三章 秘められし強さと優しさ

守りたいもの

一人っ子であることがいやなわけではない。ただ、一度くらいは妹が欲しいと思ったものだ。



初めてルーアンテイルを目にしたときも、同じような感想を抱いた。ハルが知る都市というものを逸脱した造形美が、見ているだけで心を満たしていくような感覚。その街、グレイモアは美しい港街だった。

街そのものの大きさはルーアンテイルには及ばないらしいが、地図を見たわけではないし、全容を知らないハルにはどちらも巨大な都市であることには変わりなかった。港街といっても海に面しているわけではなく、山脈から流れてきた川をまたぐ形で、真水と海水の境界に港街を立てたのだそうだ。特徴的なのは、街に点々とある大きな灯台だった。灯台には巨大な鐘楼が取り付けられていて、この街では鐘の音の回数で、所謂向こう側で言う時刻を知ることが出来るらしい。とはいえ、この世界において時間を知ることがそんなにも重要なことではないとハルは理解していた。あくまで生活の基準としてそういった行いがされているのだろう。

エンタイロン山脈を抜けて、早二日。街に到着したのは深夜だった。夜な夜な大所帯で街に入るわけにも行かず、またこんな大勢を宿に泊めるとなると相当な額を取られるため、街のから外れたところにフレーデル同様、キャンプを作り上げた。野宿にはいい加減慣れたとはいえ、柔らかいベッドへの恋しさはなかなか捨て去ることが出来なかった。

目的地に着いて、傭兵の役割は一旦終わり休業状態になった。しかし、しばしの自由を得られたものの、ハルは一人、自分のテントに篭っていた。というのも、先の戦いで体中に負った傷の手当をしていたのだ。

団員の治療は、団の医術士のレーサーの仕事だ。彼がこのキャラバンの生命線という存在だが、ハルはその彼に頼んで、いろいろと施術について指南してもらっていた。レーサーは心底面倒くさそうだったが、それでもハルのために貴重な休暇の時間を割いて簡単に教えてくれたのだった。

戦闘時には腕や足などさらけ出していたせいもあるが、たくさんの切り傷と痣が点々としていた。痣はともかく、切り傷は切り口に血が固まって赤い線になっていたりして、自分の手とは思えない有様だった。重症では無いけれど、ここまで滅茶苦茶に傷ついた事など今までなかっただろう。少なくとも向こう側では、こんな姿になるようなことは、たとえ無邪気な子どもでさえ無いだろう。普通に生活していれば出来るはずの無い傷。それもちょっと紙で切ったような傷ではなく、放っておけば痕が残ってしまうような大きな傷だ。幸いにも縫うほどのものは無かったが、今でも信じられない気持ちがハルの中にはあった。

レーサーに貰った軟膏を塗りこんで、じわじわとする感覚を堪えながら、腕には包帯を巻いていった。足のほうには軟膏は塗るものの、包帯を巻いたら動きづらくてしょうがないからそのままにしておいた。

脱ぎ離した衣服を着ようとして、しかし、手に取ったところで頭に思い浮かんだことが離れなくて着る気がなくなってしまった。なにを思ったかというと、ここまで着ていたその服は、すでにボロボロに変わり果てていて、血と泥で染まりきっていたのだ。頭では理解していたつもりではあるが、改めてこれを着ていいたのかと思うと、もやもやしたものが湧き上がってくるのは仕方の無いことだろう。

「新しい服、買わないとな。」

ぽつりと呟く声を聞く者はいない。皆今頃街に繰り出して、各々好きな時間を過ごしていることだろう。ハルも、せめてこの休暇のうちに新しい服を新調しようと思った。そこには、どんな服を着ようかとか、あんなものを身に付けたいなとか、歳相応の思想はもはや無かった。あるのは少し丈夫な生地の動きやすいものという、何の色気も無いものだ。身なりなんて簡素なシャツとスカートでいい。それ以外は望まない。必要ないのだから。

なんとも悲しい話だが、こうやって人は順応していくのだと思った。代わり映えの無い格好であることが、高校生であった頃は無性に気にしたのに。傭兵である今の自分では気にもしないのだ。

とはいえ、今はこの汚れたシャツしか無いものだから、これを着るしかないのだが、嫌々袖を通す破目になった。その上から汚れを隠すようにコーシェを纏い、そばに置いておいた小剣を腰帯に差し込んだ。

テントを出ると、近くのテントからヘレンがちょうど出てくるところだった。視線が絡み、ヘレンが苦笑いを浮かべた。

「ふふっ。誰が出てきたのかと思った。」

「え?どういう意味ですか?」

ヘレンは楽しそうに言いながら近寄ってきた。

「ソーラがあんたのこと探してたよ。一緒に買い物行きたがってた。」

ヘレンはくしゃくしゃの包帯と男性用の寝巻きが入った籠を持っていた。ハルは、それを見て今回の遠征で一番の重傷者を思い浮かべた。

「クラウスさん、大丈夫ですか?」

ヘレンは、何も聞かずに察せられたことに驚きながらも、後方のテントを一度振り返ってから、再び苦笑いを浮かべて、

「大丈夫だよ。あの人、案外丈夫だから。昨夜は少し体も起こしてたしね。」

と、少し声を小さくして答えた。

彼は、翼龍の戦闘中、荷馬車で逃走中に狙われ、馬車ごと翼龍に潰されてしまっていた。あのときほど胃の辺りが縮む思いをしたことは無いといえるほど、恐ろしい瞬間だった。ハルにとっては、それが目の前で起きた出来事で当たっため余計だ。あの時は無我夢中でクラウスのことなど考えることも出来なかったが、その後何とか救助に成功し、一命を取り留めたのだ。

「よかったです。本当に。」

そういって返してやると、彼女は珍しくしおらしくなって、汚れた包帯を手で弄り始めた。

「こんな大怪我は初めてだけどね。いつもは、無茶なんてしないんだけど、今回はいろいろ背負ってるから。どうしてもこの道で行くんだって聞かなかったんだよ。」

「行路ってこっちが決めてるんじゃないんですか?」

今まで行進の指揮を執っているのはリベルトだったから、てっきり鷹の団の方で道を決めているのだと思っていた。しかし、よく考えてみれば、依頼主である商会、いわばクラウスが決めて当然なのかもしれない。

「普段はね、リベルトにお願いしてるんだけど、今回はあの人が出来るだけ遠回りしたくないって、我侭言っちゃったのよ。商品の中には時間が立つと悪くなるものあるからって、一日やそこらじゃ変わらないんだけどね。少しでもいいものを売って、少しでも稼ぎを上げるんだって聞かなくて・・・。」

多分、この話は一団員であるハルには、まったく気にすることのないことなのは理解していた。ただこの遠征の裏でそんな思惑があったことに驚いたのだ。そして一つの疑問が浮かび上がってくる。

「どうして、そこまでして、商品の一つや二つのために命を懸けられるのですか?」

その答えを聞いたとして、傭兵である自分にはきっと理解しがたいことなのだろうと思った。

「あたしらは商人だからね。うちの人は、その長。責任があるんだよ。うちの子らに不自由なく生活させてやれるような金を稼がなきゃいけないんだ。もちろんみんなでその努力をしているけれど、この商会を立ち上げた私たちには、いつだって人一倍貪欲じゃなきゃ駄目なんだよ。」

責任と許されない妥協。それは今まで子どもとして生きていたハルには縁遠いものだった。今とてそんなものが自分の役目に絡み付いているとは思わないが、自分の周りにはそういった大人の事情が溢れているのだと思うと、

(子どもなんだなぁ・・・。)

そう思わずにはいられなかった。生きていくためには多くのことを知らなければいけないのは、もう嫌と言うほどわかった。だから、自分が子どもなのは致し方ない。これから知るにしたって、時間がかかるのだから。

「・・・大変、ですね。」

「まぁね。でも、あの人と一緒になる前から、わかってたことだから。今更くよくよしたりしないわ。あんな大怪我負うのも仕方ないのかなって。」

大人の余裕とでも言うのだろうか。彼女は平然と言ってのけた。夫を信頼してなのか、あるいは今より酷い怪我、もしくは取り返しのつかないような事態になっても仕方が無いと本気で思っているのか。ハルには、どこまでも遠い存在のように思えた。

「ハルにも感謝してたよ。潰れた馬車から、少しだけ見えたんだって。ハルが翼龍に向かっていく様子を。あの人、女神が助けに来てくれたんだって言ってて。頭でもおかしくしちゃったんじゃないのって言い返してやったんだけど。」

「女神って、そんな大げさな。」

「あんたの背中に翼が生えてるように見えたんだって。髪が白いから見間違えんだろうけどさ。」

そんな馬鹿な、と思いながらも、そんな風に言われて自分が人を守ったことの実感が湧き上がった。

「私もね、あなたにはちゃんとお礼を言っておきたかった。今回のことだけじゃなくてさ。本当にありがとう。」

そういってヘレンは頭を下げていた。ハルは急なことで驚きながらも、回りを見回して誰もいないことを確かめた。もちろん誰かに見られてまずいことなど無いのだが、こんなことで頭を下げれるのはよくないとなんとなく思ってしまったのだ。

「そんな、やめてください。私、自分に出来ることをやっただけなんです。大怪我させちゃいましたし。」

しかし、ヘレンの考えていたことはもう一つあったみたいだった。

「本当に礼を言いたいのはそのことじゃないんだ。もちろん夫を守ってくれたことも感謝してる。」

顔を上げたヘレンは悲しそうに顔を歪ませていた。

「ソーラのことさ。あんたのおかげで、あの子、すごくいい顔で笑うようになったから。」

「えっ・・・。」

「だから、これからも、あの子と一緒にいてやっておくれ。」



その話を聞いたのは、彼女と出会って間もない頃だ。

クラウス家に拾われて鷹の団に入り、足の怪我の様子を見ながら、一人荷馬車で退屈な日々を過ごしていた頃。彼女、ソーラは私の傍へ寄ってきた。

初め見た印象は落ち着いた雰囲気を持つ子だな、という平凡なものだった。ソーラは、私が商会に入ったものだとばかり思っていたらしく、自己紹介をした後、

「これから、よろしくおねがいしますね。」

と、穏やかな笑顔で言ってきた。不思議な笑い方だと思った。不思議と言う表現が正しいかどうかわからないが、珍しい笑い方だった。心の底から笑えていないと言うか。そんなこと言ったら私だって心の底から笑えてるかと言うと微妙なところだが。言うなれば彼女は全体的に影を持っているように見えたのだ。

すぐに私は鷹の団に世話になることを話すと、やっと相応の幼さと言うか、子どもらしさが見える表情で慌てだしたから、あぁやっぱりさっきのは緊張してたからか、人見知りなのだろうと思った。

怪我の看病してくれたり、私がわからないことをいろいろ教えてくれたり、私たちの距離が縮まるのに、そう時間はかからなかった。そんな中で、彼女はよく私に懐いてくれて、私も彼女といる時間が多かったせいか、いつの間にか特別な思いを抱いていたのかもしれない。向こう側では一人っ子だったし、部活にも所属していなかったから、親しい後輩なんているはずもなかった。初めて出来た年下の友人に、こちら側に来て荒れていた私の心もいく分救われていたのだろう。大事にしたい、いい先輩でいたい、という本能のようなものが湧き上がっていたのだ。

ある日、たまたま二人きりになったときだ。ソーラがクラウス家の中で、一人だけ敬語使うことについて半分からかってしまったことが原因だった。なんでそんなしゃべり方をするのかと。私も含め、他の人にもそうやってしゃべるものだから、そういう性質なのかと思ったが、ソーラは困ったような顔をして、自分がクラウスとヘレンの子では無いことを明かした。私が、次の句を探している間に、ソーラはそのまま自分が引き取られた経緯を話し出したのだ。

彼女の父親は、奴隷商だった。奴隷、という聞きなれない言葉を理解するのにも時間がかかったし、そんなものが存在する事実にも驚いていた。そもそもその父親は、親になりたくて行為に及んだわけじゃなく、親ですらない。ソーラは、奴隷と奴隷商との間に生まれた望まれぬ子どもだったのだ。母親は元々、農家の出だったらしいが、若さと人並みの美貌に目を付けられ、悪人共に攫われたそうだ。この世界において奴隷の扱いは、労働力と言うよりも下仕えの役割が多いという。しかし、ソーラの母親は誰に売られることもなく、奴隷商たちの世話をしながら、いわば娼婦になってしまったそうだ。

そんな吐き気がするような話をソーラは淡々と話していた。自分が生まれてから、母親は出来る限りの行為に走り、心と体を汚されながらも、はした金を巻き上げながら、最後まで娘のソーラには指一本触れさせなかったという。

「母は、口数の少ない人でした。牢獄のようなお家に、毎日男の臭いを纏って帰ってきて。私が無邪気に近づいていっても、決してそのまま触れさせてはくれず、必ず水浴びをしてから抱いてくれました。」

ソーラという名前も、母親にそう呼ばれていたわけでは無いらしく、その頃は名前で呼ばれたことが無いらしい。私はその理由を少しだけ理解できるような気がした。自分と母がどんなおぞましい男たちに囲まれて生きているかわからない幼い少女が、彼らに名を呼ばれ、ついていってしまう事態を避けたかったのだろう。

「私が八歳になる頃、母が帰って来ない日が続いたんです。いつもはどんなに遅くても帰っていた母が、日をまたいでも帰って来ないのは初めてでした。その頃には私もなんとなく、自分と母がどういう状況にあるのか理解しているつもりでした。汚い生活をしていながらも、それでも母は私にとって家族でしたから。母さえいてくれればいいと思っていました。」

けれど、次に母親と会ったのが最後になってしまったそうだ。普段の帰りよりも早い時間に母親はボロボロの布切れを着て戻ってきたと言う。そして、今まで稼いだ金と僅かな食料、そしてソーラを引っ張って奴隷市場の家から逃げ出したと言う。

なにがきっかけだったのか、ソーラにも実際にはわからなかったらしい。訳も分からず母親についていくまま、辿り着いたのは山の中。自分より息が上がっている母親を疑問に思ったと言う。その時すでに母親は、ぼろ布の内側に酷い傷を負っていたのだ。だれに付けられたかも知らず、弱っていく母親を今度はソーラが引っ張って行った。どこへ向かってるかもわからないまま、山奥で奇妙な団体に出くわした。たくさんの荷馬車を引き連れて、これから戦争でもしに行くのかと言うほどの騎兵隊に囲まれたキャラバンだった。当時すでに今と同じ規模を有していた鷹の団とファルニール商会だった。

「私は、皆さんに保護されてから、眠ってしまったようで知らなかったんですけど、私と母を追って奴隷商たちの追ってが来ていたそうです。」

奴隷商たちは、鷹の団、および商会に手を出そうとして返り討ちに合うどころか、傭兵たちはそのまま奴隷解放に至るまで、暴れ続けたのだそうだ。

ソーラが私に口で説明してくれたのはここまで。この話をソーラから聞かされて、私はその時何も言えなくなった。しかし、当の本人はまるで詩人が詩を読み終えたみたいに落ち着いていて、逆に心配されてしまったほどだ。後にヘレンや、団の仲間から聞いた話によると、ソーラの母親はキャラバンと出会ったときすでに瀕死の状態で、助かる見込みはなかった。ただ、眠ってしまったソーラの手を決して離さず、看病をしていたヘレンに、

「ソーラを・・・お願い・・・。」

そう残して息を引き取ったらしい。その後、目が覚めたソーラは母親が死んでしまったことに涙を流すこともせず、クラウス家に頭を下げて、どんなことでもするからと、共に行くことを懇願したそうだ。

それ以来、彼女はクラウス家の真ん中の妹として、義理の親にも、目上の者には敬語を使いながら暮らしている。私はその5年後にソーラと出会い、縁あって友人になったということだ。



キャンプに人気はそれほど無かった。所々で馬車の修理をしている紹介の人たちや馬の世話をしている同僚がいるだけだ。皆ハルのことを認めると、こちらに振り向いて笑顔で手を振ってきた。ハルもそれとなく手を上げて答えていた。どこかに小さな赤毛頭の少女がいないかあたりをうろうろしていたのだが、どうやら既にここにはいないようだった。

ソーラと街へ行こうと考えていたのだが、それはまた明日にすることにしよう。もちろん一人で行くことも出来るだろうが、楽しみは取っておくべきだろう。そして何より、これだけ広大な街を一人で出歩いて帰ってこれる自身が無かったのだ。下手に動き回って、同僚たちに迷惑をかけてもいけないから、今日のところはおとなしくキャンプで傷を癒すのに専念することにした。

傷跡もそうだが、肉体的な疲労も相当溜まっているのが感じ取れた。生死を分ける戦いを繰り広げたせいもあるが、乗馬と言うものは思ってたよりも体力を使うことなのだ。乗馬を抜きにしても、山をいくつも越えてきたのだ。疲れていないはずが無い。

ふらふらと辿り着いたのは、キャンプの中心ともいえる篝火だ。今は日が明るいから、そこに火は無かったが、その時になれば、ここにはキャラバンの全ての者が集まり、煌々と火が灯り、食事を共にする場所に変わる。この世界において、火は唯一の光源であり、熱源でもある。そして暖めてくれるのは何も大気や体だけじゃない。

ハルは、篝火に寄って誰かが置いておいた火打石を手に取り、不慣れな手つきで燻っている焚き木再び火をつけた。山中を抜けて、平野部へ降りてきたからか、気温は大部過ごしやすい程度にはなっているが、時期に冬がやってくると言うだけあって、少し風が吹くだけで肌寒さは否めなかった。

火はやがてハルの膝上程度にまで成長し、あたりに荒々しい光と熱量を放ち始める。これまたそばに蓄えてある枯れ枝や薪を注ぎ足しながら、ハルは火のそばで腰をおろした。

旅の最中も幾度となく目にした火は、徐々に大きく力強く高さを増していった。考えてみれば、向こう側ではこれほど大きな火を目にすることはなかった。電気が存在するあの世界はいつからか火の価値が薄れて言ってしまったのだろう。もちろん料理に火は欠かせないものだが、実際に炎を使わずとも調理は容易に出来るようになってしまっているのは、文明力の差と言うことなのだろう。

橙色の明かりにすがるように手を伸ばすと、その掌がじんわりと焼け付いていく感覚を覚えながら、ハルは一息ついた。

ヘレンからの申し出。ソーラを頼むと言う懇願。事情を知っているからこそ、なぜそんな事になっているかがわかってしまう。本来ならそれは当然親の務めだ。親がしっかりと子どもの心の闇と向き合っていかなければならない。けれどこれは、そう上手くいく話ではない。

恐らくソーラは、ヘレンと実の母親を比べてしまっているのだろう。どちらが母親として優れているかとか、どちらが母親として相応しいかとか、そうではなくて、比べてしまっていることが問題なのだ。ヘレンと実の母親の女性は、同じ母であるが、ソーラは実の母親と同様にヘレンを見ることが出来ないのだろう。それ故に後ろめたさや自分が養い子であることに意識が向いてしまう。表面上は自然に接していても、どこかで一線を引いている。だから敬語にもなるし、お互いよそよそしく見える。それは父親のクラウスに対してもそうだ。ソーラは、決して大人びているわけではなく、子ども過ぎるからこそ親と言うものを明確に区別してしまっている。育ての親を親として認める方法を知らないのだ。

難しい話だが、ヘレン自身もいろいろと上手くいかずに悩んでいたのだろう。そこでたまたま出会ったハルにソーラが懐き、ほぼ丸投げで頼んできたのだろう。

「そんなんでいいのかなぁ。」

呟く声を聞くものはいない。焚き木を注ぎながら独り言を言っただけだ。

ハルがソーラにしてやれることといっても、友人としての範疇でだけだ。自分では、妹のように感じているが、あくまで友人、良くて後輩といったところだろう。出来ることなどたかが知れている。

ただ一緒にいるだけならば、誰にだって出来る。それなのに、あえてその役が自分と言うのは、いささか面倒に思えた。ただの友達としてなら何を考えることも無いのに。

誰かの面倒を見てやれるほど、ハルには余裕がなかった。自分でも、少しだけ心身ともに強くなったと感じることはある。以前の自分よりも多くのことを考え、おそらく向こう側の一般的な高校生よりも思慮深くなっているといってもいい。しかし、この事案はあまりにも荷が重過ぎると言うものだ。

それでも、もしも自分に何かが出来るのだとしたらと、ハルの胸のうちは揺れていた。少なくともハルの前では、ソーラはヘレンが言うように歳相応に笑う少女としているのだから、自分が適任と言えるのかもしれない。

何より、彼女ためなのだ。良し悪しで区別できるようなことでは無いかもしれない。けれど、過去を引きずって義父母に甘えれら無いことが、少しばかり不幸と思えてならないのだ。

(明日は、それとなく話をしてみればいい)

うまくいく自信は無いが、下手に接して今よりややこしくなることなど無いだろうし、やれることを試す価値はある。自分の中に、ソーラに対する親しい思いが確かにあるのだから。


その夜は、遠征の往路成功を祝うささやかな宴が開かれた。

昼間の間に各々好きな酒やら食料やらを買い込んでいたらしく、夕食はやたらと豪華だった。港街と言うこともあってか、この世界では珍しい生の魚介類があり、こちら側で初めて口にする刺身の味にはとても感慨深いものがあった。さすがに醤油があるわけでは無いので、向こう側と同じとまでは行かなかったが、食べなれた魚介の味は、いろいろな意味で安心することが出来た。

宴の話題はほとんどエンタイロンでのことだった。翼竜との戦いから龍の登場までを、まるで吟遊詩人のように振り返り合っていた。なかでもハルが翼竜に立ちはだかったことは商会の者たちからも、まるで英雄のように語られていた。当然、当の本人は照れを隠し切れず、始終顔を赤くしていた。入る穴も見つからず顔色をごまかすようにアンジェに勧められた酒を煽り、初めて飲むアルコールに見事に撃沈してた。

ハルはそのまま、宴のさなかに眠りについてしまったのだった。

宴の喧騒は空が白むまで続いていたというが、後半はほとんど静かに宵の酒をたしなむ時間であったという。

体が早起きに慣れてしまっていたハルは、まだ日が昇りきっていない時間帯に目が覚めていた。今まで生きてきた中で味わったことの無いむかつきと頭痛がまとわり付いていたが、おかげで昨夜自分がどうやって眠ったのかを察することが出来た。

キャンプの残り火は、ちりちりと燻りを残し、その周りを大きな鼾をかきながら寝る男たちが屯していた。静かな朝方、その中でいまだに酒を酌み交わしている猛者たちがいた。

「やぁハル。早いね。」

「一番最初に潰れたやつが一番早起きとはなぁ。」

リベルトとレリックだ。二人はよくこうして親子で飲んでいるのを見かけていたから、相当酒好きなのだろうと思っていたのだが、本当にずっと飲み続けていたのだろうか。

「おはようございます。」

まだ意識は覚醒しきっていなかったが、不思議と記憶ははっきりしていて、自分が二日酔い状態であることにはすぐに納得できた。とはいえ、初めての経験だからどうしても不快に感じてしまう。確かに眠ったはずなのに、まったく以ってそんな気がしない。体の感覚が鈍っているようなそんな状態に思えた。実際何か異常があるようには思えないのに、その違和感がどこからわい沸いて出てくるのか理解できないのだった。

「どうだった。はじめてのお酒は?」

「いい経験だったとは思いますけど、あまり好きじゃないみたいです。」

「はっはぁ、ころっと寝ちまったからなぁ。まぁ無理して飲むこたぁねぇ。酒は付き合いだ。苦手ならちびちび啜ってるだけでいい。お互い楽しくいられればな。」

リベルトの言うとおり、お酒が入ってからは、自然と心が晴れやかになっていたような気がする。もちろん宴の雰囲気にあてられたのかもしれないが、眠るまでの間、ハルはあの大人たちの輪の中に溶け込んでいたのだろう。

(完全に未成年飲酒だけど・・・。)

少し早い成人の義といったところだろうか。今までとは違う世界へ片足を踏み入れたのは間違いないだろう。それを誇っていいのか、あるいは戒めとして自身の糧にするべきなのかはわからないが、また一つハルは自分の意志で自分を変えたのだ。

「ハル。今回は本当によくやったな。こいつなんざ、正面からのやりあいで遅れを取っちまって。」

リベルトはそういって隣の息子を小突いた。

「いやぁ、ほんと不覚を取ったよ。まさか一発でやられるなんて。」

レリック本人ももう過去のことといわんばかりに笑って澄ましていた。

「多分運がよかったんですよ。私、無我夢中でしたし。」

ハルはそういいながら陽気に語り合っていた親子の対面に座った。まだほんのりと熱を感じられる篝火を見ながら、ハルはあの激動の一瞬を思い出していた。

「覚悟とか全然できてませんでしたし、死んじゃうかもしれないって思ってました。」

「誰だってそうさ。戦いってもんはそういうものだ。その時その時にずっと死を思い浮かべながら、それでも自らを奮い立たせるのがどれだけ難しいことか。お前にもそういうことが出来るようになったんだ。よくやったな。」

「・・・ありがとうございます。」

数日前には、どう生きていけばいいか迷っていた自分はどこへやら。完全に吹っ切れているわけではない。手を血で染め、命の取り合いをしていくことを受け入れられたわけじゃない。自分でも不思議に思うが、苦痛と感じることがなくなってきている。慣れてしまったのか、あるいは成長したのか。どちらにせよハルは、苦難を乗り越えることを知ったのだ。

今は妙な達成感が心に取り憑いているかのようで、褒められることがくすぐったかった。手持ち無沙汰に両手を握りしめたり指同士を絡ませてみたりしていた。

「今日は、のんびりできる仕事だから、ゆっくりしてくれ。」

「えっ?仕事ですか。」

昨日は到着してみんな疲れていたから、休暇ということになっていた。そもそも街に到着したのはほとんど日が沈みかけていたから、当然だろうけども。

街につきさえすれば傭兵たちにやることなどないと思っていたが。

「仕事と言っても、単なる付き添いだから適当にくつろいでいるだけで大丈夫だよ。」

「クラウスたちにとっては今日が本番だ。滅多に出回らない商品を見て馬鹿をやる連中がいるかもしれない。まぁ、俺たちが得物を携えていりゃ、未然に防げるだろうってこった。」

そういうことなら、それほど気負う必要もないだろうか。いわゆる用心棒のやることだろうが、リベルトの言う通り武器をちらつかせていれば、そんなことをするものはいないだろう。楽な仕事だとおもうが、しかしハルはあまり楽観していなかった。

「ゆっくりできそうですけど、責任重大ですね。」

そうやって燻っている篝火に向かって言うと、リベルトもレリックの驚いたような表情をした。

「確かにそうだが、安心しろ。取引場は俺たちが作るんだ。そんな中で怪しいことすればすぐ見つかる。楽なもんさ。」

リベルトはげらげらと笑って楽しそうに言った。おそらく彼の言う通りなのだろう。そもそも、この世界でもそんな真似をすれば罪に問われるのは同じなのだ。盗人がいること自体珍しい。それでもハルは、この街があまりいい雰囲気ではないのではという疑念を捨てきれずにいた。

今回の往路でハルにとって、最悪な思いをする羽目になった元凶であるこの街の失業者達。彼らのような人間がいる街が果たしてまともなものだろうか。彼らはもういなくなったのだが、あれだけ大勢が野盗に成り下がったのは、この街にてそれほど大事が起きているか、現在も荒んでいっていると考えるのが妥当だ。とはいえ、リベルトたちが言うようにいるだけで警備になる役割なら、全身に気を張らせることもしなくていいだろう。油断さえ、しなければいい。

「それにお前、昨日は町に行けなかっただろう。楽しんでくるといい。気を晴らして、嫌なことを忘れて・・・な。」

最後の言い方は、おそらく気を使ってくれているのだと、ハルは思った。二人の仲では、ハルはまだまだ青い小娘という印象なのだろう。

なんにせよ、明日は別の意味で忙しくなるだろう。体を休め、拭いきれない血生臭い現実と向き合い、時に楽しみ、そしてこれからのことを、考えていかなければならない。ずっと先送りにしてきた。今を生きるのが精いっぱいで、ならべく考えないようにしてきたこと。

(元の世界へ帰る方法を探さないといけない・・・。)

そのためには多くのことを知らなければならない。なにせ、どうやってこちら側に来たのかさえ分からないのだから。この世界のことを学ばなければならない。

そう思うと、胸が苦しくなるのが感じられた。形容出来ないほど孤独で絶望的な戦いなのだ。

ハルはちりちりと痛む左手を握りしめていた

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