【3】

 先客はどうやら女性のようだった。

 白いワンピースを着て、長い黒髪を濡らしながら屋上の縁に突っ立っている。

 まさか先客がいるとは思わず、僕は立ち止まった。飛び降りるのだろうか。飛び降りないのなら、さっさとどこかへ行ってほしい。僕が飛び降りれないじゃないか。

 まったく、あんなところで何を———、女性の足元に綺麗に揃えて置かれていた靴を見つけて、僕は歩を進めた。すぐ後ろまで来たが、雨のせいなのか、女性は気付いていないようだった。

「あの」

 声を掛けたが、返事はなかった。僕はため息をひとつついて、低い手すりを乗り越え、女性の横に立った。

「あの、ここで」

「止めないでください」

 ようやく女性は返事をした。僕の言葉を遮って。

「止めてるわけじゃありませんよ。僕も死ぬんですけど」

 そう言うと、女性は初めて僕の方を振り向いた。雨に濡れたその顔は、全ての感情を失っているように無表情で、まるで鏡を見ている様だった。

「僕は今日、死のうと思ってここへ来たんです。まさか先客がいるとは思いませんでしたけど」

「そうですか、ならお先にどうぞ」

「いや、あなたが先に来たんだから、あなたから飛び降りてくださいよ」

「どうして」

「どうしてって、順番でしょう」

「死ぬのに順番が関係あるんですか」

「・・・分かりましたよ。じゃあ、お先に」

 無意味な言い争いをやめて靴を脱ぐと、縁に上った。雨に濡れた平凡な街の風景が広がっている。下を覗き込むと、通りを行く傘を持った人々が小さく見えた。雨のせいか、人通りは少ない。

 真下に飛び降りるわけだから、僕の死体は大方、あの大理石でできた花壇にでも直撃するだろう。誰も巻き添えになることはない。死体が目に付くかもしれないが、それくらいは勘弁してほしい。

 さあ、死のう。目を閉じた。後悔はない。

 何も選べない人生だったが、僕は今、初めて——————おかしい。瞼の向こうが、やけに白く———。

 目を開けると、降り注いでいたはずの雨が止んでいた。代わりに、雲の隙間から差し込む白い光が、霧雨を溶かしながら街に降り注いでいる。

「・・・くそっ」

 縁から降りると、手すりにもたれた。世界が嬉しがっているんじゃ意味がない。悲しんでいないと、雨が降っていないと。

「死なないんですか」

 女性がボソリと呟いた。相変わらず、虚ろな目で空を見つめている。

「死にますよ。でも、タイミングがあるんです」

「タイミング?」

「ええ、世界が悲しんでいる時に死ななければ意味がない」

「どういうことですか」

「世界が悲しんでいる時、それは雨が降っている時です。雨が降らないと、世界が悲しんでいないと、僕は死ねないんです」

「意味が分かりません」

「・・・あなたは、空に感情があるとは思いませんか?嬉しい時は晴れて、悲しい時は雨が降って、嬉しくも悲しくもない時は曇りになる。怒っている時は雷が鳴って、雪が降った時は・・・、変な気分の時です。今日は雨が降っているから、世界が悲しんでいるんだ」

「くだらないですね」

 僕はその突き放したような言い方に、少しイラっと来た。

「あの、あなたはさっさと死なないんですか」

「死にますよ」

「でも、ずっと飛び降りないじゃないですか。あなた、本当に死ぬ気があるんですか」

「ええ」

「じゃあ、なんで飛び降りないんです」

「私だって飛び降りようとしていました。ところが、そこへあなたがやってきて、雨が降らないと飛び降りないと言います。見てください、空を」

 言われるがままに空を眺めると、さっきまであんなに降っていた雨の気配が消え失せていた。

「このままでは、あなたは飛び降りないでしょう。私が先に飛び降りてしまったら、人が来てしまう。その間、雨が降らなかったとしたら、あなたは飛び降りないままです。自殺現場に居合わせた人間として、事情を聞かれることになるでしょう」

「だから何だっていうんです」

「もしかしたら、妙な疑いを掛けられてしまうかもしれない。そうなれば、あなたに迷惑が掛かります。私のせいで」

「死なない為の言い訳に聴こえますね」

「これでも、私なりに気を遣っているんです。私は、誰にも迷惑を掛けずに死にたいのです」

 また、ため息をついた。どうやら先客は思っていたよりも厄介な人間だったようだ。このままでは、いつまで経っても僕が死ねないじゃないか。

 嘲笑うように晴れ間を見せつける空を眺めながら、僕は雨を待った。ところが、待てども待てども雨が降る気配はなかった。

 妙な沈黙が続いた。街の喧騒だけが、小さく下から聴こえてくる。

「あの、あなたはどうして死のうとしているんですか」

 女性に質問した。

「なぜ、あなたに話さなければならないのですか」

「別にいいじゃないですか。雨が降るまでの時間つぶしです」

 女性はしばらく黙っていたが、

「あなたはなぜ死のうと思ったのですか」

 と、質問を質問で返してきた。

「・・・僕はもう生きている必要がないんです」

「なぜです。まだ若いのに。親が悲しみますよ」

「親はもういません。死にました。もっとも、生きていたところで悲しまなかったでしょうね」

 僕は眉一つ動かさなかったが、女性の方も動じている気配はなかった。

「僕が死んで悲しむ人間なんて、ひとりもいない。だから、せめて世界に悲しんでほしくて、雨の日に死ぬことにしたんです」

「世界が悲しんでいたら、雨が降るのですか」

「ええ、僕が産まれた日には、雨が降っていた。僕なんかが産まれてしまったから、世界が悲しんだんです」

「くだらない考え方ですね」

 僕はまたイラっと来た。

「あなたはどうして死ぬんです」

「なぜ、あなたに話さなければならないのですか」

「僕はちゃんと理由を話したでしょう。今度はあなたの番だ」

 女性は黙りこくっていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。

「・・・私は何もかも失ったんです」

「何もかもって、何を」

「私には婚約者がいました。私のような何の取り柄もない、何も持っていない傷だらけの人間を愛してくれた、稀有な方でした。身一つでいいから、僕の元に来てほしい。そう言って私を愛してくれた、唯一の人でした。でも———」

「でも?」

「私が子供を望めない身体だと分かった途端に、彼は私を捨てたんです。まるで用済みだと言わんばかりに、ボロ雑巾のように私を扱った後に」

「・・・そんな理由で死ぬんですか」

「あなたには理解できないでしょう。彼は、私にとっての全てだったんです」

「・・・・・ふざけるなよ」

「はい?」

 沸々と込み上げてきた怒りをぶちまけた。

「ふざけるなよっ!あんた、何でも持ってる人間じゃないかっ!時間もっ、選択肢もっ、未来だってっ!!なんでそんな奴が、そんな奴に死ぬ権利なんてあってたまるかっ!!」

 久しぶりに大声を出したせいか、肺が震えてゴホゴホと咳き込んだ。肩で息をしていると、喉奥から溢れた血が濡れた袖口にじんわりと滲んだ。

 女性は、いつの間にか振り向いていた。無表情なのは相変わらずだったが、その虚ろな目は、確かに僕の目を射抜いていた。

「・・・あんたに死ぬ権利なんてない」

「死ぬ権利くらい、誰にだってあります」

「ないよ、何でも持ってるくせに」

「あなたに何が分かるんですか」

「少なくとも、あんたが死んでいい人間なんかじゃないってことは分かるよ」

「・・・勝手ですね」

 虚無のような眼同士の睨み合いが続いた。

「あなたは死後の世界を信じますか?」

 突然、女性が切り出した。

「信じていませんよ、そんなもの」

「私は信じています。死後、幽霊になれたら、私は彼の元へ行きます」

「恨み殺すつもりなんですか?」

「そんなことしません。ただ彼の元に寄り添って、見守りたいのです」

「なぜそんなことを。もし幽霊になれたとして、どうしてそんなことをするんです。酷い扱いを受けたのに」

「例えボロ雑巾のように扱われようと、彼は私の全てだったんです。彼のことをずっと見守っていたい。もし彼に子供ができたら、その子供に生まれ変わりたいくらいです」

「転生なんて信じてるんですか、くだらない」

 口からまた血が垂れたが、構わずに喋り続けた。

「死後の世界も、幽霊も、転生も、あるわけないでしょう。そんなもの、人生から逃げ出したい奴が考えたくだらないものですよ。人生に逃げ場なんてないんだ。どんなに酷い目に遭おうが、生きている限り続くのが人生なんです」

「・・・どの口が言うんです。あなたは今まさに人生から逃げようとしているのに」

「僕は逃げるわけじゃない。どう足掻いたって、近い内に死が迎えに来る。だから、こっちから行ってやるんだ」

「・・・あなたは」

 女性が何か言いかけた瞬間、けたたましい雨音が後ろから迫って来たかと思うと、滝のような雨が空から降り注いだ。

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