四章 燻りはもういらない

変わらない苦悩

奴隷商との戦いから早数日。キャラバンは、大幅に予定を狂わされ、なおもグレイモアの街外れに居座っていた。ファルニール商会の商談はほとんど完了しているのだが、肝心の利益とグレイモアの特産品などの買収にかなり手間取っているようだった。というのも、グレイモア自体の景気悪化や法治体制があまり機能していないようで、この街は想像以上に衰退していたのだ。利益は得られたものの、その先の糸口が見つからない。次の交易に繋がらないのだ。

ハルは、交易に関してはよく知らない。商人としては全くの素人だ。だが、こんな遠くまで足を運び、収入を得るのはもちろんだが、更なる地へと交易へ向かうための商品を得られないのは、素人目に見ても確かに芳しくないと思えた。遠征をした理由は何だったのかということだ。予定では、グレイモアを経った後、南下して平原の小さな町々を巡るはずだったのだが、どうやら今回の騒動も相まって、急遽ルーアンテイルへ行き返すことになった。


「ううぅん!痛いいたいイタイ!」

「これ!大人しくせんか!」

痛いと叫ぶのはハルで、それを諫めているのは団の医術士、レーサーだ。二の腕から肩にかけてのケガは、当然針で縫うほどのものだった。傷自体もきれいなものではないから、治療はかなり荒々しかった。以前の骨折や掌貫通に比べれば、治療の苦しさは一入だ。とにかく肉が開く感覚が見ていなくとも伝わってくるのは、精神的に来るものがある。その開いた皮目に針を指したり抜いたりする感覚を叫ばずしてなんとしよう。そもそも、こちら側ではこんなあら治療にも麻酔なんてものはない。技術的に存在しないのだ。傷口に消毒用のアルコールを使った程度で、後は全て根性で耐えるしかなかったのだ。

「ほぉれ。おわったぞ。包帯巻くから、そのままじっとせぇ。」

じんじんと痛みが残る左腕に、柔らかい布が巻かれていく感覚でさえ、吐き気を催すようだった。施術が終わっても体から冷や汗が引かず、戦っている時よりも恐怖感があった。

「終わったってよ。ハル。もう大丈夫だからね。」

傍で付き添ってくれているアンジュが、気休め程度に背中をさすってくれて、とりあえず気を落ち着かせることが出来た。だが、腕から響く痛みは止むことが無く、さっさと横になりたかった。

「私、もう絶対、怪我しません・・・。」

「それができるなら大したもんだがな。わしの仕事がなくなる事なんてありえんよ。」

高らかに笑うレーサーが少々憎らしくなってきた。彼の言うように、こんな仕事をしていて怪我をしないなんて、どれだけ熟達した者であっても難しいことだろう。

「何にせよ、これに懲りて、傭兵なんざやめるこったぁ。」

「ちょっと、レーサーさんそんな言い方ないじゃないか。」

「アンジュ、お前も大概だぞ?さっさと男でも見つけて、人並みに生きていく方がいいだろうに。」

彼の物言いにハルは思わず笑みを溢した。彼の言う通り、わざわざこんな仕事をしなくたっていけていけるだろう。この遠征が終わったら、別の仕事を探して、それこそ本来の目的である元の世界へ帰る方法を探せばいい。そう、向こう側への道を・・・。

「でも、・・・その方が、きっと楽しい人生なんですよね。」

「ハル!。あんたまでそんな言い方しないでも。」

レーサーに同意したハルにアンジェは慌てたように突っかかってきた。

「冗談ですよ。まぁ、今の生活が楽しくないっていうわけじゃないですけど。でも、レーサーさんの気持ちもありがたいって思ってます。」

レーサーが心配してくれているのはよくわかる。それを無下にするのも嫌だが、自分の信条を曲げるわけにもいかない。ハルにとって、自分の意志こそが己の舵なのだ。

「だから、もっと、強くならなきゃって思います。私は、まだまだ半人前、・・・それ以上にもっと弱い人間ですから。」

これは、自虐も含めたものだ。あの男、アスターには強気になれたものの、否定できることではない。所詮自分は、何不自由なく育った女子高校生に過ぎない。それは変わらないし、たぶんこれから先も弱者であり続けなければならないだろう。それはもう、アイデンティティに近いものだ。けど、だからといって、何もしない、無抵抗のまま抗わないわけにはいかない。変わることが出来ないのだとしても・・・。

「ふん、まぁいいさ。あんまり無茶するなよ。わしは、器用な施術はできんぞ。」

レーサーは手早く医療道具を片付け、天幕を出て行った。残されたハルは、アンジュに手伝ってもらいながら、新調したシャツに袖を通した。腕は吊るほどではなかったが、肩を上げるだけで包帯が擦れるし、傷が開くような感覚がして着替えづらかった。

「これでいいかい?」

「ありがとうございます。にしても、だいぶ冷え込んできましたね。」

「もうじき本格的に冬になるからね。ルーアンに帰る前に雪が降らないといいんだけど。」

「そうですね。」


エンタイロンで遭遇した龍。グレイモアでも情報を探った鷹の団だが、龍どころか、翼竜が住み着いてるという情報すらなかった。実際に目の当たりにした身としては、どうしてと思うところだが、龍はともかく、翼竜でさえ目撃情報は少ないものだ。もともと人里から離れた場所の住み着く生物だから、当然と言えば当然かもしれない。そうなると、必然的にキャラバンの道のりは限られてしまう。

「大きく南下して、そこから東へ。山脈を超えれば、平原がひたすら続いて、・・・か。」

キャラバンから少し離れたところで、ハルは芝の上に寝っ転がって空を見つめていた。大の字、は腕が痛くてできないが、背中を伸ばして横になれるだけでとても気持ちが良かった。

「行きより長い行進になるのかぁ。何事もないといいんだけどなぁ。」

ルーアンテイルを出発した時も、同じように何も起きないことを願っていたような気がする。願いは虚しく散々な目に遭ったが、今回もただで済むとは思っていない。もちろんあの時よりも心構えは全く違うが、それでも緊張しないわけではない。また命のやり取りをしなくてはならないかもしれないのだ。とはいえ、ハルは今回の怪我のせいで安静を言い渡され、更にはルーアンテイル以外の街で勝手にうろつくことを禁止されていた。解放されてからハルも知らされたが、どうやら王国が躍起になって探しているらしい。まぁ、追ってが来ないだけましというものだ。だが、結果として鷹の団やファルニール商会にも迷惑をかける形になってしまった。考えていた良くない想像が現実となってしまったのだ。

この世界においても、ハルの姿は目立ちすぎる。目立つだけならまだいい。アストレア王国というかなり危険なものたちに目を着けられているのだ。彼らがどうしてハルを求めているのかはわからない。彼らの言いなりになるのが嫌で逃げ出してきたのだから、そこは考えないようにしている。けれど、向こうの目的がわからないというのも、得たいがしれない恐ろしさがある。なぜそこまで自分に固執するのか。ハルは、単にアルビノを患った生娘に過ぎないのに。

―――もしも、そうじゃないとしたら・・・?―――

何かが、いや、根底から何もかも違っているのだとしたら。自分は、何か特別な存在で、それゆえに狙われているのだとしたら。考えすぎなのはわかっている。だが、そんな予感がするのは自意識過剰になっているわけではない。奴隷商の砦で、ソーラの向かいの牢を壊したあの不思議な力。眼球が焼けるように熱くなり手元で何かが弾けた感覚は、非科学的というかまさにファンタジーの領域の話だろう。あの時は必死だったし、それについて考える暇もなかったから、疑問に思わなかったけれど。もしあれが向こう側の世界では説明できない不思議な力、例えば魔法とか。そんな力が自分に備わっているのだとしたら・・・。その力がどれくらい稀有で、疎まれたりするのか。仮にその魔法の様な力が、この世界では兵器にも匹敵する力だったら。それを狙われているのだろうか。

ハルは、あの牢屋の時と同じように指先を見つめ力を込めてみた。あの時の感覚は覚えている。目が熱くなって、その熱が視界に具現化したような感覚。火花が散って、その熱で鉄の錠を弾け飛ばしたのだ。だが、指先からは何も起きず、あの時の感覚は再現されなかった。あの時は偶然だったのか、何か別の要因があったのか。なんにせよ、何もわからないままだ。

「はぁ、なんでこう、・・・。」

考えてもわからないことは考えない。自分が辛くなるだけだ。かといって問題が山積みになっていくのも辛くなる。自分が本当にしなければいけないことは、考えずにはいられないものだ。怪我とはいえしばしの休暇を与えられたのはいい機会だったかもしれない。

「アランに乗れないのは少し残念だけど、この寒さで荷馬車に乗れるのはありがたいかな。」

アンジェも言っていたが、大気のつんとした冷たさが、いよいよ耐え難いものになりつつあった。こちら側に来た時から思っていたが、この辺りの気候は日本よりも圧倒的に寒いのだ。鷹の団はそれぞれ防寒着が支給されることになっているが、商会の人たちはみな毛布をかぶるように荷馬車に乗り込むそうだ。キャラバンに積んでいる荷物をできるだけ減らすためだそうだが、気候に成れていないハルからすると、たくましいとしか思えない発想だった。


グレイモアでの後始末などをすべて終え、予定より大幅に遅れて、キャラバンはようやく帰路へと行進を始めた。キャラバンの雰囲気は、以前よりも緊張した面持ちだったが、人々の表情自然と明るかった。交易の方の売り上げはなかなか上々だったらしいが、やはり、先に続かないというのはかなりの痛手のようだ。グレイモアでの目標指標には届いたものの、遠征全体での売り上げ予想からは遠く離れていたらしい。全ては、この辺りを領土と自称しているアストレア王国が起因しているらしいが、ハルにはどういった因果関係があるのかまでは理解できなかった。ルーアンテイルはもともと独立した都市として君臨しているため、さほど影響がないのだが、王国に依存していた街々は悉く経済状況が悪くなっているという。話では、このままアストレアは滅亡するかもしれないという説も出ている。民衆が王都から地方へ移民するケースも増え、これからはかなり波乱の時代になるのだそうだ。

エンタイロンの山脈を迂回し、道中はただただ平和な時間が過ぎていた。空模様は生憎灰色の雲に覆われていて、雨こそ降る気配はないが、風が冷たく、冬独特の重々しい空気がキャラバンを包み込んでいた。御者たちの耳は赤くなり、馬たちの吐息も真っ白に変わる。大地には霜が降り、荷車は軽快に進んでいくが、冷たい空気に当てられて人々の口数はそう多くはなかった。

ハルは、往路で付いていた位置より少し前の方の荷馬車に乗り込み、その寒さを実感していた。防寒着として渡されたフクロウというマントは、以前使っていたコーシェよりも本格的なマントで、全身を覆う外套の様なものだった。その素材はオオバネハヤテという巨大な鳥類の羽を何枚も使って構成されている。見た目も見たこともないほど大きな羽が垂れさがるように連なっていて、肌触りが良く、何より羽に覆われているだけで体温は平然と保たれていた。ハルが一番驚いたのは羽の大きさもだが、その一枚一枚をじっくり見てみると見事な艶が見られることだ。本当に生物の素材なのかと疑うほどきれいな羽をしている。実際、オオバネハヤテの抜け落ちた羽を利用して作られているため、生きた防寒具と言われることもあるそうだ。

とはいえ、上着だけ本格的にしても、この世界の冬の寒さはしのげるものではなかった。フクロウの中には当然長袖のシャツに毛糸のベスト着て、下はロングスカートの中にレギンスを着こんでようやくといったところだ。とにかく着込んだだけというスタイルであるが、それでも若干肌寒さを感じるくらいなのだ。グレイモアに駐屯していた時は、ここまで寒くなかったのに、たった数日で変化してしまったのだ。

何もすることが無いので、ただただ空を見上げたり、久しぶりに手元に戻ってきた愛用の小剣を抜いたり収めたりをすることしかできなかった。

ちなみに小剣は、奴隷商との戦いの後、グレイモアの労働組合所に乗り込んだリベルトたちが取り返してくれた。捕まった時に持っていたものも半分くらいは取り返せて、連中への鬱憤も大分和らいだものだ。彼らにしてやられたことと比べれば、少々痛い目に合わせた程度では足りないかもしれないが、そこはハルの気持ちの問題だ。所詮悪党に構うことなどないのだから、自分の中で踏ん切りをつけた方がいいに決まっている。リベルトたちがしてくれただけで満足しておくべきだろう。

特に前触れもなく、キャラバンの行進が止まった。首から下げた地笛はなっていないので、襲撃などではないと思うが、休憩の時間にはいささか早い気もする。進んでいるのは限りない大平原だ。道に迷うなんて言う話はありえない。他に止まる理由なんて、いったい何があるのだろう。

「宴、ですか?」

「そう。本来は、交易路の最終地点の街で行う予定だったんだけど。そうもいかなくなっちゃったからね。」

楽しそうに答えるアンジェが教えてくれたのは、遠征の成功を祝う宴。キャラバンの間では必ず行う恒例行事らしく、今回は成功ばかりではなかったものの、無事に全員帰ってこれたことも含めての宴にするらしい。それでなくても不運と呼ぶべきことが多かった遠征だ。みんな心の中では羽目を外したかったという思いがあったのだろう。

宴というと、向こう側でいう飲み会やパーティの類だろうが、如何せんこの世界でのノリを知らないので、そう言う催しはハルは不安だった。大勢で騒ぐこと自体そんなに得意ではない。向こう側でも友人たちとは、そう言う場に行ったりもしていなかった。唯一カラオケにはよく付き合っていたが、それもごく一部の友人とだけだ。それにこちら側では、常に酒が付きまとう。以前呑んだときは、おいしいとも思わず、眠ってしまったからあまりいいものではないと認識している。未成年飲酒の罪悪感を抜きにしても、喉を通った後の意識がふらっとする感覚は、たぶん一生好きになれないだろう。おそらく自分は飲めない質なのだ。

荷車で円を作るように平原に陣取って、真ん中でキャンプファイヤーのよう、盛大に火を焚いて、宴の準備は着々と進んでいった。力仕事はてんでできなくなったハルは、せめてもの手伝いとして、宴の給仕を名乗り出た。片腕でも鍋は使えるし、火の番だってできる。そもそも宴の中心にはあまり行きたくないというのが本音で、裏方として賑やかな喧騒を眺めるのも悪くないと思ったのだ。

「ハル、それ終わったらこっちの具材。」

「はい。」

同じく給仕をしているのは、同僚のドランだ。彼は未だ武器を持つことを禁じられていて、雑用などをしっかりこなしている。こうして近くで見てみると、彼は小さい人だった。もともとハルもそれほど背丈が無いわけではなかったが、そんなハルよりも少しばかり小柄だ。人のことは言えないが、顔だちも大分幼く見える。

彼が斬ってくれた具材を鍋へ流し込み、ヘレンに教えてもらった分量の香辛料を少しずつ溶かしていく。この料理を教えてもらった時は、真っ先にカレーみたいだと思ったのだが、香辛料から漂ってくる香りは、カレーのそれとはまったく異なっていた。見た目は香辛料らしい黒茶色のきれいな色をしているが匙で味見をしてみると、今まで味わったことのない風味が口いっぱいに広がっていった。

「おいしい。」

「・・・ハーゲンを食べるの、初めてけ?」

「はい。すごくいい香りですね。」

「ヘレンさんのハーゲンはルーアン一って言ってる人もいる。あの人もともと料理人だったらしいし。」

「へぇ、そうなんですね。」

道理で彼女の料理はどれも絶品なわけだ。それにしても、ドランの口調と、この喋り方はどうにかならないのだろうか。お互い背中合わせで仕事をしているとはいえ、こちらも見ずに話をされても聞き取りずらいし、彼自身に良い印象を受けない。ドランと面と向かって会話をしたことはなかったが、なにか嫌われるようなことをしただろうか。

(やりづらいなぁ・・・。)

一応ドランはハルより年上で先輩にあたるのだが、遠征出発時の遅刻と言い、今の状況といい、正直情けない姿しか見ていない。もちろん彼の様な存在が変といっているわけではない。規律が無くともみんなそれぞれ覚悟を持って仕事をしているはずだ。その中に、彼のように少し不真面目そうな人が混ざっていようと、それ自体を不思議に思ったりはしない。けれど、ドランの立ち居振る舞いは、傭兵団のものにそぐわないように思えるし、彼はいつも一人でいる。孤立しているわけでもない。輪に混ざろうとしないというか、関心が見られない。今もきっちり給仕をこなしてはいるものの、いざハルが鍋を持とうとしたら、手伝う素振りも見せず、彼が捌いた果物が盛られた皿をもってこようともしない。ハルが声を掛ける前に給仕場からそそくさといなくなってしまった。彼の皿も自分が運べと言うことだろうか。こっちは怪我で鍋を持つのも辛いのに、軽い嫌がらせを受けているみたいだ。

「ハル。持つよ。悪いね、作ってもらっちゃって。」

様子を見に来たであろうヘレンが駆け足で寄ってくると、ハルの手から鍋を受け取り、給仕場の奥を見渡した。

「ドランはどうしたんだい?」

「さぁ?、奥に行っちゃって・・・。」

「そう。悪いんだけど、あの皿、持てるかい?」

「はい。大丈夫です。」

ハルは、ドランが切り盛りした皿をもってヘレンの後をついていった。ふと、彼が斬った果物を見てみると、案外きれいな形で整っていた。残り皮もなく、見ただけで刃物に長けていると伺い知れる切り口だった。性格はあれだが、こういった細かい作業は得意なのだろうか?

「ハルは飲まないのかい?」

「私は、いいですよ。あんまり好きじゃないですし。」

「ふふっ、まぁ子供にはちょっときついよね。みんな結構強いお酒飲むから。」

実際宴の場は、野外だというのに僅かにアルコール集が漂うほどだ。そんな中でも、顔を真っ赤にしている者もいれば、まったくもって普段と様子が変わらない猛者もいるのだから恐ろしいことだ。

名を呼ばれ、手の空いた者に果物を配ってまわっていると、奥の方から鷹の団、商会の数人が楽器の様なものを持って集まりだした。彼らはお互い顔を見合わせ、頷くようにしてリズムを合わせながら、手太鼓、弦楽器、縦笛、草笛の順にそれぞれ音を出し始める。いつの間に練習をしていたのか。それとも即興で曲を奏でられるほどの腕があるのかわからないが、子気味良い三拍子の曲が宴の場に流れ出す。酒を持っていたみんなも手拍子を交えたり、鼻歌で歌いだしたりして、宴は一気に盛り上がっていった。ハルは、何の曲かはわからないが、配り終えた果物の皿を置いて、それとなく手拍子でリズムを取っていた。

(みんなと、カラオケに行った時も、こうやってタンバリンとか混じってたっけ。)

懐かしい記憶がハルの脳裏を駆け回っていた。あまり思い出そうとしなかった向こう側の記憶は、色あせることなく残っているのが不思議だった。こんな世界では、いずれそういったものも薄れて行ってしまうのだろうかと、ハルは思わずにはいられなかったが、それ以上に場の空気に流されて、ハルは楽しいと実感しているのだった。今いるこの時間が、のぞんだものでなくても、こんなにも心躍ることは幸福を実感している証拠ではないだろうか。

一曲終えると、奏者たちはそれぞれお辞儀をしたりして、そして観客は口笛や拍手で称えていた。楽器もそんな本格的なものではないし、演奏も独特で多くの歌手を聞いてきたハルからしてみれば、所詮は素人芸にも思えるが、そんなものはご愛嬌だ。

「おーい、アンジュ。歌って見せろよ。」

誰かがアンジュをご指名したが、当の本人はもういくらか酒が入っているようで、

「あたしは無理ですよ。知ってる歌なんてないんですから。」

「なーんだよ。誰か歌える奴いないのかぁ?」

そんなこんなでみんなそれぞれ知ってる歌を披露したり、曲に合わせてダンスをして見せたりやりたい放題だった。ただ、ハルは少し嫌な予感がしていた。決して悪いことではないのだが、この流れは向こう側でも何度か経験しているのだ。みんなが歌い、踊り疲れ始めた頃、その矛先は当然自分にも向けられるものだ。

「そんじゃ、あとはハルだなぁ。」

「だと思いましたよ。」

リベルトに差されて、これまた懐かしい感覚が蘇ってくる。友人たちにも、一曲だけでいいからと、歌声を聞かせてほしいとせがまれたものだ。

「なんかねぇのか?お前さんの世界の音楽は?」

「あ、いいねぇ、ハル。あたしにも聞かせとくれよ。」

「私も、ハルさんの歌、聞きたいです。」

仲間たちも興味津々で詰め寄ってくるものだから、ハルは仕方がなく楽器隊の元へ進んだ。どんな曲かは説明しようないが、彼らは雰囲気で合わせられるそうだから、好きに歌わせてもらうことにした。

壇上、というほどのものはないが、楽器隊の小椅子を借りて息を整える。正直なことを言うと、歌には自信があったのだ。いや、自信というより、自分の歌を聞いた友人たちは、誰もが感動してくれるのだ。向こう側でもそういった経験を幾度もしているから、自身を持って歌うことが出来る。ハルからしてみれば、ただ普通に歌っているだけなのだが・・・。

選んだ曲は、子供の頃知った子守歌だ。お母さんに歌ってもらったとか、友人から聞いたというわけではない。たまたま聞き知って、いつしか口ずさむようになってから、ずっと好きだった歌だ。初めは本当に子守歌だと思って、学校とかでも歌っていたのだが、後からそれが想いを馳せる女の恋歌だと知った時は、顔を真っ赤にして恥ずかしがったものだ。歌詞の意味を知れば知るほど、こんな歌を人前で堂々と歌っていたのかと思うと、今でも照れくさくなる。それでもハルはこの歌が好きだった。子供の頃は男女の恋情など理解できなかったが、少なくとも今は、例え経験が無くともわかる気がするからだ。

この曲に限ったことではないが、ハルの歌はいつも誰かを涙するほど感動させる。今だってそうだ。何人かは空を見上げて黄昏ている。目を閉じ、ハルの歌声に酔いしれるように体を揺らしている。歌い終えても、誰も拍手をせずに余韻に浸る者たちばかりだった。

「こいつぁ驚いた。お前さんにこんな特技があったなんてなぁ。」

リベルトが顎を去るりながら感心したようにそう言うと、周りのみんなもうんうんと頷いてくれて、どうやら喜んでもらえたようだ。

「まるで神様の歌声の様でした。」

「おおげさ、そんな大層なものじゃないよ?」

うっとりしているソーラに苦笑いを返しながら、ハルは近場にあった残り物のつまみを口に放り入れた。久しぶりの感覚だった。向こう側で歌を歌うと、誰もが自分の歌に聞き入っていて、カラオケの精密採点の点数は大したことが無いのに、みんながみんな自分の歌が一番うまいと言ってくる。そう、ハルは大したことはしていないのだ。ただ歌っているだけで、上手に歌おうとか、歌を表現してみようとか、そんなプロの様な事をしているわけではない。それだのに、ハルの歌は多くの人を魅了してしまう。声が独特なのか、天性の魅力があるのかはわからない。別に悪いことではないのだが、こういった反応をされるのもなかなか骨が折れるものだ。悪い気分ではないのだが・・・。

一通り賛辞を受け取ると、みんなは本格的に酔いが回り、ジョッキを片手に静かになるもの、眠りこけるもの、ぼーっと篝火を見つめるものと、宴は完全にお開きとなっていた。ハルは、一人一人にまわって食器類を回収し、後かたずけを手伝っていた。火も陰り始め、夜が近づく中、僅かに残った喧騒は、酒を飲まない裏方たちの方へ集まっていた。

「それにしても、今回はいろいろと大変でしたね。」

「グレイモアが、あそこまで治安が悪くなっていたなんてね。」

「ソーラちゃんも、ひどい目に遭って・・・。」

「これからアストレアは、どんどん酷い状態になっていくんでしょうな。」

かちゃかちゃと食器類が鳴らす音に交じってそんな会話が聞こえてくる。ハルも皿の水気を取りながら、ぼんやり会話に聞き耳を立てていた。

そのひどい状態になっているのが、自分が関係しているのかもしれないと、ハルは思わずにはいられない。だが、ハルからしてみれば理不尽なことだ。だから抗うことを決めた。身に覚えのない条理に従う理由などないのだから。

久々に喉を使ったせいか、扁桃腺が少しいがいがする感じがした。歌うのは戦闘で声を張り上げるのとは違う。首のつけ根の奥が腫れているよう感覚がしていた。それに体も少しばかりだるかった。まだ本調子ではない証拠だろう。後かたずけを早々に終わらせてさっさと寝てしまおう。

「じゃあ、お先失礼します。」

「あぁ、ありがとうハルちゃん。」

適当に挨拶を済ませて、ハルはいつもの荷車へ戻っていった。明日にはアラン乗って、再び護衛の任に付けるだろうか。そんなことを想いながら、就寝の準備をした。

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