第2話 声の主

「今夜は素敵なお知らせがあります」


 裕太は深夜の自室で、小さな音量のラジオに耳を傾けていた。真夜中の番組「美玖の星空カフェ」。パーソナリティを務めるシンガーソングライターの渋谷美玖の声は、いつもどおり清らかで優しい。


「私ね、最近すごく素敵な出会いがあったんです」


 その言葉に、裕太は思わず身を乗り出した。昨日、机上の会話で彼女は「良かったら、今度の深夜番組を聴いてみてください」と書いていた。まさか……。


「絵を描くのが上手な人なんです。その人の絵には、見る人の心を温かくする不思議な力があって……」


 息を呑む。間違いない。自分のことを話している。


「私も絵を描くことが好きで。でも、その人の絵には私にない優しさがあるんです。だから毎日、その人の新しい絵を見るのが楽しみで」


 裕太は頬が熱くなるのを感じた。机上の文通相手が、いつもの学校で普通に過ごすあの有名な歌手――渋谷美玖だなんて、裕太は信じられなかった。


 翌朝、机には新しい言葉が書かれていた。


「聴いてくれましたか? 私の本当の声」


 裕太は震える手で返事を書いた。


「はい。驚きました……」


 放課後、いつもより長い返事が待っていた。


「本名は田中美玲です。学校では普通の生徒として過ごしています。この秘密、守ってもらえますか?」


 その日から、二人の関係は新しい段階に入った。美玲は時折、ラジオで「私の大切な友人」として裕太のことを話すようになる。もちろん、具体的な情報は明かさない。でも、彼女の言葉には確かな温もりがあった。


「今日のゲストは高校生アーティストの皆さんです。夢を追いかける若者たちの思いを、お届けしていきます」


 裕太はその放送を聴きながら、自分のスケッチブックに向かっていた。美玲との出会いは、彼の絵にも変化をもたらしていた。以前より登場人物の表情が豊かになり、物語にも深みが出てきた。


 ある日、美玲からの言葉に目を疑った。


「最近、裕太くんがどんな人か興味があって……会ってみたいなって」


 心臓が跳ねる。実際に会うということは、二人の関係が現実のものになるということ。それは嬉しくもあり、怖くもあった。


「ちょうど再来週から修学旅行なんです。着ていく服を選びたいんですが……センスのある美玲さんに、相談したくて」


 裕太は深く息を吸い、ゆっくりと返事を書いた。


「はい。お手伝いしたいです」

「ありがとう。そうだ、LINE交換しておこうか? 待ち合わせの時に便利だし。」

「でも、普段は机で会話しましょうね」


 約束の日、駅前の本屋の前。裕太は緊張で足が震えていた。そこに現れたのは、マスクと伊達メガネをした少女。パーカーのフードを深く被っているが、裕太にだけみせた表情は確かに渋谷美玖だった。


「待たせてごめんなさい」


 声を聞いた瞬間、ラジオから聞こえる声と重なった。現実の彼女は、想像以上に小柄で華奢だった。


「あの……渋谷……いえ、田中さん」

「美玲でいいよ。私も裕太くんって呼んでもいい?」


 買い物の間、二人は少しずつ打ち解けていった。美玲は服を選ぶたびに裕太の意見を求め、時には冗談を言って笑い合う。彼女の素顔は、ラジオの声の通り明るく優しかった。


 服屋に入ると、今まで自分では選んだことがないような服を試着させられた。


「裕太くんは身長が高いんだから、こういうのも似合うよ?」

「え、そんなこと……」

「ほらあ、みてごらんよ。すごく似合ってる」

「そうかな……」


 最初は半信半疑だったけれど、結局は美玲が勧める服を買った。美玲が嘘をつくはずがないし、裕太自身が今までの自分から脱却するいい機会だと感じていた。


 二人はフードコートでハンバーガーのセットを食べることにした。マスクは外さないと食べられないから、目立たない席を選んだ。


「セットのあとにパイまで食べるの?」

「私の場合、体力仕事だからね」


 美玲の話では、昼間はダンスレッスンやボイストレーニングなどでかなり体力を使うらしい。


「じゃあ、このポテトも食べる?」

「ありがとう。ポテト大好き♪」


 美玲は嬉しそうに裕太の手からポテトを食べた。


 ショッピングモールの人混みの中、はぐれてしまいそうになった美玲の手を、咄嗟に裕太が捕まえた。そのまま自然と手が重なり、互いに離すことができなくなった。


「これ、マンガみたいだね」と美玲が笑う。

「下手な展開すぎますよ」と裕太も笑った。


 二人の指が絡み合ったまま、雑踏の中を歩く。短い時間だったが、かけがえのない思い出になった。


 だが、その幸せな時間は、誰かに見られていた。全日制のクラスで、美玲と同じ時間帯を過ごす女子生徒の目に。その視線は、まだ誰も気付いていない嵐の予兆だった。


 その日の夜。裕太は美玲からのLINEを、何度も読み返していた。


「今日は本当に楽しかった。裕太くんの前では、歌手でも生徒でもない、ただの私でいられる」


 明日からまた、机上の文通に戻る。でも、もう二人の関係は前とは違う。そう思いながら、裕太は新しい物語の構想を練り始めていた。主人公は、夢を追いかける少女。そして、その隣には必ず、彼女を支える誰かがいる。


 新たな一歩を踏み出した二人。しかし、彼らの未来には想像を超える試練と、心が震えるほどの奇跡が待ち受けていた。それでも、この日二人の心に芽生えた特別な感情は、どんな試練も乗り越えていく力を持っていた。

  

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