人を守る仕事 前編
冬が近づき、吐いた息が白く見えるようになってくると、ルーアンテイルの街の中はどこも騒がしくなってくる。郊外の農業地区では、今年の作物の刈り取りが行われていて、どこもかしこも田畑が丸裸にされていた。城壁の中では、なにやら街中に飾り付けがされていて、お祭りのようだった。人々も忙しなくあっちこっちを行きかっており、子どもたちにいたっては、街中で歌を歌ったりして騒いでいる。
この街では、冬に一年を締めくくる大きなお祭りがあるらしい。もちろんまだ秋の半ばなのであと二ヶ月は先のことなのだが、そんなに先のことを今から準備を始めるとなると相当大きな催し物であることが想像できる。
そんな中、ファルニール商会は今年最後の貿易を行うキャラバンを作り上げていた。商会の本部の前にはずらりと荷馬車が並び、無数の商人たちが商品を積んだり、交渉したりをしていた。今年最後ということもあるから、この機を逃すまいと貪欲に利益を求めて来ているのだろう。時折白熱した会話が飛び交っている。
キャラバンの先頭でクラウスは幾度となく見た出立準備の光景を見ていた。この年は引越しなどの影響で、あまり利益が上がらず、苦しい思いをしていた。今回の貿易にはそれなりに力を入れているためなんとか成功して欲しいと考えていた。もちろん遠出することにはリスクが伴う。道の途中で何らかの事故に合う可能性だってあるし、無事に物を送れても、買い手の機嫌次第では利益が上がらないこともある。積んでいる品物はどれも仲間たちが選びぬいた上物ばかりだ。それを信頼していないわけではないが、こればかりはどうしようもない。
「なぁ、クラウス。」
同じくキャラバンの様子を眺めていたリベルトが、横から声をかけてきた。
「今回よ、あんまりだったら、俺たちもやり様を考えるから、そう難しそうな顔するなよ。」
「何を言ってるんだクラウス。鷹の団への報酬は惜しまないさ。利益が少なくて苦しむのは私たちでなければならない。そうだろう?」
利益が減れば護衛を頼んでいる鷹の団への報酬がいきわたらなくなる可能性も出てくる。リベルトはこう言うが、商人として、金銭の契約をないがしろにするわけにはいかない。
「俺たちだって、おまえんところと仕事するのが全てじゃないんだ。最悪の場合俺たちのことはいいからよ。まずはお前たちが落ち着いてくれや。」
リベルトはそういうと、どこかへ行ってしまった。
リベルトとは長い付き合いだ。だからといって甘えるわけにいかないし、妥協するわけにもいかない。今回の貿易はいろんな意味で失敗するわけには行かないのだ。クラウスは、ぬぐい切れない不安を抱えながらもこの貿易を絶対に成功してみせると心に決めたのだった。
ハルは部屋で一人、ベットのヘッドボードに背中を預けて考え事をしていた。
先日、団の仲間たちにはようやく話すことができた。自分がこの世界の住人ではないことを。
「つまりお前は、そいつらに無理やり連れてこられて、その、此方側に来たって言うことか?」
神妙な顔でリベルトはそう言った。周りには他の団員たちもたくさん寄り集まっていて、みんなの視線がハルに向けられていた。ついさっきまで酒と酔いに任せて馬鹿騒ぎをしていたのだが、ちびちびとジョッキに口をつけてはいるものの、誰も無駄な口を開こうとしなかった。まさかこんなにも重苦しい空気になるとはハルは考えていなかった。ほんの少し軽いのりで話そうと思っていたのだが、いつの間にかみんながみんなハルの話しに釘付けになっていた。
「私自身、無我夢中で・・・。なんとか城を抜け出して、それで川から逃げられるから飛び込んで、流された先でクラウスさんに拾っていただいたんです。」
この手のことが、この世界では当たり前であるはずもなく、みんなハルを胡散臭そうに見ていた。話し終わる頃には視線が怖いくらいだった。どこまで信じてもらえたかもわからない。それに話したことで何かが変わったわけでもない。だれも、今ハルが抱えている問題を解決できはしないのだ。
(話すべきじゃなかったのかな・・・。)
誰かに知っておいてもらいたいという思いはあった。あの王国の追っ手がいつかやってきて、ハルをつれていくようなことになってもいいように。もちろんハル自身にそんな気は毛頭なかった。追ってが来てると言うのなら全力で逃げるし、どこへだって行く覚悟はあった。けれどその際に、もしかしたら鷹の団に迷惑をかけてしまうかもしれないという可能性を考えずに入られなかった。だからこそ話そうと思ったのだが、迷惑だと思っているのならば、今すぐにでもここから出て行くべきなんじゃないだろうか。
ハルは、そこまで考えて、考えることをやめた。だれも出て行けとは言わなかった。そんな風に思うものじゃない。ようやく築いてきた新しい関係を自分で壊すのも馬鹿げた話だ。ここまでうまくやってきたのだ。もうすぐ傭兵としての初仕事も控えているのだから、今はそのことに集中するべきだ。
部屋の扉がノックされた。返事をするとアンジェがはいってきた。
「アンジェさん。自分の部屋なんですからノックしなくたって、・・・」
「そうね。なんだか変ね。でも、ハル、あれから人が変わったように思いつめてるからさ。変な気に振れちゃいけないと思って。」
どうやら今現在も気を使ってもらっているらしい。
「あぁ。ごめんなさい。その、・・・。」
言葉がうまく出てこなかった。言葉にしたくないことまで出てきそうでつい慎重になってしまう。
辛いのだ。こんな夢みたいな現実に立たされて、元の日常に戻れないことが辛くて辛くて。誰かに助けてと言いたい。叶うのならば、今すぐにでも両親のいる家に帰りたい。帰りたいと、言いたい。
言葉にしても何も解決しないから、何も言いたくない。考えるだけで、ぐっと胸の中に押さえ込む。それでありもしない希望を信じる。信じている、フリをする。そうやってハルは、自分を支え続けているのだ。
「ハル。」
アンジェがハルの名を呼ぶ。その声音はどこまでも優しくて。
彼女はいつも、ハルのことを妹弟子というが、本当の姉のように接してくれる。彼女だけではない。鷹の団のみんなやファルニール商会の人たちは、家族のように接してくれる。その優しさを今までも必死で受け止めてきたのだ。
「私には、あんたを事情をくんでやることは難しいけどさ、辛かったら声をかけておくれよ。あんた一人でそんな顔してたら、あたしもみんなも辛気臭くなっちゃうからさ。」
アンジェの、探り探りだが、歩み寄ろうとしている姿勢に、つい目頭が熱くなる。
少しだけならいいかな、とそう思ってしまう。泣いてしまってらとめどなく溢れる涙が何もかも壊してしまいそうだが、実際涙を我慢することは出来なかった。
「本当、ごめんなさい。自分でも無理してるってわかってるんです。でも、やっぱり心配をかけたくないし、迷惑だと思われたくないから・・・。」
そうやって無理にでも笑って見せると、アンジェはハルの髪をわしゃわしゃとかき混ぜて、
「馬鹿ね。誰も迷惑だなんて思ってないよ。ハルは、・・・まだ、若いんだから、もっと大人を頼っていいんだから。そんな風に強がらなくていいの。女の子だって強くなくちゃいけないけど、泣いちゃいけないことなんて無いんだから。」
そう優しく返してくれた。幸いにもハルは、号泣、と言うほどではなかった。うれしかったのは違いない。ハルは、先ほどまで良くない想像ばかりしていた自分を叱りたくなった。
これから辛いことが起きないという保証は無い。むしろ、ハルにとっては大変な経験ばかり直面するだろう。そう予感していながらも、前を向いて歩くことがどれだけ大切かをハルは初めて知ったような気がした。
朝。ちょうど朝日が昇ろうとしている時、ルーアンテイルの東門に、鷹の団の団員が整列していた。整列といっても軍隊のように堅苦しく並んでいるわけでなく、少人数ごとに縦に並んでいるだけだ。並んでいる各々も腕を組んでいたり、腰に刺した刀剣に腕を預けていたりして、この空間に緊張感というものは感じられなかった。一つだけ共通しているのは、どの団員も視線をある一人の男に向けていることだ。視線を集めているのは、この団の頭領であるリベルト。みんな彼が、話す言葉を待っているのだ。
朝礼と聞いていたので、ハルは学校の集会のようなものを想像していたのだが、団員たちが思っていたより真剣な眼差しをしているので、自然と背筋が伸びていた。それでなくとも今日は起きてからずっと緊張のしっぱなしなのに。そんなハルの心中をよそのリベルトはあくびをして団員たちの前に立っていた。早く話を済ませて欲しいとは思うものの、まだ寝坊をした団員が着てないらしく、これではまるで本当に学校の始業式か何かのようだ。
「ドランのやつ、まだこないのか。」
どこかでレリックの声がする。集合時刻を大分過ぎているから、そろそろ怒っていても不思議ではない。彼は、リベルトとは違って厳格な人だ。普段はとても朗らかで、リベルトに似つかわしい面が見えるが、仕事のときのレリックは人が変わったように真剣さが表に出る。特に自分の部下に対してはなおさらだ。ドランはレリックの弟子の一人だった。
「親父、先始めちゃってよ。もう時間だ。」
「ん?そうか。まぁ、しょうがないな。」
リベルトは、さして気にしてもいないようだった。
「お前らぁ!注目。」
リベルトの野太い声が響く。
「まだ、一名着てないみたいだが、寒いからな。さっさと済ませてしまおう。とりあえず、早朝からご苦労。これから、今年最後の遠征だ。いつもどおり、ファルニール商会の護衛につく。昨晩の時点では向こうも準備万端だそうだ。南門に集合して、ちょうど出発しているころだろう。俺たちはそこへ合流する。長々と話をするつもりはない。ただ、いつも言っているが、これだけは頭に置いておいてほしい。・・・死ぬな。俺からはそれだけ言っておく。帰ってきたら、ルーアンは祭りだ。さっさと仕事を片付けてしまおう。」
団員たちがそれぞれ気合の入った声を上げる。それと同時にみんな自分の愛馬にむかって散り散りになっていく。息が合っているのか、単に粗暴な職種だからこのような〆かたで違和感は無いのだろうが、きざっぽいと思ってしまうのはハルが女だからだろうか。かっこいいとは思わない。向こう側でも男子たちがやることは意味がわからなかったし、そういう人たちなのだと割り切るしかない。
「ハル!」
ハルも、アランのところへ行こうとしていると、早速自分の馬に乗ったリベルトがやってきた。
「お前にとっては初仕事だ。しっかり頼むぞ。」
リベルトは馬に乗ったまま、手を伸ばしてきた。剣の腕もまだまだ未熟なハルにとってはまだ勤めを十分に果たすことはできないかもしれないが、それでもリベルトはハルに期待を寄せているのだ。
「足手まといになるかもしれませんけど。」
そういってハルはリベルトの手に自分の手を重ねる。
「心配するな。何かあれば俺たちが守ってやる。」
そういってリベルトはハルの頭を撫でた。
「親父。」
いつの間にかレリック着ていた。
「親父たちは、先に行ってくれ。俺は先行隊数人残してドランを待つから。」
「わかった、早めに来いよ。そう離れることは無いだろうが。」
レリックは、数人の部下、自身が率いる先行隊のうち五名ほどを残した。先行隊というのは、騎兵隊の中のさらに細かい部隊のことだ。指揮系統を円滑にするためにリベルトとレリックで二つの部隊に分かれているのだ。レリックは先行隊、リベルトは後衛隊と呼ばれている。その名のとおり、キャラバンの前後の護衛で分かれている。
ハルは先行隊の所属だった。そして、理由はわからないが、ハルも残って欲しいとレリックに言われ、ハルはおとなしくアランに乗らずに待っていることになった。他に残ったのは、アンジェ、先行隊のもう一人のリーダー的存在のイアン、それとドランとコンビを組んでいるラベット。そのメンバーが選ばれた時点で、ハルはなんとなくそれぞれが残らされた理由を想像することができた。
ほとんどの団員が南門へ出発すると、辺りは風の音しかしなくなった。
既に太陽は完全に昇りきっているが、日の光の暖かさをあまり感じられないのは、大気がそれだけ冷たいことを意味しているのだろう。この日のために用意していた騎乗用の服装はそれなりに防寒性も考えて選んだが、それでも少しばかり肌寒さが否めなかった。
「ドランのやつ、一体何をやってるんだ。」
イアンがぼやく。集合時刻からはすでにかなりの時間が経っている。イラつくのも当然だろう。本当に何をやっているのだろう。こんな時間まで寝坊したというのなら、相当なものだ。
ハル自身、待たされているということに関してはそれほど気にしてはいなかった。こういうこともあるんだなと、それほど気にも留めていなかった。遅れているからといって、キャラバンに追いつけないことはないだろうし、一人で待たされているわけじゃないから寂しくも無い。
新人の身だから、うやむやにしているわけではないけれど、鷹の団にもそれなりに規則がある。それを自分より先輩の人が守れていないというのは少しだけ不安になる。かといって、ドランに何かを言うつもりも無いけれど。
彼はやってきた。酷く呼吸を荒くして、自分の愛馬を引きずるように引っ張って。そこまで急いでいたのなら、いっそ背に乗ってくればいいと思うのだが、なぜ走ってきたのだろうと思う。ドランは待っていたハルたちの前まで来ると腰を直角に曲げて深く頭を下げた。
「ドラン。君は何をしにきた?」
レリックがぞっとするほど低い声で問いかけた。ドランは少しだけ頭を上げて、
「すみませんでした。」
と答えるだけだった。レリックは呆れたようにため息をついた。
「・・・もし君が囮役だったなら、俺は君を見捨てて先に行ってしまうところだ。君が生きていようと、君の命よりも依頼主の命を優先させなければならない。それは君にもわかっているはずだ。」
「・・・。」
ドランは頭を下げたまま動かなかった。
「君のために仲間たちは長い間、この寒さの中じっと君を待っていたんだ。新しく入ったハルも、しっかり集合時間に来ていた。以前は君も新人だったが、これからはたくさんの後輩が出来るんだ。先輩として恥をかきたくは無いだろう?」
ようやく頭を上げたドランは、情けない顔のままハルを見た。いきなり目が合って、ハルは思わず目をそらした。
「ラベット、君もだ。君には何の非もない。ここで何かを言うつもりも無い。けど、パートナーがこのざまじゃ君自身も思うところがあるだろう。今回はドランだったが、もしかしたら君も何か失敗を犯すかもしれない。君たちだけじゃない。俺だって、絶対に失敗しないと断言できるほど出来た人間じゃない。だからこそ仲間に助けてもらうんだ。そのために俺の、先行隊のメンバーは複数人で行動するようにしているんだ。俺にはイアンが、ハルにはアンジェが、そしてドランには君がいるんだ。それがどういう意味かわかるだろう?」
今まで聞くだけだったラベットも申し訳なさそうに頭を下げた。それを見たドランがさらに情けない顔になる。
「以後気をつけるように。俺たちの仕事は、遊びじゃないんだ。」
レリックは、そこまで言うと、一息ついて、表情を切り替えた。
「罰則は、うーん、どうしようかイアン。」
「そうだな、とりあえずドランは武器取り上げだな。しばらくは商会の手伝いをして反省してもうおう。」
「うん、規則を守れないやつに護衛は任せられないからね。」
イアンは、ドランから剣を取り上げた。
「すまないな。二人とも。わざわざ残してしまって。」
「いえ、私たちは別に、ね?ハル。」
「あ、はい。私も・・・その、勉強になりました。」
残されたことに不満は無かったハルだが、このようなお説教につき合わされるとは思っていなかったから、そう答えるしか出来なかった。とはいえ、勉強になったというのもあながちうそじゃない。レリックが、あくまで例え話として使った囮の話。自分の命と依頼主の命の優先度。なんて重い仕事だろうとハルは思わずにはいられなかった。もちろん話には聞いていた。依頼主を守るために命を懸けて戦う仕事だと。頭の中ではわかっていたつもりだ。けれどそれは、あくまで想像の域でしかなかったのかもしれない。心のどこかできっと自分には関係の無いことだと思い込んでいたのかもしれない。
今朝から続いている緊張がさらに張り詰めていくのをハルは感じた。これから自分がしなければならないことは死と向き合わなければならないことなのだ。
そのとき、ハルの肩に手が置かれた。振り返ると、アンジェの微笑んだ顔があった。
「ハル。怖い顔してる。」
「あ、えっと・・・。」
想像していたことがそのまま表情に出ていたのだろう。たぶんアンジェが言うよりも酷い顔をしていたに違いない。横からレリックが、そう気負う必要は無い、と付け足してきた。
「一応、体裁というのもあるから、ドランにはきつく行ったけど、実際俺は誰かを見捨てるなんてことは出来はしないよ。もちろん親父も。いってただろう?死ぬなって。」
先ほどのリベルトの野太い一言が頭の中で響く。
「でも、大事なことだから。時間通りに集合したり。言われたことをしっかりこなすのは、義務だなんて大仰なことは言わないけど、それでも守るべきものだと俺は思ってる。それを少しでも理解してほしい。」
レリックは少しだけ笑ってすぐに馬に乗った。
「さぁ、行こう。大分遅れてしまった。急ぎ足でいくからしっかりついてきてくれ。」
ハルは、勢いよくアランの背に飛び乗った。他のみんなもそれぞれ馬に乗り、たった6人しかいないが隊列を組む。先頭からレリック、ラベット、ドラン、アンジェ、ハル、イアンの順番だった。示し合わせていたわけではないのに、自然と縦一列の編隊が出来上がる。お互いぶつかり合ったりすることもせずに。それは、隊列を組む訓練を、その際にどういった順で並ぶかをお互い理解しているからこそ出来る芸当だった。
馬が地面を蹴る度に、心地よいリズムで蹄が音を鳴らす。彼らが通り過ぎた後には、草木が激しく揺れ動き、まるで風が走り抜けているような勢いだった。
先頭のレリックが手綱を打って馬の速度を上げる。それに続いて、後続もぐんぐん速度をあげる。そして、瞬く間に一行は平原の向こうへ姿を消していった。
相変わらず、キャラバンの行軍は穏やかなものだった。ただ、前と違うのは荷馬車に揺られているか、馬に揺られているかくらいだった。ハルはそれでも、周囲の警戒という言い渡された指示を淡々とこなしていた。今キャラバンが通過しているのは、深い森に伸びる一本の街道だった。街道とはいえ、それはフレーデルからルーアンテイルまで延びていた道とは比べ物にならにほど荒れている。道幅も荷馬車が一台通るだけで精一杯だ。当然その周りを徘徊するハルたちは道なき道を掻き分けて行く破目になる。これだけ鬱蒼とした森だから、こんな季節でも虫たちは住んでいるだろう。ハルは、特に虫が苦手ということはなかったが、ゲテモノが平気というわけではなかった。くもの巣なんかがかかっていると不快に思うし、自然とアランに避けるよう指示を出していた。他にも、蝶がハルの周りを飛び回って思わずアランの足を止めてしまったり、変な水溜りに足を突っ込んだアランが驚いて急に暴れだしたり、なんとも平凡な時間を過ごしていた。
気が緩んでいるわけではない。何も起きないという状況が緊張の糸を解いているのだ。ふと街道を見やれば、荷馬車の列がゆっくりと進んでいる。
「ハルさーん。」
見慣れた荷馬車を見かけて、ハルは街道沿いにアランを寄せた。
「どした。ソーラ?」
ソーラが荷車の後ろから顔を出していた。
「いえ、特に用は無いんですけど。退屈そうにしてたので。」
「否定はしないけど、一応仕事中なんだけどね。」
そう言って苦笑いをしてみせると、ソーラはワンピースのポケットから巾着袋を取り出した。そして、中から飴玉を取り出し、ハルに手渡してきた。
「これどうぞ。」
「ありがと。」
オレンジ色をした飴玉は口に含むと酷く甘ったるかった。けれど、不思議と気分が良くなる。単なる砂糖の味なのに心が落ち着くのは、人間特有の感覚なのだろう。
(向こう側でも、勉強の合間にチョコレートとか食べてたっけ・・・。)
此方側には、カカオというものは存在するのだろうか?もしあるならば、此方側でチョコレートに近い食べ物があっても不思議ではない。ルーアンテイルの商店街にはそれらしい品物は無かったから、望みは薄いかもしれない。
「ハルさん、騎乗服すごく似合ってます。かっこいいですよ。」
「そう?機能性ばかり気にしてたから、見た目はあんまりこだわらなかったんだけど・・・。」
白いシャツにスカート。これがいいと思ったのはまるっきり制服と同じ感覚だからだ。制服と違ってネクタイもしなくていいし、スカートだって特に長さを指定されることもない。もちろん制服に酷似したスタイルにする必要も無かったのだが、此方側ではこれ以外となるとどれもハルのいた国、日本とはかけ離れた服装が多くて、手に取りにくかったのだ。コーシェのように半分アクセサリー感覚で着れるものはともかく、ロングのワンピースやローブのようなものは、馬に乗るのに邪魔になるし、ファッションとしてもあまり好きではなかった。
「いいなぁ、騎兵隊。憧れちゃいます。」
「やめてよ。私なんて、まだ新人なんだから。」
「でも、かっこいいじゃないですか。」
「そうかな?・・・。」
ハルは、自分の姿をみた。
アランに乗って、腰に刺した小剣、首に巻くスカーフと体を覆うコーシェ。向こう側でこんな奇抜な格好をしていれば、警察に何かしら言われてもおかしくない格好だ。西部劇に出てくる騎兵隊そのままだ。彼らをかっこいいと思うのは同感だ。けれど、自分がそれになっているというのは照れくささがあって素直に喜べるものじゃなかった。
「・・・私なんかより、レリックさんやアンジェさんのほうがよっぽどかっこいいよ。」
そう自虐も含めた声でハルは答えた。
「うーん、お二人もかっこいいと思いますけど、ハルさんだって負けてませんよ。」
笑顔で答えるソーラにハルは苦笑いをした。彼女には荷馬車で一緒に暮らしていたせいか、大分懐かれている。年齢も近いし、ハルはまだ話していないが境遇のせいで精神的に似たところがあるのだろう。
慕われるのが嫌なわけじゃない。ただ、なんというか、今のハルには足りないのだ。かっこいいと呼ばれるに値する要素が欠けている。ハルは、要するに子どもなのだ。人としてどうありたいとか、人間的な崇高な思いなど持ってはいないのだ。単なる薄っぺらい中身の子ども。それがわかっているだけまだましというか、変わろうとしない自分を叱るべきか。ただ、そんなことを今ソーラに話すのも大人気ない。
「ハルさんはかっこいいです!」
「はいはい。ありがと。」
適当に流してやると、ソーラは両頬を膨らませて眉根を寄せる。子どもなのはお互い様だろう。だからこそ気が合うのかもしれないが。ハルは、ソーラの膨らませた頬を突っついてやった。
やがて木々の数が少なくなってくると、辺りは岩肌が見られるようになってきた。事前に聞いていた話では、いくつかの山を越えなければならないらしい。しかも、それらは連なっているわけじゃないので、これから通るのは一つ目の山ということになる。
完全に森を抜けたあたりでキャラバンの行進は止まり、先行隊のメンバーがキャラバン前方へ集められた。キャラバンの荷馬車が安全に通れる道を探すためだ。
「必ず二人一組で動くこと。使えそうな道を見つけたらいったんここへ戻る。いいな?それと、なにか危険要素を見つけた場合もすぐに報告してくれ。」
レリックが、大きな声で指示を出している。道を見つけるのは地味な仕事だが、場の緊迫感をハルは感じていた。何か敵と戦うような状況にはならなくとも、それだけ重要な任務ということなのだろう。それも当然。見つけられなければ、今度は迂回路を見つけなければならない。そうやって道を見つけている間、キャラバンはずっと止まったままなのだ。
もし仮に、この大きな商団を狙う野党やら獣が迫っていたら、前にも後ろにも進めなくなったキャラバンは格好の得物となってしまう。時間がかかればかかるほどそれだけ危険が伴うのだ。
「今のところ、後ろから何かに追われているという報告はない。かといって時間をかけるわけにはいかない。みんな、迅速に頼む。」
各々が返事をし、散り散りに馬を走らせていく。
「ハル。いくよ!」
「はい!」
手綱を打ち、アランを勢いよく走らせた。アンジェとハルは緩やかな山肌を駆け上がって行った。
蹄が蹴る音が鈍い音に変わっている。地面が堅い分、騎乗者に伝わってくる振動も強くなってくる。なれない地形だと、力を入れている内腿に乳酸が溜まっていくのをハルは感じていた。
徐々に高度が上がり、周辺の景色は一変して壮大なものとなっていた。はるか遠くの地平線に、まだ僅かだがルーアンテイルの巨大な城砦の影が見える。とはいえ、まだ出発して数日の距離だから、それほど遠くも無いのかもしれない。それでも、この世界の澄んだ大気には相変わらず驚かされる。
見晴らしのいい丘までやってきて、アンジェは足を止めた。ハルも続いて、崖から落ちないようにアラン止める。アンジェは懐から単眼鏡を取り出して、ハルに手渡した。
「これで山の上のほうを見ていてくれる。」
「見て、どうするんですか?」
「大きな鳥がいないか見て欲しいの。」
「大きな鳥?」
アンジェはそれ以上何も言わずに、自分も持っていた単眼鏡で丘下を覗いた。ちょうど丘の真下には草木が生い茂っているが、細い獣道のようなものがちらほら並んでいる。とてもじゃないが、荷馬車が通れるような道じゃないし、そもそもどこへ通じているかも定かではなかった。
ハルはひたすら山頂付近を単眼鏡でみていた。それほど倍率が高くないので、大まかにしか見えないが、鳥が飛んでいる姿が見えた。あんな高いところ鳥類が生息しているというのは驚きだった。
「アンジェさん、大きな鳥ってどれくらいですか?」
ハルが山を見ながら聞くと、
「うーん、そうだねぇ。その望遠鏡で見える鳥たちを丸呑みに出来るくらい、かなぁ?」
同じくアンジェも、丘下を見ながら答えた。
「曖昧ですね・・・。その鳥は、人間を襲うんですか?」
「・・・まぁね。滅多に出くわすものじゃなけど。大きさも荷馬車より大きいやつもいたりするからさ。」
「にば・・・えっ?・・・、荷馬車より大きいって・・・。相当ですよね?」
「翼龍って呼ばれてる。ルーアンじゃ怪鳥なんて呼ぶ人もいるけど。どっちかって言うと、あれは龍に近い生き物だろうね。」
「っ・・・。」
龍と言う言葉にハルは言葉を失ってしまった。そんな生き物が存在するだなんて信じられない。御伽噺の話に出てくるような怪物が、この世界には平然と生きているのだろうか。向こう側では伝説上にはいくつも載っていたが実際にはいるはずも無い生物だ。この世界はどこまででたらめなのだろう。
「この辺りは通れる道はなさそうだね。いったんレリック兄さんのところ戻りましょう。」
「了解です。」
アンジェがきびすを返して、元来た坂道を降りていく、ハルも続いて降りようとしたが、その前に今一度、山頂付近を見た。単眼鏡越しではないが、大きな鳥らしきものは見えない。本当に馬車みたいに大きな鳥なんているのだろうか。そんなものがいたら、ハルなど本当に丸呑みされてもおかしくない。
「ハルー?行くよー?」
「はーい。」
ハルは急いで、アンジェのあとを追った。もし、翼龍が現れたら戦うことが出来るだろうか。いや、戦わなければならないのだ。少なくとも、今のようにハルとアンジェしかいない状況なら逃げることも許されるだろが、自分の後ろにソーラや商会の人たちがいたら、たとえ全身が恐怖に慄いても戦わなければならないのだ。
やはり、ハルは怖かった。怖がらずにはいられない。心の底でその瞬間が来ないことを常に願っている。それではいけないのに。そこで勇気を出して前踏み出さなきゃいけないのに。
怪物に立ち向かえる女子高生なんて、向こう側にだっていないだろう。そんな人がいるなら、きっとその人はもう女子高生の域を超えている。
(私は、ただの学生なのに・・・。)
ソーラのいうかっこいいと言うのは、見た目だけ着飾った女子高生などではないはずだ。だから、かっこよくなど無い。ただどこにでもいる平凡な子どもが・・・。
キャラバンに戻ると、既に何組かが報告を済ませて待機していた。どうやら使えそうな道を発見したらしい。今は、他にも使えそうな道があるかもしれないと言うことで、じっくり検討しているところだそうだ。ただ、あまりここに長く留まるわけには行かないから、もうしばらくしたら集合の合図の天笛を鳴らすことになった。
天笛とは不思議な音を鳴らす笛で、天樹と呼ばれる限られた気候で育つ巨大な木の幹から作られる。天笛を吹き鳴らすと、人間の耳には、一切音は聞こえないのだが、同種の木の根で作った笛が音の届く距離にあると、それが呼応して音が聞こえると言う。これを、天笛とは逆に地笛と呼ばれていた。届く範囲が相当広く、指揮系統を安定させるために、鷹の団はみんなこれを首から下げていた。
既に報告を終えた組はキャラバンの隊列に戻り、しばしの休憩をしていた。ハルもまたソーラが乗る荷馬車のあたりでアランから降りて、背中で寄りかかっていた。
ヒューーッと、首から下げた地笛が鳴った。一度鳴ってから、再び三回連続で鳴り、もう一度間を空けずに三回連続でなる。
それっきり、地笛は鳴らなくなった。
(一、三、三・・・。)
それは緊急事態を意味する合図だった。
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