初めの一歩

これは夢だ。何もかもが虚構で、全ての経験は目が覚めるのと同時に消えてなくなるのだ。そう思いたかった。

なにをさせられていたかというと、たいしたことじゃない。遥はメイドや裁縫師に囲まれて、ドレスに着替えさせられていた。遥自身は、ただ両手を横に広げているだけで、あっという間に着脱されていくのだ。着せ替え人形の気分を味わっている感じだった。

着替えなど自分でできると思っていたが、ドレスというものは遥の想像を超えた面倒くさい衣服だった。映画などでしか見たことなかったが、所詮人が着る物と甘く見ていた。服を脱がされてから着付けに数十分はかかっただろう。その間遥はずっと同じ体勢でいたため、体が固まってしまいそうだった。

そして何より、とても着心地のいいものではなかった。お腹に巻いたコルセットはこれでもかというほどきつく閉められていた。自慢ではないが、もともと体は細いほうであったと思う。だから、こんなもの巻かずともいいのではないかと思ったのだが、コルセットの根本的な役割はくびれをつくることにあるらしく、胸部が貧相な遥には際立たせるために必要なのだとか。・・・余計なお世話である。

それだけでなく、非常に重い。両肩と腰周りにずっしりと錘をつけられているような感覚だった。下手に体を動かすと、そちら側に重心を持っていかれそうになる。

「姫様、いかがですか」

カリにそう聞かれ、遥は睨み付けそうになった。このメイドが聞きたいのはきっと、お美しくなったドレス姿はいかがでしょうか?ということを聞いているのだろう。遥としては、きつくて重くて苦しいからすぐに脱がして欲しいと言いたい。だが、それを言ったところで脱がしてはくれないことを遥は理解していた。

「大変お似合いでございます。これなら、国王両陛下の御前に出るに相応しいお姿かと」

そう、今遥はそのためだけに、何十分もかけて着替えをさせられているのだった。偉い人間の会うのだから、それなりに身なりを整えなければならないのは遥にも理解できる。それならば、スーツやワンピース型のドレスなどでいいのでは、思ってしまう。だが、着替えさせられている間、遥は衣装部屋を見回していろいろ感づいていた。ここには、遥の知っているような衣服はほとんど存在しなかった。ほとんどが今着せられているドレスのような大仰なものばかりだった。

「あの、これすごく重いんですけど」

ようやく振り絞った言葉は、締め付けられているせいか弱々しかった。

「しばしの辛抱でございます。王室にてお椅子を用意してありますので」

それまでこの微妙な圧迫感に苦しめられるのかと思うとため息が出る。

聞きたいことがたくさんあるのに誰も答えてくれない。底知れぬ不安が胸のうちに蔓延るまま引き回しにあっている。どの部屋にも時計が無くて、どれくらい時間がたっているかもわからない。かといって一人で思案すると悪いことばかり思い浮かんでしまう。

「それでは姫様。参りましょう」

言われるがままに遥はカリについていく。今の遥にはそれ以外の選択肢が思い浮かばなかった。それが最善だとは思っていない。けれど、今は最善が何なのかすらわからない。彼女たちのいいとおりにすることは従っているみたいで気に障るけれど、どうしようもないが事実だった。

衣装部屋から王室なる部屋までの距離がとんでもなく長かった。遥は当然どこにあるかわからないので、カリについていく形になるのだが、歩き方が遅くてじれったくなる。彼女はもしかしたら、なれない服装を着ている遥に気を使っているのかもしれないが、違う、そうじゃない、と言いたい。気にして欲しいのはそこじゃないと。

(空気が読めないときらわれるぞ?)

歩く速度もだが、単純に遠いというのも原因のひとつだろう。どれだけ、巨大な城なのだろう。右へ左へ幾度も曲がっているが、同じ景色が続いて目が回ってくる。

目的の場所についたころには、遥は気が滅入っていた。大きな扉の前でげんなりする。

「姫様、背筋をお伸ばしください。気をしっかりと持って」

空気が読めないうえに容赦の無いメイドにはもう期待しないと遥は心に決めた。

カリは、先に部屋の中へ入っていった。中で何か話しているようだが、分厚い扉のせいで何を言っているかはわからなかった。やがて扉が開かれ、カリが顔を出す。

「姫様、どうぞお入りください」

扉をくぐると、それはまた大きな空間が広がっていた。建物の中にパルテノン神殿の柱のようなものが連なっている。赤い絨毯がしかれ、眼で追っていくと奥に壇があり、その上には二つの座に座る男女が。男の頭には冠が、女の頭にはティアラがのっていた。どれだけ無知な人間でも、それを頭に乗せている人物が何者であるかなどわかるだろう。遥は、息を飲む。自然と気が引き締まる。カリに続いて、ゆっくりと二人の顔が明らかになる。

どちらも若かった。遥より年上なのは確かだが、少なくとも大人の部類にははいらないだろう。それぐらい若く、王と王妃には見えなかった。

御前まできて、一番奥の柱に老人が隠れていることに気づいた。白髭白髪しろひげしらが。木の杖を片手にじっと佇むようにそこにいた。それ以外の人間はおらず、やけに静かだった。はじめにカリが跪いた。

「姫様、拝礼を・・・」

小声でそういわれ、カリに習って遥も同じように頭を下げる。

「カリよ。ここまでご苦労じゃった。お主は下がりなさい」

声は老人のものだった。カリは、短い返事をして頭を下げたまますっと下がっていった。驚いたのは、カリの声のトーンがさっきまで自分に話しかけていたものとまったく違うことだった。あの老人も相応の身分の人なのだろう。

老人が遥を見た。

「姫君よ、顔を上げたまえ」

言われたとおりに顔を上げ、国王、王妃と向き合う。

「王よ、こちらが・・・」

「ようやく会えましたね。レイナ」

老人の声をさえぎったのは王妃だった。王妃は両手を広げて近づいてきた。その距離は見る見るうちに縮まり、気づけば遥は抱きしめられていた。そして、王妃は顔を近づけて頬をこすり合わせてきた。

「あぁレイナ。レイナ、私たちの、レイナ。」

まるで・・・母親のような。遥にはまったくもって身に覚えの無いことだ。けれど、あまりにも本気すぎて、気圧されてしまった。

(誰と勘違いしてるんだろう)

やがて王妃は満足したのか、遥から離れた。国王も近づいてきていた。こうして近くで見てみると本当に若かった。国王は遥をまじまじと見ていた。足から頭までじっくりと見られて、まるで品定めされているようだった。

「ジーグよ、レイナは私たちのことは・・・。」

「残念ながら、覚えておりませんな。」

「そうか・・・。」

「かまいません、こうしてようやく会えたのですから。ねぇ、レイナ?」

またこの感覚だ。自分が知らない中で勝手に自分の話が進んでいく感覚。これではまるでいじめのようだ。生憎遥は、言われるがままにそれを受け入れるほど良い子ではない。いよいよ感情が沸点に到達したのだった。

「なんなんですかいったい?レイナって、私はそんな名前じゃない。あなたたちが私を誰と勘違いしているのかは知らないけど、私はあなたたちなんて知らない。知るはずが無い!」

手をなぎ払って、二人と距離を取る。次に何かを言われようなら、すぐさま否定する。そう心に決めた。

「知らなくて当然なのだ。レイナよ。私たちはここで初めて会ったのだから」

「ふざけないで!さっき、まるで、自分の娘みたいに。それなのに、なんで!」

感情が高ぶって、うまく言葉が出てこなかった。本当はもっと、怒りを露にしたいはずなのに。聞かなければならないことがたくさんあるのに。酷く不快な気分になってきた。吐き出したいものが喉の奥でとどまって動こうとしない。歯を食いしばって力んでも、それは空回りするだけだった。

「姫君よ、落ち着きなさい」

先ほどジーグと呼ばれていた老人が割って入ってきた。今の状況が落ち着いていられるものか。

「陛下、シルクルダ様、姫君は向こう側で長きを過ごしておりました。いきなりのことで荒ぶられるのも当然でしょう」

「でも、ジーグ。この子は私たちの子なのでしょう。母親である私が娘を抱いていけない理由がどこにあるというの?」

王妃の言葉に、更なる嫌悪感じた遥は足を一歩踏みだして、その襟首を掴みそうになった。しかし、ジーグがそれを手で制した。そして、王妃の前に立ちはだかると、言い聞かせるように言う。

「時間が必要ということでございます。相手は子ども故に純粋です。真実を知らぬままでは、例えどれだけ優しき愛情であっても受け入れがたいものです。このままお二人が自らの思うがままに姫君と関われば、姫君は心を壊してしまうかもしれませぬ」

そんな、と王妃は悲痛な表情を浮かべた。目には涙を、その顔を隠すように国王の胸にすがりついた。妻の悲しみを受け止めた国王は、労わるように髪を撫でたあとジーグに向かって言う。

「我々はどうすればいい。ジーグ。私とシルクルダは18年も待った。今ようやく、こうして自分の子と対面できたのだぞ」

「心中お察しします。ですが、これは姫君のお心の問題。下手に動けばより悪い方向へと傾いてしまいます」

国王は、遥を見やる。その懇願するような瞳が遥に注がれる。

そういうことなのだろうか。ほんとうに自分がこの二人の子どもだということなのか。一国の王と妃たるものが、こんなにも弱く嘆かわしい姿をしていては、その原因たる自分が悪者のように思えてくる。だが、遥にとっては、そんなことはありえるはずが無い。遥は確かに日本で生まれ、育ち、一学生として暮らしてきたのだ。ずっと両親という存在がそばにいたのだ。自分が捨て子や養子である話なんて聞いたこともないし、実際自分が出産後、母に抱かれている写真も見たことがある。

これは、この人たちが言ってることは、全部嘘だ。

「姫君」

名前でもなんでもない、自分を意味する言葉で呼ばれ、遥は老人にこれまでに無い怒りを見せる。ジーグは、そんなものお構いなしに言葉を続ける。

「気を静めなさい。今ここで怒りを露にしたところで何も解決はせん」

確かにそうだ、これでは幼い子どもと同じだ。だけど、やるせない気持ちを、行き場の無い感情を、どう自分の中で整理すればいいか、遥にはわからなかった。

ぽんっと肩に手が置かれた。

「聞きたいことが山ほどあるだろう。まずは、落ち着いて話をしようかの」

他人事のような言い方だった。遥の気持ちなど気にもしないような言い方。当然、遥の心境などわかるはずも無いのだから、むしろそれは普通なことなのかもしれない。逆に中途半端な同情をかけられていたら、今度こそ遥は誰それかまわず殴り倒していただろう。

「陛下、シルクルダ様、一旦自室に戻られてはいかがですか。まずはこの爺が姫君に事の顛末をお話します。お二人の気持ちはわかっておりますが、これは、もともと難しい問題であったことはお二人もご存知のはず。どうかお気を確かにされていただきたい。」

国王は静かにうなずき、王妃を連れて奥のほうへ消えていった。残された遥はしばらく呆然としていた。さっきまで荒々しかった鼓動が、今では徐々に静まり返っていた。

顔を上げるとジーグがこちらを見ていた。遥が落ち着くのを待っていたのだろう。

「ここで話をするのは無粋じゃの。カリ、そこにおるじゃろう?」

ジーグが大きな声で呼ぶと、いままでどこにいたのか、すっと影からカリが現れた。

「はい、大賢者様」

「お茶と、そうじゃな、姫君がゆっくり休めるように部屋を用意してあげなさい」

カリは、それを聞くとうれしそうに笑って、すぐに、と短い返事を返して、先に広間を出て行った。遥はそれを目で追っていった。ジーグが背中を押して促した。

「だれもいなくなったから、一つだけお主に言っておこうかの。わしは、少なくともお主の敵ではない。それだけを良く覚えておいてくれ。今はそれだけでいい」

ジーグはそれだけ言うと先を歩き始めた。今の遥にとっては敵も味方も検討がつかない。彼を信じて良いのか、迷わずにいられなかった。

ジーグに話を聞く前に、カリにこの格好はどうにかならないかと尋ねた。体がつらくて話どころではないのだと訴えると、今来ているドレスよりは楽そうな服装に着替えさせてくれた。コルセットも外れて、急に呼吸がしやすくなった。これが許されるならもっと早くに言えばよかったかもしれない。しかし、あれは国王にに会うための衣装だから、どの道仕方の無いことだったのだろう。

服装を改めて通された部屋は、はじめ遥が寝かされていた部屋より質素だった。飾り気がなく、異様にものが少なかった。さほど寒さを感じないのに暖炉に火が灯っていた。ジーグは一人椅子に腰掛けて、さきに自分で淹れたお茶をすすっていた。

「すまんな、こんなつまらない部屋で」

ものが置いてないせいか、部屋はやたら広く感じた。それでなくても見た目相当大きい部屋なのに。そんな中に老人が一人ぽつんといる光景は確かにつまらないかもしれない。

「姫様こちらに・・・」

カリが椅子を持ってきて、ジーグに対するように置いた。遥はそれに座ると、ジーグが淹れてくれたティーカップを受け取る。嗅いだことの無い匂いが鼻腔くすぐった。少なくとも日本でも飲まれている紅茶の類だろうが、細かい種類までは良くわからなかった。

「さて、何から話そうかの?」

ジーグは遥を見ていった。実際に遥も何から聞けばいいか考えていなかった。

「えっと、なんで、私を誘拐されたのですか?」

とっさに思いついた問いは、可笑しなものだった。誘拐した人たちになんで誘拐したかなんて聞くとは。だが、それは誘拐した側にとっても可笑しな質問であった。

「誘拐?そうか、誘拐か。確かにそうだ。お主からしたら誘拐されたと思っても不思議ではないな。はっはっは」

遥にとっては笑い事ではないし、なぜ笑うのか理解ができなかった。

「すまんな、馬鹿にしているわけではない。ただ、言えることがあるとすれば、わしらからすれば、お主を誘拐したつもりなどこれっぽっちも無いのじゃよ」

そういってジーグは右手の親指と人差し指で小さな丸を作って見せた。

「誘拐じゃなかったら何だって言うんですか。だって、人のこと勝手に攫って、勝手に知らない人の子どもにさせられて。犯罪ですよこんなの」

「罪か、確かにわしらは罪を犯している。だが、それはお主が言っているような罪ではないのだがな」

ここまでしてもいまいち話がピンと来ない。何か根本的な見解の相違があるのは感じるがそれがさっぱりわからない。ジーグは、極めて真面目な声音でそれを話し始めた。

「順を追って話そう。取り合えず最後まで聞きなさい。まず、ここは、この世界はお主が知っている世界ではない」

・・・最後まで聞けといわれて早々、突っ込みを入れたくなることを言われてしまった。頭の中にハテナマークが無数に浮かび上がった。

「よいか?ここ、アストレア王国がある世界を、わしらは此方側と呼んでいる。世界に対しての呼称など無いからそう呼ぶことが多い。そして、お主がいた世界のことを向こう側、と呼んでいる。つまり、お主は向こう側から此方側の世界に渡ってきたのだ」

「向こう側と此方側・・・」

遥は気が遠くなるのを感じた。

「この世界は、お主が知っている世界ではない」

「そ、そうなんですか。わかりました」

何も理解していないが、いちいち突っ込んでいては話が進まなくなるだろう。

「じゃ、じゃあなんで私は連れてこられたんですか?私みたいな、ただの学生が・・・」

「ガクセイ、というものが何かは知らんが、それは先ほどの問いに答えるのと同じじゃな」

「さっき?」

「お主を誘拐した理由じゃよ。そして、なぜ誘拐という認識がないのか。それはな、お主はもともと此方側の者だからだ。本来ならば、此方側で生まれ、此方側で相応の生を育むはずだった。わしらはお主を誘拐したのではない。連れ戻したというのが正しい認識だ」

何か言わなければと遥は思った。そんな話が信じられるはずがないと。しかし、ジーグはそんな遥の心をおるかのように真実を突きつけてきた。

「その髪、生まれつきなのだろう?」

咄嗟に遥は自分の白い髪を触った。遥のいた世界では、専門の医師に先天性白皮症と診断されていた。。いわゆるアルビノだ。肌が薄いのも、日の光に弱いのもそのせいだと。

「此方側では、赤目に銀髪はとある人種の特徴としてある。お主はその一種だろう」

此方側にアルビノがあるのかどうかはおいといて、少なくとも遥が此方側の人間である可能性が高まってしまった。そうなると、遥自身はもはや自分の言葉に自信を持てなくなってしまった。

「・・・何がほんとで何が嘘なのか、私にはわかりません」

「わしは嘘はつかんよ」

「・・・なら、私はここで生まれて、あの二人の、子どもになるはずだったのですか」

ジーグは何も答えなかった。それが肯定か否か遥にはわからなかったが、今はそれどころではなかった。つまりはそういうことなのだろう。たとえ自分が白い髪を持っていなくとも、この世界にいるということがジーグの話の証拠になるだろう。

「ふむ、その様子では陛下の御前へは行かれまい」

酷い顔をしていたと思う。自分でもわかるくらいに。話に夢中でお茶など飲む暇も無かった。突然現実を突きつけられて、心を失くしてしまったかのようだ。その後、どういう会話をして、どうやってはじめの部屋に戻ってきたのか覚えていなかった。ずっと、向こう側でのことを思い出していた。両親のこと、友達のこと、学校での思い出を。此方側に来てまだ1日もたってないだ。それらの記憶は鮮明に思い出せる。けれど、それが本当ならば体験することのない世界だったのだと思うと、空しさが心を刺す。あの日常に嘘は無かった。虚構の存在だったのは自分自身だなんて。

(なぜ自分は此方側で生まれてこなかったのだろう)

何か理由があるのは確かだろうが、此方側のことなど何もわからないのだ。どんな事情でも、今の遥には理解できないだろう。

遥は部屋に引き篭り、ベットの上で丸くなって、ただひたすらに孤独になっていた。カリが淹れた紅茶も王城料理人が作ったという豪華な食事にも興味を示さなかった。

時計がないため曖昧だが、夜に近づいていることに遥は気づいた。城の中の明るさが徐々になくなっているのだ。そういえば、はじめは気づかなかったが、この世界に電気は無いらしい。全てが火の明かりだけで明るさを保っている。廊下には無数の松明や蝋燭が並べられていたし、この部屋の明かりもほとんど蝋燭の明かりだけだ。そのことから、この世界にはおそらく科学がないのだろう。しかし、そんなこと知ったところで、何にもならない。ここが異世界であることをさらに思い知らされるだけだ。


突然、部屋の扉が開いた。目を向けると、ジーグだった。

「大賢者様。どうかされたのですか?もしや陛下が?姫様はまだそのような状態では・・・」

「わかっておるカリ。陛下と王妃殿は、今しがた寝室へ行かれたよ。姫君に伝えておくことがあってな」

そういってジーグは遥を見た。しかし、遥にそんな気は無く、そっぽを向いた。

「ですが、今は姫様もお疲れのようですし、明日にでも・・・」

「なに、たいしたことじゃない。すぐに済む。あぁそれにカリ。お前もいつまでもここにおると寮に戻れなくなるぞ。そろそろ帰りなさい」

カリは、まだ遥の世話をする気でいたようだが、どうやらそうも行かないようだった。しぶしぶ部屋を後にしていった。カリがいなくなるのを確認して、ジーグは服の袂から布袋を取り出した。

「姫君。これを」

話をする気の無かった遥だが、チラッと目だけやって、

「なんですか?」

と、ぶっきらぼうに聞いた。ジーグは、明けてみなさいといわんばかりに布袋を突き出してくる。仕方なく遥はそれを手に取り中を確認してみた。そこには、遥が着ていた。パーカーと制服上下が入っていた。はっと遥の目の色が変わり、ジーグを見やる。老人は大きくうなずいてわずかに笑っていた。

「これ!・・・どうして。捨てられたと思ってたのに」

「捨てられていたじゃじゃろうな」

そういってジーグは、部屋の壁を手で叩き始めた。叩いては一歩進み叩いては進むを繰り返し、ある所でぼんぼんと急に壁の音が変わった。

「ここか」

そこはただの壁だったが、不自然なものがついていた。小さな突起が出ていたのだ。衣装かけにしては小さいし、他に何の用途でこんな突起を使うだろうか。ジーグは懐から鍵のようなものを取り出した。それは普通の鍵ではなく、鍵穴のほうだった。

「この城を立てた頃は、この国は戦争が起きていてな。このような隠し通路がいたるところと繋がっておるのだ」

ガチャッという音がすると、扉は自然と開き始めた。部屋の空気が扉の向こうへ流れていくのを遥は感じた。

「この先にはしごがあってそれを降りるとこの城の地下水路に繋がる。水路に下りたら、大気が流れるほうへ進め。水路は川に流れている。だが、ここは高い位置にあるからのぅ。川へは飛び降りることになるだろう」

「あの、・・・どうしてこんなこと?」

「わしはただお主に可能性を与えているだけじゃよ」

「可能性?」

「このままここにいれば、お主は陛下と王妃殿の娘として一生を過ごすことになるのじゃろう。お主はそんなこと望まぬだろう?」

遥は、当然うなずいた。

「それが、誰の目から見ても当然のことであれば、わしもこんなことはせんかったよ。」

「どういう・・・ことですか?」

「お主は、二人の子ではない」

「っ・・・ほんとに!?」

遥はジーグに迫って聞き返した。

「言ったじゃろう。わしは嘘はつかんとな」

「じゃあ私は、やっぱりお母さんとお父さんの・・・」

ようやく知るはずも無い本当の両親からの呪縛に解放されたと思ったが、そこで冷静になってしまった。それを察したジーグもうなずいて見せた。嘘は言わないのであれば、言ったことは全て真実ということになる。ジーグは確かに遥が国王と王妃の娘だとは言わなかったが、向こう側の人間では無いということは真実なのだ。遥は再び、萎れたように肩を落とした。

「そう気を落とすな。お主が国王の娘でないことは確か。今はそれだけで逃げる理由は十分だろう?」

「そうですね・・・うん、そうかもしれません」

遥は泣きそうになるのを必死に堪えていた。目頭にぎゅっと力をこめていなければ涙腺からこぼれてしまうくらいに涙が迫っていた。今はまだ泣けない。泣いてしまえば、きっと心が折れてしまう。

「あの、元の世界に、向こう側へ戻る方法はないのですか?」

それが遥にとって一番重要なことだ。この老人はここまでしてくれるのだから、きっとその方法も知っているのだと思った。だが、現実はそう上手くいくものではない

「残念じゃが、わしは知らぬ。お主を此方側へ連れてきたものたちは、国王の従者らでな。どのようにお主が連れてこられたかわしは知らんのじゃ」

「でも、その人たちは向こう側へいって私を誘拐したんでしょう?だったら・・・」

「有る、と考えるのが妥当だがな。そうであることを願っておるよ。」

きっと遥は運がよかったのだ。

「姫君よ、最後にお主の名を教えてくれぬか?」

「ハルです。アカバネ ハル」

「その名、忘れずにいよう」

「あの、ありがとうございました」

遥は部屋の燭台と制服の入った布袋をもって扉をくぐった。秘密の通路は真っ暗で明かりを灯さなければ先が見えないほどだった。

「気をつけてな」

ジーグが扉の向こうでそういった。部屋から差し込む光が異様にまぶしく感じる。扉が閉まるにつれて、その光が徐々に弱く、細くなっていく。そして、ガコンッという音と共に辺りは闇に包まれ、空気の流れもとまり音も聞こえなくなった。燭台を床に置き、制服に着替える。パーカーに袖を通し布袋を適当に折りたたみ、パーカーのポケットに突っ込む。着慣れた制服には嗅ぎなれた匂いが残っていた。家で使っている柔軟剤の匂い。大分薄れてしまっているけれど、これだけでも安心感が沸いてくる。

通路は意外と広かった。高さは部屋の天井と同じくらいあり、幅は遥が通るには十分なほどだ。蝋燭の明かりを頼りに進むと、ジーグが言っていた梯子が見えてきた。燭台を片手に持っているため、降りるのには大変だった。

梯子の途中から、水の音が聞こえてきた。それも相当な量が流れる音だ。案の定、梯子のしたまで降りると、川のように流れる水路にでた。水路の両端には人が通れるようになっている。

遥は、明かりを水に近づけてみた。

「下水・・・には見えないけど・・・」

比較的きれいな水だった。水路というからすっかり下水道かと思っていたのだが、変なにおいもしなければネズミなどもいなさそうだった。

指先を水で濡らし、くうにかざしてみる。僅かに風の流れを感じる。遥はそちらへ歩き出した。水路は緩やかなカーブを描くようにして続いていた。しばらく歩いていると、光が見えた。あの先が川へ続いているのだろう。だが、光に近づくにつれて水の音が激しくなっていく。遥は悪い予感がしていた。

光といっても水路より明るいというだけで、そこはまた暗い世界だった。初めてこの世界の外を見た気がする。向こう側より月がとてつもなく明るく輝いている。そもそもあれは月と呼んでいいものなのだろうか。月だけ出なく星たちも無数にあり、日本で見られる空よりも幻想的だった。

けれど、景色に見とれている暇はなかった。水路の終点は断崖絶壁だったのだ。水はそこから落ちて、遙か下の川に滝となって降り注いでいる。その高さが尋常ではなかった。

「冗談でしょ?ここを飛び降りろって・・・」

二桁階層のビルの屋上から見下ろしている気分である。川の深さは大丈夫なのだろうか。川の向こう側、遥がいる崖の反対側は巨大な城壁が覆っていて、峡谷のようになっているため、水に落ちれないということはないだろう。それでも、

「足から落ちないと絶対死ぬ・・・。」

今になってあの老人の言うことが信用できなくなってきたが、今更後戻りもできない。初めに燭台を投げ捨てる。パーカーのチャックを閉めて、そこであることに気づく。落ちている間、スカートの中身が丸見えということだ。人の目はないがそれでも若干照れくささがある。一応下着の上に見せパンをはいているのだが、見えるということを防ぐことはできなさそうだ。そもそも、そんなものを気にする余裕なんてないだろうに。

よくバラエティでバンジージャンプをしている芸人たちの気持ちがよくわかる。それ以上の危険なことを遥はしようとしているのだ。怖いという言葉では言い表せないほどだった。

(飛び降りるタイミングが見つけられない。)

ふと、スカートのポケットに堅いものが入っていることに気づいた。取り出してみると、それは生徒手帳だった。今より少し幼い自分の顔写真が張られた。この世界で唯一、遥が、遥たることを証明するもの。

それを見て、遥は心を決めた。きっと、今回だけではない。この難関を生きて乗り越えても、きっと、第二、第三の障害が立ちはだかる。向こう側でも此方側でも、それは同じことだ。

手帳を制服のシャツの胸ポケットにしまう。

崖の端に片足をかける。川の中心に近ければ近いほど深いはずだ。しり込みして手前に落ちてしまったらいけない。遥は大きく息を吸い、勢いよく飛び出した。

「あああぁぁぁぁぁぁぁl!」

恐怖を打ち消すため、思いっきり声を上げる。それでも全身の毛穴が逆立つのとめることはできない。水面が急速に近づいてくる。しかし、遥は目を背けなかった。むしろ、睨みつけるようにその鋭い眼光を光らせていた。

(私は死ねない。生きて必ず、元の世界に帰る。)

遥の白い髪がまるでほうき星のような軌跡を描く。

盛大な水しぶきをあげて、遥は川に降り立った。

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