第241話 幻影の魔王ディモルフォセカ

「がっ……あがっ!」


首を絞められた牡丹は、必死の抵抗で、桜澤撫子に超重力を掛ける。しかし、敵は逆にそれを利用して、牡丹に全体重を乗せた。


「おバカさんね。それじゃ、文字どおり自分の首を絞めることになるわよ」


たまらず牡丹は逆方向の重力を桜澤撫子に与えた。彼女を吹き飛ばす算段だ。しかし、それを見越している殺戮者は、さらに両手に力を加えた。


「無駄よ!今さらどんな方向に重力を強めようと、掴んだこの手は離さない!一度、捕まえることができれば、レベルで上回っている私が勝つのは確定なのよ!」


そう語る桜澤撫子であるが、牡丹の執念深さも負けてはいない。次は重力操作を周辺の物体に切り替えた。部屋の中にある様々な置物が無重力で浮かび上がる。それらを桜澤撫子に向かって加速させた。


ところが、それも予測済みの桜澤撫子は、牡丹の首を絞めたまま持ち上げ、彼女を盾にした。全ての物体が幼女の背中に衝突し、打ち落とされる。


「かっ……あっ……!」


「ごめんね。でも、ぶつけてきたのは、あなただから……」


そうして再びベッドの上に叩きつけるように寝かせ、両手をさらに絞め付ける。いかに魔王とて、本気の彼女を前にしては反撃もできない。このままでは、喉を潰されるか、首の骨を折られるか、あるいは窒息によって死んでしまうだろう。


「はがっ……!」


「牡丹ちゃん、あなたさえ……あなたさえいなければ……!」


苦しむ牡丹とあえて目が合わないようにしながら、桜澤撫子は自身の苦悶の胸中を吐露した。すると、呼吸困難であるにも関わらず、ここで最期の抵抗として、牡丹が声を振り絞った。


「……あっ……でっ……じっごっ……!」


それは聞き取ることすら難しい、かすかな吐息であったが、自身の名を呼ばれた気がした桜澤撫子は、一瞬ハッとして手を緩めた。しかし、動揺する心を自ら叱咤し、再びその手に渾身の力を込める。


「や……やらなきゃ!……あんなに覚悟を決めて、ここに来たんだから!……子どもに手をかけるなんて最低だけど……私はやらなきゃいけないの!牡丹ちゃん、恨みはないけど、ここで死んで!」


情け容赦ない握力によって牡丹の喉が完全に潰される。


そう思われた刹那――



バッリィィィンッ!!!



勢いよく窓ガラスが割られ、同時にテラスから部屋に飛び込んできたのは、白金百合華――そう、ウチの嫁さんだ。


「何やってんのぉーーー!!!!!」


阿修羅のごとく怒り心頭の嫁さんは、そのままの体勢で桜澤撫子に殴りかかる。それは、いかなる勇者であろうと、魔王であろうと、回避不能な超絶速度の一撃だ。


ドッゴォッ!!!


という激しい音と共に桜澤撫子が殴られ、壁に向かって吹っ飛んだ。



――と、嫁さんが感じた時だった。


「こっわ!何、今の!これが百合華ちゃんの本気の速度なの!?」


「えっ!!!」


驚愕したのは嫁さんであった。彼女の本気の瞬殺拳が、あっけなく躱されてしまったのだ。手加減など一切なく、確実に仕留めようとした一撃がだ。それは、この世界に来て以来、初めてのことだった。


「…………っ!!!」


愕然とした嫁さんは、桜澤撫子の声がする方向を振り返った。既に彼女は牡丹から離れている。怒りの収まらない嫁さんであるが、まず第一に娘の容態を心配し、先にそちらに向かった。


「牡丹!!!大丈夫!?」


「ごほっ……ごほごほっ…………けほっ……」


「良かった……さすがは牡丹……よく頑張ったわね。蓮くんにすぐ診てもらおうね」


牡丹は俯いて激しく咳き込んでいるが、命に別状は無さそうである。だが、喉を圧迫されたため、内出血を起こしており、しばらく声を出すことは不可能であり、呼吸も苦しそうだ。


わずかにホッとした嫁さんは、なおさら娘のことで憤怒し、桜澤撫子をキッと睨みつける。


「よくも……よくも牡丹を!!!」


ところが、この時、激しい物音に気づいた城の兵士たちが、扉を無理矢理こじ開けて入ってきた。


「何事ですか!?」


それに気を取られた一瞬の隙をつき、桜澤撫子は窓から部屋を脱出した。牡丹を抱きかかえた嫁さんは、兵士たちに向かって叫んだ。


「今、魔王に襲われたの!私たち、追いかけるから!」


そう言って、自身も窓から飛び出した。




この時点で、【身に纏う追い風ドレッシング・ウィンド】で加速しながら嫁さんを追いかけてきた僕は、ようやく宮殿前の中央広場に到着した。


すると、僕の目の前に彼女が降り立った。


桜澤撫子。


……そう。今さら心の中でまで、彼女に”さん”付けをする必要もないだろう。僕たちを欺いていた以上、彼女は敵である可能性が高いのだ。


「あ、白金くん」


それでもなお、こちらに笑顔を向けてくる彼女に僕は嫌悪感を覚えながら、その名を呼んだ。


「桜澤……さん……いや、『幻影の魔王』ディモルフォセカ……」


その呼称を聞いて、桜澤撫子は残念そうに尋ね返してきた。


「あちゃぁーー、ついにバレちゃったかぁ……どうやって気づいたの?」


「いろいろだよ!特に大きかったのはベイローレルに近づいた目的だ!アレは君の能力が通用するかの実験だったんだろ!」


「あ、そこか。面白いところで気づいたわね。他にもヒントはあったのに」


「それにさっきラクティから聞いた!桃園萌香が夜食で白いご飯を食べてたってな!だとしたら、彼女の言う”会長”ってのは君しかいないだろうが!」


「くぅーー、やっぱり情報戦じゃ敵わないなぁ……。あの子が白金くんに会ったって手紙に書かれてたから、バレるのは時間の問題だと思ってたけど」


「なにが『幻影の魔王』を倒すための勇者だ!自分自身が『幻影の魔王』なんじゃないか!」


「他の魔王に迷惑かけたくなかったからね」


「いったい何が目的だ!どうして話してくれなかった!」


桜澤撫子がそれに返答する前に、ウチの嫁さんが牡丹を抱きかかえながら、降り立った。ちょうど中央広場において、僕と嫁さんとで桜澤撫子を挟み撃ちにした状況だ。


「蓮くん!その人!牡丹の首を絞めたんだよ!!!」


現れると同時に嫁さんは絶叫するように報告した。

それを聞いた瞬間、沸騰するように僕の頭に血が上った。


「なにやってんだ、君は!!!!!」


腹の底から吼えるように叫んだ。僕から怒鳴られた桜澤撫子は、ほんの一瞬、顔をピクリとさせたが、次に口元をわずかに緩めた後、何の悪びれも見せずに真顔で答えた。


「何も言い訳はしないわ。ただ、牡丹ちゃんが邪魔だっただけ」


その冷たい言い方は、僕の心にさらに火をつけた。


「ふざけんじゃないぞ!!!」


怒りに任せて『宝珠システム』を起動する。僕は今、かつての片想いの相手に対して、本気の攻撃をしようと思っていた。


ところが、そんな僕の前に嫁さんが瞬時に移動してきた。


「蓮くん、待って。先に牡丹のことをお願い。喉をやられてるの」


ハッとした僕は嫁さんから娘を受け取った。牡丹はグッタリしていて、息も絶え絶えだ。魔王としての強靭な肉体と回復力に守られたため、簡単な治癒魔法で治せそうなのだが、なんと彼女は僕の腕の中で震えていた。


魔族に囲まれた生活でも、多くの仲間が犠牲になった戦争でも、そして宿敵の勇者と対峙しても、決して怯むことのなかった幼女魔王が、この世界で初めて絶望するほどの恐怖を感じているのだ。


僕は愛娘に治癒魔法を掛けながら、その小さな体をギュッと抱きしめた。


「牡丹……もう大丈夫だ。パパとママがいるからな。すぐに治療してあげるからな」


そうして、ますます桜澤撫子を許せなくなった。

僕たちの前に立つ嫁さんは、ゆっくりと桜澤撫子に向き直った。


「ブチギレたいのは、私の方なのよ……娘の首を絞められて、黙っていられる女がいると思うの……?」


その声には、今まで聞いたこともないような恐ろしい響きがあった。ただの怒りではない。憎しみが込められているのだ。


「撫子ちゃん……もしも何か……深い深い理由があるのなら、一応は聞いてあげるわ……正直、それでも許せないけど……」


嫁さんは最後のギリギリの譲歩として、震える声で再び理由を問いただす。しかし、桜澤撫子は表情も変えずに淡々と述べた。


「今、言ったとおりよ。その子が邪魔だったの」


この瞬間、嫁さんの髪が逆立った。


「完っ……全っ……に頭に来たわ!!女の子にするのは初めてだけど!ここでボコボコにしてやる!!!」


彼女がここまで言うことは滅多にない。彼女をこれほど怒らせた人物も今までいない。そして、こうなった彼女を前にして、無事でいられる敵は、この世界に存在しない。


既に勝負あった。

嫁さんが本気を出した時点で僕の出る幕はない。

何もかもを彼女に任せ、僕は一人、安堵した。


しかし、次の刹那、僕の目に映ったのは、信じられない光景だった。


瞬く間に移動して攻撃した嫁さんが、空振りしていたのだ。


そして、彼女の数メートル横に桜澤撫子が平然と立っていた。


「無駄よ。百合華ちゃん、あなたの攻撃は私には当たらない。なぜなら、あなたは私の位置を正しく認識できていないから」


「…………なっ!!」


回避されたのが二度目であるため、嫁さんはそれが偶然ではないことを悟り、狼狽した。桜澤撫子は余裕の顔でゆっくり歩きながら、説明を始めた。


「さっき、おかしいと思わなかった?私が牡丹ちゃんの首を絞めていたことは認識できたのに、あなたは全く違う位置を殴りに行った。それは、私の立ち位置だけをズレて認識したからなのよ」


彼女の言葉を聞いているうちに不思議なことが起こった。ただ歩いているはずの彼女が、あっちこっちに瞬間移動しているように感じるのだ。


声の聞こえる方向もチグハグであり、まるでその場には実在しない何かと話しているような奇妙な感覚に陥った。


「この際だから、ちゃんと教えてあげるわね。『幻影の魔王』である私の固有魔法は、【認識幻影コグニティブ・イリュージョン】。私に対する認識そのものを錯覚させる魔法なの。発動条件はシンプルに一つだけ。この私の存在を相手の脳が認識すること。その瞬間、私に関する認識をほんのわずかにズラすことが可能になる。そういう魔法なのよ」


「は……?なに?全然、意味わかんないんだけど!」


嫁さんは彼女の解説に、ただ苛立ちながら文句を言うだけだ。


しかし、僕は戦慄した。


認識そのものをズラされるということは、視覚や聴覚を騙されるのとは違って、気配を感じ取っても、それすら錯覚させられることになる。嫁さんをはじめ、戦いに慣れた人間さえも余裕で欺くことが可能なのだ。


「百合ちゃん!君が今、感じている桜澤さんの気配すら、位置がズレてるってことだよ!」


「え……?」


僕の補足で、ようやく事の重大さを理解した嫁さんは目を丸くした。


「どういうこと?私は相手がどんな魔法を使っていても、それを見破ることができるのに……」


彼女の疑問に桜澤撫子が微妙な笑みを浮かべて回答する。


「そこは本当にラッキーだったわ。私自身が魔法で化けてるとかなら、百合華ちゃんは見抜けたのかもしれないけど、無意識に自分が掛かった魔法は、見破れなかったみたいね。自分が認識しているモノは、絶対的に正しいと信じるのが人間のサガなの。特に百合華ちゃんみたいに自分の感性を信じて直情的に動くタイプには、効果覿面なんだ」


そうなのだ。桜澤撫子のトリッキーな能力は、嫁さんのような脳筋プレイヤーには無類の強さを発揮する。だからこそ、あの完全無欠の嫁さんまでもが出し抜かれてしまったのだ。


よもや考えもしなかった。もしかすると桜澤撫子とは、この世界における唯一無二の、嫁さんの天敵なのかもしれない。


彼女が脅威の存在であることを次第に把握しはじめた嫁さんは、恐る恐る尋ねた。


「じゃ、じゃあ……私が撫子ちゃんを勇者だと思ってたのも……」


「そうよ。私に関する認識を勇者だと錯覚させたの。本当は私の気配って、すっごく邪悪で、魔王そのものなんだよ」


「そんな……」


「ついでに言うと、狼のルプスくん、彼の能力も厄介だったから、私が前日とは違う人間であるように錯覚させといたわ。だから、私の過去を探っても別人のニオイだと認識した」


それを聞いて僕も合点がいった。王国では、通り魔事件の発生現場に近づいた知り合いがいないか、僕はルプスに調べさせている。そこで桜澤撫子に辿り着くことができなかったのも、彼女の能力ゆえだったのだ。


「ただ、例外が一人だけいて、それが王国のなんちゃって勇者、ベイローレルくん。彼のことは、初めは甘く見てたんだけど、『絶魔斬』ていうスキルを聞いて驚いたわ。意識していようと、していまいと、問答無用であらゆる魔法を打ち消しちゃうんだもん。アレには参ったわよ」


王国の勇者のことを思い浮かべ、苦笑いする桜澤撫子であるが、それもすぐに明るい微笑に変わった。


「でも、彼よりずっと強い百合華ちゃんを騙すことはできた。正直言って、どうしてこんな使い勝手の悪い、不便な能力なんだろうって最初は嘆いたんだけど、百合華ちゃんに出会って、初めてこの能力で良かったと感謝したわ」


そうして話しながら、彼女は大胆不敵にも嫁さんの眼前に近づいて来た。その顔は絶対的な自信に満ち溢れている。


「で、どうかな、百合華ちゃん?今は勇者っていう錯覚を解除したから、私の魔王としての気配を感じるでしょ?」


「そんなもの感じなくたって、牡丹の首を絞めた時点で、あなたは魔王そのものよ!撫子ちゃん!」


叫びながら、相手の顔を目がけて拳を振るう嫁さん。

しかし、それもやはり空を切った。

目の前に立たれたことが錯覚だったのだ。


「無駄って言ったでしょ。百合華ちゃんには、私の正しい位置を認識できないんだから」


「ウザい能力ね!だったら、解除すればいい!私は『半沢直樹ばいがえし』を応用すれば、魔法そのものを破壊できるのよ!」


そう言って、自身の脳内に掛かっている魔法に意識を集中させ、嫁さんは錯覚魔法を破壊する。直ちに桜澤撫子の正確な位置を把握した嫁さんは、すかさず攻撃に移った。


シュンッ!


だが、今度もハズれてしまった。


「え、あれ……」


「怖い怖ぁーーい。でもやっぱり無駄だったわね。いくら自分に掛かってる魔法を破壊しても、次に私を認識した時点で、また改めて掛かりなおしちゃうんだから。私を倒したいのなら、私を認識する前に倒さないとだね。…………ふふふ。何この変な言葉遊び。矛盾しまくりじゃない。認識しない相手を倒すなんて」


桜澤撫子は言いながら独りで笑っている。


この認識をズラす魔法の恐ろしいところは、記憶ごと錯覚してしまうため、”ずっと前からそこにいる”と誤認してしまうことだ。ゆえに桜澤撫子は全く移動する必要もなく、魔法を掛けた瞬間に自分の位置を他の場所だと錯覚させることができる。


これでは、嫁さんは永遠に本物の桜澤撫子を捉えられないではないか。


しかし、それでもやはりウチの嫁さんだ。

彼女は憤慨しながら次の行動に打って出た。


「無駄無駄無駄無駄、言ってんじゃないわよ!」


「そんなに言ったかな……」


「だったら私はオラオラで行くわ!!」


「え?」


ドッウゥゥンッ!!!


なんと嫁さんは、自身の内側に眠る力を10分の1ほど解放した。


それはレベル100相当の存在感だ。そこから放出される圧倒的で破壊的な気配が、周辺に波動を起こし、物理的に震撼させる。


まるで衝撃波だった。


近くにいた桜澤撫子はそれに煽られて尻餅をついてしまった。


距離を置いて見ていた僕と牡丹までもが吹き飛ぶほどの威力である。さすがに夫として叫ばずにはいられなかった。


「バッ、バカ百合ちゃん!」


「蓮くん!そこから離れて!!!」


言われずとも。

という思いで、僕は牡丹を抱きかかえて後方に走った。


その間にも嫁さんは空中にジャンプし、アクロバティックに旋回した。


帝都の中央広場は、多くの馬車が通れるロータリーになっており、その中心には広い花壇が設置されている。その真上から、嫁さんは広場全体に向かって連続で『マナパンチ』を放ったのだ。


「なっ!!!」


仰天したのは桜澤撫子である。


要するにウチの嫁さんは、個別に位置を捕捉できない相手を倒すため、高火力の全体攻撃を行ったのだ。周囲の全てを巻き込む問答無用の範囲攻撃を。


ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォーーン!!!!!


凄まじい破壊音と共に小さな爆発が無数に発生した。


帝都に在住の人々には大変に申し訳ない。濛々と立ち込める土埃と砂煙が晴れた後、深夜の中央広場はデコボコのズタボロになっていた。ただし、中央の花壇だけは綺麗に残っている。


僕はギリギリのところで難を逃れ、牡丹を連れて広場の外に出ていた。


そして、雨のように降り注ぐ攻撃を回避しきれなかった桜澤撫子は、抉れた地面の穴と穴の間に横たわっていた。なんとか直撃だけは免れたようだが、左腕を負傷していた。


「あ……あ、痛ぁ…………ウソでしょ……こんな無理やりな……脳筋にも程があるわよ……」


これまで余裕の表情だった彼女が、苦痛に顔を歪めながら苦笑している。そこに嫁さんが降り立ち、彼女の胸ぐらを掴んで持ち上げた。


「捕まえたわよ。撫子ちゃん」


「花壇には……攻撃しなかったのね……私がそこに逃げ込むとは考えなかった?」


「花を平気で踏み荒らすような人だったら、次はもっとひどい攻撃をするだけよ」


「そっか。踏まなくて良かった……」


「友達だと思ってたのに……!あれも私を錯覚させてたの!?」


「やだなぁ……そこまでするほど、落ちぶれちゃいないわよ。一緒に食べたカレーライス……おいしかったわ」


「ありがと。お米も味噌もお醤油も……全部、嬉しかったわ。でも、あなたをぶっ飛ばさないと気が済まない!」


まるで最後の別れを告げるように、嫁さんは悲しそうな顔で桜澤撫子の顔面をパンチする。こうなると可哀想だが、こちらは娘を殺されそうになったのだ。いかに昔好きだった女性であろうと、許せるはずもない。僕も黙ってそれを見守るだけだ。


ところが、彼女に制裁が加えられた、と思った瞬間だった。



ガクン……!



「あ……あれ?」


なんと嫁さんの方が膝をついた。


「よかったぁーー。最後の切り札がちゃんと効いてくれて」


嫁さんから降ろされ、地面に足をつけた桜澤撫子はニヤリと笑う。彼女の頭には、魔王としての2本の角が生えていた。これまで隠していた、黒く歪んだ形の角が。それは、彼女が本気の能力を使ったことを意味するはずだ。


対する嫁さんは足腰が立たないようで、僕が見たこともないほど動揺していた。


「な、何これ……」


「ね、百合華ちゃん、街中でこれだけの騒ぎを起こしてるのに、誰も駆けつけないことを不思議に思わなかった?」


そう言われれば確かにそうだ。


いくら深夜とはいえ、これほどの騒動で誰一人来ないのはおかしい。ましてここは宮殿の真ん前にある中央広場だ。城門の兵士が僕たちに気づかないはずはない。


それに気づき、よく目を凝らして城門の方角を見ると、なんと兵士たちが全員、昏倒していた。さらには、広場の音を聞きつけて、やって来た見物人も、あちらこちらで倒れている。


「今夜は満月。満月で魔族がパワーアップするのは知ってるでしょ?それなら、魔族を生み出せる魔王だって、その例外じゃないわよね?むしろ、こっちの方が本家よね?」


煌々とした満月の光を浴びながら、広場でただ一人立っている桜澤撫子は、満足そうに微笑みながら解説を続けた。


「私の能力、【認識幻影コグニティブ・イリュージョン】も満月の夜にパワーアップする。だから、決行する日を今日にした。私への認識を錯覚させることを応用して、対象者の平衡感覚を完全に狂わせるのよ。私を支点にして世界が回っちゃうみたいに。今の百合華ちゃんは、どっちが上でどっちが下かもわからない。そうなると、立っていられないでしょ」


「ウ……ウソ……私が……私がこんなになるなんて……目がグルグル……グルグル…………」


嫁さんは地面に手をつきながら、ガクガクと震えている。この世界で、ここまで彼女を翻弄できる存在がいることに僕は度肝を抜かれた。


「あなたはそこで寝てて」


一言だけ嫁さんに告げた桜澤撫子は、次に僕に視線を向けた。その途端、僕も平衡感覚を失った。


「え…………」


迂闊だった。こうなると『宝珠システム』を操作することもできない。地面がグルグル回って見える。牡丹の治療は終わっているのだが、彼女はまだ意識が混濁している。


地面にうずくまった僕のもとに桜澤撫子が来た。


マズい。このままでは再び牡丹が襲われてしまう。


と危機感を抱いた瞬間、僕は彼女の右肩に担ぎ上げられてしまった。


「……え?」


いや、正確に言うと、僕は何がどうなっているのか、よくわかっていない。天地がひっくり返ったような感覚に酔ってしまい、彼女が僕に触れている感触だけを判別できるのだ。目が回りすぎて意識を失いそうだ。


だが、僕を持ち上げて何をしようというのか。そう思っていると、彼女はウチの嫁さんに向かって笑顔で叫んだ。


「牡丹ちゃんのことは本当にごめんね。もう殺そうなんて思わないわ。計画を変更することに決めたの……。そこで相談なんだけどぉーー、代わりに白金くんをもらってくね」


「はぁ!?」


これに嫁さんは素っ頓狂な声を上げた。

桜澤撫子は事も無げに言う。


「この人は……あなたにはもったいないわ」


「何言ってんの!!!何言ってんの!!!!!冗談でしょ!?」


「冗談じゃないわよ。この人は、私の運命の人なんだから」


「バカなこと言わないで!!!ふざけんじゃないわよ!!!」


予想外の展開に青ざめた嫁さんは、震える体でもがきながら、死に物狂いで罵倒する。


それを愉快そうに聞く桜澤撫子は、僕を抱えてジャンプし、どこかに向かってしまった。僕は必死の抵抗として、嫁さんの名を呼ぶだけだった。


「ゆ、百合ちゃ……」


「蓮くん!!蓮くん!!!蓮くーーーーんっ!!!!!!」


嫁さんの声を聞きながら、僕の意識は遠のいた。

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