龍の瞳
宮野徹
序章
異世界
人は、人の一生は短いという。しかし、私はあとどれだけの時間を生きていかねばならないのだろう。
目が覚めると、うだるような暑さとドライフルーツのようになった口内の渇きが
「暑い・・・」
暑いと言うから暑いんだ、なんて誰かが言っていたけれど、誰がなんと言おうと暑いことには変わりない。後一時間もすればこの部屋から出て行くのだが、遥は問答無用でエアコンのスイッチを入れた。
リビングには既に母親が朝食を作って、朝のニュース番組に夢中になっていた。遥は適度に焦げ目のついたパンに皿に盛られた野菜やハムなどを乗せ、谷折りにして即席のサンドイッチにする。
「あら、遥?なんで制服着てるの?今日学校?」
学校のシャツに袖を通している娘の姿に驚く母親を他所眼に、当の本人はサンドイッチを豪快に大口開けて、恵方巻きのように食らいついている。遥は答える術が無いので当然のごとく無言で席に着く。
「お弁当の準備してないわよ?」
慌てた母親を他所に遥はわざとらしいくらいしっかり租借してから、
「午前中で帰ってくるから、大丈夫だよ」
と答えて、再びサンドイッチにかぶりつく。娘がサンドイッチを淡々と食べる姿を母親はあらそう、というように呆けた顔をしながら見ていた。
食べ終えた遥は、食べ過ぎたな、と感じていた。朝食にしては十分だろうが、年頃の女子としてはもう少し控えておきたかった。そんなこと考えても、もう食べてしまったし、考えたところで食べ盛りの体は更なる量を欲するのはわかっている。遥は思わずため息を吐いた。
「あ、そうだ。上着どうする?ジャージ昨日洗っちゃったけど」
母はしまった、と顔に出して、再び慌てふためいた。
「長袖なら何でもいいよ。どのみちジャージじゃ暑くて着ていられないだろうし。薄地のパーカーあったでしょ?」
遥は食卓を後にし、髪を整えるために洗面所へ向かった。家族のみんなが食事をするダイニングは、エアコンをかけているため涼しいが、さすがに洗面所までその冷感を行き届かせるには電気代がもったいないのでそのままである。鏡台の前に立った遥は、いかにも暑そうに顔をゆがめていて、そんな自分の顔を見てため息をついた。
「このくそ暑い日に学校に行かなきゃならないなんて、なんだかなぁ」
そう言いながらも遥は手早く寝癖を直し、髪をひとつにまとめて縛っていく。さっさと準備しないと約束の時間に遅れてしまう。遥はもう一度鏡に映る自分の顔を見る。縛った後ろのポニーテールの具合を見るように、あごを左右に動かす。最後に軽く頭を振って、よし、と小さな声を漏らす。遥はこれでようやく登校する覚悟を決めたのだった。
時は夏休み。学生たちにとっては勉学から解放され、自由が許された時間。けれど、夏休みというのはいつだって人が過ごしにくい時期にある。太陽はこの上なく丸々と太り、地球はその光を一片も漏らすことなく受け入れる。ただ、その光をすんなり入れるようにしたのは人間のせいでもあるのだが。なんであれ、この日本では地獄のような暑さが襲う。夏休みはその暑さから学生たちを逃がしてくれる、一日中エアコンの効いた自宅に篭っていても誰からも文句を言われない時間なのだ。
押しボタン式の信号が変わるのを待っている女生徒がいた。彼女はこの炎天下の中、制服の上に長袖のパーカーを着ている。いかにも暑そうな格好だが、当然のように額に汗の雫がうかんでいる。襟元をパカパカとさせて服の中に空気を送っているが、根本的な解決にはならないだろう。そんな彼女、パーカー姿というのもそうだが、一際目立つ姿をしている。まとめられたポニーテールの髪は真っ白で、肌の色は真珠のように透き通っている。瞳孔も虹彩も薄紅色をしていて、まるで猫のように鋭い眼光をしていた。
彼女、
「はぁ、んぅ。ふぅ。・・・暑い」
酷くもどかしい。じっと信号が変わるのを待つのはとてつもなくもどかしい。何もせずただじっとしているのは、やせ我慢しているような感覚になる。少しでも体を動かしていれば、かろうじてその際に生まれる空気の流れで涼しさを感じるのだが、街中でくねくねとしているのも恥らわれる。遥は何度も襟元をはためかせ、ため息にもにたうめき声を吐き出していた。
「暑い・・・。長い・・・。信号長すぎ・・・。」
ようやく信号が変わると思わず小走りなってしまう。すれ違う人たちから十色な視線を向けられ、気恥ずかしくなるのをこらえながら遥は学校への道を急ぐ。街中で白髪は目立ちすぎていた。仕方のないことだが、多くの人の視線が刺さるこの感覚は、何年経っても慣れない。仕方の無いことなのだ・・・。生まれつきなのだから。
目的の場所、学校の校舎が見えてくると遥の足はさらに速くなる。この蒸し暑い日にわざわざ学校へ呼び出した張本人が、きっとエアコンをつけて待っているだろうという、八割ほど願望が混ざった憶測がそうさせている。校門をくぐったあたりからは、ほとんど全力疾走で校舎内へ駆け込んでいった。はぁ、はぁ、と肩で息をして下駄箱によりかかる。昇降口に空調は取り付けられていないが、日光がささないというだけで外の空気とは比べ物にならないほど涼しかった。
夏休みの学校は、心地よいくらい静かだ。遠めに聞こえる運動部の掛け声が校内を反響している。階段を上るたびにコツコツと音が廊下を駆け抜けていく。目的の教室は登ってすぐそこだ。引き戸を勢い良く開け、そしてぴしゃりと閉める。
「死ぬかと思ったー」
扉を背にして、天井を仰ぎながら叫ぶ。教室の空気は予想通り冷え切っていて、肌にべったりと纏わりついている汗が急激に冷たくなっていくのを感じる。
「おはよ、遥。ごめんねーこんな日に呼び出しちゃって」
声の主は遥を呼び出した張本人。友達の
「エアコンつけといてくれてありがと。ほんと地獄だわ」
乱暴にバックを机に置き、パーカーを脱ぎ捨てすぐさまエアコンの真下へ行く。スカートをばさばさとはためかせて、シャツの第一ボタンをはずす。できる限り肌を露出させる。おそらくこの教室に男子の目があっても、迷わずこうしていただろう。
「遥、エロい。大胆すぎだよ。男子いたら歓喜だね」
エロかろうが何だろうが、今の遥にとっての最優先事項は体を冷やすことだ。結衣はそれをわかっていながら言うのだから性質が悪い。いつも必死な遥の姿を楽しんでいるのだ。
「いいよ、エロくて。誰もいないし」
エアコンの風を全身で受けているとさすがに肌寒く感じる。かばんの中からタオルを取り出して、汗を拭く。小さなハンドタオルはすぐにしなしなになってしまった。じっとりと汗を浸み込んだタオル地ほど気持ちの悪いものは無い。こんなときのために遥はいつも第二のタオルを持参しているのだ。予備の予備なのだが、いつも二枚使うのがお決まりになってしまっている。この体をケアするためだと思えば仕方ないのだ。タオルには存分に働いてもらっている。
「落ち着いた?」
「うん。さっさと仕事終わらせようか」
駆け足で来たせいで体の熱はまだ収まらないがじっとしていれば収まるはずだ。
委員会の仕事はたいしたものじゃない。今後の活動を決めるために予算と照らし合わせて検討し、生徒会に渡す報告書を作るだけだ。所謂事務仕事なため面倒なのは確かだ。しかし、誰かがやらなければならないことで、その損な役回りを引き受けてしまったことを遥は後悔していた。この仕事を引き受けたのは一ヶ月以上前だというのに。いまさら悔いるのも甚だおかしいとは思う。ほんの少しの出来心だったのだ。今年で二年生になり、少しは真面目な生徒を演じようとしたのだ。思春期を迎え高校に入学した頃には、自分がそんな子どもでは無いとわかっていた。それでも僅かな向上心がそれではダメだと足掻いてしまったのだ。そのせいで、元来の面倒くさがり屋が後悔することになった。
生まれつきの身体的な障害。手足が動かないとか、目が見えないとか、耳が聞こえないとか、そういった人たちからすればアルビノなど些細な障害かも知れない。それでも遥にとっては障害の一つだ。仕方の無いことだ。真夏でも長袖を着たり、髪の色を染められなかったり、いろんな人から不思議な目で見られることは、仕方が無いのだ。けれど遥は、それを仕方が無いで済ませられないのだった。頑固なのだ。障害なんて、その人の意思次第でどうにでもなると思っていた。だから今回も、真面目な生徒になろうとすれば、それらしくなれるんじゃないかと。甘い考えにもほどがある。それとこれとは話が別だ。遥はそのことをよく思い知った。
「遥、胡座とか、はしたないよ。丸見えだし」
「いいでしょべつに。誰もいないんだし」
胡坐くらいかいたっていいじゃないか。女子だからって胡座をしてはいけないなんて決まりは無い。それこそその人の意思次第だ。
「遥ってほんと中身男前だよね。」
大胆なのは認めるが、男前と言うのは少々失礼だろう。実際、事故で下着なんかを見られたりしたら、それなりに恥ずかしいし、相応の反応をするだろう。性格も男勝りと言うほどでもないから、男前は言い過ぎだ。
「これで良し」
結衣がまとまった報告書をざっと見て確認する。遥はようやく終わったとぼやいてゆっくり伸びをした。時間にして1時間くらいだろうか。時計の針は午前10時を回ったところだ。思ったよりも早く終わった。お昼ぐらいまでかかると思っていたのだ。
「じゃあ私、生徒会室に持ってくから」
「うん、その後どうする?」
「お昼にはまだ早いしねぇ。喫茶店でも行く?」
「やめとく。外で歩くだけで億劫だから」
今日はもうさっさと家に帰りたい気分だった。いや、今日に限った話ではない。夏場、外を出歩けば今日のような状況は日常茶飯事だ。単純に厚着をしているせいでもあるが、汗をかくことに体が慣れてしまったのだろう。発汗の度合いも年々激しくなっている気がする。そのおかげで、万年帰宅部なのにもかかわらず、無駄な脂肪がつかなくて、悪いことばかりではないのが複雑なところだ。
「遥、帰らないの?」
帰りの仕度をし終えた結衣が、机でぐずっている遥を見て言う。
「うーん。もう少し涼んでから帰る」
またあの炎天下の中を戻らなければならないのだ。しっかり清涼な空気を充電していかなければ。とはいえ、いくら充電したところで昇降口を出ればそんなものどこかへ吹っ飛んでしまうのだが。
「そっか。じゃあまたね」
結衣が軽く手を振って教室から出て行く。遥も申し訳程度に手を振って返した。
教室で一人になると静寂が心地よく感じる。夏休みの学校というのは、学生にとっては風流なものだと思う。本来は多くの同年代たちが行き交う場所に、そこへ一人ぽつんといるのはノスタルジーを感じさせる。。
このまま寝てしまおうかと思った。エアコンの魔力というのはすさまじいものだ。今寝てしまったら、帰るのはお昼ごろになるだろうか。そうなればさらに日差しは強く、大気は熱くなってしまう。帰る気が失せる前に教室を出なければほんとに眠ってしまいそうだ。名残惜しいが、エアコンの電源をオフにする。しかし、不思議と体は帰ろうとしなかった。
(なんか、やたら眠いなぁ。)
寝不足なのか、あるいは心地よさゆえにそうなってしまったのか。遥は机に突っ伏してそのまま眠ってしまったのだった。
---ようやく見つけた。・・・我らが姫君・・・。---
声が聞こえた気がした。それが夢の中で聞こえた声だったのか、あるいは実際に耳に入ってきた言葉なのかはわからない。遥は眠っていたのだから。覚えているのは、酷い悪夢を見ていたことだけ。それが酷く現実味のある夢であったことだけだ。
(帰らないと・・・。)
そうだ。眠ってる場合じゃない。エアコンは切ってしまってるのだから、教室もいずれサウナのようになってしまう。せっかく涼んだ身体が台無しになってしまう。
(帰らなきゃ)
そこは、何かが違っていた。まだ瞼が重く視界がはっきりしない中で感じたのはその違いだけだった。涼しくは無いが、暑くも無かった。夏らしいじめじめとした湿度も感じられず、かといって口の中がかさかさになるほどでもない。
眠っている間に誰かが運んだのだろうか?だとすればここは保健室かもしれない。とにかく帰えらなければ。遥は、重い瞼をゆっくりと開いた。
「・・・どこ?・・・」
そこは、学校ではなかった。中世ヨーロッパ。そんな言葉が思い浮かんだ。寝かされていたベットは、白のシーツにレースがついていて、屋根まである。部屋の壁には絵画が飾られており、部屋の隅には大きすぎる化粧台が備えられている。中世ヨーロッパですら遥は詳しく知らない。あくまでそんなイメージがするだけだ。問題は、ここがホテルか何かの一室でなければ、間違いなく日本では無いということだ。
遥は、部屋中を見回して、何も言葉が出なかった。寝起きでぼけているわけではない。むしろ頭はめまぐるしく回っていた。
「なんで・・・どうして・・・」
頭の中に恐ろしいことばかり思いつく。監禁、誘拐、拉致。どれをとっても酷い目にあうことしか想像できなかった。
遥は必死に考えた。何がどうなっているのか。記憶を必死に辿ってなんとか状況を理解しようとした。学校で眠ったのは理解している。眠っている間に運び込まれたのだろうか。だとしても、こんなところまで、何のために。
一人考え込んでいると、ドアがノックされた。身構えるまもなく、扉は開かれた。
「あら?お目覚めでございますか?」
どんな極悪人が入ってくるのかと思えば、そこにはメイドが立っていた。メイドはポットとティーカップを乗せたお盆を持っていて、彼女はそれを丸テーブルに置いて、慣れた手つきでお茶を入れ始めた。
「あの・・・」
遥は恐る恐る声をかける。
「はい、何でございましょう?」
メイドは、お茶を入れる手を止め、律儀に遥に向き直った。
「ここは、どこなんですか?私、どうなったんですか?」
「ここは王城です。アストレア王国首都の中央に聳え立イリーシル城でございます。姫様」
メイドの言葉は、とても丁寧な言葉遣いで何も間違ってなどいないのだが、遥には酷く辛辣に聞こえた。聞いたことに対しての答え聞いたのに、答えになっていない。
(アストレア王国?そんな国あったっけ?)
王国というのであれば国連に加盟していもおかしくは無いだろうし、それなりに大きな国なのだろう。しかし、17年生きていて、そんな名前の国、聞いたこともない。ましてや今時城なんてあれば世界遺産に登録されるだろうに、初めて聞く名だった。それにこのメイドは、さらっとおかしなことを言っていた。
「えっと、姫様って?」
遥がそう聞き返すと、メイドはぽかんと目を丸くさせ、何が面白いのかくしゃりと笑ってみせた。
「姫様は姫様でございます。私どもの、アストレア王国王女殿下、王位の正統後継者、あなた様のことでございますよ」
遥は絶句した。メイドはロングスカートを両手でつまんで膝を折った。
「私はあなた様の身の回りのお世話を賜った、王城メイドのカリと申します。何か御用があればなんでも私にお申し付けください」
何もかもがわからなかった。このメイドの言葉も、自分のことも。何が起きているのかも。
障害なんてその人の意思次第でどうにでもなるはずだった。遥はそう思っていた。そう思えたのは、今まで絶望的なほどの障害に出くわしたことが無かったからかもしれない。遥は初めて自分の人生に、どうしようも無いほどの不の感情を覚えたのだった。
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