希望が無いことと絶望しないこと
どれだけ真面目で、秀才で、優しく性格の良い人物でも、人間的な汚い側面を持っているものだ。
心身ともに冷静になってくると、奴隷商らに蹴られた箇所や刻まれた手の甲の模様がやけに痛く感じられるようになった。特に手の甲は、傷口が膿を作り出していて酷い有様だった。せめて水で洗うか、何か布を当てられればいいのだが、今はそんなことでさえ贅沢の内に入ってしまう。蹴られたお腹も、ぼろで隠しているとはいえ、所々痣になっているに違いない。そして、気持ちも緩んだからか、膝ががくがくと笑ってしまって、ハルはその場に屈みこんでしまった。
「大丈夫か?」
若い男の声だった。顔だけ上げると、実際はもっと若い、男というより青年と訳したほうが的確だろう。
「立てるか?」
青年は、手を伸ばしてくれて、ハルは何の警戒もせずその手を取ってしまった。この状況で彼に何か企てがあるという可能性を考慮しなかったのは、本当に体が辛いからだろう。何より、ここは奴隷を閉じ込めておく牢屋なわけだから、今更警戒も何もないのかもしれないが。
「ありがとう。」
搾りだした言葉は掠れていて、自分でも情けないくらい弱っているのが分かった。
青年の後ろには数人の奴隷らしきものたちが、心配そうにハルを見つめていた。老人に夫婦らしき男女、少々汚れた服を纏っている少年まで、まさしく老若男女揃っていた。ハルと異なる点は、彼らは傷が無く、身ぐるみを剥がされていないということだった。
「何か欲しいものはあるか?」
「・・・欲しいって・・・。贅沢できるような場所には見えないけど?」
「まぁな。だが、何もないわけじゃない。とりあえずその格好じゃ身動きしずらいだろう。」
青年に手を引かれ、牢屋の奥に行くと粗末な篝火があった。燃えているのは木、ではなく石のボウルのような器に藁と木炭らしき物体が相まって燃えていた。そして、火を囲うように奴隷たちが集まっていた。
「ずいぶん酷い目に合わされたようだね?」
一人の老婆がハルの姿を見て言った。
「こんなものしかないけれど、無いよりはましだろう?」
それは、埃だらけの毛布だった。所々泥のような汚れもついているし、やや不快な臭いもある。しかし、毛布の価値よりも、今は彼らの気遣いがハルの心に深く刺さった。
「えっと・・・ありがとう。」
「礼なんて不要さ。しばらく辛抱さね。」
もらった毛布を肩に纏い、コーシェのように来てみると、身体はもちろん心もとなかった下半身も何とか覆い隠すことができた。端から見ればテルテル坊主のような間抜けな格好だが、足元がすーすーすること以外気になりはしなかった。
「意外ですね。牢屋で、毛布とか、篝火とか。これで食べ物も豪華なら文句はないのだけど。」
「残念だが、食事は一日二回。出されるのは練り芋だけだ。」
青年が楽しそうに答えた。
「冗談を言えるくらいには、楽になったようだな。よかった。」
歓迎されているのか。牢屋に歓迎というのも聊か悲しい話だが、同じ奴隷とはいえ彼らが奴隷商とは全く異なるというのは明白だった。少なくともここにいる人間は、人を強者、弱者と区別したりはしない。傷だらけでぼろを纏ったハルを精いっぱい歓迎してくれたのだ。
「安心できる状況じゃないと思うけど・・・。」
本心ではあるが自分自身が強がりであることにすぐに気づいて、次に続く言葉が出なかった。要約すると今すぐにソーラの救出に向かいたいが、その前に疲れ果ててどうしようもないということだ。
「どの道あと数日もすれば売りに出される。今のうちにやり残したことをやっておくんだな。」
「そんなの・・・。私は!」
「脱走なんて無理に決まってる。諦めないだとか言っても、所詮あんたには何もできはしない。」
青年の物言いには、感情が籠っていなかった。だからハルは、例え夢想であっても必ず希望があると反論しようとした。しかし、ハルが口を開く前に、青年が真剣な顔つきで何も言わずに手招きをした。
「なによ?」
青年は人差し指を縦に口に当てて、なお手招きをする。自分を見る他の者たちを見回すと、彼らは我関せずといった様子でこちらを見ていなかった。
青年の後をついていくと、牢屋の最奥で青年はようやく口を開いた。
「ここなら入口まで声は届かない。だからと言って大きな声は出さないでくれよ?」
さっきまではお茶らけた様な調子で話していたのに、急に別人のように話し出した。
「からかうつもりはなかった。気に障ったなら謝罪しよう。」
「どういうこと?」
「聞かれたくない話をあんたにする。それだけの理由だ。」
青年は、入口のほうを一度見やって、差し込む光に影が無いことを確認した。ハルも、同じように見ながら、頭の中を整理していた。聞かれたくない話、というのはつまりそういうことなのだろうか。
「とりあえず自己紹介をしよう。俺の名はエイダン。」
「・・・ハル。アカバネハル。」
「・・・それ、名前なのか?」
もはや慣れたやり取りだ。苗字、名前のつなぎはともかく、ハル、という名前は珍しいのだ。それでなくとも、髪色一つで異国人だと思われるのだから、やはりここは少し変な世界だ。
「まぁいい、ハル。あんたは都合のいい時に捕まったといえる。」
言い方がやけに嫌味ったらしいのは、エイダンの癖だろうか。遠慮がない、というか。心が擦り減っている今では、怒りこそせずも不快な気分になる。
「捕まるタイミングに、良いも悪いもないと思うけど?」
「そうかもな。だが実際あんたは運がいい。あと数日もすれば、あんたはこの埃臭い牢屋から解放されているだろう。」
「・・・意味わかんないし。なにがなんだっていうのよ?」
「俺たちの目的は、ここにいる人たちを全員解放するのが目的だ。」
わかりやすいのか、そうじゃないのか。とにかく回りくどい話し方だとハルは思った。そして、いちいち疑問点を残しながら話しているのは、めんどくさいことこの上ない。俺たち、という単語から奴隷解放という行いが、彼個人の目的ではないことがわかる。そもそも彼自身が解放される側にいるのはなぜなのか。もっと単刀直入に話をしてはくれないのだろうか。
「解放って。どうやってそんなこと・・・。」
それを成す方法がハルには思い浮かばなかった。仮にエイダンに仲間が存在するのだとしても、奴隷商らと戦争でもしない限り、ここにいる者たちを救うことなど難しいだろうに。
奴隷として捕まっている者たちには、皆武器もなく、ましてや戦いの知識さえないだろう。戦いになれば彼らが、戦火に巻き込まれることくらい、傭兵として間もないハルにもわかる。
「作戦というほどのものじゃない。成功するためには、あんたを含めた全員の協力が必要なんだ。」
「・・・じゃあ、ここにいる人たちは、みんな知ってるの?」
ハルはあたりを見回した。彼らは、何事もないかのように、まるで奴隷であることを演じているんじゃないかと思わせるほど、平然としていた。顔をしかめ、明日売りに出されるかもしれない恐怖の中にいる奴隷になりきっていた。
「皆にも話合わせてある。今はとにかくなりを潜めてもらっている。実際彼らは数日売りに出されることはない。」
「どうしてそんなに自信有り気なの?」
「事実だからな。」
「・・・じゃあその事実を何であなたが知ってるの?」
(面倒くさい人・・・)
「俺は、ルーアンテイル義兵団所属、グラハム隊長の命で、奴隷解放の潜入を任されているんだ。」
知ってる単語と知らない単語合わさってハルの頭の中はこんがらがった。
「義兵団、ってルーアンの治安を守ってるっていう。」
「その様子だとあんたもルーアンテイルの被害者のようだな。」
「も?それじゃあ、ここにいる人たちはあの街で捕まった人たちなの?」
ハルが捕まったのはグレイモアである。そこから幾分か移動させられたとはいえ、ルーアンテイルと比べたらまだ近いほうだろう。なにせ、ルーアンテイルはキャラバンの行進速度で数十日もかかる道のりだったのだから。そんなにも離れた街からわざわざ人を攫う理由があるのだろうか。
「今回の任務は、単なる奴隷解放というものだけじゃなく、ルーアンテイルの名誉にかかわる事だ。俺たちは、命を懸けてあんたを守る義務がある。」
エイダンの回りくどい話し方が、軍人気質だというのことだとわかったが、彼が本当に軍人なのならば、ハルにとって救ってほしい人がいるはずだ。
「なら、私の他に一人、上の建物に拘束されてる子がいるの。その子を助けるのを手伝って・・・、いいえ、助けてほしい。」
「どういうことだ?一緒に捕まったんじゃないのか?」
「私たちはルーアンテイルではなくて、ここから近いグレイモアで捕まったわ。そして、その子はその・・・、ファルニール商会の頭領の娘なの。それで、身代金目的で、拘束されて・・・。」
言葉にしずらかった。全て自分が不甲斐ないせいで起きたことを、他人に説明するのは。エイダンではないが、事実を知ってもらうには少し言葉が少なすぎるだろうに。しかしエイダンは、言いよどむハルをじっと見つめ、しばらく何か考え込んだ後、まるですべてを理解したかのように話し出した。
「ファルニール商会ということは、キャラバンでグレイモアに向かう途中攫われたのか?」
「いいえ、街の中で捕まったわ。二人きりだったから。」
「そうか。なら、護衛についていた、鷹の団も黙ってないだろう。このことは、隊長にも知らせたほうがいいかもしれないな。」
「でも、私たち何の書置きとか、残さずに出たから。」
「だとしても、何日も帰らなければさすがに気づくだろう?それに、かの鷹の団が、護衛対象を攫われて黙っているわけないだろう?」
エイダンは自分よりも鷹の団についてわかっているような口ぶりだった。彼の言うようにリベルトたちが捜索に動き出しているのなら心強いが、義兵団の隊長という人物に連絡など、どうする気なのだろうか。いや、今はそんなことよりも、ソーラの命だけが心配なのだ。彼女を救うことだけが、今やるべき唯一の道だ。
「あなたの言う義兵団が来るのはいつになるの?できることなら急いで助けてあげたいの。」
「気持ちはわかるが、今は無事でいることを祈るしかない。俺たちは、長い間奴隷商らの動向を探り、ようやくここまで追い詰めたんだ。」
「追い詰めた?」
「そうだ。軽率な行動を起こして、感づかれでもしたら全て台無しになる。お前と、その娘の心中は察するが、どうかこらえてほしい。」
彼は、ハルが何を言っても表情一つ変えないのに、ハルは彼の言うことに驚かされてばかりだった。こんな都合のいいことがあっていいのだろうかというほど、彼らの存在がまぶしく感じた。牢屋に放り込まれた時点で、何もかも諦めかけていたのに。
「あなたは、あの子を助けてくれるの?」
「必ず助ける。その子も、あんたも。」
「・・・私は・・・。」
助からなくてもいい。ソーラだけを考えてほしいと、続けようとしたけれど、エイダンにその手の冗談は伝わらないだろうと思った。たとえ冗談のつもりでなくとも。
「私に、できることはない?」
「あんた、・・・、大丈夫なのか?」
「何が?」
「何がって・・・。」
エイダンの視線が徐々に下がり、私の素足を捕らえた。すぐにそれは元に戻ったが、それだけで彼が何を考えていたのかわかった。確かについ先日まで、恥辱の限りを味わっていたところだ。挙句、傷をつけられ、尊厳を奪われた。気が狂ってしまってもおかしくないだろう。
「私は、・・・傭兵なの。鷹の団の。」
自己紹介ではない。これは告白のようなものだ。自分が弱い存在であることを打ち明ける告白なのだ。
「ソーラの、その捕まった子の護衛ってわけじゃなかったの。友達だから、一緒に街へ出ただけ。だけど、私が守ってあげなきゃいけなかったのに、守れなかった。私は、あの子が助かるためなら、どんなことだってするから。囮にでも捨て駒にしてもいい。誰かの盾になれっていうなら喜んでそうする。だから・・・。」
「あんた、自分を責めてるんだろう。」
そう言われて当然だ。自分で自分を責めてるつもりはない。だが、客観的に見ても自分のせいで今の状況に陥ったのだ。自分にもっと力があれば、などと考えているわけではない。王族に追われていることを考慮しなかったことがすべての原因なのだ。
「訳ありなの、私。本当なら鷹の団にもいるべきじゃないのかもしれない。傭兵なんて、柄じゃないのに。だけど、あの子だけは、ソーラだけは助けてあげたいの。私の命が消えても、誰の手を借りても、必ず・・・。」
「あんたの気持ちは分かった。だが、それであんたを手ごまにするほど、俺は悪人じゃない。」
エイダンの態度は全く変わらなかった。同情さえもしていないようで、彼の瞳は変わらずハルを貫いていた。
「今は、少し疲れているだけだ。少し休んで、また明日脱獄に関しての話をしよう。」
「別に、私はそんなんじゃ。」
「いいから、休め。寝床と呼べる場所は無いが、壁を背に座れば少しは休めるだろう。」
エイダンに背中を押して促され、彼はそれ以上口を聞いてくれなかった。
(私は、諦めているわけじゃないのに・・・。)
無駄な自己犠牲と思われてしまったのだろう。確かに、自分とソーラを天秤に架けて、自分こそが犠牲になるべきだと決めつけている。他人はそれを偽善と呼ぶかもしれないが、ハルにはそれ以外の選択肢が思い浮かばない。どちらも助けられればそれは結構なことだ。だが、こんな状況では必ず大きな選択を迫られる時が来る。ハルは、その時こそ、自分の命を使おうと思っているのだ。
何はともかく、エイダンの言う通り疲れているのだろう。他に投獄されている者たちと短いを会話をした後、篝火の光が届かない端のほうへ案内された。
「日は真上あたりだが、ここなら眠れるだろう。」
「どうしてわかるの?」
「それも含めて、全部話してやる。次に目が覚めたらな。」
エイダンはそう言って何も言わなくなったが、しばらく傍にいたようだ。
「私は、弱い人ね。」
ハルは、急速に訪れた眠気の中でそう呟いた。
「ん?」
「アスターっていう、奴隷商の親玉にそう言われたの。私たちは弱い人で、強い人に従わせられる存在なんだって。」
「・・・それで?あんたはなんて答えたんだ?」
「何も。言わせてもらえなかったし。世の中は強い人と弱い人しかいないんだってさ。」
言われてみればそうかもしれないと、何となく腑に落ちていた。向こう側でも、人生の成功者はたくさんいるけど、それと同じくらい失敗した人たちがいたはずだ。学校でも、部活動で同じ練習をしていても人によって成長の差が生まれたり、例えば一人の男子を二人の女子が好きになった時、選ばれるのは一人だけだ。それらは仕方のないことだ。実力が無ければチームのレギュラーに選ばれなかったり、失恋した者は、どれだけ努力しても愛を手にすることはできない。国や状況によってその境界は異なるものの、人間の社会は、そうして成り立っているのは間違いではない。
「私は、強くはなれないみたい。」
「否定はしない。一理ある。だが、あんたは一つ勘違いしてる。」
「何を?」
「希望が無いことと絶望することは違うぞ。」
彼は吐き捨てるようにそう言い放ち、どういう意味か聞き返す前に踵を返し、明かりのある方へ行ってしまった。去り際に見た彼の表情は少しだけ起こっているように見えたのは気のせいだろうか。出会って数分も経ってない青年の思考は相変わらずわかりずらかった。回りくどい言葉で、それでも何かを伝えようとしてくれた。せめて、何が言いたかったのかだけでも話してくれれば、すっきり眠れただろうに。
「希望が無いことと、絶望することは、違う・・・。」
エイダンの言葉を口の中で繰り返してみた。言葉の上では確かに意味が違う。だが、実際何が違うというのだろうか。希望がない状況も、心が廃れて絶望するのも、どちらも同じではないか。彼は、何を伝えたかったのだろうか。
彼の鋭い眼光の横顔が頭から離れなかった。それでも徐々に睡魔に意識が侵され、ゆっくりと眠りについていくのを感じた。ぼろと汚れた毛布しか纏っていないのに、なぜか体は暖かかった。
異変を感じた始めたのは、いつものようにキャラバンで本拠地へ帰る途中だった。多くの金銀を稼ぎ、行進しながら交易の成功を祝い、商会仲間やリベルトらと歌を歌ったり、次に通りがかる旅人は男か女かで賭けをしたりなど、なんとも平和な時間だった。
リベルトたちが首から下げる地笛が一斉に鳴りだし、そして数刻もしないうちに辺りは戦場となった。価値あるものを手にしているのだから、襲われる可能性が無いなどとは思ったこともない。だが、実際アストレアを拠点に商売をしていて、野盗紛いの連中と交戦したのはそれが初めてだった。
アストレアは古くから多くの戦争を起こしてきた。その多くは領土拡大名目の侵略であったが、悲しいことに戦争は商人にとっては喜ばしいものである。ましてや荷運びというだけで金を払うくらいにアストレアは気前が良かった。死の商人と言われればそれまでだが、ここまで巨大な商会へ成り上がれたのはそういった所以があるからだ。当時は商人としても、人としても青臭く、稼ぎさえあれば、仲間たちを養うことさえできればそれでよかった。しかし、ある戦争ののち、アストレア王国は歯車が外れたかのように、急に傾き始めたのだ。不運にも国王が亡くなり、戦線を維持できなくなった軍は瞬く間に壊滅していった。負け戦が続けば、敗残兵らが村や旅人を襲うようになり、王都以外に安全な地なくなっていった。
そのころからだろう、自分たちがしていたことがいかに虚しいことかを感じ始めたのは。至る所で人死にが起これば、そういう気にもなるだろう。どれだけ自分が恵まれていたか、鷹の団という大きな存在を改めて知ったのだ。
武器商売をやめたのは、アストレアが本当に腐敗しきってからだった。物流を主に商会で産業を始めたり、農業を営む者たちと繋がりを持ったり、今までとは違った生活にしていきたかった。罪滅ぼしというわけではないが、ルーアンテイルの都市開発への投資も行い、主長とも強いパイプを持つことができた。ナギとカーム、子供たちも大きくなってきて、胸を張れる父親になりたかったのかもしれない。下の子供たちも物心がついて家族としても立派になっていった。そして、同じころにソーラと出会ったのだ。
彼女を、彼女の母親から託されてから、実の娘同然のように接していこうと決めた。けれど、それは悪手だった。ソーラに親として見られていないと気づくのに、そう時間はかからなかった。ソーラは、とても賢い娘だった。すぐに算術をを覚え、売り上げの集計や、在庫の管理を任せられるようになっていった。ソーラ自身の頑張りもあって、多くの仕事を彼女に課していた。上の二人の兄弟とはまた違った風に育つ様を見届けるのは親としてうれしいものがあった。きっと彼女も、家族がいる喜びをかみしめてくれていると、信じきっていた。
仕事終わりに、ヘレンがソーラについての話をしてきた。笑ってくれない。食事の時も、ちび助たちと遊んでいるときも、笑顔を見せてくれない。その時の妻のか細い声音は、今でも覚えている。仕事で家を空けることが多かったから、ヘレンの言うことが信じられなかった。笑わない人間などいるはずがない。そんな思い込みに取りつかれていたのだろう。しかし、ソーラの心の傷は私たちの想像を遥かに超えていたのだった。話すときは決して言葉遣いを崩したりしない。上の兄弟には忠実で、下の子供たちの世話もするようになった。ただ一度の我儘も言わず、必要最低限の物資しか欲しない。それは、年相応の振る舞いではなかった。ソーラは、救われてなどいなかったのだ。
鷹の団の若い団員から、ソーラとハルが奴隷商に捕まった可能性がある事を知った。驚愕と同時に、グレイモアの情勢を頭に入れておかなかった自身の不甲斐なさを呪いたくなった。しかし、仮にそのような情報を知っていたとしても、このような事態になることなど誰にも読めなかっただろう。
グレイモアでの目的はほぼ達成されている。在庫はほぼ売り切り、グレイモアでの新たな品の入荷も明日完了する手筈になっている。売り上げは、思っていた以上に渋かったが、最低限の稼ぎは手に入れることができた。一先ず一安心といったところで、二人の誘拐騒ぎである。ただでさえ、翼竜との戦闘でのケガで体が辛いというのに。まだ、自由に歩けるほど回復していないため、ほとんど荷馬車で情報を待つことしかできない。そして、自分にはどうにもできないからこそ、最悪の事態になりはしないかと考えてしまう。ソーラが、奴隷として売りに出されてしまう。まだそうと決まったわけでもないのに、そのことばかりが思い浮かび、頭から離れなかった。
それに、ハルについても。彼女を助けた理由など、単なる善意だ。彼女が何者かなど気にもしなかった。あのアストレアの王族と関わりがあると知っていたら、自分は同じ判断を下せただろうか。詳しい経緯はわからないが、助けたことによる弊害を考慮したかもしれない。
(今更何を・・・。)
後悔などして何になるだろうか。彼女に責任などないはずだ。それにハルは、ソーラを、娘の心を不思議と解きほぐしてくれた。彼女らが出会ってから、ソーラはきっとハルに何かを見出したのだ。笑ったり、我儘を言うようになったり、時には欲しい物を買うために小遣いをねだったりしてくるようになったのだ。ヘレンと二人で成しえなかったことを。親としては情けない限りだが、感謝してもしきれないものだ。自分たちに懐いてくれなくとも、家族の情を抱いてくれなくとも、楽しそうに笑ってくれるだけで、ソーラを引き取ってよかったと思える。それを成してくれたハルを、厄介者のように扱ったりするべきじゃない。
(リベルト、私は君を信じることしかできない。頼む。)
話によれば、ルーアンテイルの義兵団が近くにいるらしく、彼らと共同で奴隷商らを制圧する作戦を立てているという。一体どうしてそんなことになったのかは聞かされなかったが、私ができることはただ一つだけだ。娘と、親友とその仲間たちの無事を、祈り続けることだけだ。今まで何度も陥ってきた窮地と同様に、また、共にキャラバンで再会ができるように・・・。
作戦会議、軍議、話し合い、そこに集まった者たちはそれぞれそう呼んでいた。
義兵団と傭兵、本来相容れない人種だが、その点に関してはそれほど問題はなかった。鷹の団の名声もあってか、グラハムの部下らは集まった傭兵たちをやや英雄視している節があり、今回の作戦の主力が自分たちなのにもかかわらず、作戦に同行できることを栄誉に思っているようだった。
(相変わらず騎士道に恋したような連中だな。)
リベルトは、少々呆れていた。かつて自分が所属していた頃と変わっていない。もちろんそれがうれしくもあるが、そのあたりのことはしっかりしなければならないだろうに。心の中でグラハムに叱責をしたくなった。
そんなことはともかく、連れてきた仲間たちは、みんな選りすぐりの腕利きたちだ。グルードをはじめとして、ベテランはもちろん、レリックやイアン。若い連中の中では抜きんでて剣術に秀でているラベット。数はそれほど多くは無いが、リベルトが考えうる最強かつ、もっとも信頼のおける人選だった。
この布陣ならば、戦闘においては絶対遅れをとったりはしないだろうと考えていた。問題は、今回の作戦が単純な戦闘だけではないということだ。
人に限った話ではないが、何かを守りながら戦うというのは、ただ戦うよりも何倍も難しいことだ。自分の身だけを考えていれば、どんな手段も厭わないが、守る対象のことを考えながら動かなければならないのだ。守る対象は、こちらの意図など何も考えずに好き勝手に動いてしまうものだ。お互いが歴戦の間柄ならそんなことにはならないだろうが、相手は一般人だ。死に怯え、恐怖に支配された者たちをうまく制御するか、その思考と行動を常に読まなければ、自分たちの身は守れても、彼らは瞬く間に蹂躙されてしまうだろう。
「リベルト、これで全員か?」
「あぁ、こっちはそろってる。」
グラハムは頷き、咳払いをすると、仲間たちと彼の部下たちはいっせいに視線を揃えた。
「これより、会議を始める。今回の作戦はここにいる精鋭のみで行う。作戦の成否は我々の手にかかっている。心して聞いてほしい。」
こういう話し合いの場は、グラハムの部下らはいつものことだろうが、ラベットなんかはやたら緊張しているようだった。腕はあるとはいえ経験の少ないラベットには、作戦なんて気にせず自分にできることをやれ、とだけ言っておいてあるが、今の表情を見るに、あとでもう一度念を押しておく必要あるようだ。
「今回の作戦は、正確性を重視したい。ルーアンテイルの主長からの嘆願あって、街の住人をすべて無事救出することが求められている。また、ルーアンテイルの被害者以外にも、グレイモアの失業者や鷹の団のお仲間も拘束されている。彼らについても同様に救出することを目標とする。」
グラハムが言う言葉は、隊長らしく全うだが、あまりにも硬すぎるし、場の空気は耳が痛くなるほど張りつめていた。
「うちの末弟子でなぁ。まだまだ未熟だが、腹に剣括った芯のあるやつなんだ。」
「安心しろ、お前のところのお嬢さんは必ず助け出す。もちろんファルニール商会のお嬢さんもな。」
「別に俺の娘ってわけじゃねぇぞ?」
他愛のないやり取りだが、全体の雰囲気が少しだけ緩んでいた。
「わかっていると思うが、女子供を救出する際は大きな混乱を生み、ご老人を連れ出すのはかなりの時間がかかってしまう。我々は、隙を曝しながら戦わなければならないのだ。」
グラハムは、議場の中心にある机に広げられた簡略的な地図に注目した。
「作戦の開始は、奴隷商らが護送のために砦の入り口付近に集まり始めてからだ。それを知らせる合図として、内部に潜入中の隊員が天笛を鳴らす手筈になっている。奴らはの移動はいつも夜に行われている。日が沈むと同時に、我々は砦の周囲の草むらに身を隠してその時を待つ。」
「それだと、地笛が鳴らない限りこっちは身動きとれねぇってことになるなぁ。」
「だが、作戦開始は向こうから始めなければならない。潜入している隊員は、笛を鳴らした後捕まっている者らと共に籠城してもらうことになっている。あの砦の牢屋は地面を掘り返して作った土牢でな、周囲は土壁に囲まれているから、出入り口は一つだけだ。立てこもるにはうってつけの地形だが、彼一人で一本道を永遠に守り切れるわけではない。向こうには武器もないからな。時間との勝負になる。リベルト、お前たちには、彼らのもとへ迅速に向かって貰いたい。」
「突撃するだけなら、ややこしくなくて簡単だな。」
「そうだろう?我々が外で奴隷商らを抑えている間に、捕まっている者らと合流するんだ。」
「そのあとはどうする?合流したとして、地下と地上で分断されていることには変わりないぞ?」
「いや、鷹の団が彼らと合流できた時点で目的はほぼ達成されている。」
リベルトは、眉根を寄せて、仲間たちもお互い顔を見合わせた。
「奴らは、商品を守れないきれないと判断すれば、おそらく守りに入らなくなるだろう。あれは、そういう連中だ。自分らの命を優先する。」
言われてみれば、そう考えるのは容易い。商人は、商品を守るためなら争うことも厭わない。だが、商品のために命を懸けることはしない。最悪の場合は、商品を捨て、命を優先させる。それは、奴隷商とて同じことだ。
「そちらからすれば、その時点で作戦は終了だな。あとは奴隷商らを煮るなり焼くなり好きにするといい。」
「そっちはどうするんだ?」
「我々の目的は、奴隷商らを統率しているアスターという男だ。そいつを拘束、あるいは殺害するまで、戦いをやめる気はない。」
「なら、俺らがころっと殺っちまっても問題ねぇんだな?」
「あぁ、もちろんだ。好き勝手暴れてもらって構わない。護衛のほうも怠らなければな。」
「安心しろ、そこらへんはしくじりはしねぇよ。まぁしくじった結果が今なんだがなぁ。」
そんな皮肉を言っても、もはや誰も笑いはしなかった。グラハムは、机を軽く小突き、注目の視線を集めた。
「決行日前夜。砦の周辺の草原に身を潜める。いつでも突撃できる体制で挑む。奴隷商に成りすましている同胞からの合図を待つ。そのあとは、己が剣を信じて戦うだけだ。諸君。これは救出を目的としたものだが、正真正銘の戦争である。自分たちが正義だなんて思わないことだ。戦争においては、勝者だけが正義だ。」
静かに、しかし張りのあるグラハムの言葉に、義勇兵らは声を揃えて返事をする。そして、傭兵も各々気合を入れるように声を張り上げる。リベルトはその様子を見て、つい笑みをこぼしてしまった。
「何が面白いんだ?」
「いや?別に。こういうのはいつの時代も変わらねぇなと思ってよ。」
多くを言わないリベルトにグラハムも苦笑いを浮かべた。
「義兵団が懐かしくなったか?」
「そうだなぁ。懐かしくはあるが・・・、戻ろうとは思わねぇよ。」
「・・・そうか。」
二人はそれ以上何も言葉を交わさなかったが、彼らの目の前では、多くの者たちが準備を始めていた。戦争をするための準備を。それは決して、装備を整えたり、地図を確認したりすることではない。心構えを作ることだ。命を取り合う覚悟を固めているのだ。
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