第54話 病魔

この世界に来て以来、初めてとなる嫁さんと二人きりの宿泊。


本来ならウキウキするシチュエーションだったにも関わらず、僕は風邪を引いて寝込んでしまった。なんとも残念すぎるし、情けない話だ。


お酒も飲んでしまったため、体調はすこぶる悪い。頭がグルグル回る。一晩中、咳で何度も起きることとなったため、熟睡できたとは言えなかった。


体の節々が痛い。熱くて汗をかくのに悪寒がする。夢を見れば悪夢になる。久しぶりに味わったが、これはまさに高熱を出したときの症状だ。


異世界生活13日目。

最悪な気分の明け方となった。

窓の外が明るくなってくると、隣のベッドで寝ながら、ずっと心配そうに僕の様子を窺っていた嫁さんが起き上がり、僕の額に手を当てた。


「やだ。熱が上がってる。いったい何度あるんだろう……」


「お……おは……」


「あ、蓮くん、起きてた?この世界って体温計も無いんだって……」


それはそうだろう、と思う。

が、声に出して言うのが辛い。喉が腫れていて痛いのだ。


「喉、痛いの?」


僕はコクリと頷く。


「はい。お水。こういう時はしっかり水分とってね。蓮くんの宝珠のお陰で井戸に行かなくても水がすぐに手に入るんだよ」


コップを受け取った僕は水をゴクゴクと飲み干した。


「ご飯は食べられる?」


全く食欲が出てこないので、僕は首を振った。


「そう……でも、何か食べないと元気にならないよ。あとでお粥を作ってみるね」


僕はまた頷いた。


「蓮くんが病気で寝込むなんて珍しいから、私も不安になっちゃうよ……ね、お医者さん探して来ようか?」


”医者”と聞いて、僕は考えた。

果たして、この世界の医療技術はどの程度なのだろうか、と。


現代医療ではあるまいし、正直言って、中世世界の医療など、おそらく頼りにはできないだろう


「シャ……シャクヤと……」


「シャクヤちゃんと相談しろってことね。うん。そうする」


嫁さんが隣の部屋にいるシャクヤを呼んできた。


「わたくしも自分でお医者様を探したことなど、ございませんが、微力ながら協力させていただきますわ」


「でも、どうしようかな。蓮くんを一人にしておくのは心配だし……」


「寝てるから……いいよ」


かすれた声で僕は嫁さんに答えた。


「わかった。じゃ、蓮くんは休んでてね。お医者さんを探してくる。あと、蓮くんが食べられそうなものも見つけてくるね」


嫁さんとシャクヤは出て行った。咳が続いてなかなか深い眠りにならないが、とにかく寝ることにした。


思えば、シャクヤが仲間に加わった頃、”そろそろ土日休みが欲しい”などと言ったあたりから、僕の体調は既に悪くなりはじめていたのかもしれない。


ただのサラリーマンだった僕が、いきなり生と死の渦巻く過酷な世界に放り込まれたのだ。さらには、慣れない野営を繰り返しての旅路だった。想像以上に心身を酷使していたのだろう。


僕は嫁さんの心配ばかりしていた。この世界に来てからもずっと、彼女は無敵の肉体を手に入れたとはいえ、いつ何が起こるかわからないと気を配っていた。しかし、まさか自分が病気になるとは全く考えていなかった。


情けない。油断大敵とは、まさにこのことだ。


ベッドの中で悔やんでいると、嫁さんとシャクヤが帰ってきた。

一緒に、髪が薄くなりはじめた、おじさんを連れている。

既に正午過ぎになっていた。


「遅くなって、ごめんね。蓮くん。この人、お医者さんなんだって。診てくれるって」


医者として紹介されたおじさんは、普通の服装の、普通の顔立ちのおじさんだった。ヒゲを生やしているくらいで何の特徴も無い。


おそらく白衣を来た医者など、現代社会でなければ存在しないであろう。それにしても、このおじさんには申し訳ないが、あまりにも貫禄がなさすぎて、ものすごく不安になる。


そう考えているうちに、医者は僕の額に手を当てた。


「うん。熱があるね」


誰でもわかることだ。


「咳もしているし、風邪だね」


うん。まんまですね。


「じゃ、服を脱いでくれるかな」


脱いでもいいけど何をするんだ?


とりあえず疑問に思いながらも僕は服を脱いだ。横にいる嫁さんが、目をまん丸と開けて、僕の上半身を食い入るように凝視している。


そういえば、この世界に来て若返った僕の体を見たいと言っていたな。ちょっとマジマジと見すぎな気もするが。


「ひゃっ」


その後ろでは、僕の裸を見たシャクヤが小さく声を上げ、頬を赤く染めて横を向いた。


「も、も、申し訳ございません!わたくし、部屋を出ますね!」


「あ、シャクヤちゃんも一緒にいてくれる?」


「え……ですが……」


「お願い。私も不安だから一緒に見ていてくれる?」


「か……かしこまりました」


シャクヤは顔を赤くして、そのまま立っていた。僕の方をチラリチラリ、見ては顔を背け、また見ては顔を背け、と繰り返している。


嫁さんとしても、この世界の医者が何をするのか不安なので、シャクヤに付き添ってもらいたいのだろう。僕もそうして欲しいと思ったのでナイス判断だ。


しかし、当のシャクヤは、年頃の男の裸を見たことがないのか、わかりやす過ぎるほどにドギマギしていた。


一方、医者はカバンの中をゴソゴソしていたが、そこから出したのは白い粉が入ったビンだった。もちろんビンと言ってもガラスで出来てはいない。すると、突然、医者はその中身である白い粉を僕に振りかけた。


「えっ……」


驚いた嫁さんはシャクヤの方を振り返った。


「お清めでございますわ」


シャクヤが答える。

僕もよく見てみたが、かけられたのは塩だ。


マジか。


風邪の治療に、お清めと称して塩を振りかける。僕はこの時点で、この世界の医療に絶望した。


「じゃ、うつ伏せになって、背中を見せてくれるかな」


背中を見せる?いったい何をする気だ?


僕は疑心暗鬼になりながらも、医者の言うとおりにした。横で心配そうに見ていた嫁さんが、痺れを切らして口を挟んだ。


「あの、先生、お薬って無いんですか?」


「無いよ。風邪に効く薬なんて」


「えっ!」


医者の回答に焦りを感じ、再びシャクヤの顔を見る嫁さん。


「……そうでございますね。風邪に効くお薬などは聞いたことがございません」


「うっそ……」


その間、再びカバンをゴソゴソしていた医者が金属製の何かを取り出した。


針だった。


「「えっ」」


僕と嫁さんが同時に声を出した。

二人してシャクヤを見る。

シャクヤも今回は驚いた表情で首を横に振っている。


(わたくしも、これは存じ上げませんわ)


と言っているような顔だ。


「さあ、じゃあ、いくよ」


医者は僕の上に跨り、針を背中に向けた。

これは、まさか鍼治療を行おうとしているのか。

風邪なのに?鍼治療?

全く意味がわからない。


恐怖を感じた僕は、ついに脅えた表情で嫁さんに目を向け、助けを求めた。

嫁さんも動揺した様子で、あたふたしている。


そして、医者の針が僕の背中に当てられた。

――と思われた寸前、嫁さんがその手を掴んだ。


「あ、あの、先生。もう大丈夫ですので、今日は引き取りを」


「え?これから始めるところだよ?」


「いいんで、もうお引取りを。お代は払いますから」


嫁さんは医者を部屋の外に連れ出し、しばらくして一人で戻ってきた。


「な……なんだったの、あれ?」


いや、僕の方が聞きたいよ。


「シャクヤちゃん、こっちの世界のお医者さんって、あんな感じなの?」


「そうでございますね。こちらでは、お医者様は独自に研究した治療法で患者様に対処なさいます。何をされるかは、人それぞれだと思います」


「……何それ。そんなのお医者さんじゃないわよ」


もともと病弱で、普段から病院の世話になっている嫁さんにとって、医者とはこの世で最も尊敬すべき対象だ。いつもはあまり敬語を話さない嫁さんだが、医者の先生に対しては別であった。それだけに落胆も大きかった。


「さすがに針を使う治療は、わたくしも初めて拝見しましたが……」


「あれは、ないわ。私は人の動きを予測することができるし、技の性質を見破ることもできるんだけど、さっきのヤブ医者は、適当に針を刺そうとしてた。たぶんツボなんて何も知らない、エアプ野郎よ」


「えあぷ?」


こんなところでネトゲ用語を出すんじゃないよ、とツッコみたいが、今は声を出すのが辛い。


ちなみに”エアプ”とは、エアプレイヤーの略語で、ゲームをプレイしていないにも関わらず、そのゲームをさぞやりこんでいるかのように装って偉そうに講釈たれる人のことを言う。


「ああ、ごめんね。”知ったかぶり”ってこと。あんなのに銀貨20枚も渡すことになって、ほんとバカみたい……」


「あ、あの、それよりレン様……早く服をお着になってくださいませ」


シャクヤが恥ずかしそうに告げてきた。

本当だ。あまりに焦ったので、服を脱いだまま忘れていた。これでは、ベッドを塩でベタベタにされたあげく、体を冷やしただけではないか。最悪すぎる。


僕は再び寝ることにした。

しばらくすると、嫁さんが何かを煮込んで持ってきた。


「宿の人にお願いして、台所でお粥を作らせてもらったんだ。ご飯が無いから、パンをほぐしてミルクで煮込んでみたんだけど、どうかな?」


パンで作ったお粥?

果たしておいしいのだろうか。相変わらず高熱のせいで食欲が湧かないが、栄養を取らないと治るものも治らない。


試しに口にしてみたパン粥は、予想以上においしかった。


「おいしい?……よかったぁ。ひと味足りないと思ってハチミツをちょっと加えてみたんだ。栄養価もあるし、喉にもいいでしょ」


こんな異世界でおいしいお粥を食べられるとは思わなかった。本当にできた嫁さんだ。僕はゆっくりとだが、ガツガツお粥を食べた。


パン粥を平らげ、少し元気を取り戻した僕は、また床に就いた。


高熱の頭を冷やすため、嫁さんは水を絞ったタオルを頻繁に換えてくれる。だが、なかなか熱が冷めることも咳が止まることもなかった。


鼻をかむ時にティッシュペーパーが無いのも何気に辛い。あれは20世紀最大の発明だったのではないだろうか。


そのうち、辺りが暗くなった。夜になったようだ。


「お姉様、わたくし、代わりますから、少しお休みになってください」


シャクヤの声が聞こえた。


「うん。ありがとう。全然、熱が下がらないの。咳もどんどんひどくなってる……」


「”風邪は万病の元”と申しますので、放っておくと別の病も併発してしまう場合がございます。肺炎などに罹ったら命にも関わりますわ」


「そのことわざ、私の世界にもあるわよ」


「なるほど。病の悩みはどこも一緒なのでございますね」


「こっちの医療には、ガッカリしたけどね……お薬もないし……あっ、ねぇ、シャクヤちゃん、漢方薬ってないのかな?」


「かんぽう?……ですか?……確か東の国にそのようなものがあると、何かで読んだ気も致しますが……」


「そっかぁ……」


熱にうなされながら、何となく聞こえてきた二人の会話で思った。


現代医療といえば、当然のように西洋医学と認知されているが、西洋の医学が発展したのは近代に入ってからだ。少なくとも中世の時代までは、医療について科学的に研究することは、教会から禁忌とされていた、と何かで読んだ気がする。


むしろ、古代より医学や薬学が発達していたのは、中国をはじめとする東洋文化圏なのだ。その東洋医学の技術と知識は、現代でも漢方医療などとして残っている。


つまり、中世期の西洋のようなこの世界で、まともな医療や薬を求めても無駄ということになる。


また、考えてみれば、風邪薬なども別に風邪そのものを治すわけではない。


風邪とは、咳や鼻水、発熱などの症状が複数同時に起こる総合的な疾患で、”風邪”という名の病気があるわけではない。だから、風邪薬は、一時的に咳や鼻水を抑えるだけで、あとは寝て治す。それだけなのだそうだ。


そう考えると、この世界では、特定の病気に対する薬草があっても、風邪に対する薬は存在しない、というのは頷ける。そして、医学が進んでいないため、医者はほとんどがポンコツだ。


こんな世界で風邪を引くということは、治す手段が乏しい上に、別の病気を罹患する危険性もあり、場合によっては命の危険さえある。


つまり、異世界で風邪を引いたらアウトなのだ。


甘く見ていた。嫁さんのように無敵の肉体を手に入れたわけでもない僕は、この程度のことでも命に関わるのだ。


普通の肉体。普通の頭脳。普通の精神力。これで、世界最強の嫁さんのパートナーを務めていこうと言うのだから、おかしな話である。まずは自分自身が健康に生き抜くことを第一に考えていかなければならなかったのだ。


こんな世界では、今後、不養生な生活は一切送れない。やはり、ひどい世界に来てしまったものだ。


そんなことを、ますます高熱に苛まれる体で、激しく咳き込みながら、僕は夜中にずっと考えていた。


容態は日中の時よりさらに悪化したようだ。喉が灼けるように痛い。頭がクラクラして、何も無いのに船酔いしているような感覚になる。暖かい気候の土地で、布団を掛けているにも関わらず、寒気がしてきた。寝ながら体がガクガクと震えはじめた。


「蓮くん……」


嫁さんの声が聞こえた気がする。しかし、意識が朦朧として起きることも返事をすることもできない。


いくらか時が経った頃、彼女が布団に手を入れてきた。僕が咳き込んでいるので背中をさすってくれたのだ。手のぬくもりが温かく、背中をさすられたことで胸が少し楽になる。


ホッとしていると、そのまま彼女が布団の中に入ってきた。体温を背中に感じ、布団の中が二人分の熱で温かくなった。お陰で震えていた体が落ち着きを取り戻した。


汗だくの僕にここまでしてくれる、ということに愛おしさを感じ、寝返って彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。しかし、まだ体がだるく、その気力も体力も湧かなかった。僕はそのまま深い眠りに落ちた。




明け方。

異世界生活14日目。


夜中に容態が悪化した僕だったが、少しは軽くなったようで、布団から起き上がることができた。


しかし、まだ熱はあるし、喉も痛い。ここまで風邪が長引くのは、僕としては本当に珍しい。


まさかインフルエンザだったりするだろうか?

あるいは、未知の病原菌に侵されているということもあるだろうか?

もしもそうなったら、本当に命の危険があるかもしれない。


悲観的になった僕は、隣で寝ている嫁さんの顔を見たいと思った。

なぜだろうか。嫁さんの顔を見れば、何か安心できる気がしたのだ。


僕はそろそろと自分のベッドから出て、嫁さんのベッドに近づいた。そして、布団を頭まで被って寝ている嫁さんの顔に自分の顔を近づけた。


「うーーん……」


寝返りを打ち、こちらを向いた彼女を見て、僕は頭が真っ白になった。

その顔はシャクヤだったのだ。

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