神の一族と世界の王

七種夏生

第一章 日常編

第1話  二千もしくは千二百、六千万以上前の過去 ①


 覚えている言葉がある。


『大切な人はいつも、同じ空の下にいる』


 誰が言ったのかはわからない。

 両親は二歳の時に他界したから、親から聞いた言葉じゃない。

 男手一人で育ててくれた祖父はそんなことを言う人ではない。


 幼い頃ふとその言葉が頭に思い浮かんで、忘れられなくなった。


 高校二年生になった今でも、

 こうして空を見上げては、



 その言葉の意味を、思い出そうとする。



 




「……き、神木!」


 耳に響いた怒声に、教室の端の席で空を眺めていた織斗しきとは慌てて顔を上げた。

 クラスメイト達の視線、鬼の形相の数学教師。


「八点なんて取っておいて惚けるとは、いい度胸だな。二年一組、出席番号六番、神木織斗かみきしきと


 教師の怒鳴り声に、織斗は居住まいを正した。

 辺りを見渡して再び、教壇に向き直る。


「……もしかして、数学の授業中だった?」

「そこを説明しないといけないレベルか! 目を開けたまま寝てたのか!」

「あ、それ時々あります。なんか、ぼーっとして意識が飛んでることが……」

「そんなことは聞いてない!」


 バンっと机を叩く音に、織斗のみならず他のクラスメイトたちも耳を塞いだ。

 教壇に立ったまま、数学教師は授業そっちのけで織斗への説教を始める。

 うんざりした表情を浮かべる生徒たちの中で一人、無表情で今しがた返ってきた自分の答案用紙に目を落としている男子生徒がいた。

 用紙の右上には[100点]の文字。

 平均点六十くらいって言ってたな……そんなことを思いながら、織斗は満点の用紙を睨む男を見つめる。

 長い睫毛に細高い鼻筋、白い肌。漆黒の瞳が美しい、万人が美少年と認めるであろう整った顔立ちの男子高校生。

 彼から目線を外し、再度、自分の答案用紙に目を向ける。

 惜しいな、あとマイナス二点で出席番号だったのに。六点なら平均点の十分の一にもなる……なんだ俺、数学得意じゃん。

 そんな事を思って、馬鹿馬鹿しくなってため息を吐いた。

 分数っていつ習ったかな?

 ダメなやつはとことん落ちこぼれだし、その対極にいる奴には天は平気で二物も三物も与えてる。


 神様はいつも、当たり前に不平等だ。


「神木! 聞いてるのか!」


 再び窓の外を見つめた織斗だが、教師の声に呼び戻され正面に向き直った。





「八点はないだろ、さすがに。脳じゃなくて綿菓子が入ってんのか、その頭」


 昼休憩、売店で購入したという菓子パンの袋を開けながら織斗の向かい側に座る緋真ひさなひろが言った。

 100点の答案用紙を睨んでいた才色兼備男だ。

 頭に綿菓子の意味がわからなかった織斗だが、しばらくして馬鹿にされていることに気がついて広を睨んだ。


「言い方……口が悪いんじゃないか、広」

「優しく言ったつもりだけど? じゃあ、髪の毛ふわふわだけど脳みそもふわふわなんだな、織斗は」

「……お前は知らないだろうけど、俺は繊細で傷つきやすいんだ」

「十年来の付き合いだけど、そんなこと知らなかったな。ていうか、繊細なやつは八点なんて恥ずかしい点取らないな」

「だからこう、もっとオブラートに」

「オブラートの意味知ってる?」

「……歌う時に、柔らかい声で」

「なに? ビブラートと間違えてる? やっぱ馬鹿だろ、おまえ」

「…………で、オブラートの意味は?」

「あー、説明しづらいな。飴とかキャラメル包んでる薄い膜、あれ」

「え、わかんね。つかどーでもいいし興味ない」

「お前……」

「いいんだ、広の物知り自慢は聞き飽きた。すごいとは思うけどさー、色んな事知ってるし背は高いし顔はいいし運動神経もいい。性格はどうかと思うけど」

「最後の一言余計だろ。追試手伝ってやろうかと思ったけど、やめた」


 ぴらっと、広が一枚の紙を指で摘む。

 紙面には、びっちりと書き連ねられた数式。


「八点なんて快挙を成し遂げた馬鹿には必ず追試がついてくると思ってな、今回の出題を元に追試の問題を予想してみたんだ。けど俺、性格悪いらしいな?」

「……嘘です。ごめんなさい、広様は優しいです」

「あ、その呼び方やめて。学校で様付けされたくない」

「名家の跡取りだもんな、広は。緋真家が何してるか知らねーけど」


 広からプリントを受け取った織斗が、プリントに目を通す。

 しかしすぐに疲れて、顔を上げた。


「なぁ、追試って、今日の放課後なんだけど」

「喋る暇あったら覚えろよ。全部暗記しとけば八割はいけるから」

「全部は無理だな。つーか、その日のうちに追試って気が狂ってるとしか思えない」

「それは同意する……今度言っとく」

「言っとく? 誰に?」

「そういえば俺、午後の授業休んで京都行ってくるから」

「京都? 広の実家だよな? なんで?」

「実家というか、本家だな。理由は知らない、呼ばれたから行ってくる」


 面倒そうに呟き、広が菓子パンを食べ始めた。

 名家の跡取りなのにこいつ、毎日売店だよな……そんなことを思った織斗だが、口にはしなかった。

 家の事は、広が触れて欲しくないことの一つだ。

 織斗はため息をつき、自分も弁当箱の蓋を開けた。





 放課後の追試は上出来だった。広に渡された数式は半分も暗記できなかったけれど、それでも及第点は余裕のはず。

 帰り支度をしていた織斗だがふと、硬いものが手に当たった。鞄の奥底に存在するそれを握りしめ、取り出す。


「……トランプ?」


 出てきたのは、透明なプラスチックのケース。表面には赤色で象形文字のような模様が描かれており、中にはハートと数字が描かれたトランプカード。


「なんだっけ、これ……そうだ、連休中に掃除してて」

「何それ」


 声と同時に、織斗は背後から肩を掴まれた。

 振り返ると真後ろに、同じクラスの川谷かわやがいた。

 ついさっきまで、同じ部屋で追試を受けていた唯一の仲間だ。


「トランプ?」


 断りもなしに、川谷は織斗からトランプケースを奪い取る。


「綺麗だな、なんの模様?」

「さぁ? 見たことある気はするけど」

「ん? これ、神木のトランプだよな?」

「俺のだけど……もらいものだから、それ」

「もらいもの?」


 怪訝そうに首をかしげる川谷に、織斗も同じように顔を傾けながら答える。


「中学の修学旅行のとき、京都の露店でさ」

「京都って露店とかやってんの?」

「道端に一店、そいつの店だけポツンとあった。自由行動で同じ班のやつらと逸れて迷子になってる俺を見て、かわいそうだからコレあげるって」

「へぇー。結構年季入ってるな」


 ケースの側面を指でなぞっていた川谷が、両手で持ってそれを開こうとした。

 スライド式のケースだが、川谷が指で押しても開かない。蓋で開けるのかと試みるが、そのような切れ目はない。


「神木、これ開かないんだけど……スライドして開けるんだよな?」

「あ、スライド式なの?」

「スライド式なのって……もしかして神木、開けたことないの?」

「あの時は迷子で混乱してたし、受け取ってそのまま鞄の中入れてすっかり忘れてた」

「修学旅行って、二年前だっけ?」

「二年前、中三の春。そういえば、何でトランプが鞄に……」


 川谷からトランプを受け取り、スライド部分を指で押してみた織斗が、その瞬間、言葉を止めた。

 川谷がどうやっても開かなかったケースが、いとも簡単に開いたのだ。

 パラパラと床に落ちる何枚かのカード。

 それと同時、織斗の眼前を緋色の衣が横切った。


「……え?」


 次の瞬間、織斗の手の甲に小さな少女が立っていた。文字通り小さな、手のひらサイズの少女。

 整った美麗な顔つき、白い肌に細長い足、着物の上からでもわかる豊かな胸元にかかる色素の薄い細い髪。

 赤を基調とした平安時代の重ね着だが、スカート丈は膝上。十二単というより着物ドレス風の格好。

 色素の薄い瞳の色、その中に織斗の顔が映し出される。


「なにあんた、バカじゃないの? いくら貰い物でも、普通その日に開けるでしょ、二年も何やってたの?」


 凛とした声は少女から発せられたもので、織斗は息を呑んだ。

 生まれて初めて誰かを美しいと、声が綺麗だと思った。


「ねえ、聞いてるの?」


 ピンっと指さされ、織斗は慌ててて少女から目をそらす。

 見惚れている場合ではない。

 いま、この状況を整理しよう


 …………できるわけがない。と、表情を固めたまま思考を巡らせる。


「そうだ、川谷……なぁ、こいつなに……」


 振り返った織斗は、再び声を止めた。

 教室中、織斗以外の人間がピタッと動きを止めていた。目の前にいる川谷は、訝しげな視線を織斗の手元に残したまま瞬き一つせず固まっていて、他の生徒たちも同様に動かない。


「あれ? えっ?」

「時が止まってるの」

「時が、止まってる?」

「ほら」


 少女の指さす先には、秒針が12の位置から進まない壁掛け時計。

 再び視線を落とすと、和装少女がニコッと微笑んだ。


「そういう風に術をかけておいたの。久々にその顔見れるから……」


 少女の話が終わる前に、織斗はピシャッとトランプケースを閉じた。

 今見た現実を、全てシャットアウトするかのように。


 カチッという秒針の音ともに、止まっていた時が動き出す。


「あれ? 神木いま、トランプ開けてなかった?」


 川谷の声に、織斗の肩が大袈裟に跳ねた。

 ギクシャクと、挙動不審な態度で川谷を見返す。

 トランプケースを、背中の後ろに隠して。


「開けてない……俺は何も、見てない」

「なに言ってんの? あれ、これって……」


 床に落ちた二枚のトランプを拾おうとする川谷の指より先に、織斗はトランプを拾い上げてポケットの中に収めた。


「いまの、神木の持ってたトランプの中身?」

「……違う」

「トランプ開けれたの? 見せて」

「無理! 触るな、怪我するぞ!」

「え、なに?」

「いや、あの……」

『怪我するってなによ! 失礼じゃない?』


 織斗の耳に、先程の和装少女の声が聞こえた。

 辺りを見渡すが、彼女の姿はない。


『ていうか開けて! まだ完全に封印解けてないんだから!』

「封印?」


 鼓膜に直接響いてくるような少女の声。

 反応した織斗の言葉に、川谷が首を傾げる。


「封印? なんのこと?」

「え、いや……もしかして川谷、聞こえてない?」

「何が?」

「……俺、疲れてるのかも。幻聴が聞こえる。女の声が」

「女の声? 彼女欲しいの?」

「違う! いや違わない、違う」

「どっち?」

『えっ、あんた彼女いるの⁉︎ 誰⁉︎ どんな子?』

「あっ、ほら今! 恋バナ詮索が始まった!」

「恋バナ詮索? ん?」

『詮索って言い方失礼じゃない? ていうか恋バナってなに?」

「恋バナ詮索ってなに?」

「恋バナってのは俺はいま彼女がいないってことで川谷は独身だけど彼女がいて……」

「どしたの、神木。なに言ってんの?」

『独身? あんたまさか、結婚してないわよね?』

「違う! 待て、混乱する! 同時に喋るな!」

「……なに言ってんの、神木」


 頭を抱えて叫ぶ織斗と、呆れるような眼差しの川谷。相変わらず耳の奥で響く少女の声。

 わけがわからなくなった織斗は、鞄を持って教室を飛び出した。


「帰る! また明日な、川谷!」

「え? おい神木……」


 川谷の言葉は最後まで聞こえなかった。

 廊下を駆け抜ける織斗の耳奥では、少女の声が鳴り続けている。


『走らないでよ! 中途半端に封印解いちゃったせいでトランプの衝撃がダイレクトにくる! 吐く!』

「は、吐いたら困るけど俺も吐く! 無理! 意味わかんねー!」

『なんであんたが吐くのよ! いいから、トランプ開けてよ。ねぇ聞いてる⁉︎』

「聞こえない! 無理無理無理! 俺、ホラー無理だから! 映画館で吐くタイプだから!』

『ホラー……ちょっと! 私、幽霊とかそういうのじゃないから! ていうか、吐くなら行かなきゃいいでしょ!』

「SFだと思ってた映画がホラーだった!」

『……わかんない。馬鹿でしょ、あんた』


 呆れたような少女の声は学校を離れるにつれて小さくなり、駅に着いて電車に飛び乗った時には、完全に聞こえなくなっていた。

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