白の化身  ~前編~

一度だけ、夢に見たことがある。限りなく広がる雲海を、鳥のように自由に飛びまわったことを。

水平線ならぬ、空平線のはるか向こう側で光輝く太陽へ向かって飛んでいったのだ。



天気は快晴。周囲を山々に囲まれた盆地には、大小様々な田畑が広がっており、その中に小さな村があった。山中なので日差しが強く感じられるが、流石に冬間近な時期なので、暖かさよりも寒さが上回っているようだ。辺りに雪こそ積もってないが、これから超えなければならない最後の山の頂上辺りは、うっすらと白化粧が見られた。

キャラバンはというと農家の外れに一列に並んだまま停泊していた。これまでドタバタな出来事ばかりだったため、周りに危険もないだろうから、まとまった休憩を取っていたのだ。

行進日程は、早足で進むことが多かったせいで2日も余裕ができていた。もちろん早い分には何の問題もないが、馬たちの休息や、馬車の車輪の点検などしっかりしていなければ、いざという時に事故が起こる可能性がある。そういった意味でもここいらで入念に準備を整えようという事だった。

途中から同行したいと申し出た旅団は、無事辿り着けて何よりだったのだが、どうやらやはり裏があったようで、この辺りの良くない噂を聞いていたらしい。曰く、この先の山には龍が出ると・・・。


「龍なんて、本当にいるんですか?」

あくまで噂、されど噂。どこまでが本当で何が嘘かを判断することはとても難しいことだ。

農村の住民たちに話を聞いて、戻ってきた者たち話を統合すると、要するにこれから通らなければならない山脈、通称エンタイロンから。時折奇妙な鳴き声が聞こえてくるという。

「鳴き声って、どんな?」

農家から買い付けて、薄切にして軽く炙ったチチャ芋という野菜を食べながら、情報を聞いてきたイアンさんに疑問を投げかけた。

「村民はみんな爺ちゃん婆ちゃんだからな。どんなって聞いても、みなそれぞれに言い出すからよくわからなかったけど。一人、詳しく話してくれた人がいてな。その人によると、少なくとも動物が鳴くような声には聞こえなかったらしい。」

「どういうことっすか?」

同じく芋をかじりながら、話を聞いていたラベットが聞き返す。

「人間が笛を吹いたような響く音で、山びこのように反響して聞こえてくるんだそうだ。」

「これだけ山が連なってれば、山びこくらいはおこるんじゃないですか?」

「それは俺も思ったさ。けど、その人は長いこと山に住んでるから山びこがどういうものか知ってるし、その泣き声は、山びこのそれとはまったく違っているって言うんだ。」

説明を聞く限りでは曖昧すぎて創造するのが難しいが、何年も山に住んでいる住人が異様さを感じ取っているのは事実らしい。

「まぁそれでも、龍がいるっていう話を信じるには値しないけどなぁ。」

「え?どうしてですか?」

「どうしてって。ハルは、龍なんて生き物がいると思うか?」

そんな風に聞かれたら、誰だってそんなのいない、と答えるのではないか?そんな生き物はいるはずが無い。人間の創造の産物に過ぎないと。

多分、向こう側ではそう言うだろう。誰に聞いても、龍は、ドラゴンは御伽噺だと。ハルはこちら側のことを知らない。それ故に、ついついいるものだと思っていたのかもしれない。ここは、ハルにとって異世界だから、何があって何が存在しないのかその常識が抜けている。

龍はいない。それはこの世界でも極当然なことのようにイアンは言っている。

「いたら、恐ろしいですけど・・・。」

「いるはずが無い。そういう生き物だよ。龍は。」

彼はそう言いきっているにもかかわらず、なぜか表情は曇っていた。

「だけど、不思議なことにいろんなところで龍を見ただの、住処を見つけただの、可笑しな話が飛び交っているんだ。だれも見たことが無いはずなのに。」

「それって、今回みたいな噂がたくさん出て回ってるってことですか?」

「そういうこと。」

噂というのは人から人へ伝聞するものだ。そしてそのたび形を変えていく。元あった話そのまま伝わっている噂など、人間が不完全である以上ありえないことだ。だから、そういった噂が全て誇張されたり、話が摩り替わっていたりするものとしても、それでも龍の存在をちらつかせているのは、たしかに可笑しなことだ。

「でも、実際誰も見たことが無い。それも事実さ。龍みたいな姿を見たといっても、遠めだったり、影だったり。それがはたして本当に龍と呼ばれる生物なのかすらわからない。それを言ったら、翼龍だって龍じゃないかって言うのと同じだからな。結局何もわからないんだよ。龍はそういうものなのさ。」

龍はいる、いない、では無く、いるかどうかわからない、という解釈は、的を得ているのかもしれないが、ハルの中には飲み込みきれない疑問がいくつも残っていた。

とはいえ、そんないるかどうかもわからない脅威のために別の行路を探したり、今更引き返したりなど、そんな選択肢はありえないだろう。向こう側でも、交通事故に合うのが怖いから車に乗らないというのと同じだ。

もちろんハルもそんなことは理解していた。確実にいるという情報が無いのなら、いないと考えるのが普通だ。それでなくても、龍なんて生き物がいるとは思えないという大前提がある。夢でもない限り出会うことはないだろう。それなのに、

(落ち着かないなぁ・・・。)

不思議と心がざわついていた。怯えているとか、怖いもの見たさで浮ついてるわけでもない。体の中にある形の無い臓器が、心臓の鼓動のように激しく胎動している感覚があった。抑えようにも、意識がそのことばかりに集中してしまって、どうにも自分の中で制御が出来ないのだ。言葉にするのが難しく、発散の方法もわからなかった。

この上なく不快だったが、そのうち収まるだろうと何事もなかったようにチチャ芋を飲み込んだ。龍に関しては、なるべく考えないようにしようと自分の中で言い聞かせて、ハルは逃げるようにその場から離れていった。

鷹の団では、龍が出るかもしれないという、少々緊迫した雰囲気になっているが、ファルニール商会の方では一時ののどかな休息を満喫しているようだった。ハルは、見慣れた茶毛頭の少女を見つけた。

「ソーラ。」

声をかけると、いつしかぶりに見るハルにとっての妹分がこちらに振り向いた。ソーラは一瞬いつもの快活な笑みを浮かべたが、すぐにその明るさは霞んで、悲しそうな目でハルを見た。

「ハルさん・・・。あの・・・。」

その声からは、不安と恐怖が入り混じっているに感じた。ソーラは決してハルを直視せず、手を合わせて、うつむいたまま。13歳でその答えを導き出すのは難しいはずなのに、一生懸命ハルにかける言葉を捜しているようだ。

今彼女の前に立つ女は、以前とは違うのは明白だった。ハルは、きっと、自分では見れないけれど、酷く悲しい色の目をしているのだろうと思った。顔は笑っているのに、目が笑っていない、の見本のような顔をソーラに向けているのだろう。それでなくたって、髪の色は所々赤黒く変色し、左手には汚れた包帯が巻きつけてあって、あの時身に着けていた衣服のままだから、返り血によって姿を変えた生々しさが目に見えてわかる。そして、ハル自身が背負った罪も相まって、ソーラにその難題を突きつけてしまったのだ。

前に、ソーラの生い立ちを聞いたとき、自分もこんな顔をしていたのだろうかと、ハルはそのときの自分を思い返していた。話すのが辛いとは思わないと、ソーラは言っていた。それが、どれだけ強いことかハルにはわからなかった。自分よりも年下の女の子が、自分よりも過酷な運命を辿ってきたのに、それを包み隠さず話すことが出来ることが。涙も流さず語ってくれたソーラのことが今になってようやくすごいと思えた。

「ソーラ。あのね・・・。」

言葉が出てこないのは、ハルも同じだ。だれかと真面目に取り合うことを、いままで逃げてきたのだ。突然その時に何かをいえるはずもない。ただ、ソーラはずっと待ってくれている。

「・・・・ふぅ。かっこ悪いでしょ?」

ハルは苦笑いを浮かべながら、自分の姿を見せるように手を広げて見せた。

「あんなに特訓したのに、この様だよ。本当最悪。何も出来なかった。」

自虐しているわけではなく、そのままの意味で言ったのだが、ソーラはどう受け取ったのだろう。あの時、ハルは何もできずに、自分じゃない何かに取り付かれるがまま人を殺めてしまったのだ。

「多分、もっと長く剣術を習ってても、結果は同じだったって思うんだ。・・・何の覚悟も出来てなかったから。」

ハルが言葉繋ぐたびに、ソーラの表情が徐々に歪んで行く。今にも泣き出しそうな顔で、ぎゅっとワンピースの裾を握って我慢していた。

「心配かけたよね。ごめんね、ソーラ。」

「ハルさん・・・。」

「もう、・・・大丈夫だから。」

ハルはソーラに近寄って、右手でそのふさふさした髪を撫でた。いつも自分で整えているという彼女の髪は艶があって、僅かにツンとした香料の香りがした。髪を撫でる度に、ソーラの目から大粒の涙が零れ落ちていく。ハルからしてみれば、彼女には泣く理由が無いはずなのに、なんとなくわかる気がした。そのままソーラをそっと引き寄せて、自分の胸の中にしまいこんだ。抱き込んでから、血の臭いがしないだろうかと、不安になったが、ソーラはそんなことお構いなしに声を殺して泣いていた。

何がそんなに涙を流させるのか、おそらく聞いても上手く話せないだろうけれども、自分のために泣いてくれる友人がいることに、喜びを隠すことは出来なかった。

「ずっと知らんぷりしててごめんね。」

声をかけても、ソーラには届いているのか。背中をとんとん叩いてやっても、ハルの胸にしがみついたまま離れなかった。そうやってしばらくしているうちに、周りには幾人かの商人が寄ってきて、ハルに声をかけては励ましてくれた。それと同時に感謝もされた。やがて、妹分の母親まできて、一緒に泣き始めたものだから、収拾がつかなくなってしまった。ソーラが泣き止んだのを機に皆散り散りに自分の馬車に戻っていったが、ハルはソーラの手を引いて、少しだけ野原を歩くことにした。

「落ち着いた?」

隣を歩く少女は、いつもと違って年相応の幼さを見せていた。普段は双子の姉として、商会の一員として凛とした姿でいたけれど、中身は十三歳の子どもなのだ。

「すいません、その、取り乱しちゃって。」

「ううん。気を使わせたのは私だし、それに・・・。」

途中で言いよどんでしまったから、ソーラは不思議そうな目を向けてきた。何が言いたかったかというと、少しだけ照れくさい台詞を吐き出しそうになったのだ。まだそれほど長い時を共有してきたわけでは無いのに、ソーラを妹のように思ってしまっている。もしかしたら、彼女も同じように思ってくれているかもしれないが、それを知ってたとしても嬉し恥ずかしで結局告げることはできなかっただろう。

「ねぇソーラ。」

「なんですか?」

ハルはまだ数日前に彼女から言われたことを、飲み込みきれていないのだった。

「私、かっこいい人になるから。ソーラが言ってくれたかっこいいがどれほどの理想的なことか計り知れないけど、・・・。」

「ハルさん。・・・ハルさんはかっこいいですよ?」

「ありがと。でもね、私にはまだいろいろと足りないものがあるの。」

ソーラは小首をかしげた。まだ幼い彼女がどんな想いで自分を慕ってくれているのか。ソーラの言葉は単なる憧れなのかもしれない。こうして隣り合っているのが至極当然というように、ソーラは傍へ寄ってくる。下手をしたら自分より人間が出来ているかもしれない年下の少女から向けられる眼差しが、ハルの中に大きな衝動を生み出しているのは確かだ。

「ソーラに言われたからって訳じゃないけど、変わらなきゃいけないの。」

「えーっと。よくわかんないです。」

「ふふっ。いつかかっこいいところ見せてあげるって意味。」

それでもソーラはいまいち納得していなかったが、今できる一番の笑顔を見せてやると、

「いつものハルさんに戻ってる。」

と、安心したように肩にもたれかかって来た。ソーラの素直な行動に、やはり家族のような愛情が芽生えていることをハルは再認識した。


太陽が沈み、山中の盆地からは一切の自然の喧騒が消え、静寂に包まれた夜が訪れた。空気が澄んでいるせいか、あるいは標高が高いせいもあるのだろう。月明かりがやけに眩しく感じられ、かがり火を掲げていなくとも困らないくらいに明るい夜だった。

キャラバンは、相変わらず農村から外れた草原にキャンプを張って、穏やかな時間を過ごしていた。ここまでの道のりは、どうやら今までに例を見ないくらい不運な行進だったようだ。おそらくは、アストレア王国での内乱が大きく影響しているらしい。ファルニール商会もそれによってルーアンテイルに撤退したそうだから、しばらくは落ち着かない世の中になるそうだ。

ハルにとって、こちら側の国がどうなろうが知ったことではないが、それが自分の生活環境が脅かされるというのはやや不愉快ではあった。そして何より、あの国の王族には、訳の分からぬ因縁がある。今は何がなにやら分からないが、そのあたりについてもいろいろ知っておきたかった。

商人たちが各々眠りにつき始めた頃、傭兵たちはみんな揃って作戦会議を開いていた。今日入手した情報とあらゆる可能性をひねり出して、明日目指す山脈に何がいるのか、その対処法を相談するのだ。

「エンタイロンにいるのはおそらく翼龍だ。村人たちは龍だっていってるが、この辺りで龍が出たなんて聞いたこと無いからなぁ。」

作戦会議といっても、それぞれ適当にくつろぎながら、上が言うことを聞いているだけだ。現にハルも、変色してしまった自分の髪を弄くりながら、片耳で聞いているような状態だ。

「なら石弓ださないとだな。」

「隊列はどうする親父?若いので翼龍の相手できるのなんてそんなにいないから、ベテランの後衛隊に分かれてもらったほうが、どこに割り込まれても対処しやすいと思う。」

「そうだなぁ。」

翼龍がまだどんな生き物かわからないハルには、それとどう戦うかなんて見当もつかない。アンジェの話では、荷馬車よりも大きな固体がいるという。そんな怪物じみた相手に、小剣なんかで太刀打ちできるとは到底思えなかった。

「あの、アンジェさん。」

アンジェはハルの隣で髪をすいていた。その手を止め、視線だけを向けてきた。

「んん?どした?」

「翼龍、と戦うんですよね。」

「・・・まだ、そうと決まったわけじゃないから、安心しな。」

気休め様に言っていることに彼女自身申し訳なく思っているのか、言葉に意思が伴っていなかった。

「ねぇ、ハル。あんたは、無理しなくていいんだよ?」

「そんなこと、ないですよ。」

苦笑いを浮かべながらそう答えると、アンジェは手を止めて顔をうつむかせてしまった。

「あたしは、あんたのために何もして上げられなかった。目の前の敵ばかりに目が行って・・・。守ってあげる、だなんて。」

彼女も言ってくれた。守ってくれる、と。けれど、それをどうこう言う気はハルにはなかった。恨んでもいないし、できることならこんな風に落ち込んで欲しくも無い。それを彼女に求めても意味が無いことは分かっている。これからのことを考えれば、相棒となるアンジェとこのような状態ではいけないのも分かっている。

強くなろうと意気込んだものの、こういうことへの対応はどうにも思い浮かばない。人生経験に関して言えば、今まで同世代の子どもと、平和ボケと言ってもいいくらい安穏とした環境でしか育んで来れなかった。

ただこのまま仕事の戻ればお互いやりづらくてしょうがないだろう。普段の自分なら年上であるアンジェが何かを促してくれるのを待っていただろう。それでは何も変わらないから、ハルは、震える内心に鞭打って、堅く閉じた口を開いた。

「そんな風に、言わないでください。わたし、誰かのせいだなんて思ってませんから。それに、アンジェさんがいなかったら、本当に殺されていたかもしれませんから。」

「・・・情け無い話だよね。目の前の敵ばかりに目が行って、あんたに、いいところ見せたかったんかね。あんたみたいな後輩はじめてだったからさ。力入ってたのかも。」

アンジェは苦笑いをしながらそう答えた。

彼女とて油断していたわけではないのだろうと、ハルは理解していた。話に聞く限りでは、アンジェは傭兵としてもう数年の経験を積んでいるだろうから、今回のような場面は幾度も乗り越えてきただろうに。それでもミスを犯してしまうのは、仕方の無いことなのだろう。人間が人間である以上失敗を完全になくすことは出来ないのだ。

だから、アンジェが犯したミスをしょうがないで済ませるかというとそういうことでもない。失敗を戒めなければいつまでも成長は出来ない。ただ、今回のことは、ハルにとっては初めての経験だから、何を糧とすればいいかがわからないのだ。

「傭兵としてはあんたに、良くやったねって言うべきなんだろうね。よく立ち向かったなって。でも、それじゃ悲しすぎるだろう?甘い事言ってるかもしれないけれど、あたしらは軍隊じゃないんだからさ。あたしはあんたの辛さを、少しでも失くしてやらなきゃならないのに。」

彼女は優しい。そんなのはわかっている。お互いがお互いを気遣いあうこの会話が、世の理不尽を物語っている事もわかる。それに抗う術がなくて笑いたくなるのも、お互い弱いのだ。

「ソーラに言われたんです。かっこいいって。」

空を仰いで独り言のように言ってみた。アンジェは、髪をすくのをやめて、ようやくハルの方を向いた。

「遠征が始まってすぐ、剣を吊るして、アランに跨った姿がかっこいいって。でも、私は否定して、レリックさんやアンジェさんの方がかっこいいって答えました。もちろん照れ隠しでそう答えたってこともありますけど、私にとって鷹の団の皆は誰にしたって、道を示してくれる先輩なんです。何もかもわからないこの世界で、私が選んだ生き方の先輩だから。」

アンジェは少しだけ顔を伏せて、手で目元を隠した。

「アンジェさんが、私のことを妹分だって言ってくれた事、すごくうれしかったです。こんな風に良くしてくれる人、向こう側じゃいなかったので。だから、生意気かもしれませんけど、かっこいい姉貴分でいてほしいんです。」

ハルにとってはこういった関係は初めてだったから、傭兵として、人としても先輩である彼女に、こんな言葉でいいのかわからなかった。ただ、ハルにできることは、今ある思いを言葉にして正面から向き合うことだけなのだ。

「私、また泣いたり、落ち込んだりするかもしれませんから。その時、力を貸してください。」

自分でも、おそらく向こう側では決して口にすることの無いようなことを口走っているとわかっている。少しくすぐったいような、普通の人が言わない台詞に抵抗があるのだった。しかし、アンジェには何かが伝わったのか、彼女もまた、してやられたという風な様子で苦笑いを浮かべていた。

「まさか、ハルに喝を入れられるとはね。まだまだ、女の子だと思ってたけど、案外強気なところもあるんだね。」

「そう、ですかね。まぁ、向こう側じゃよく・・・。」

男勝りと言われていた、と言おうとしたけれど、言うのは憚られた。言われていたのは事実だが、ハル自身、断じて認めてはいないのだから。

「とにかく、私、強くなりますから。」

「ふふっ。かっこよくなるんじゃなくて?」

「・・・かっこよくもなります。」

からかわれている事が、今は嬉しくもある。いつもの彼女に戻ってくれたのなら、口下手なりにがんばったかいがあったというものだ。

「なら、あたしもがんばらないとね。」

明日、翼龍と相対することになるかもしれないと言うのに、なんとも和やかな空気だった。もちろん自分たちだけではない。会議中誰も明日のことなんて話したりはしない。明日、どんな風に行進して、いるかどうかもわからない危険と出会い、どんな風に戦うか。そんなことを考えもしない。明日どのように死から免れるか、その方法さえわからない。

向こう側であれば、ある程度予定を組んでみたり、学生であれば授業にあわせて持っていく教科書を変えたり、必要に応じて準備をするはずだ。もちろん登下校中に事故にあったりして、予定が狂ったりすることだってある。しかし、それは社会で生きていくうえで仕方の無いことだから、誰一人気にしたりしないことだ。けれど、多くの人は万が一そうならないように、あるいはそうなっても被害を少なくするために何かしらのことをしている。極端なことをいえば、交差点の信号はそうならないための最たるものだろう。単純なことだが、全員が同じ認識の下でいれば、事故を防ぐことは格段少なくなるはずだ。

死を身近に感じられるのは、この世界では安全が保障されていないからだ。人殺しも盗みもこんな大自然のど真ん中では、誰に裁かれることも無い。それを恐れるのなら、街から出なければいいだけなのだ。そのことを、この世界の人たちは本能のように身にしみて理解している。なぜ街々をわたるのに人を殺さなければならないのか。なぜお金を稼ぐのに、人から強奪しなければならないのか。ハルは、仕事だからとやむなく武器を持って戦うことに納得していたが、根本的にこの世界の秩序を理解していなかったのだ。

この世界は、そうやって成り立っている。どうしてこんな世界になってしまったのか。こんなにも自分のいた世界と違うのかと疑問に思っても、それはこの世界の住人たちには考えようも無いことだ。そんな哲学じみたこと考え出したらきりが無い。ただいえることは、ハルのいた世界とは比べることはできないということだろう。

作戦会議もそこそこに、夜中のうちに石弓の指導を受けたハルは、キャンプから外れて一人林に紛れ込んでいた。夜の虫たちのさざめきが、向こう側よりも大きく感じられる。こんな季節に鳴く虫がいることもなかなか面白いことだが、ハルの知る虫の声が一つも無いことに驚愕していた。カチカチ、と鋏が刃を閉じるような音や、キィキィと狐が鳴くようなか細い音まで。ちょうどいい大きさの岩を椅子代わりに、ハルはしばし耳を澄ましていた。

これだけ辛い思いをしていながら、帰りたいという思いが少ないのは、少しは成長したと考えるべきか。そもそも帰ることが出来るのか定かでは無い状況では、そんな思考に至らないのも当然なのかもしれない。

(私、本当に帰れるのかな。)

生きるのに精一杯で、向こう側へ戻ることがどんどん遠ざかっているような気がする。だがどうにも出来ないのも事実だ。あの城であのまま訳がわからないままでいるのだって、耐えられるものじゃない。かといって、今も正しい選択をしているかわからない。

(いや、いまはやめよう。)

わからないことは考えても仕方が無い。今が正しいかなんて、そんなの自分で決めることなのだから、自分の意思で正しく導けばいい。それが自分にできる最善の選択なのだ。



いつもよりも背中に重みを感じる。木製とはいえ鉄の金具が使われている石弓は、それなりの重量があった。ボルトと呼ばれる矢のようなものも、束になっているせいか矢筒は相当な重量になっている。アランに跨っているだけだから、疲れることは無いけれど、肩に紐を掻けているせいで下手に姿勢を変えられない。軽く力んでいるから明日あたりに筋肉痛になるかもしれない。今日を生き残れたらだけど・・・。

エンタイロン山脈に突入してから、どれくらい時間が経っただろう。山道はとても緩やかで、岩肌ばかりが目立つが、荷馬車はほとんど跳ね上がったりしない。コンクリートほどではないが、まるで人の手が加えられているようくらい進みやすい道だった。

空は曇っていた。というよりも、山に雲がかかっていて、その中を通っているから、まるで霧がかかっているように見える。もちろん霧ほど視界が悪くは無いけど、雲の中だからやけに風が強く、時折水泡が飛んできたりするため肌寒いのだ。道中、敵対する相手がなくともこうして護衛に努めているだけでも、かなり過酷な仕事だと思う。もっとも、こちら側ではこれくらい大したことじゃないのかもしれないが。

エンタイロンは、これまで通ってきた山とは違っていた。緑が少なくて、生き物の息吹が感じられない。荒廃しているわけじゃなくて、ところどころに鹿や鳥は見かけたけれど、その数は多くはなかった。いつもの私だったら、それに何も感じなかっただろうけれど、少し考えればいろいろと話がつながってくるものだ。翼龍がいるということに思い至るまで、さほど時間はかからない。生物にそれほど詳しくなくとも、圧倒的強者が存在する生態系であれば、この山の姿にも頷ける。その推測が本当かどうかは置いておいて、翼龍がいる可能性は大いに高まったわけだ。

左手が疼くのを感じて、掌をぐっぱ、ぐっぱと開いたり閉じたりさせてみた。包帯を巻いているから完全に拳を握ることは出来ないけれど、その際に帯がこすれて傷口に当たるとなんともいえない痛みが襲ってくる。聞き手ではないから生活に支障は無いけど、しばらくこういう痛みに苛まれるは思いやられた。戦闘になったらそんなこと気にしてられないのだが、力が入れづらいのは少しだけ不安になる。小剣は片手でも持てなくないけど、やはり両手で振るに越したことは無い。それでなくとも、左が思うように使えないというだけでハンデを背負っているようなものだ。

昨夜の作戦会議では、もし翼龍と会敵した場合正面から戦うことだけは避けるように指示を受けた。相手は空を飛ぶ相手だから、縦列にあるキャラバンのどこに降り立つかわからない。こちらは戦力を万遍なく分散しているから、戦力が揃うまでは時間を稼げとのこと。つまり逃げろということだ。当然自分が逃げる前に商人たちを逃がすのは当然だが、それを抜きにしてもなかなか大変なことだ。空を飛ぶ相手から、数秒下手したら数分は粘らなければならない。そうすれば後衛隊の手誰たちが駆けつけて、ぶっ飛ばしてくれるらしい。確かにリベルトや後衛隊のベテランたちが持つ得物はいかにもなものだが、荷馬車よりも大きな生物をぶっ飛ばすなんて出来るのだろうか。

そうこうしている内に、キャラバンは行進が止まり、そのまま休憩することになった。

軽い食事として、塩漬けされた干し肉を貰って、すぐに自分の持ち場に戻った。肉を咥えながら、片手に小剣を握り締めて、辺りに気を散らしていた。以前の私なら、ゆっくり木にでも寄りかかっていただろうに。もちろんそうやって休んでいる傭兵たちもいるが、なぜだが今は休む気にはなれなかった。真面目に働きたいというより、そうやって気を張り詰めていたいのかもしれない。それが、万が一のときに役立つかはわからないけど、それが何かにつながるかもしれないと体が言っているのだ。

不安を掻き立てるのは、こちらが無防備な状態であるからというのもあるだろう。警戒しているとはいえ、一列縦隊で止まっているのは、戦闘を避ける気が無いといっているようなものだ。もちろんそういう作戦でいくと決めたのだから異論は無い。ハルがやるべきことは変わらないのだから。

休憩もそこそこにキャラバンは動き出す。まだ干し肉を咥えたままだったハルは、口に含んでいた分だけ噛み千切って、残りは腰の吊るし袋にしまっておいた。呼吸を整えるようにふーっと細く息を吐くと、そうした息でさえも僅かに白く見えた。まだそれほど体感できないが、この山中の空気はかなり冷え切っているようだった。

薄霧もあってこれまでの山越えよりも不気味な気がしてならなかった。辺りの警戒なんてしようが無かったから、前しか向いていなかった。もちろん、正面にはうっすらと霧に陰っているエンタイロンの本山がそびえたっている。その姿が、強大な何かに見えるのは気のせいだろうが、連日の出来事で精神的に相当まいっているのがわかった。疲れているからこそ、体が怯えるということさえしないのかもしれないが。

風が唸り声を上げたような気がした。山中特有の風鳴りがキャラバンの遥か上空でうねりうねって、霧が細長い蛇のように見えたのは気のせいだろうか。よもや、盆地の村人たちが口にしていたのは風鳴りと雲のことではとハルは思った。もっとも、雲や風なんかはその日によって姿も形も異なるのだから、単なる偶然なのだろうど。

(不吉だなぁ・・・。)

そう思わずにはいられない。向こう側でも、地震雲とか都市伝説的な予兆はあるけど、科学的に証明されているわけでも無し、そんな超常的な現象に恐れを抱くのは、日本人くらいだろう。

とはいえ、目の前で吹き荒れる風雲を見ていると、嫌な予感がしてならない。ハルには、霊感のような特質は持ち合わせていなかったが、ハルの想像し得ない何かが近づいてくるのを感じ取っていた。

それを証拠に、黒い巨大な影がキャラバンを通り過ぎていった。ハルの真上を通り過ぎたのはほんの一瞬だった。だから、それが脅威になるようなものには思わなかったのだ。感覚的にはまさに、数コンマ辺りが暗くなった、ように見えただけなのだから。そんなの、偶然鳥が真上を飛んでいっただけでも起こったりするのだから、誰もそれが、翼龍だなんて思わなかっただろう。

甲高くおぞましい鳴声が当たり一帯に響き渡った。ただその一声でキャラバンはパニックを起こした。それはハルたち人間ではなく、荷馬車を引いている馬たちのことだ。当然彼らも自分たちより強い存在に対して恐怖を覚えないはずが無い。馬たちは、狂ったように暴れだし、馬車とのつながりを力ずくで解こうとした。

「馬たちを落ち着かせろ!」

どこからか、誰かの指示が飛んでくる。おそらくそんなことを言われなくても、御者たちはすぐさま行動しただろう。我を忘れた馬は人間にとってはかなり危険だ。熟達したキャラバンの馬使いたちでもなだめるのはとても難しかった。そして、そんな様子をあざ笑うかのように再び奴の鳴声が響き渡る。そして再び馬たちは速く遠くへ駆けたいとでも言うように暴れ続けた。まるで鳴声で馬を操っているかのように。

ハルもまた、アランの手綱を強く引き、振り落とされないように必死になだめていた。馬の背に乗っているうちはまだ大丈夫だが、振り落とされた瞬間、そのまま蹄で蹴り殺される可能性だってある。それをわかっているからこそ、乗り手が取り乱すわけには行かないのだ。

「アラン!お願い。止まって!」

そう大きな声をあげても、アランは、体を上下に振ってハルを振り落とそうとしてきた。あれだけ、親密な関係になれたと思っていても、恐怖や、あるいは死を間近に感じると生き物は誰それかまわずになってしまうのだ。

予感が的中したのか、あるいは元々奴はこの山を張っていたのか、どちらにせよこうして出会ってしまった。まだ視認できてはいないけれど、奴は敵意を向き出しにして今まさに襲いかかろうとしているのだろう。奴の鳴き声が聞こえるたびに、頭の芯が痺れるような感覚する。ハルは、剣の柄に手をかけ、その手に嫌な汗がにじむのを感じた。

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