復力でほとんど完治しているようだ。


ここで僕は、ようやく自分が誘拐されてきたことを思い出した。恐怖と警戒心と、そしてそれに反する怒りの感情が僕の中で同時に湧き上がった。呑気に笑顔を向けてくる彼女を、僕はキッと睨みつける。


「桜澤……撫子!」


すると、彼女はなぜか声を弾ませた。


「やだっ!あの白金くんから、フルネームで呼び捨てにされちゃった!なんか、そういうギャップって、ちょっとキュンと来ちゃうよね。あと、なにげに中二病くさい」


「中二は関係ないだろうが!」


つい僕も普通にツッコんでしまった。


また、実のところ、敵意を感じない彼女の口調に、僕は内心でホッとしていた。相手は正真正銘の魔王。嫁さんから離されてしまった以上、危害を加えられたら、レベル16の僕など、ひとたまりもないのだ。


僕は心を落ち着けて、用心しつつ彼女に質問した。


「……こ、ここはどこなんだ?」


「どこかの山奥よ」


「あれから……どれくらい経った?」


「まだあの夜のままよ。あ、ちょうど日が昇ってきたとこか」


「僕を……どうする気だ?」


「それはね……」


「……それは…………?」


一呼吸ためて桜澤撫子はその目的を語る。

しかし、それは明るいトーンの拍子抜けな答えだった。


「実はあまり考えてないんだ!勢いで連れて来ちゃったから!」


「…………は?」


心から唖然とした。


生まれて初めて誘拐され、その犯人が元同級生で、しかも昔の片想いの相手だった女子――という異常な事態に、何かコントのような冗談めいたものさえ感じはじめた。


そう考えると、ますます腹が立ってきた。


「ふざけるなよ!!!だったら僕を帰せ!今頃、百合ちゃんが心配して必死になって捜しているはずだ!もしかしたら……いや、十中八九、泣き叫んで喚きながら僕を追っているはずなんだ!」


しかし、桜澤撫子は余裕の笑顔で平然と言い放つ。


「それはダメよ。白金くんを百合華ちゃんに会わせるわけにはいかない」


「桜澤!いや、魔王ディモルフォセカ!僕は君を絶対に許さないぞ!」


「あ、そういえば、ちゃんと魔王としての自己紹介をしてなかったわね」


僕の要求を完全にスルーし、彼女はベッドからゆっくりと立ち上がった。


「私は、正体不明、神出鬼没、捕捉不能の『幻影の魔王』。その名もディモルフォセカよ」


髪をサラッと手で払い、静かな動作で首だけをクイッとこちらに向けながら彼女は名乗った。その仕草には、まるでクールなキャラが演じるようなキザっぽさがあった。


呆気に取られた僕は罵るようにツッコむ。


「こっちの魔王って、みんなそんな感じなのか!」


「え……いや、これは桃ちゃんが考えてくれたフレーズで……」


「桃園萌香のことか!」


「そうよ。あと、『飢餓の魔王』の山吹月見は、ツッキー」


「仲いいんだな!君たちは!」


「うん。ちなみにツッキーは、桃ちゃんのこと、モモモンって呼んでる。桃園萌香だからモモモン」


「そんな情報要らんわ!ていうか、こっちに来てから知った魔王は4人とも女性だ!魔王ってみんな女なのか!」


「ああ、それはただの偶然。むしろ女子同士だったお陰で、意気投合して同盟を結ぶことができたって感じかな。『吹雪の魔王』スノーフレークは男子だし」


「そ、そうなのか……」


「そうそう。そうなのよ」


なんだかツッコむのも疲れてしまった。この桜澤撫子という女は、ウチの娘に害をなした敵のはずだが、僕に対してはとても明るく接してくる。


それに『幻影の魔王』ディモルフォセカは、帝国の圧政に苦しむ人たちを助けて回る善良な行動も起こしているのだ。


そう考え、少し冷静になってみると、彼女があまりにも大胆な姿をしていることに今さらドキッとした。


彼女は、下着の上に丈の長いシャツを着ているだけであり、あえて谷間を見せるように胸元を開け、脚の付け根が見えるか見えないかというギリギリのラインで太ももが露わになっていた。また、薄い生地のシャツには、ブラのトップが透けて見えているのだ。


「ていうか!なんでそんな薄着なんだよ!」


この質問に桜澤撫子は照れくさそうにハニかみながら答えた。


「え、だってそれはほら……白金くんを温めてあげたんだよ」


「…………は?」


「温めてあげたんだよ」


「二度、言わなくていいわ!」


「あ、ちなみに暖めたってのは、部屋のことね。暖炉に火をつけたから、中は暖かいでしょ?」


「え……あぁ……そ、そうか…………」


一瞬、ドギマギしてしまった自分がバカらしい。確かにこの小屋は暖炉で薪が燃やされているため、薄着でも問題ないくらい暖かい。


僕が拍子抜けした顔で部屋の様子を見回していると、桜澤撫子はニヤニヤしながら顔を近づけてきた。


「あれぇ?もしかしてぇ……なんか違うこと想像した?」


「べ、別に!」


「私が襲ったとか思っちゃったぁ?白金くんってそんなに自意識過剰さんなんだぁーー」


「う、うるさい!」


「今からでも、する?」


「え……」


「白金くんってさ、高校時代、私のこと好きだったでしょ?」


「なっ……!」


僕は目を大きく見開き、次いで、眼前に迫った彼女の瞳を睨み返した。その言葉は反則と言ってよい。というより、今さらそれを言われたとしても、かえって火に油を注ぐだけだ。僕は逆ギレするように叫んだ。


「ああ、そうだったよ!君のことが好きだったよ!だからこそ、頭に来るんだ!最高に幻滅した!自分の娘の首を絞められて、憎まないはずないだろうが!!!」


これを桜澤撫子は大袈裟に喜んで見せた。


「きゃーーっ!うん十年越しに告白されちゃったっ!」


「違うわ!本題はそこじゃないわ!」


「もう、今さら照れなくてもいいわよ」


「一周回って大嫌いだって言ってんだ!」


「じゃあ百合華ちゃんは?」


「大好きだよ!!!」


「ふーーーーん……」


急に不満そうな顔になった彼女は、僕から離れ、再び立ち上がった。そして、今度はベッドの近くから短剣を取り出した。


「私が白金くんに……何もしないと思った?」


「えっ…………!」


その言葉には重い響きがあり、僕の背中に悪寒が走った。


ちょっと相手をナメてたかもしれない。男を誘拐して山小屋に連れて来るようなメンヘラ女を前にして、僕は調子に乗っていたかもしれない。


「ここは雪に覆われた山奥に放置された小屋……どんなに泣いても叫んでも、誰も来ないのよ?」


死んだような目で接近してくる桜澤撫子に僕は情けなくも怖気づいてしまった。だが、仕方あるまい。こちらは普通の人間なのだ。どんなに傷ついても立ち上がる、物語の勇者ではないのだ。ナイフを持った狂気の女に近づかれたら、怯むしかないではないか。


「いや、えっと……ごめん。言い過ぎた……かも」


僕は青ざめた顔で、なんとか桜澤撫子の気持ちを和らげようと試みる。ところが、彼女は顔色一つ変えずに僕の首筋に短剣を突き付けてきた。


「白金くんはぁ……痛いのと気持ちいいの、どっちが好みかなぁ?」


「できれば何もしてくれない方が……」


「どっちが好みか……なぁ?」


「どっちか……ていうと、気持ちいい方かなぁ……」


ごめん。嫁さんよ。僕は脅迫されたら屈してしまう人間なのかもしれない。こういう時、物語の主人公みたいにカッコいいセリフを叫んで、最後まで抵抗し続けるような、勇敢な男ではないのかもしれない。


震える僕に顔を近づけながら、桜澤撫子が歪んだ笑みを浮かべた。


僕は恐怖のあまり失神寸前だ。


その瞬間、彼女は持っていた短剣を鋭く下方に突き刺した。


ドシュッ!


「ひっ!」


思わず情けない声を出してしまった。


しかし、彼女の短剣は床に軽く突き立てられただけであり、それを振り下ろす動作で、僕の両手と両脚を縛っていた縄が切られていた。


拘束から解放された僕は呆然とした。

桜澤撫子はニコッとした後、立ち上がって言った。


「ほら、これで自由に動けるわよ」


「……………………え」


「白金くんに恨まれるのは、私の目的じゃないから。……それに、どうせするなら、あなたから、してきてほしいな」


「何を……言っている?」


怪訝に思いながら僕も立ち上がる。逆に桜澤撫子はベッドに座った。そして、上目遣いで僕に微笑んだ。


「さっきは白金くんをここに連れて来て、何も考えてないって言ったけど、実は大まかな方針は決まってるんだ。それは、白金くんと百合華ちゃんの仲を引き裂くこと」


「はぁ!?」


「だから、そのために、私を抱いていいよ」


「……今さら何を言ってんだ。君は僕のことを好きなのか?」


「さぁ……どうかなぁ?優しく力いっぱい抱いてくれたら、好きになっちゃうかもね?」


「意味がわからない。そんなことをして、君に何の得がある?」


「大いにあるのよ。私の目的のためには、二人に一緒にいられると困るの」


「…………は?」


本当に意味不明だ。僕のことを好きでもないのに、僕たち夫婦を別れさせようとしているのか。いったい何のためだ。


そう考えながら僕が硬直していると、待ちきれなくなったのか、彼女は立ち上がり、僕の胸を触ってきた。


「私ね、自慢じゃないけど、自分から告白したことないんだ」


「はぁ……」


「それにね、あまり相手の顔とかにも執着しないの。友達からは、いつも不思議がられてた。なんでアンタがあんな人と付き合ってるの?って。でも、しょうがないじゃない。男子から好きって言われると、それだけで有頂天になっちゃう性格なんだもん。だから私って、フリーの時に告白を断ったことがないのよ。告られるとコロッといっちゃう軽い女なのよ」


「だから何だよ。高校時代の僕が知ったら悔しがるだろうな。でも、今はどうでもいい」


「自分から相手に迫ったこともないの。だから、もし白金くんと付き合う場合も、白金くんから来てくれなきゃ、プライドが許さないのよね」


「……君はバカか?憎んでる相手に欲情する男が本当にいると思ってるのか?そんなのはエロゲーか同人にしかいないんだよ」


彼女の奇妙な恋愛遍歴を聞かされ、僕は複雑な想いを抱きながら拒絶し、悪態をついた。


まったく。そんな話、同窓会などで酔っ払いながらであれば、笑って聞ける内容だが、男女の営みを迫られながら語られても嫌悪感しか抱かないではないか。この女、意外とこういうところはバカなのか?


ところが、そんなことを考えて呆れている僕に、桜澤撫子は不敵な笑みを浮かべた。


「ふふふ……でも、どうかな?私の固有魔法、【認識幻影コグニティブ・イリュージョン】を使えば、私を自由に認識させられるんだよ?魔王を勇者と錯覚させたり、昨日とは別人だと錯覚させたり」


「は?何を言って……」


言い返そうと思った瞬間、僕の脳内で、何かが起こった。彼女に対する僕の認識が狂いはじめ、それと連動して感情までもが変化を起こす。


桜澤撫子は楽しそうに手を叩いた。


「はいっ!てことで今、白金くんの私に対する認識を、自分の奥さんだと錯覚させました!どうかな?これで私は、あなたのかわいいお嫁さんなんだよ?」


「ちょっ……なんだコレ……ウソだろ…………」


僕は狼狽した。


なんと恐ろしいことを思いつき、実行するのだ、この女は!


目の前にいる彼女への認識が、僕の中で瞬時に切り替わってしまった。僕の心には妻の百合華がハッキリと存在するのに、それと同じような気持ちが桜澤撫子に対しても湧き上がってしまうのだ。


「ふ……ふざけんなっ!……あ……頭が変だ……僕には百合ちゃんがいるのに……なんで……君なんかを……こんなにも…………」


苦悶の表情を浮かべる僕を見ながら、桜澤撫子は嬉しそうに胸元のボタンを外しはじめた。彼女の白い素肌が、少しずつ少しずつ露わになっていく。それが目に入るたび、僕の視線は釘付けになってしまう。


「どう?どう?明け方に山小屋で、愛するお嫁さんと二人きり。こんなシチュエーションで、燃えないはずないわよね?寒い雪山で、お互いのカラダを温め合うのは当然よね?」


「やめろ!近づくな!服を着ろ!」


「ほらほら。勇者には”男女の交わり”を禁じるルールがあるんでしょ?だから、ずっと百合華ちゃんとは”おあずけ”だったんでしょ?でもね、私は魔王だから関係ないんだよ。白金くんだって、もともと弱いから関係ないよね。もう、何も我慢する必要はないんだよ」


「い……いいのか?魔王はチカラを失わないのか?」


「そうだよ。だからほら、来て」


そう言って、彼女は優しく微笑み、僕に向けて両手を前に差し出した。これに僕の心は踊ってしまった。ずっと夢に見ていた、若い肉体の嫁さんと思う存分イチャイチャする行為。その情欲と願望をついに叶えられるのだ。


「う……うぅぅぅぅーーーーっ!!!」


ヤバいヤバいヤバい!


これはヤバい!本当にヤバい!!


必死に今、本物の嫁さんの顔を――白金百合華の顔を思い出し、感情を抑えようとするのだが、桜澤撫子の顔を見ると、それが上書きされてしまう。そのうち、僕の中で彼女が本当の嫁であるように感じてきた。


「高校生の頃、好きでいてくれたんでしょ?その気持ちは本物。錯覚じゃないんだよ?そして今はお嫁さんなんだよ?何をしてくれてもいいんだよ?」


桜澤撫子のその言葉で、何かが吹っ切れてしまった。


そうだ。この子は僕の嫁だ。


今まで苦楽を共にし、全てを分かち合って来た。


時に喧嘩をしながらも、仲睦まじく、この子のことを想って暮らし、生活設計し、辛い仕事にも耐えてきたのだ。


僕にはこの子が必要で、この子も僕を必要としてくれている。


その綺麗な瞳も、かわいい唇も、大き過ぎない胸も、細い腰も、柔らかそうなお尻も、スラッとした太ももも、そして、その間に眠る秘密の花園も、全ては僕のモノなのだ。僕だけのモノなのだ。


「な……撫子っ!」


「はい。なぁーーにぃ?あ・な・た?」


つい興奮気味に彼女の名を呼んだ。

すると、彼女が嬉しそうに反応する。


その瞬間、僕は全ての感情を彼女にぶつけるため、勢いよく飛びかかった。


「うっ……うあぁぁっっっ!!!」


「きゃあぁーーっ!!!来たぁ!!!」


……


…………


………………



こんな時、もしも本物の嫁さんが近くにいてくれれば、間違いなく飛ぶように接近してきて、『ラブコメ殺し』を発動したことだろう。だが、今も僕を必死に捜索している彼女は、残念ながらこの現場に間に合うことはない。



ドン!!!



僕は、桜澤撫子を壁際に追い詰めていた。

男らしく彼女のことを――



――そう。

彼女のことを、胸ぐらを掴んで罵っていた。


「てめぇっ!!!マジでふざけんなよ!!!どこの世界に娘の首を絞める母親がいるんだ!!!あぁっ!?」


「え…………ウソ!……あれぇ!?」


あまりにも予想外だったようで、桜澤撫子も目を丸くして唖然としている。そんな彼女の顔を見ていると、罪の意識が全くないように感じられ、ますます怒りがこみ上げてきた。


僕は涙目で絶叫するように罵詈雑言を浴びせた。


「すっとぼけてんじゃねぇぞ!おい!自分が何をしたか、わかってんのか!!こんなバカな女だとは思わなかったわ!!!ありえねぇ!マジでありえねぇ!お前なんかとこれ以上、一緒に暮らせるか!離婚だ!!!出ていけ!!!牡丹は僕一人で育てる!!」


そうなのだ。共に信頼し合っていたはずの”嫁”と認識した途端、僕はますます彼女のことが憎らしくなってしまったのだ。裏切られたと思ったのだ。


他人なら許せても、家族だからこそ許せない。

そういう感情が人間にはある。


まさか、それがここで爆発するとは自分でも思わなかった。そして、この感情が、これほど苦しいものだとは知りもしなかった。


眼を血走らせる僕を見ながら、僕の嫁は……じゃない、桜澤撫子は、身を震わせて涙声になった。


「待って……待って待って……私、それ言われるの、これで人生二度目なんですけど!本当に涙出てきちゃうんですけど!やめてっ!!」


「その前に言うことがあるだろうがっ!!!」


「ごめんなさい!!本当にごめんなさい!!!反省してます!!だから、やめて!!!お願いだからっ!魔法解除するから、やめてぇーー!!!」


僕も泣いているのだが、彼女も泣いていた。

嘆き悲しみながら、桜澤撫子は僕に掛けた魔法効果を解除した。


すると、僕の認識と感情は、元どおりになった。胸の中に滾っていた熱が一気に冷め、次に自分の言動に対する羞恥心が湧き上がる。


「ぐおぉぉっ!!!なんじゃこりゃ!恥ずかしい!!!」


嫁ではない相手を本気で嫁だと思い込み、自分の内なる感情を曝け出してしまったのだ。このギャップは精神的にかなり辛い。自分自身が痛々しいように感じられて、穴があったら入りたい気分になった。


しかし、それ以上に桜澤撫子の方が精神的にダメージを負っていた。彼女は、今までの理知的な印象が嘘のように、子どもみたいに泣きじゃくっていた。


「あぁーーん!白金くんからDV受けたぁ!!!もうやだぁ!!!」


「DVじゃなっ……あ、いや、今のはDVか……なんだよコレ。僕にあんな感情があるなんて……ちくしょう!」


「やぁーーん。過去の傷、ほじくり返されたぁ!泣けてきちゃったよぉ!うあぁーーん!」


「泣きたいのは、こっちだわ!!!自分の嫁に本気で裏切られた幻想を見たわ!嫁の胸ぐら掴むとか、自分にそんな一面があるとは思ってもいなかったわ!こんな自分、発見したくなかったわ!」


僕も必死になって言い返した。


本当に嘆かわしい。

嫁を相手にあのような失態を晒してしまうとは。


だが、見方を変えれば、ここで自分の負の一面を知ることができたのは幸いだったとも言える。


本物の嫁さんを相手に、もしも似たような状況が発生した場合、逆上する前に、もう一度冷静に話し合おうと努力する心構えになる。そう思った。


まぁ、あの子が僕を裏切るようなことをするとは考えられないが。


それにしても、シャツのボタンを全て外し、下着姿同然になっている女性を壁に追い詰め、その彼女は座り込んでボロボロ泣いているのだ。僕はいったい何をやっているのだろうか。


僕がベッドに座って頭を抱えていると、やがて泣き疲れた桜澤撫子も黙り込んだ。


「「………………」」


しばらく互いに沈黙した。そうして、しばらく経った後、気が抜けた僕は、深くため息をつきながら立ち上がり、彼女に別れを告げた。


「……もういい。僕は帰る!……ったく!なんなんだよ!夫婦ごっこをしたいなら、ちゃんとしたヤツ捕まえて結婚すればいいだろうが!そんなにかわいいんだから!」


これに彼女は明るい声に戻り、反応した。


「あ、かわいいって言ってくれた。なにげに初めてよね」


「立ち直ってんじゃないよ!それより僕の服はどうした」


「そこに干してあるでしょ。吹雪で濡れちゃったから」


「……これだけは感謝しとくよ。あと、僕のブレスレットは?」


「白金くんの『宝珠システム』はシャットダウンさせておいたよ。通信で場所を特定されちゃ、たまらないからね」


「どこにある?」


「外の大木に掛けてあるわ」


「えぇーー」


「相手の武器を部屋に放置しないわよ。アレがなければ白金くん何もできないでしょ」


「そのとおりだよ。とにかく帰る。じゃあな」


「え、待ってよ。外は吹雪だよ?」


「宝珠システムがあれば、なんとでもなる。君と一緒にいるのはもうゴメンだ」


服を着た僕は、それだけ言い残して、小屋の入口の扉を開けた。外は日が昇りきっているようだが、暗雲のせいで全く見えず、大して明るくない。


そして、想像以上の猛吹雪だった。


宝珠システムのブレスレットを掛けたという大木とは10メートル程、離れており、とてもそこまで自力で行けそうにない。


さすがにこれではお手上げだ。

悔しいが諦めて、扉を閉めようと思った。


ところが、この時、僕の背筋は凍りついた。

外の寒さのためではない。


(えっ!?)


一瞬、呼吸が止まった。

扉のすぐ横に、漆黒のローブを着た男が立っていたのだ。

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