人を殺す仕事

その日から、何もしていなくても、私の耳には、誰かの心臓の音が聞こえるようになった。



はるか地平線上に、真っ赤に染まった太陽が、その姿を沈めようとしている。雲ひとつ無い空は橙色から藍色のグラデーションになっている。東の空は、ほとんど光が感じられないほど暗くなり、点々と星たちが顔を見せていた。

キャラバンの後方、主に食料などを積んでいる馬車の中で、ハルは一人でうずくまっていた。御者の商会の青年が、ハルの様子を伺うように、時折ちらちらと視線を運んでいるが、かける言葉はなかった。

何も聞きたくなかった。何も話したくなかった。何かを口にすることも、何か行動するのも、ただ何もしたくなかった。こうやって、孤独にずっと一人でじっとしていたかった。そうしていれば、頭の中で何度も繰り返される狂気の記憶が呼び覚まされることはない。ただ少し視線を動かしただけで、それを引き金にあの男の死顔が浮かび上がって来るんじゃないか。手に僅かな力を込めただけで、剣が肉と骨を貫く感触が蘇って来るのではないか。そんな風に思えて来る。湧き上がって来る全ての衝動や欲求を果てしなく深い海の底のような、心の奥に沈めるよう念じ続けた。それが自分の意思で行なっていることではないと理解はしている。これは精神の防衛本能のようなものだ。極限まで負荷に耐え続けたが、耐えられなくなった瞬間、耐えるのではなく負荷を受け付けなくさせたのだ。それでも記憶というものは忘れることを知らない。どれだけ抵抗しても、なかったことにはできないのだ。忘れようにも、忘れるために必要な時間が多すぎる。今すぐこの苦しみから逃れることはできないのだ。

いっそ全てを終わりにしてしまえたら、それはきっとこの上ない幸福なことなんじゃないかと思えて来る。例えばの話だ。傭兵として生きることも、向こう側へ戻るということさえ考えずに、何もせずただじっとしていながら、最後の瞬間を迎えられたら、このどん底まで沈んだ心は救われるだろう。むしろ、息をすることさえも諦めてしまえたら、今すぐにでも楽になることができるはずだ。

けれどそんなことが、今のハルにできるはずもなかった。ハルには死ぬ理由がない。あるのは心の安寧を求めることだけだ。死というものに触れて、一生背負って行かなければならない業を捨て去りたいがために、死ななければならないのは、問題の先送りにしかなっていない。苦しみから逃れることはできるかもしれないが、心やすらかに眠れるわけではないのだろうに。

もちろんハルは死にたくなかった。死ななければ解決しないことだったとしても、それでもきっと死にたくないと思うだろう。誰だって、生きていたいはずだ。あの男も、そう思っていただろうに。

あの男が向かってこなければ、こんな結末にはならなかったはずだ。けれどハルは、来るな、と警告した。それなのに男は止まらなかった。男にはハルに襲い掛からないという選択肢はなかったのかもしれない。ならハルはが剣を収めればよかったのだろうか。男が振り下ろしたナイフを受け止めることなく、そのままその刃に切り裂かれれば良かったのだろうか。それではこちらが生きていられないだろうに。

どちらかが死ななければならないことだった。そう結論付けることしか出来ないことが、更なる混乱をハルにもたらした。どうして、どうしてもっと、と考えても考えても凶暴な思案が頭の中をめまぐるしく回っている。

(私は悪くない。私のせいなんかじゃない。)

あれから誰も声をかけてこなかった。責めることも慰めることも。ただ時折、すぐ傍に誰かが寄ってきて、何も言わずに離れていく気配は感じていた。きっと今何か声をかけられても、顔を上げる気にはならないだろうが。

こんな風にうずくまって、じっと固まって回りを一切拒絶すること、前にもしたような気がする。確か、此方側につれてこられれて、アストレアの城内で自分の置かれた状況を知らされた時だ。あの時も、どうして自分だけがと、自らの運命を呪ったものだ。また、同じことをしている。大きな障害にぶち当たって、自分意志ではどうにもできなくて、それでまたいじけている。

ガタリと大きく馬車が揺れたかと思うと、そのまま動かなくなった。やがて荷車の外が次第に賑やかになっていく。少しだけ顔を上げると荷車の中は真っ暗になっていて、視線を外へ向けると完全なる夜が訪れていた。どうやらここでキャンプを張って一夜を過ごすようだ。ここがどこかはわからないが。襲撃があった後だから、皆緊迫しているだろう。それでも二百人以上のキャラバンだ。外の騒々しさは、徐々にいつも見ていた様子に変わっていった。

ハルも意識をすると、空腹感が湧き上がっていることに気づく。何かを食べたいとは思わないけれど。この空腹も生きてさえいれば当然のように訪れる欲求なのに、こんなにも憎たらしいものに感じたことはなかった。

「ハル。」

名前を呼ばれて、反射的に顔を上げようとするのを、寸前のところで制止する。別に顔を見られたくないわけじゃない。ただどんな顔で人と接すればわからないのだ。

「ご飯、持ってきてあげたよ。・・・食べないと、体がもたないよ?」

声の主から、荷車に登ってきたのがヘレンであることがわかった。すぐそばに生暖かい熱が感じられる。うずくまったまま、拒絶していることへの罪悪感を押し殺していた。

「ハル、・・・ハル。顔を上げておくれよ。」

けれどヘレンの、人親の暖かい声を聞いた途端、凝り固まったハルの内側はとき解かれてしまったのだった。

彼女はハルが思っていたよりも、ハルのすぐそばにいた。手に椀いっぱいのスープを乗せた盆を持っていた。スープは、いつも彼女が作る特製スープだ。ヘレンは盆を床板に置くと、両腕を伸ばしてきて、そのままハルを抱きしめていた。

「ごめんね。私が無理やりにでもあんたをうちに入れてれば、こんなことにはならなかったろうさ。こんなのってないよね。あんたみたいな子が殺しをしたなんて・・・。」

嘘じゃない。ハルが人を殺めてしまったのは紛れも無い事実だ。それでもヘレンは受け止めきれないでいるのだろう。それは、ハルも同じだ。

仕方の無いことだったのだ。どうしようもなかった。そう言うしかなかった。

ヘレンの胸に頭をうずめて、それでも涙は出なかった。ヘレンはとっくに鼻を啜り、嗚咽をかみ殺しているというのに。あんなことをした人間に泣く権利など無いと、心のどこかで思っているのだろうか。ならもうなにを思うことは無い。自分が犯した罪を、自分が認めてしまっているのだから。

ヘレンは、すぐにハルを離して荷馬車から降りていった。今はまだ、まともに会話が出来るほど、気力を戻せてはいないのだ。きっとヘレンは慰めに来てくれたのだろうが、それ以前にハル自身が慰められたいとは思わなかった。

盆を寄せて、椀の中身を覗き込むと、具は野菜か穀類ばかりだった。普段なら塩漬けの肉が入っているだろうに、そういう気遣いが余計に胸に刺さった。口に含んだスープは少し冷めていて、味わうこともせずに、ただただ口の中に流し込んだ。最低限の咀嚼だけをして、機械的に食事を済ましたあと、すぐそばにおいてある小剣を手に取った。鞘から少しだけぬいて、諸刃にこびりついた血痕を指で触れてみた。数時間前まであの男の体を駆け巡っていたのに、今はもうその息吹さえ感じられない、ただの塊だった。

そのまま指の腹を刃に沿うように滑らせると、皮膚にまっすぐな赤い筋が入った。やがて、筋から鮮血が漏れ出てきて、指の先がひりひりと痺れた感覚が襲ってきた。痛い、という感覚はあまりなかった。痛みの度合いでいえば、今も包帯を巻いている左手の甲のほうが痛い。指を切ったくらいの痛みは、もはや気にもならなくなっている。それ自体は、自分がそれだけの経験を積んだということなのだろうが、そうやって変わっていってしまう自分が、ハルにとっては無性に悲しかった。


どんなに悲しく、心が廃れていようとも当たり前のように夜は去り、太陽は昇ってくる。キャラバンは相変わらずのように列をなして、西へ西へと進んでいた。その日は酷く空模様が思わしくなくて、今にも雨が降り出しそうな空気だった。

一日経って、ハルは騎兵隊の隊列に戻っていた。アランの背に揺られて、何事もなかったように自分の部署についていた。

誰かが言ったわけじゃない。仕事だから、やらなきゃいけないことだから、そういう理由で戻ってきたわけではない。ただ何もせずじっとしていると、少しずつ自分の何かが腐敗していくような感じがしたからだ。あのまま荷馬車でうずくまっていたら、きっと堕ちるところまで堕ちて、二度と自分を取り戻せなくなる。そんな気がしたから。幸いにもそんな本能が働いたのだ。そうやって腐るくらいなら、愛馬に乗せられて、遠慮なく揺さぶられていた方がましだ。それに、アランはハルになにも声をかけて来ない。心配することも、気を使うことも無い。今は彼と共にこの静かな時間を過ごしていた方が、ハルにとっても安らげるのだった。

みんながみんな、ハルの顔を見るや悲しい目をした。当然、ハルも視線を向けられるたびに、その目を無視してきた。まともに向き合えば、ややこしくなるのは目に見えている。罪悪感だけ我慢すれば、お互いの気まずさが増すことは無い。そのせいで、ハルはため息を漏らさずにはいられないのだが、そのため息にさえも誰も反応しない。いつものように、ソーラが声をかけてくることも無い。彼女は、いつもの馬車ではなく、ハルの配置からかなりはなれた馬車に移っていた。隊列の反対にいるアンジェには、馬車を挟んでいるため、当然ハルの様子を見ることは出来ない。本当にアランだけが、ハルの傍にいるだけなのだ。

ハルは腕を伸ばして、アランの鬣をそっと撫でてやった。アランは歩きながら起用に首をこちらに向けてきて、うれしそうに鼻を鳴らした。その姿に少しだけ心が穏やかになると、回りの景色に目が移った。相変わらず山の中を通り抜けているのは変わらないが、視界に広がる光景が山から空に変わっていた。昨日までは山に向かってただひたすら歩を進めていたのだが、眼前には一面の雲と大平原が見えていた。いつの間に折り返していて、道もやや下り坂になっている。キャラバンの行路、いくつか超えるという山の一つを無事に乗り越えたということなのだろう。高所から見る平原は、見ていてすがすがしいものがあった。こんなにも広大な土地、もちろん日本にはなかったものだから、こんなときでなければゆっくり眺めていたいものだ。山々に囲まれた地形なせいか、強風が吹き荒れている。平原のあらゆる草木たちは、しなるように揺れていて、まるで大シケの海のようだった。

完全に山を抜けると空の彼方から、鈍い轟音が聞こえてきた。雲の隙間が時折眩い光を放っているのも見えた。間もなく雨が降り出して、キャラバンの様子は慌ただしくなってきた。徒歩で護衛に回っていたものは皆、荷馬車の屋根の中に逃げ込み、御者や騎兵隊には雨具が配られた。ハルもアンジェから合羽を渡され、急いでそれを被った。そうこうしているうちに雨は本降りになってきて、馬車を引く馬たちの速度は駆け足になっていた。

ガタン、ゴトン、と小さな岩が車輪に引っかかる度に荷馬車は大きく跳ね上がった。乗っている人たちからしてみればさぞ乗り心地が悪いだろう。けれど、今はそうも言ってられない。こんな平原では雨をしのげる場所なんてありはしない。人間はともかく、雨にもろに当たっている馬たちが休める場所までたどり着かなければいけない。

「ハル。頭巾被んな。風邪引くよ。」

アンジェに言われて、ハルは合羽についているフードを被った。ついでにスカーフを持ち上げて顎周りに巻きつけた。ふと思い至ったが、今のが今日アンジェと交わした初めての会話だと気付いた。けれど残念なことにそれ以上は続かず、お互い前を見据えてただ進むだけになってしまったが。

雨脚は全く弱まることを知らず、キャラバンが次の灯台にしていた山脈に入っても激しい風雨が続いていた。一行は、結局適当な場所を見つけることができないまま、行進を止めて山中のその場で休むことになった。馬たちにはせめてものと毛布をかけてやったり、馬車から放してそこいらを好きなように歩かせたりした。ハルも、アランから手綱と鞍を外し、散歩というまではいかないが、のんびり好きなようにさせてやった。アランはほとんど草を食んでいるだけだったが、重荷がなくなって少し表情が緩んでいるように見えた。

「おいしい?アラン?」

草を食んでいる真横にかがんで横目に覗き込みながらそう言ってみた。アランは食べるのに夢中でハルの言葉などに反応すらしないが、それが今のハルのとってはとてもありがたいことなのだ。

馬に語りかける。そんなことしたって、気晴らしにはならない。ただそうやってなんでもいいから言葉にすることで、自分の中にある錆びた気持ちを吐き出しせるなら、それほど楽なことはない。本当はもっと、人とたくさんの会話をして解消していくべきなのだろうが、人との会話では気遣いや優しさで素直に話せなかったり、むしろ余計溜まっていくようなことだってある。それをうまくやっていけるのが大人なのだろうが、あいにくハルにはそんな器用な真似ができるほど成長できていなかった。

だから、誰とも話さずにこうしてアランとする返事のない会話はとても気が楽なのだった。

「でも、これじゃダメだよね?」

気がすむまで草を食んだアランの首をなでながら、今度は誰に言うでもなくそう呟いた。

「私きっとこのままじゃ、ダメになる。」

アランの体は雨で濡れているにもかかわらず、その逞しい肉体から生み出される熱量のおかげで全く冷えていない。変わって自分の体は、少し雨に打たれていただけで指先が少し悴んでさえいる。

「自分でもわかってるの。乗り越えなくちゃいけないって。私が選んだんだもの。今更別の道に変えるなんてバカみたいだよね。あれが嫌だから、違うのにするのって、そんなのどれを選んでも一緒だもの。」

もしアランに人間のような思考があったら、なんて言うだろう。馬からしてみれば人間の悩みなんてなんともないのだろうか。生き物であれば、生きたいと思うのは当然のことで、死を免れるのならどんなことでもするのが当たり前のことだろうに。生きててよかったと、素直に喜べないなんて。人間はなんて面倒な生き物なのだろう。もしかしたら馬は生きていたことを喜びもしないのかもしれない。生きていたのならそれでいい、あとはどうだっていいのかもしれない。本能で生きる動物達には、命のやり取りなどそんなものなのだろう。同情も憐れみ存在しない。それを悲しいと思うか、あっさりしていると考えるかは人間だけがすることなのだろう。

「でもね、どう受け止めればいいか、わからないよ。私、どうしたらいいと思う?」

アランの体に顔を埋めて、その温かい体に涙を落とした。そこでようやく彼はハルの様子を察したのか、首を曲げてハルの方を見た。アランは何も答えない。答えるはずがない。きっと彼には、ハルの思い悩んでいることが理解できないだろう。それをわかっていながらそれでもハルは、アランに寄り添わずにはいられなかった。この濡れた温かい体に気がすむまでしがみついていたかった。


雨が止んだのは、日が完全に沈んからだった。最低限の人数が御者と護衛と明かりに分かれて、薄暗い夜の道を進ませていた。空からは雲がほとんど消えていて、星空がちらほらやけに綺麗だった。雨で待機中の塵などが洗い流されたかのようだった。

夜の山道はランタンなしではまともに歩くことさえできない。自分はもちろんアランが地面を見えるように照らしてやらないと、何かに踏み違えたとき危ない。片手で馬を操るのはなかなか骨が折れるが、今はとにかく交代の時間まで頑張るしかなかった。

暗いせいでどれくらい進んだのか、山のどの辺りを進んでいるのか、よくわからない。何度か騎兵隊は集合して道を探り、なんとか進んでいる状況だった。こんな夜中まで起きていたのは生まれて初めてかもしれない。荷馬車で眠っている商会の者たちが少し羨ましくも思う。ソーラも今頃両脇にチビ助たちを並べてぐっすり眠っているのだろう。馬車に揺られているからぐっすりまではいかないかもしれないが、馬に揺られて起きているよりはいいだろう。

予定では日の出までは行進を続けるはずなのだが、まだ星々がきらめく中、キャラバンは止まってしまった。誰が判断したのかはわからないが、さすがに無理をしているということで全員に休むように指示が下った。もちろん見張りということで起きていろと言われた者も少なくないが、順番で交代するから少しの辛抱だ。

ハルは、初めは寝たかったが、最初の見張りを言い渡された。不満はなかったが、うっかり眠ってしまわないか不安だった。一人で見張りをやるわけではないから、もしそうなったら誰かが起こしてくれるだろう。

馬が嘶く音以外はほとんど音の無い夜だった。風もなく、キャラバンから少し離れているから、寝ている者の息遣いさえ聞こえてこない。周囲にいるかもしれない小動物たちの気配さえ感じられない、本当に静かな夜だった。

見張りには松明を持つことは許されなかった。いざという時に、目が闇に慣れていなければ意味がないからだ。ハルはそれほど目がいいわけではないが、どうやら夜目は利くようで明りのない世界でもすぐに順応できた。

何もない1日ほど短いと感じる日はない。今日一日、ただただ西へ西へと進むだけだった。襲撃もなければ事故もない。数日前には嫌というほどそれを望んでいたのに、今は何も起きないことに苛立ちを覚えている。かといって、今また襲撃されるのはごめんだが、今なら自分は問答無用で殺しができてしまうんじゃないかとハルは思った。一度経験したから、あるいは頭の回路がそのようになってしまったか。どちらにせよ、いるかどうかもわからない敵の存在に恐怖を感じなかった。

「ハル。交代だ。」

背後から声がした。レリックが暗闇の中に立っていた。

「ゆっくり休んで。」

「・・・はい。」

「あぁ、それから、親父が・・・。頭領が来いってさ。ちょっと、勉強会してくれるって。」

よくわからない言い方だった。多分、回りくどい表現を使ったのだろう。本意は読み取れないが、何か大事な話があるにだろうと受け取った。

「じゃあ、お願いします。」

アランの手綱を引っ張ってレリックの横を通り過ぎた。背後に感じる彼の気配がわずかに自分の方へ向けられているような気がしたが、気のせいだったのだろう。

キャラバンは篝火によって煌々と明るかった。電気のない世界でもここまで暗闇をてらせるのだから、火とは偉大なものだ。アランを適当なところで留めておいて、リベルトを探した。頭領からお呼びがかかるのだから、しっかりとした面構えで臨まなくては。とはいえ、眠気がかなり溜まっていて、できることなら早く済ませたいのが本音だ。

リベルトは一人焚き火の番をしながら待っていた。

「おぅ、ハル。悪いなこんな夜中に。」

「いえ、全然平気です。」

長い話になっても、寝なずに最後まで聞けるかはわからないが、気を張っているせいかやけに目が冴えている。

「今まで基礎的なことは教えてきたが、ほとんどほったらかしだったからな。少しは教育してやろうと思ってな。」

リベルトは水いっぱいの盆と黒い長方体の石を用意していた。向かいに座るように促されて。ハルは火を挟んで反対に座った。

「お前の得物、見してみろ。」

腰に挿している小剣を手渡す。ハルと比べてリベルトの体格は倍近い差があるから、小剣がやたら小さく見える。リベルトは鞘から抜いて、血がこびりついた諸刃をじっくりと眺めた。

「人の血ってのは、武器にとっちゃ天敵みたいなもんだ。放って置くとすぐに錆になっちまう。人でも獣でも、何か斬ったらしっかり手入れしないとな。」

諸刃を水に浸しながら、手ぬぐいで血を洗い落としている。一日近く放置してしまっていたから、もうすでに錆び始めているかもしれない。

リベルトは剣を洗いながら、こちらを見ようとしなかった。ただただ作業に専念しているという風で、そんな様子をハルはじっと見ていた。

「すまなかった。」

「えっ?」

「守ってやるだなんて言っておきながら、結局何もしてやれなかった。」

遠征に出立する前、確かに言ってくれた。けれど、彼とて常にハルを見ていられるわけがない。あの時言ってくれた、守ってやるはほとんど気休めみたいなものだ。

「アンジェから大体のことは聞いてる。俺はその場にいなかったが、お前さんのその様子を見れば何が起こったかは容易に想像がつく。」

やがてリベルトは剣を濡らしたまま長方体の石の上に刃を乗せ、心地よい摩擦音を鳴らすように滑らせた。

「まだ二十歳にもいかない娘がなんの支えもなし、こんな血生臭い仕事に飛び込んだのは、そうない話だ。ましてや親も家族もいないんじゃあ、余計酷な話だ。辛かっただろう?」

「・・・」

「人を殺した奴はどんな奴でも変わらざるを得ない。もう前の自分には戻れないだろう。表向き繕う事はできるだろう。だが、どうしても暗い一面ができちまう。お前さんみてぇな青っぽいやつは特にだ。お前さんは純粋すぎる。」

つまり自分は子供すぎるのだと言われていることに途中から気づいた。それも当然。今の今まで、勉強も適当に、全ての日本人の子供が通らされる道を、ごく普通に通ってきただけなのだから、社会の常識も知らなければ、将来性だってほとんどない。その他大勢の一女子でしかなっかたのだから。

「辛いのはわかる。落ち込むのも無理はない。下手に強がってもいいことなんてありゃしない。余計辛くなるだけだ。けど、自分がやったことを責めちゃいかん。お前さんは確かにあの男を殺してしまったが、・・・お前があそこで殺していなければ、他の誰かが殺されていたかもしれんのだ。商会の頭のクラウスかもしれない。お前に懐いているソーラ嬢かもしれない。お前以外の誰かが、その左手の傷では済まされない傷を負わされていたかもしれないんだ。」

それを聞いて褒められているのか、慰められているのか、判断がつかなかったが、少なくとも傭兵として正しいことをしたということなのだろう。

「でも、私は・・・。」

「わかってる。お前の今の心情はよくわかる。どんな理由があったって、それにどれ程正しい理由をくっつけたって、人殺しは罪だ。誰からも裁かれることがなくたってお前はその罪を一生背負っていかなけりゃいかない。だからこそ、他人より強くならなきゃいけないだろう。」

強く、というのは単に力が強いという意味では無いだろう。

「ハル。お前さんのいた世界は平和なところだったのか?」

そういわれてはじめて向こう側とこちら側を比べたかもしれない。こちら側にあるもので、向こう側に無いものはないだろう。こちら側に来てから、不便だと思うことは多かった。ただ平和かどうかといわれたら判断に難しい。

「戦争はありましたけど、少なくとも、私のいた国は平和なところでした。」

「そうか・・・。そういうところで暮らしていたお前さんにゃ信じられないかもしれんが、ここでは普通に人が死ぬ。あいつらのように職を失い手を血に染めるようなやつらも五万といる。それだから俺らみたいな傭兵が食って暮らせるのも事実だ。、少し前までアストレアでは内乱もあった。それが終わった今でも、普通に生きていくだけで、大変な思いをする。それがここの現実だ。ハル。お前には、さぞ生きづらい世界だろう。」

生きづらい世界。そんなこと向こう側では考えもしなかった。暮らすお金は親が稼いでくれる。素行に走らなければ、平穏に暮らしていけるのが常だった。身近な人が死んだり、生活に困っていたりしても近所で助け合ったり、国が補償してくれたりしていた。そんな世界を生き辛いだなんて思うはずもなかった。この世界は違う。生きることに必死にならなければならないのだ。けれど、それでいちいち落ち込んでいてはきりが無いのだ。

「だがなハル。それでもお前はここで生きていかなきゃいけないんだ。向こう側へ戻る方法を探すといっていたが、それまでここで暮らさなきゃいかん。それがいつになるかは俺にもわからんが、その間に幾度も辛い思いするだろう。」

どうすることも出来ない。そういわれているのだ。辛くても耐えるしかない。

リベルトは剣を研ぎ終えて出来栄えをじっくりと見ている。焚き木に照らされた刃は新品のように耀いていた。こんな重い話をしながらリベルトは表情を変えることはなかった。ただただ作業に没頭していたのだ。それだけで、この人との差を思い知らされた。年齢だけじゃない心構えのような内面の方も。

「これも縁だ。今から別の職探しをするって言うならかまわない。付き合いってのはそうそう切れるもんじゃねぇ。最後まで面倒を見てやる。クラウスに頼むのも良いだろう。この仕事は、今のお前さんには、荷が重過ぎると思う。」

前に、傭兵か商人かといわれたときと同じだ。自分は試されている。自分のことだから、自分自身で決めていかなければならない。

「でもそれは、問題の先送りでしかならない。ですよね?」

ハルはリベルトの目を見てしっかりとそう答えた。リベルトは苦笑いをした。

「あぁ、そうだ。どの道を選んでも辛くないことなんてない。」

今ここで別の道へ変えたとしても、きっと違う理由で辛くなるときがやってくる。それは傭兵でも商人でも、そしてきっと、ハルがいた向こう側でも同じことなのだろう。

「お前がまだ傭兵として生きてくというなら、こいつを取れ。」

そういってリベルトは小剣を差し出した。

「お前の年で傭兵やってくなんて話はきいたことがない。けど、ここで人の生き死にを知っていくことはお前にとって必要なことだと、俺は思う。なんにせよ、お前次第だ。」

この人は、どこまでも厳しく接してくるのだとハルは思った。こんな荒涼とした世界だからこその人格なのか、あるいは単なる優しさなのか。

ハルは手を伸ばして、小剣の柄を握る。これで最後にしよう。こんな風に自分が進むべき道に迷うのは。これからさき、どれだけの人を殺めようとも、どんなに汚い暮らしをすることになっても、それが、自分が歩まなければならない道なのだから。

「もう、・・・迷いません。」

「・・・相変わらずいい目をしている。その目が曇らないこと祈ってる。大丈夫。お前ならやれるさ。」

渡された小剣を一度みて、腰の帯に挿した。

「まぁ、手入れに関しては見せたとおりだ。お前の相棒のようなものだ。大事にしろよ?」

「はい。」

「さて、勉強は終わりだ。今日はもう寝ておけ。明日は好きなだけ寝坊して良いぞ。」

そういってリベルトは立ち上がりすぐ傍にかけてあった大剣を背負って暗闇の中へ歩いていった。どこまでもあっさりしているというか、つかみどころの無い人だ。

ハルはもう一度剣の柄に握って、その感触を確かめた。これから何度もこの剣を抜き、多くの人間を傷つけるだろう。その血で染まる手を、自分が生きている証としていくことを、ハルは心に誓ったのだった。


ハルが目を覚ましたのは、ちょうど正午を迎えた辺りだった。時計が無いためこちら側では、時間はほとんど感覚的なものだが、ある意味時間に縛られないのは気が楽だった。

行進はもう第二の山脈の峠を越えていて、岩肌が目立つ山肌を滑るように降りていた。こんな場所でも獣道というものは存在するのかと不思議に思った。こんなにも危険な道を、例え平らな道でさえも昨日の野党のような連中がいるのに、街々を行き来する人たちはいるということだ。

特に合図があったわけでもなく、突然キャラバンが止まったかと思うと、しばらくしてまた動き出した。ハルは身支度を済ませ、隊列に戻ってから知ったのだが、どうやら小さな旅団がキャラバンに加わったらしい。彼らの話によると山を下ったあたりにある小さな農村まで同行したいらしい。この先何か危険があるのかというと、そういう訳でもないらしい。少し胡散臭い人たちだったが、悪い人たちではなさそうだから、同行を許可したらしい。進路が変わるわけでもないので、そのときは余計な勘ぐりもすぐに失せていた。

少しだけ賑やかになった、一行は滞りなく山道を下っていた。はるか目前には最後の灯台である巨大な山脈がうっすらと空と同化して見えた。今まで二つの山脈よりも大きく、最も険しい行路であると聞かされている。新たな決意を胸に、ハルはアランに揺られながら、最後の山々を見据えた。

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