白の化身  ~後編~

混乱するキャラバンの真上から、巨大な翼をもつ生き物が勢いよく飛び降りてきた。まるで、山の頂上から岩が転げ落ちてきたかのような勢いで、一台の荷馬車がばきばきと奇怪な音を上げてぺしゃんこになった。

「うわぁぁあああ!」

御者の叫びが、辺りに轟く。その光景はハルの目にも映っていた。一瞬で血の気が引く思いになる。商会の御者はすぐさま手綱を離し、我先にと逃げ退った。ほっと一安心したのもつかの間、ハルは初めて、その生物の全容を目にした。

獅子のような平たい頭部、見た目は四足で立っている様に見えるが、その前足は足というより翼の体を為している。翼に小羽はなく、薄い皮膚の膜のようになっている。その翼膜はそのまま尾翼まで伸びていて、尾自体は胴体と同じくらいの長さがある。胴体と翼だけで、潰れる前の荷馬車を覆うほどの体躯を持ち合わせている。その容姿、体格から、まさに翼龍。話に聞いて想像していたのと大分細かな部分で異なってはいるものの、それが人間にとって仇成す存在であるということは嫌というほど伝わってきた。

翼龍の先制によって、キャラバンは総崩れになった。実害があったのは翼龍が舞い降りた荷馬車だけだが、先ほどの鳴声もあり、ほとんどの馬たちは平静を取り乱し、行進は止まっているだけでなく、阿鼻叫喚な状態になっている。空を飛べる相手では、どう警戒しても防ぎようが無かったのである。

ハルは、何とかアランを落ち着かせると、彼から飛び降りて背負っていた石弓を取り出した。弦を行き絞り矢を取り付け、いつでも発射できるようにしておく。もちろん立った一本の射撃では、あんな生物に大した攻撃にならないだろうが、大事なのは総合力だ。ハルは出発前に教わったことを思い出していた。


「狙うのは翼だ。」

前衛隊に石弓を配りながらレリックは、扱い方について簡潔に話していた。

「翼龍の翼は、翼膜といって、皮膚が薄い膜になって広がっている。そこなら矢を貫ける。一本や二本じゃ大した痛手にならないけど、何本も刺さったり穴を開ければ、翼龍は飛べなくなる。そうなれば、後は取り囲んで袋叩きにするだけ。それが、基本的な戦い方だ。もちろん臨機応変に動くことも忘れずに。」

そう淡々と話していた。話の上でなら簡単そうに聞こえるけれど、実際に翼龍を目の辺りにして、ハルはそれが上手くいくとは思えなかった。

翼龍の動きは、目で終えなくなるほど早いというわけではないけれど、石弓を構えて、直径数センチの矢の狙いを定めるのが不可能なほどにはすばやいのだ。

(こんなの・・・狙えるわけっ・・・!)

翼龍との距離もあり、適当に放ったところで当たりはしないだろうし、仮に当たったとしても、矛先をこちらに向ける可能性だってある。そうなれば更なる混乱を生むかもしれない。

(これじゃダメだ。)

けれどハルの心は以外にも冷静だった。ハルがするべきことは何も翼龍と戦うことだけじゃない。傭兵は守るのが仕事。翼龍は潰した荷馬車をおもちゃのように踏みつけて、暴れているだけだ。あの中に誰かが乗っていたらぞっとするが、そうではない。馬車に乗っていたのは御者のみで、その男も無事に逃げているのだから、慌てることはない。

「ハル。こっちだ」

そうやって考えているうちにイアンがこっちへ来いと手を振っている。周囲には数名の団員と無骨な大斧を担いだ後衛隊のグルードが控えていた。

「構え!」

リベルトに似た野太いグルードの声にハルも従い石弓を持つ団員の列に加わる。そのまま少しずつ回りから仲間たちも集まりだし、少しずつ距離をつめていく。がむしゃらに暴れていた翼龍もこちらに気づき、大きな鳴声を上げる。

「放て!」

しかし、グルードは翼龍に負けず劣らずの大声を張り上げた。皆いっせいに引き金を引き、同時に任数分の矢が翼龍に向かって放たれた。矢が空を切る音と鏃が翼龍に当たる音が聞こえてくる。突然の刺突の痛みに奴は悲鳴にも似た声を上げる。しかし、矢そのものはその堅い皮膚には刺さらず、翼膜に刺さっているのは極数本だった。

「次弾装填!」

それでも、翼龍が見せた一瞬の隙をついて、弦を引き矢を装填する。そして間髪いれずに再び矢の雨を降り注がせる。こちらの力量を知ったのか翼龍はひるむことなくこちらに突進してきた。

「下がれ!。じじい共、出るぞぉ!」

グルードの端的な指示の元、石弓を担いでいたものは下がり、すでに集まっていた後衛隊の団員たちが大きな声を上げて、翼龍に向かって恐れることもなく向かっていく。

ハルは、いまだにあんな巨大な生き物に、人間が叶うとは思っていなかった。圧倒的な体格さ。どれだけ巨大な得物を持っていたって、戦う術など無いだろうと。しかし、そんなハルの認識はグルードの横薙ぎの大斧一振りで覆ってしまった。

以前、アンジェから聴いたことがある。剣の本来の用途は、斬る、ではなく、叩く、であることを。要するに鈍器として扱うのだ。昔は剣を研ぐ技術など無かったから、それが本来の剣の姿らしい。そこへ、刃をつけたことで殺傷力を高めたのが、刀剣というらしい。ハルが持つ小剣や片刃の武器は基本的に刀剣の部類だ。

斬る、という行為は確かに傷を負わすことが出来るが、中には斬れない相手を相手にすることだってある。翼龍の皮膚は鱗の様なもので覆われているらしく、小剣なんかじゃ切れやしないのだ。下手をすれば剣のほうが傷を負わされるほど堅く、まったく相手にならないだろう。斬撃の弱点というべき点の一つである。

初めてリベルトと会ったときから、その武器の大きさには心底驚かされていた。彼らがそんな巨大な武器を担ぐのにはそういう理由があるのだ。人間相手ならば、それこそ腕次第でナイフでも十分に渡り合うことが出来るだろうが、この世界にはそれでは戦えない相手がいるということだ。

グルードの一撃は、端的に言えば斧で翼龍の顔面をぶっ叩いたのだ。もちろんそこに切り口はなく、代わりに翼龍は、よろめくように上体が起き上がったのだ。

「ハル!ぼうっとするな!」

後ろからアンジェの声がした。どうやら戦闘に魅入っていた様で、ハルは慌てて主戦場から離れる。距離は大分離れていたけれど、どんなことが起こるかわからないから、アンジェにつれられて可能な限り離れた。翼龍と男たちの怒号が飛び交っていた。今まさにあそこでは命をかけた生存競争が行われているのだ。

「油断するなぁ。いつでも武器を抜けるようにしておくんだ。」

遅れてきたレリックが皆に注意を呼びかける。相手は空を飛ぶから、目標をいつ変えるかわからない。もちろんそうならないために、ベテランたちは翼龍を釘付けにして、キャラバンから離れるように仕向けている。上手くおびき出しに成功すれば、破壊された馬車をどけて、時間はかかるが逃げのびることが出来るかもしれない。

鷹の団が翼龍を相手にしている間、商会の人たちは、動ける馬車を順次進めていた。まだ馬が正気を取り戻していないのもあり、パニックになっていることには変わりない。それでも皆長年キャラバンを経験している者たちだ。行動が迅速に行われている。このまま翼龍を抑えていれば、被害を最小限に切り抜けられるかもしれない。

「手の空いてる者は馬車の残骸をどかすのを手伝ってくれ。」

こうなれば傭兵も紹介も関係ない。一丸となって事態に臨まねば、切り抜けることは出来ない。力のある男性陣は木屑となった馬車を引きずるように押しやり、ハルはアンジェと協力して、繋がれていた馬の手綱を引いて後ろに下がらせた。

作業の合間に、なおも翼龍の奇怪な鳴声が聞こえてくる。ハルは、そのたびに不安な気を煽られていたが、自分に出来ることを、と常に己に言い聞かせていた。

道はそれほど広くは無い。ベテランたちの引きつけによって多少それたものの、横を通過していくのは危険だった。それでもできる限り隊列を進めて、この場から逃げることが先決と判断したレリックは、自身も武器を抜き、商会の者たちに進むよう促していた。危機であると同時に好機であることは皆わかっていた。

「進んで!早く。」

「とにかく前へ。行け行け!。」

皆それぞれに声を張り上げ、緊張した空気が漂う。ハルもレリックに倣い剣を抜き、翼龍とキャラバンの間に割って入った。

「逃げてもいいんだよ。ハル?」

レリックの声は優しかった。甘やかされてるわけでも、新人だから特別扱いされてるわけでもないのだろう。おそらく本当にハルのことを案じてそういっていることがハルによく伝わってきた。

「大丈夫です。」

何が、とは言わない。そんなことわからない。ただそうやって答えるのがハルには一杯一杯だった。まだ、ベテランたちが一緒だし、それにいい流れではあるから、少しだけ余裕があるのだ。けれど、油断したりなんてしない。気を張り詰めているのは変わらない。今自分に出来ることをハルはしているのだ。

レリックは、そうか、とだけ答えて、すでに山道からかなり離れている翼龍とベテランたちの塊を見据えている。アレだけの巨体、人間が束になって囲っても、そう抑えられるものじゃないだろう。

「レリック君!」

後ろを通るキャラバンからクラウスの声が上がる。

「行って下さい!。」

「すまない。」

二人は視線を交わしあい、すぐに互いのあるべきほうへ向き直る。馬がなかなか言うことを効かず、前に進めない馬車も合って、これでは相当時間がかかるだろうとハルは思った。それまで彼らがどれくらい翼龍を押さえていられるか。もちろん、さっきのグルードの一閃を見て、もしかしたら撃退してしまうこともあるのかもしれないが、今はまだ楽観視出来ない。後衛隊は大体60人くらいだが、そのうちに半分程度が戦闘に参加している。団長のリベルトもそこへ加わり、指揮を執っている。残りの半数と前衛隊の指揮は全てレリックにかかっている。もっとも今は指揮することなどないのだが。

一際大きな翼龍の鳴声が轟いた。翼龍の鳴声が聞こえてくるたびにキャラバンの不安は大きくなっていった。今にもこちらに襲い掛かってくるんじゃないかと。相手は空を舞ってくるのだ。どこを狙われてもおかしくない。けれど、前衛隊が善戦しているのをいいことに、そのときは誰もがそのことを失念していたのだ。声音の違う翼龍の鳴声を効くまで。

黒い影がクラウスの乗る馬車の頂上に迫った。気づいたときには、大きな怒号とともに二匹目の翼龍が二台の馬車を半壊させていたのだ。

「クラウスさん!。」

「全員戦闘用意!」

レリックが掛け声とともに二匹目の翼龍へ向かって猛進していった。レリックが持つ剣は、細身だが持ち主と同じくらいの長さを持つ長剣だった。父親ほどの無骨さは鳴くとも、似たような気質を感じられた。

乱入してきた翼龍は、荷馬車を押しつぶし、次なる得物へ目を向ける、クラウスに続いて進んでいた馬車の御者へ。

「逃げろ!」

誰がそう叫んだのか。彼の足を動かさせるには十分な声量であったが、少しばかり遅かった。翼龍は翼をなぎ払うように振り、馬車をおもちゃのように転がしたのだ。当然、乗っている彼も、繋がれている馬たちも、そのまま転がされ、岸壁にぶつかるまで止まらなかった。

ハルは、血の気が引いていくのを感じていた。あんな強大な力の前になす術なく蹴散らされる光景に酷く吐き気を覚える。それでも、不思議なことに足が前に進んでいた。

冷静でいられたわけではない、遅ればせながら、レリックに続いて前へ前へ出ようとしていたのだ。もちろん何か策があるわけじゃない。正面から戦わなければならないのだ。


なぎ払われた馬車は破壊されてはいないものの、横倒しになって動けなくなっている。中の御者は無事だろうか。本当なら、ハルのような者は戦いに行くよりも救出をすべきなのではと思わずにはいられない。その判断がハルには着かない。誰かに聞いている暇なんて無いし、かといってボーっと突っ立てるのも違う。やはり、前へ出なければ、最初に襲われたクラウスだってどうなっているかわからない。今一番危険な障害を取り除かなければ何も始まらない。

抜いた小剣を握り締める、レリックに続いていく。彼はちょうど、翼龍に向けて長剣を振り下ろしているところだった。すると翼龍は後ろへ飛び退り、いとも簡単にそれを交わしてしまった。どうやったらそんな動きが出来るのだろうと、驚かずにはいられない。力だけでなく機動力においても、人間のそれをはるかに上回っている。ハルはレリックに追いつき、剣を構える。翼龍はハルを見るや否や、今までに無いほど狂ったような声を上げた。

横から割り込むように矢が翼龍に向かって放たれる。集まりだした前衛隊の石弓隊たちだ。しかし、人数も先ほどより少なくばらばらに放たれた矢はほとんど当たらず、当たったものも刺さることなくはじかれていた。翼龍は少しだけそちらへ目を向ける。その隙を逃さず、レリックが姿勢を低くして切り込んだ。レリックもまた、鍛え上げられた筋力で人間業とは思えない速度で翼龍の懐へもぐりこんだ。そのまま皮膚の柔らかいお腹へ切り込もうとしたのだが、翼龍は何を思ったのか、体を回れ左させて、背中を向けたのだ。驚くのもつかの間、振り向くと同時にレリックは左から回ってくる翼龍の尻尾に打たれて、吹き飛ばされてしまった。飛ばされた先には先ほどなぎ払われた荷馬車があり、レリックは勢い良く打ち付けられてしまった。

「レリックさん!」

ハルは、そう叫ぶものの、彼から返事がかえって来ない。いや、それよりも翼龍は背中を向けているのだ。無防備な背中を襲えるのは絶好のチャンスではないか。しかし、どこを攻撃すればいい?どうやって?斬る?ハルの小剣でそれを行うには、やわらかい部位を的確に狙わなければならない。生憎その弱点である腹は反対に向かれていて、攻撃できるはずもなく、かといって別の攻撃手段など石弓くらいしか持ち合わせていない。今のハルが有効打を与えるのには無理があった。

そうやって悩んでいるうちに後ろへ振り向いた翼龍は、最初に潰した荷馬車を両翼の爪を起用に使って持ち上げていた。

「何する気よ・・・。」

翼龍は持ち上げただけでなくそのまま低く飛び上がり、ハルに向き直ったかと思うと、馬車の残骸ごと春に向かってハルに降って来た。避ける、という思考は当然思い浮かぶし、体も反応できていた。問題なのは避け切れているかどうかだ。もちろん否、ハルは右に向かって全力で飛んだが、叩きつけられた馬車の残骸は着地と同時に四方へ散り、無数の木屑がハルに牙を向けてきた。小さな板材は皮膚に刺さり、細かい針は切り傷を作っていく。それでも動きを止めるわけには行かない。翼龍は翼を武器としてハル目掛けて振り下ろしてくる。間一髪で交わしても、翼爪が地面をえぐり小石や土が無数にぶつかってくる。

攻撃をかわすたび、自身が生きていることを確認し、焦りと恐怖を押し殺して、ハルは翼龍から目を離さなかった。背中を見せたらきっと、何をされたのかもわからず殺されてしまうだろうと思ったからだ。とはいえ、翼龍は執拗にハルを追いかけてきて、ずっと全力で逃げ続けているハルがいつか限界が来るのは明白だった。次はかわしきれない。そう思って必死に飛びこんで、なんとか避けているのだ。体が痛み、息も上がってくる。どこかで、転換しなければならない。そうしないと確実に数秒後にハルは翼龍の爪に捕らえられるだろう。

そんな中でハルが思いついた作戦は。作戦と呼ぶにはあまりにも単純で無茶なものだった。

(それでもやるしかない!)

無謀でも何でもやらなければならない。生きることを諦めたら何かも終わりなのだ。

翼龍の攻撃は単調なものなのは、その動きを見ていたからよくわかる。ただ、とてつもない速さと力を持っているからこそ、人間では到底敵わないのだ。ハルの小剣ではどうあがいても打ち勝てない。けれど、攻撃そのものは見切ることは出来るはずだ。今こうして攻撃そのものをかわしているのだから。

ハルは、小剣を鞘に仕舞い、背中に背負っていた石弓を取り出す。剣と弓、二つを盾の代わりにして、翼龍の一撃を受けきろうとしたのだ。

がきんっ、という嫌な音とともに石弓はその衝撃に耐えられなかったのか、変な形に曲がってしまっていた。鞘にしまいこんだ剣は何とか無事のようだ。これで受け着れなければ、ハルは死んでいただろう。衝撃の瞬間、あまりの勢いに剣と弓は手から離れ、ハル本人は吹き飛ばされていた。吹き飛ばされた先はレリックが飛ばされた方向と同じだ。

ハルとて、闇雲に逃げていたわけじゃない。小剣では到底翼龍にはかなわない。そんなことはわかっていた。太刀打ちできないなら、対抗できる何かを手に入れる必要があったのだ。今それがあるのは、気を失っているレリックから零れ落ちた長剣だけだった。

レリックとの違いは、不意を着かれたか意図的に飛ばされたかだ。本当は受身を取って、長剣を拾うつもりだったが、予想以上に力は強く頭を守るだけで精一杯だった。馬車の車輪の部分に背中を強く打ち付けてしまった。背骨を通して、全身に言葉にならない痛みが駆け巡る。

「うぅぅぅぅ。痛っったぁ・・・。」

涙がこみ上げてくる。今にも足から崩れ落ちそうになる。けれど、痛みに堪えている暇など無いのだ。翼龍はもう一度追撃しようと迫っているのだから。

ハルはレリックの剣を両手で持った。

重い・・・。

かつてハルが剣に慣れるために振っていたものよりもはるかに重い。柄も太くて、ハルの手ではしっかり持つこともままならない。何とか持ち上げたものの、剣先は地面を擦っていた。けれど、ハル愛用の小剣とは比べ物にならないほど頼もしい重みだった。

重量は、ハルのような貧弱な人間にとっては、足枷になってしまうが、本来重量は武器となりえるのだ。世界の物体は必ず質量があり、力は質量の大きさで変わってくるのだ。

不思議なことに、時間の流れがゆっくりに感じて見えた。いや、実際にはほんの数秒の出来事で、単なる錯覚なのだろう。それでもハルには、翼龍が向かってくるのがやけに遅く感じたし、先ほどまで出来事が何時間ものことのように思える。

後ろのほうで誰かが自分の名前を呼ぶ声がした。誰の声か、何を言っているのかよく聞こえなかったけれど、ハルを案じて、今更ながらに逃げろと、そう言っているのだろう。しかし、それは叶わない。今ここで逃げ出したら、一瞬であの鋭い爪がハルの体を引き裂くだろう。

(まぁ、そうなるのが普通なんだろうけど・・・)

運が良かった。それで済ますことは簡単だ。少しでも気を抜いたり、中途半端な回避をしただけで死んでいただろう。今生きているのは運が良かったから。それ以外の理由で説明できるほど、ハルには実力なんて無い。あるいは運命という不確かな存在によって今を生きている可能性だってあるが、異世界に拉致され、人を殺め、他人のために戦う仕事をしながら、命がけで翼龍と対面する運命だなんて、ハルには真っ平ごめんだった。

どうして、こんなことになってしまったのだろう。そう思いたい。そう言いたい。今目の前で自分に爪を振りかざそうとしている翼龍に言ったら、何らかの答えを出してくれるかな。

(ちがう。こいつが私に与えるのは、死だけだ。)

そうだ。今にも翼龍はハルを殺そうとしている。この山が翼龍の縄張りなのかどうか知らないが、奴にとってハルたちはなんらかの敵対対象なのだろう。それ以外の未来をこの翼龍は持ち合わせていないのだ。

なんて残酷な世界だろう。こんなことが日常的に起こっているのだろうか。生きることがこんなにも苦難ばかりでは、生きることが辛くなるではないか。それでも生きるのはなぜなのだろう。

ハルは両腕に力をこめて、長剣を引きずりながら足を一歩踏みだした。長く重い長剣を振り回すのは無理だ。しかし、使い様はある。後はハル自身に意志が宿っているかどうかだけだ。

「・・・来なさいよ。」

全身の力を抜くように、息を吐きながらそう吐き捨てた。相手は、翼龍。人間であるハルにとって、正真正銘の化け物。それでも抗おうと、ハルは思った。辛いのはいやだ。痛いのも嫌。死ぬだって怖い。それでも今は抗うことが当然というように体が言うことを聞かないのだ。ハルにはまだ、その理由を理解できなかった。けれど、いつかその理由を知るためにも、生きたいと思うのだ。

「来い!」

今度は力強く、大きく叫んだ。両足をドン、と地面に固定するように踏みしめる。重心を低くしながら、全身に力が入り過ぎないように脱力する。剣先を大きく円を描くように体を回転させる。やがて遠心力によって剣は浮き上がり。ハルの力でも自由にできるようになる。

振り下ろされる爪に合わせて、ハルは全ての力を剣と一体にさせ、力の限りの怒号とともに剣を振り上げ、翼龍の攻撃をかち上げた。

ハルの剣ははじき返された。しかし、同時に翼龍の爪は酷く損傷し割れていた。文字通りかち上げられた翼の勢いに釣られて、翼龍は体制を崩した。今度こそ、絶好のチャンスだった。返された剣を地面に叩きつけ、跳ね上がらせた剣の腹を使って肩に担いだ。

ぶつかった瞬間の衝撃は春の両腕に大きな痛みを残していた。腕が痺れて今にも長剣を落としそうになる。

(あと少し、あと少しだけ。)

この好機を逃すわけには行かない。だから、この一撃だけでいいからと、ハルは最後の力を振り絞る。肩を支点にして、てこの原理で剣を持ち上げる。あとは、体を前に倒すだけでいい。ありったけの力をこめて、翼龍の顔面に剣を叩き込んだ。

ハルの攻撃は、グルードのように吹き飛ばすまでは行かなくとも、その平たい顔に傷を残し、翼龍を数歩押し返すほどの威力があったようだ。しかし、ハルの体はそこで限界だった。全身の乳酸が体を蝕み、筋肉が悲鳴を上げていた。剣は無造作に手から離れ、足もおぼつかずゆらゆらと千鳥足になりながら、座り込まざるを得なかった。しかし、目は、目だけはずっと翼龍を睨み続けていた。その薄紅く鋭い瞳で、まるで射殺すかのように見ていた。体は動かずとも意志だけは折れていないこと示すように。

志だけでは翼龍を退けることは出来ない。それはハルにもわかっていた。どれだけ強く威嚇したところで、そんなものは猫が鳴き喚いている程度にしか見えないだろう。ハルはすべきことをした。やるべきことをやりつくしたのだ。これがハルの限界。これ以上は望めない。その代わりに、この先はきっと。誰かが穴を埋めてくれるはずだ。

「取り囲めぇ!」

イアンは先陣を切って、翼龍の後ろから大刀を振りかざしていた。それに続いて、アンジェやラベット、前衛隊のみんなや、ベテランの後衛隊までがいっせいに翼龍に襲い掛かった。体制が崩れていた翼龍は悲鳴を上げながら、体に傷を増やしていった。反撃する隙もなく。人間の小さな攻撃に打ち伏していた。一度優勢を取れば、そこから抜け出すのは翼龍といえど難しいだろう。飛ぼうとするところを翼に斬撃を食らい、大きな得物で尾は切り落とされた。

ハルはその様子を呆然と見ていた。先ほどまでの攻防が嘘のように感じる。肩に手を置かれて、振り向くとレリックが起き上がっていた。

「よくやったね。」

彼は笑顔でそういって、ハルから剣を取り上げて、下がっているように指示した。

「このまま首を落とすぞ!」

レリックがそう叫ぶと皆が続いて大声を上げる。ほんの少しとはいえ気を失っていたのに、すでにぴんぴんしているのは体力の差なのだろう。

レリックが戻り、こちらの勢いが勝るとも思ったが、追い込まれた獣ほど恐ろしいものは無い。翼龍はがむしゃらに暴れだし、周りを囲っていた傭兵たちを一払いで突き放してしまった。しかし、すでに弱っているからか、それほど力は無かったようで、皆起き上がるやいなや、再び攻撃を仕掛けていく。それでも翼龍はなかなか堕ちることはなかった。

そうこうしている内に、一匹目の翼龍がベテランたちの方位を抜けて二匹目のほうへ寄ってきてしまった。

「レリックー!気をつけろー!」

リベルトの怒鳴り声がハルのところまで響いてきた。翼龍はお互いを守るように固まって人間の輪の中で反撃を繰り出していた。ここからはもう一進一退だ。どちらかがやられるまで終わらない。ハルが見た感じ翼龍たちは虫の息に見えたが、それでも戦いは、なかなか終わらない。翼龍も、もはや逃げることなど忘れているのか、狂ったように傭兵たちを追い立てている。

ハルもいつまでも休んでいるわけには行かない。まだ体はふらふらと頼りないが、できることをしなければ。ぐしゃぐしゃに潰されたクラウスの馬車へ足早に駆ける。すでに何人かの商会の者たちがクラウスの救出に入っていた。これも幸いか、翼龍が馬車の半分をハルに投げつけたせいで生き埋めになっている感じではなかった。

「私が引っ張ります。」

「頼む。おーい手を貸してくれ。」

逃げるのを急ぐ者。救出するもの。戦うもの。誰もが全力を尽くしていた。皆が困難に立ち向かおうと必死だった。

戦場では、いつ終わるとも知れない戦いが続いていた。誰も油断などしていない。中にはすでに限界に近いものもいる。それでも終わることは許されない。

「後衛隊を中心に攻撃してくぞ。やばいとおもったらすぐ下がれ。いいか?このまま押し切るぞ!」

事実、翼龍が仕留められるのは時間の問題だったのだろう。それは誰が見てもそう思える状況だった。だから、この戦いを終わらせられると思っていたのだ。終わらせるのが自分たちであるとも。

その場にいる誰もが考えもしなかった。

二匹の翼龍よりも大きな鳴声が轟いた。それは鳴声の枠組みを超えて、もはや咆哮と呼ぶに相応しいものだった。稲妻が落ちたような声量でありながら、とてつもない高音が反響しながら反復して聞こえて来る。聞いているだけで気を失いそうになるほどだった。

咆哮は空高くから聞こえてきた。ただ一度の咆哮で、戦闘はあっけなく止まった。まるで時間そのものが止まってしまったかのように。逃げる商会の馬車も、人間も翼龍も、まるで金縛りにあったかのように動かなくなっていた。

見上げるよりも早く、光り輝く巨大な何かが降って来た。それは翼龍の一匹にのしかかり、一瞬で地面にひれ伏させてしまったのだ。再び放たれる咆哮は、まるで自身が討ち取ったと言うように、それは天へ向かって轟いた。

誰も忘れてなどいなかった。その存在を。ただいるはずも無いという先入観だけで否定していた。出会ったのが翼龍だったから、それが全てだと思い込んでいたのだ。

翼龍の倍はあろう巨体は、全身に純白の羽毛のような毛で覆われていた。四足に加え、背中には翼が生え、長い首と尻尾。頭には長く綺麗に伸びる鬣と群青色の角が二本あった。翼龍の平顔と違い、狼のように前に長い。それに比べて目は小さく細く、あらゆる要素が美しい生き物だった。ただそれだけで、それが龍と存在なのだと、誰もが認識したのだ。

押しつぶされた翼龍が力を振り絞って、両翼を使って起き上がろうとする。しかし龍は、前足を翼龍の頭に乗せ、力ずくで地面にめり込ませた。それだけで、翼龍はピクリとも動かなくなった。

龍がゆっくりともう一匹の翼龍へ首を向けると、一目散に飛び退っていった。飛ぶ前の翼龍は、人間の目でわかるくらいに震えていた。表情こそないものの、恐怖に慄いているのが丸わかりだったのだ。

戦場は静かになった。皆誰もが言葉を出すことも出来ず、その場に立ち尽くしていた。今度こそ本当に時が止まってしまったかのように、とても静かだった。その者のまえに人間は皆、命を諦めることしかできなかったのかもしれない。どれだけ足掻こうと、到底敵うはずも無いから。脳裏には瞬くまに蹂躙される未来だけしか見えないのだ。あるいはこの止まったような時間こそが、走馬灯と呼ばれるのものなのかもしれない。

ハルもまた、龍から視線を外すことができないまま動けなかった。それは、恐れに染まり、絶望しきっているというわけではなかった。もちろん恐ろしいことには変わりなかった。怖くて、きっと殺されてしまうんだろうとさえ考えた。

しかし、それ以上に、ハルは龍の姿に魅入っていたのだ。この世に、こんなにも美しい生き物が存在するだろうか。宝石なんかよりも、いや、世界中の金銀財宝を集めてもこの耀きに勝るものなど無いのではないだろうか。

龍は、人間たちを見下ろしていた。先ほどまでの狂気は無く佇んでいた。その視線は、不思議なことに唯一つの白い髪に向けられていたのだ。

(見られてる・・・よね?)

心の中でそう呟くも、ほんの少しでも動けば、後ろから誰かに叩かれるんじゃないかという、そんな感覚だった。だるまさんが転んだのようだ。だが、正確には動けないではなく、動かない、だった。張り詰めた空気にあてられて、じっとしているのではない。体が動かないのだ。

やがて龍はゆっくりと足を動かし始めた。大きな足が地面を踏みしめるだけで、その風圧が小さな威風が生まれている。あれだけの巨体の足踏みなのに、大地の反発の音がしなかった。地表の砂利が揺れる小さな音はするのに、足そのものが地面を踏んだ音がしないのだ。人間ですら靴の素材にもよるが、少なからず音がなるはずなのに、龍はまったく音をたてずに歩いているのだ。

龍はまっすぐハルに向かって歩いていた。距離にして30メートルは離れているだろうか。途中、間を遮る傭兵たちの中を容赦なく進んでいる。彼らは龍に操られているかのごとく、何も言わずに自然と道を明けている。先ほどの翼龍への勢いはどこへ行ったのか、立ち向かうことも無くただただ道を譲っていた。あるいはそうさせられているのかもしれない。翼龍をも凌駕する生物の頂点。蛇に睨まれた蛙の様に、動くことも儘ならず、なにか特別な力で道を空けざるを得ないのかもしれない。

やがて、龍はハルの目の前にたどり着いた。周りにいた商会の人たちも自然と離れていく。彼らを見ると目を点にしたまま、機械のような動きだった。もはや誰からも逃げろと言われない。皆ハルと龍から円を描くように退いた。

おかしな光景だった。自分と龍以外、動くものが無い。あたりは静まり返って、龍だけがハルをじっと見つめている。誰からも、生気を感じない。


ロォン


「えっ?」

龍が、不思議な音色の鳴声を発した。バイオリンの弦をはじいたような音が、喉の奥でくぐもっているようで、和太鼓を叩いた音のように、心臓に響いて聞こえる。それでいて先ほどの咆哮のような力強さはなく、その振動がどこまでも体に染み入っていくような感覚だった。

「ロォン。」

龍は再び鳴いた。その優美な細い目は明らかにハルを見つめている。こんな間近で真っ白な体を持つ龍と対峙していると、目がちかちかする。スポットライトも何も無いのに、体が光り輝いているように見える。そんな中で、やはり恐怖は抑えられなくて、顔を引きつらせながらどうにか龍の視線と交えた。

「ロォン。」

龍がハルの顔をみて、三度鳴いた。ハルはようやく観念して、じっくりと龍を見返す。

本当に大きな頭だ。ハルに限らず人間など丸呑みにできるくらいに。その気になればハルを食い殺すことなど簡単だろうに。龍はハルをじっと見ているだけだった

その瞳は薄紅い色をしていた。どこかで見たことあるような形。どこかで、いや、誰かがそんな色の目をしていた。誰が・・・?

「・・・私?」

龍は、ぬっと首を伸ばしてきて、その大きな口を明けてハルに噛み付いた。ぐっと目を閉じると視界は真っ暗になる。覚悟していた最後の瞬間をそのまま待つ。けれどいつになっても意識がなくなることは無かった。それどころか痛みさえ、感じなかった。その代わり、温かくて柔らかいものが髪を撫でていた。恐る恐る目を開けると、そこは龍の口の中。頭に乗っかるように置かれているのは龍の舌だろうか。ハルは頭を舐められていたのだ。

「なに・・・これ・・・。うえっ・・・。」

舌が顔のほうまでやってくる。龍の舌は湿気が無く、口の中もよく見ると唾液が無いように見える。そのおかげか柔らかい舌に頭を舐めまわされても、深いには感じなかった。むしろ温かくて、少しだけ心地よかった。一頻り舐められると、今度は鼻先をハルの顔に近づけてきた。ハルの目の前に巨大な鼻面が迫る。龍は犬のように、すんすんと臭いをかいで、再びハルをじっと見つめだした。

これだけ至近距離になれば見間違うはずも無い。龍は、ハルと同じ目をしていた。紅く、鋭い、獣のような目を。龍を獣と称していいかわからないけれど、今の龍は犬や猫よりも穏やかな様子だった。そしてハルもまた、恐怖などどこかへ飛んで行ってしまっている。

何かが、繋がりそうな気がする。なのに、どうすればいいかわからない。龍が自分と同じ目を持つことに何か理由があるんじゃないかと、そう思うのに。ハルにはわからない。何もかもが。

龍は何も言わずに顔を離した。上体をおこし、背中の翼が広がったかと思うと、ずんと地面が揺れるような感覚がした。龍は垂直に地面を飛び上がり、大きな翼をはためかせて浮き上がった。そのまま再び咆哮を放つと、瞬間的に加速し、ものすごい速度で天へと飛んでいく。飛び立った後には突風が吹き荒れ、ハルの髪も流されるままに靡いた。手で髪を押さえながら、龍の姿を追うと、すでにエンタイロンの薄い雲の中へと消えていた。龍は何度か咆哮した後、最後に猛禽類のようなピーッという音を放って最後、なんの音沙汰も無くなった。

静まり返った山中からは、ぽつり、ぽつり、と雨音が鳴り出した。龍が去ったと同時に雲は急に暗くなり出し、瞬く間に当たりは洪水とになった。

しかし、人間たちの時間はすぐに戻らなかった。今まで息をするのも忘れるほど身を堅くしていたものたちは、その場に座り込んだり、大の字になったりしていた。誰も口を開かず、雨に打たれながら、自分たちの生存を噛み締めていたのだろう。人間たちはそうやっていつまでも己らに起きた出来事を認識しようとしていたのだった。

ハルは一人、そんな中で、震える自分の手をじっと見ていた。震えていることにすら気づいてはいなかった。きっと恐ろしくて震えていたのではないのだろう。あの龍との出会いが、ハルにとって重要な何かなんじゃないかと、体が本能的に察したのだ。何の根拠も無い、不確かな推論だけれど、確かに何かを感じ取ったのだ。

かつて、ジーグに言われたことを思い出した。


「お前はもともとこちら側の者だからだ。本来ならば、こちら側で生まれ、こちら側で相応しい生を育むはずだった。」


あの話を忘れたわけじゃない。けれど、あの老人が言うことを信じるにはあまりにもハルは知らなさ過ぎる。そして、結局、謎は謎のままだ。

(私は、何者なんだろうか。)

どこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。そんな哲学染みたことを考えながら、ハルはもう一度龍が消えた空を見た。あの龍は、ハルに何かを呼びかけていたのでは無いだろうか。あの弦をはじくような鳴声で。

「また、わからないことだらけだな。」

ハルの呟きは、誰に聞かれることも無く、ただ雨の中に消えていった。そしてハルもまた、皆と同じように、皆とは違う虚無感に心を掴まれてしまったのだった。

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