人を守る仕事 後編
ハルは辺りを見渡して、アンジェを探した。笛の暗号がわかっても、何が起きていいるかはわからない。
アンジェじゃなくてもいいから、誰かと情報を共有しなければ。
「ハルさーん。今、笛の音鳴りましたよね。何かあったんですか?」
ハルが一人、脳内で慌てふためいているのを他所に、ソーラが荷馬車から顔を出した。その時だ。
「全員、馬車に乗れぇ!」
という、大きな怒鳴り声が当たり一帯に轟いた。そして、キャラバン後方から、馬が駆けてくる音が近づいてくる。リベルトがあっという間にハルの前までやってくる。
「ハル。急いで馬車の車輪を止めてる木杭を外せ。全部だ!」
「は、はい!」
リベルトはハルにそう怒鳴りつけるや、そのままキャラバンの前方へ駆け抜けていった。レリックたちに状況を知らせるのだろう。まだ先行隊は集まりきっていないが、この様子だとあまりよくない決断をするの可能性もある。
「ハルさん・・・?」
少しだけ状況を読み込んだソーラが不安げにハルの顔を見た。
「ソーラ。馬車の中に!」
ハルとて実際に何が起こっているか理解していないのだが、それでもやれと言われたことをやらねばならない。大急ぎで木杭を外していく。
「各自、馬車に乗り込んで出発!」
今度はクラウスの大きな声が後方から聞こえてきた。間髪いれずにリベルトの声が前方から届いた。
キャラバンの人員は、皆緊急事態を察して慌しく動き始めていた。既に前方の馬車は進み始めているようだった。一本道だから前が動かないと後続は身動きが取れない。まだ先行隊も全員集まりきっていないだろうが、それでも進むしかなかった。
普段とは違う不穏な空気が漂っていた。一人ひとりの表情からは不安と焦りが見えて、だれも下手に口を開こうとはしなかった。徐々に、キャラバンの全体が前へ進み始めた。ハルもその様子を横から見ていて、いつもとは違う光景と緊迫した状況にあてられていた。
腹の底に泥の塊があるような感覚に囚われる。吐き出そうにも、喉の奥が開くことを拒絶して声にならない。荷馬車の音がやけに小さく聞こえて、頭が痺れてくる。自分でも無意識のうちに、腰に刺している証券に伸びていて、それを抜いていた。
逆手に握った剣の刃を覗き、鉄の表面に写る自分の瞳は揺れていた。今にも泣き出しそうな自分の目が、何かを訴えるようにハルを見ている。
(落ち着け、落ち着け!)
そう心の中で何度も唱えても、緊張した体は和らいではくれなかった。小剣を握る右手の指がガチガチと震えている。その指を左手で無理やり引き剥がそうとしたが、硬直した指はそれを許さなかった。左の掌を見ると、真っ白になっていて、血の気が見られないほどだった。あらゆるものがハルの緊張を増長させて、体に異常をきたしているのだ。
「ハル!」
その声は実際あまり大きな声ではなかったのに、まるで雷が落ちたかのようにハルには感じられた。振り返るとアンジェの心配そうな顔がすぐそこにあった。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・。」
いつのまにか呼吸も乱れていたようだった。
「しっかりしな。」
アンジェは、ハルの両肩に腕を乗せて、言い聞かせるように言った。
「いいかい。後ろから追っ手がかかっているんだ。今は後衛隊が引き付けてくれてる。あたしたち先行隊はキャラバンについて護衛するよ?もしかしたら待ち伏せされていたのかもしれないから、この山にも敵がいるかもしれない。」
ハルはなんとか首を縦に振って、状況を理解したことを示した。しかし、アンジェにはいかにも緊張しているように見えたのだろう。両腕でハルの肩を抱き、背中をとんとんと叩いて落ち着かせようとした。
「大丈夫。あたしが守ってあげるから。敵はどんなやつかわからない。対面したら、全体に背を向けてはいけないよ?取り乱さないように息を整えるの。そして、いつも稽古しているように剣を振るんだ。当てなくてもいい。時間を稼いで。すぐあたしが駆けつけてあげるから。」
ハルは必死に頷いていた。大丈夫、自分の身を守る術は学んだのだ。どれくらい役に立つかわからないけれど、それでもやれるだけのことはやってきたのだ。そう自分に言い聞かせて頭を切り替えようとした。
それでもアンジェの温もりが離れると再び恐怖が募ってくる。それでもやらねばならないのだ。アンジェはキャラバンの左側に、ハルは右側について、流れに沿って同行する。
アランの手綱を引きながら、主に後方を意識して以上が無いかを見渡す。もちろん後ろだけじゃない。すぐそこの草木の影に隠れているかもしれないのだ。ハルは視界に移る一切のものの動きを少しも逃さないように見ていた。
後衛隊は既に戦いを始めているのだろうか。集まりきっていなかった先行隊はどうしているだろうか。自分のことでも手一杯なのに、不思議と他人のことばかり頭に思い浮かんでいた。少し後ろの馬車にはソーラが乗っているし、クラウスはかなり後ろのほうの荷馬車だったはずだ。しっかりとついてきているのだろうか。ハルの耳に入ってくるのは車輪の音だけだった。
どれだけの時間が経っただろう。終わりの見えない緊張状態が続いて、剣を握る掌は手汗で一杯だった。何か音がしたわけでもないのに、後方を振り返り危険が迫ってないか確認する。相変らず黙々と進むキャラバンだけが視界に写る。このまま何事もなくやりすごせれば良い。そう思わずにはいられない。あるいは、自分の居ないところですべて終わってしまえればどれだけ楽だろう。この頼り無い手に握った小剣を赤く染める事無く、一生をすごせればそれだけで幸せであるはずだ。
この日、この時、未だにそんな甘い考えを抱いて居たのだ。異世界に連れて来られ、向こう側へ戻るために、この世界でその方法を見つけるために、剣を持って生きようと志したのに。心に突き立てた剣は、ひどく錆び付いていたのだ。そして、今日、ハルはその剣が確かに折れる音を聞いたのだった。
「ハル!」
名前を呼ばれて、意識が頭から目に移る。低い姿勢であたりを見回すアンジェがそこにいた。
「気を抜かない!前は私が見るから、背中を頼むって言っただろう!」
「は、はい」
状況が状況だからか、厳しい事を言われるのは当然だ。鷹の団は軍隊では無いが、今はハルにとってアンジェは上官であり、彼女の言う事は命令と同じなのだ。
キャラバンは、一本道を抜け、山が削れて大きく拓けた場所で行進をとめていた。ほとんどの荷馬車がそこに塊になって止まっている。その方が守りやすいし一本道よりは危険が少ない。それに、ほとんどであって全てでは無い。後方をついてきていたはずの馬車が数台はぐれているのだ。もちろん、その馬車にも団の護衛がついていたはずだから、無防備と言う事は無いだろうが、分断してしまったのはあまり好ましくない。ということで、敵に狙われる可能性もあるのだが、遭遇しても守りやすい場所で停泊し、遅れている馬車を待つ事になった。当然、まだ合流できていない団員たちも待っているのだが。後方で会敵したという後衛隊からもなんの連絡もなかった。
ハルたちはそんな中、足を止め狙われ放題となったキャラバンを囲うように展開して守っている。もちろんペアになってだ。アンジェに連れられ、山の木々が連なる森の中へ足を踏み入れている。
暗くはないのにまるでお化け屋敷に入ったかのような気分だった。いや、むしろお化け屋敷よりタチが悪いかもしれない。そこに、自分たちを狙っている輩がいるかどうかも分からないのだから。本当に、天笛が鳴ってからなんの音沙汰もない。
何度も何度も剣を握りを確かめたくなる。ベタついた手をスカートの裾で拭いては持ち直しを繰り返している。背中にあるアンジェの気配を確認しながら彼女に後ろ歩きでついていく。辺りを見回しても木が乱立しているだけ。人の姿は、ほかの団員が遠くに見えなくもないが、それ以外は見当たらない。
「アンジェさん。」
「何だい?」
「・・・いえ、何でも、ないです。」
「・・・この辺りには待ち伏せていないようだけど、一応ね。大事なことだから。レリック兄さんも団長も状況を掴めていないから、どんな奴等なのか分からない。」
確かに情報が少な過ぎるのだ。天笛は緊急事態を知らせる暗号のみそれ以降は鳴っておらず、会敵したであろう後衛隊も戻って来ない。仕方なく陣を布いて包囲されないように見回っているというだけなのだ。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁ!」
その声は突然森に響いた。どこからなのか、声は反響されていて正確な方角は分からなかった。
アンジェが遠くに見える団員に目線で合図する。そちらもどこかは分からないようで首を横に大きく振った。
「多分、うちの者じゃ無いと思うんだよね。誰かが・・・」
アンジェは言葉を途中で止めた。
「ハルっ・・・」
そして小さな声で、ハルを呼び寄せて、顎をふってその場所を示した。
靴が、見えていた。木の根元に。僅かに革の靴のつま先が隠れきれずに見えている。こちらを認識しているのかは分からない。だが、少なくとも先に見つけてしまったからには、それほど恐ろしくは無い。
「ハルは、ここに、後ろを見ていて。」
ハルは、唾を飲み込んで小さく頷いた。敵の存在が確認出来た時から、少しだけ緊張が解かれていた。安心とは違う、少なくとも奇襲される事が無いというだけで心持ちが大分変わっていた。
アンジェがひと呼吸してから気に隠れているであろう奴を見据える。
「おい!さっさと出てきな。そこにいるのはわかってるんだ!」
隠れていない爪先が少しだけ震えた様な気がした。それと、ひっという悲鳴めいた声も。どうやら男の様だ。
「来ないのなら、こっちからいくよ!」
高圧的なアンジェの言葉にまたしても男は怯んだような声をあげる。だが、オトコは木の陰から動こうとはしなかった。アンジェは勢いよく駆け出し、低い姿勢のまま男に向って突進していく。女とはいえ彼女は傭兵だ。鍛えられた脚力は瞬時に彼女を風に乗せる。瞬く間にアンジェは男が隠れている木に迫った。
「あうわぁぁ!」
男はアンジェに恐れをなしたのか。ついに姿を表し、アンジェから逃げようとする。手には鉈のような獲物を持っている。かなり土汚れていて、ほとんど鈍器のようにしか見えない。アンジェが剣を振りかざすと男は鉈を構えもせず、どんどん逃げていく。少し離れてみていても感じとれる。あの男はほとんど戦う気がないと。きている服もボロ作業着みたいな格好で、野盗の類いには見えない。何が目的で襲ってきたんだろう。そんな、呑気なことを考えているから背後の気配に気づくことができなかった。
突然、口を両手でふさがれた。驚くのも束の間、頭を持たれて、強引に後ろへ引っ張られ、そのまま背中から地面に叩き付けられた。
「あがっ」
奇妙な呻き声が肺から漏れた。痛みで全身から力が抜けたようにふっと意識が飛びそうになったら。見上げるとふたつの腕が降ってきてハルの首を掴んだ。さっきとは違う男が倒れた体に跨ってくる。男ははぁはぁと荒い息をしていて、血眼になった目がハルを捉えていた。
「ふぅぅ!ふうううぅぅぅぅぅ!!」
力任せに首を締められ、呼吸がまともに出来なかった。男は懐から、ナイフのような武器を取り出した。それをみて、必死になって暴れたが、男の体重すべてをひっくり返せるほど力があるはずがない。倒れた衝撃で思わず握っていた剣を離してしまったから反撃も出来ない。男は、狂気じみた表情をして、そのナイフをハルの頭に振り下ろしてきた。
気味の悪い、ぷちゃという音がすぐそばで聞こえた。それと同時に、鼻先を生臭い匂いが掠めていく。
咄嗟の判断だった。左掌でナイフを受け止めようとしたのだ。だが、当然刃物を人間の掌で受け止められるはずもなく、見事にナイフは突き刺さり、肉を裂き、骨を砕いて、甲を貫通したのだ。刃先はぎりぎりハルの顔には届かず、どす黒い血が滴っていた。
男は驚いたような顔をしていたが、すぐに体重をかけて掌ごと刺そうとしてきた。首を絞めていたても添えて、男の体重が一本のナイフを通って左手に掛かる。
男は奇妙な声を上げながら、口から唾液が垂れてくる。ハルも右手も添えて、必死にナイフを押し返そうとする。ナイフの鍔が掌に引っかかって、ナイフ全体が手を貫通できないのだ。それでも、男が緩急をつける度にそこから激しい痛みと血が噴き出してくる。
ほんの一瞬、あるいは、体重をかける事に集中する余り、跨っている男の体の力が抜けていた。
ハルは大きな声をあげて、男の腹を蹴り上げた。呻き声とともに男は体重を崩し、倒れ込んで来た。なんとかそれを避けて、すぐさま男から飛び退る。そして、倒れた時に落としてしまった小剣をを拾う。
危機を脱した。敵が目の前にいても、そう感じた。左手からは常に激しい痛みが、生まれて来ている。手の肉の中を貫通している刃が複雑に肉と神経を痛めつけているのだろう。ナイフの柄を右手で持ち、力任せに抜き、放り捨てた。血は勢いよく吹き出したが最初だけで、量はそれほどでもなかった。
男が目の前で亡者のように立ちあがった。ゆらりと揺れる体が、まるで本当のゾンビみたいに感じさせている。
剣を構え、男に向けて突き差した。
「く、来るな。」
ハルの声はいかにも弱々しかった。男はどうやらナイフ以外の得物を持っていないようだった。ナイフとらせなければ、男はないもできないはず。そう考えていたのに、窮地に追い込まれた生き物ほど恐ろしいものはなかった。
男はそのまま向かって来たのだ。
「来るな!」
もう一度、今度は強く言ったが、声が震えていた。けれどそれでも男は止まらない。
「あぁぁぁぁぁ」
半ば倒れこむように両腕を前に突き出しながら襲いかかって来た。もう一度組み付かれたら、今度は多分抜け出せない、そう思った。思い切って目をつむり、小剣を右から左へなぎ払った。顔に勢いよく血が飛んでくる。剣はちょうど男の腕を切り裂いたようだった。裏の方ではなく、大きな血管が通っている表の方だ。浅かったのか、それともそんなに痛みを感じていないのか、男は怯まず突進して来た。
「やめっ、こな、いで。」
最早パニックになっていたハルの声は、言葉になっておらず、ただただ形だけの抵抗として剣を突き出していた。ハルは何もしなかった。男に剣を向けたままで、その瞬間を怖くて見ていられなかった。
目を瞑ったまま剣にドクンと重みがのしかかるのが分かった。目を開けると、当然剣は男の中心からやや左の腹あたりに突き刺さっている。場所からしておそらく筋肉だけでなく、内臓にまで届いているんじゃないだろうか。
手には、肉を切り裂いた感触が伝わってくる。ハルは目の前の光景が恐ろしくなってとっさに剣を引き抜いた。途端に男の腹から血が噴水のように吹き出す。すると男が気持ちの悪い声で喘いだかと思うと、膝から崩れ落ちた。片手で傷を抑え、それでももう片方の腕でハルの方へに伸ばしてきた。男は口から血を吐き出し、もはや人間の顔には思えなかった。
血塗れの男の姿に当てられたのか、ハルは何かがぷつりと切れるような音を聴いた気がした。狂気に飲まれたと言ってもいい。自分に向かって伸びる腕をなんの躊躇いもなく切りつけ、男の体を思いっきり押し倒した。馬乗りになって、小剣を両手で持ち、その柔らかい肉の塊に深々と突き刺した。あまりの衝撃に男は海老反りになろうとするが、それはハルがのっかっているからかなわなかった。すぐに剣を抜いて、もう一度違う場所に突き刺す。何度も何度も刺しては抜き、刺しては抜き、その度に肉塊はおかしな音を発していた。しかしそれもほんの一時、やがては何の音もしなくなり、何の反応もなくなっていた。
動かなくなった人形のようなそれを見下ろしながら、徐々にの理性が戻って来た。燃えるように熱くなっていた体が、薪のなくなった篝火のように静まっていく。
凄まじい血の匂いがまとわりついていた。血の匂いというものを嗅いだことがないはずなのに、それでもこの匂いは生き物の血が放つ匂いであると本能で知らせている。
匂いの元は当然自分自身。剣を持つ手から力が抜けた、ぽすりと落ちる。恐る恐る、自分の両腕を観ると、掌だけでなく腕にまで、まだ固まっていない血が伝っていた。
「・・・嘘だ・・・」
指先が震え始める。頭の芯が麻痺したように痛みを伴っている。頭を傾けるとはらりと自分の髪が襟から垂れてきて、視界に入る。良くも悪くも純白を誇っていた白い髪は、赤黒く変色し所々に黄土色になっていたりしていた。自分の顔を見ることが出来なかったが、おそらく顔面に張り付いた糊の様なもの、衣服に染み込んだ生暖かい液体は全て、今目の前で死んだ男の返り血なのだろう。
「嘘だ・・・嘘だ・・・こんなの、・・・」
「うわぁぁ!」
男の怯えきった声がした。アンジェが先ほどの逃げた男とともに戻って来ていた。もちろん男は後ろ手で縛られていて、尻餅をつきながら、幽霊でもみたかのような目でハルを凝視していた。
「・・・ハルっ・・・」
アンジェの言葉など耳に入るはずもない。ハルは両腕で自分の体を絞るように抱いた。
あでも、うでも、おでもない、母音があいまいな音を腹の底から絞り出す様に叫んだ。それまで必死に堪えていた不安だとか恐怖だとか、緊張とか逃げ出したい気持ちとか、そういった全ての感情と共に、今自分がした事の罪の意識が一斉に雪崩れ込んできた。止まるこなく溢れ出てくる思いが、身体中を暴れまわって今にも破裂しそうだった。抑えきれない想いは涙や声になって流れ出て、それにリミッターかけるように頭のなかに思い浮かんだ無数の言い訳が忘れさせようとしていた。それでも左掌から生じる痛みが嫌でも現実である事を否定させてはくれなかった。
アンジェがすぐに駆け寄って来て、煩く喚き散らすハルを抱きしめた。目に手を当ててハルの視界を塞いだが、目を閉じたところで瞼の裏には男の最期の瞬間が焼き付いて離れなかった。
キャラバンには後衛隊が多くの無法者たちを捕らえて戻っていた。彼らはこの先にある、キャラバンの目的地でもあったグレイモアという街の失業者だったらしい。仕事を無くし、生きるために街を出て、いつの間にか野党紛いの集団に成り下がっていたらしい。その数、およそ50名程。たまたまとおりがかったファフニール商会のキャラバンに目をつけて狙っていたが、後方の団員にみつかってしまったので、そのまま襲い掛かったらしい。しかし、訓練も何もしてない人間が先頭のプロには敵う筈もなく殆どそのまま捕まったそうだ。中にはそれでも奪わなければこの先生きていけないからと、勇敢にも勝負を挑んだ輩もいたそうだが、そんな連中に鷹の団が遅れをとるはずもなく、結局はキャラバンに実害は無かった。
後方で遅れをとっていた馬車も無事合流。散らばっていた先行隊も天笛の合図の後に戻ってきた。
ハルがキャラバンに戻ったのはちょうどその後だった。
アンジェにジャケットを被せられて、ハルは皆のもとへ戻った。初めは無事に戻って来た女性陣二人に、よくぞ戻ったと声を掛けるものが多かったが、二人の様子が変なことに気づくと口を開くものがいなくなった。
いち早く駆け寄ってきたレリックが、変わり果てた姿のハルを見て呆然とした。
「何があった?」
アンジェはしばらく何も答えず、ハルの肩をひしと抱いているだけだったが、ぽつりぽつりと少しずつ起きたことを簡潔に話した。
「一応、応急手当はしたので、怪我の方は大丈夫だと思います。」
大丈夫、といっているのにアンジェの表情が明るくなかった。レリック自身も無事に二人が戻ってきたことを素直に喜べなかった。近くに寄って初めてその匂いに気付く。むっとした熱気のような臭いがハルから漂ってくるのだ。間違いなく血の臭いだ。それもかなりの量の血が放つ、生臭いような不快な臭い。その証拠にハルの衣服は返り血で赤黒く染まり、髪も乾いた血で束になっていたり、頬にも瘡蓋のような血の塊が張り付いていた。
これだけの血の量。今も少しだけ血が垂れている左手のケガだけではないのは目に見えて分かった。ハルの目は虚ろで、開いているのにかかわらず、まるで何も見えていないかのように表情が固まっている。目の前にいるレリックのことすら見えていないようだった。
「とにかく馬車の中に。」
レリックがそういって、アンジェがすぐにハルを引っ張って行った。ハルの後姿を見ながら、レリックは幾度となく経験した生き物の死の感覚を自分のことのように感じていた。レリック自身、人を殺したことはあった。長く傭兵として生きてきたため、幾度となく殺人を余儀なくされたことはあったのだ。当然、殺した人間たちに恨みはないし、殺したくて殺したわけじゃない。傭兵は人を守るのが仕事。そのためには時に誰かを死に追いやらねばならないことがある。それゆえに、仕方のないことだと割り切っている部分もあれば、できる限りそうならないで解決したいと言う想いがある。
命のやり取りはそのたびに殺した側の心を削り取っていくのだ。罪悪感と言う鋭い刃が形ない臓器に突き刺さり、一生消えない痛みを生み出す。心が純粋であればあるほど痛みは激しく、やがて時が経つにつれ大人になることで罪の意識は薄らいでいくが、決して痛みが止むわけではない。人を殺すと言うことはそういうことなのだ。
(その痛みを乗り越えるには、ハルはまだ若すぎる。)
まだ、二十歳にも満たない少女が人間の死を背負うにはあまりにも頼りない。そして、若さゆえに答えの出しようの無い内側での問答を繰り返しているのだろう。あの何も見えていないような瞳の奥で葛藤と後悔が渦巻いているのだ。それを思うとレリックはいたたまれなかった。
まだそれほど長い付き合いはしていないものの、同じ団の仲間であり前衛隊の若人だ。あんな様子で心配しないわけが無い。だが実際レリックには何かしてやることはできないのだ。本人の気持ちを汲んでやることが出来ない。ハル自身が苦悩している理由を共有することが出来ないのだ。すでにレリックはその苦しみから逃れる術を知っている。それは年の功と経験が言わせていることだが、レリックの苦しんだこととハルのそれが同じとは限らない。たとえ同じだったとして、レリックと同様の方法で解決できるとは限らないのだ。
それでも時に言葉で心を癒すことは出来る。それは誰にでも出来ることじゃない。少なくともレリックにそこまで説得力のある言葉をかけてやることは出来なかった。同じ隊の一員として、あるいは年長者として、助けになりたいけれど、そうできないのがレリックに胸のうちに悔しさを残していた。
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