夜と星の物語

FUKUSUKE

第1話 夕暮れの教室で

 教室の特等席、窓際の最後尾で、工藤裕太は数学の授業に退屈しながら窓の外を眺めていた。五月の陽光が柔らかな光を机に落とし、反射して薄い影を作っている。数学教諭の声は、遠くからの風のように耳に届き、裕太の思考はふと、どこか遠くの記憶へと漂っていった。今は、ただ時間が過ぎるのを待っているようだった。

 裕太は、無意識のうちにシャープペンシルを手に取った。手元に浮かんだのは、ただ気が向いたキャラクターだったが、描き始めると不思議と心が落ち着いていった。シャープペンシルの先が滑るたびに、まるで心の中で何かが解き放たれるような気がした。


 裕太は机の上の絵を見つめた。透き通った瞳と柔らかな微笑みを浮かべる少女のイラスト。アニメで見たヒロインを参考に描いたものだが、それでも、どこかが物足りない気がして、裕太は眉をひそめた。自分の描いたキャラクターが、少しだけ虚ろに見えるような気がした。

 消しゴムを手に取りかけたその時、「工藤くん、次の問題を解いてください」と、声がした。裕太は先生の声に慌てて顔を上げる。クラスメイトの視線が一斉に集まり、裕太は頬が熱くなるのを感じた。


 六限目の授業が終わるチャイムと共に、裕太は素早くノートを閉じ、カバンに詰め込んだ。ただし、机に描いた絵はそのまま。今日は何故か、この絵を消すのが惜しく感じた。納得していないものの、いつもより生き生きとした顔に見えたからかもしれない。


「まぁ、明日消せばいいか……」


 呟いて立ち上がった時、ふと窓の外に目をやった。グラウンドでは全日制の部活動が始まろうとしていた。バレーボール部の女子たちが、ネットを組み立てている。裕太はため息をつく。帰宅部の自分にはない、どこかキラキラと輝く女子の姿が妙に魅力的に見えた。



 翌朝、裕太は眠い目をこすりながら学校に向かった。同じ校舎で学ぶ生徒たちが集団をつくって歩いている。彼らは裕太のことなど目に入らないように、当たり前のように追い越していく。


「おはよう、裕太」


 山田が声をかけてきた。裕太と同じ中学出身で、今は同じクラスになっている珍しい友人だ。


「おはよう……」


 小さく返事をして教室に入ると、裕太は自分の席で凍りついた。昨日描いた絵の横に、きれいな、少し丸みを帯びた文字で感想が書かれていたのだ。


「すごく素敵な絵ですね! 特に目の表情が繊細で。私も絵を描くのが好きなんです❤」


 裕太は自分の目を疑った。『すごく素敵な絵ですね!』という文字を何度も読み返し、その度に胸が高鳴る。まるで知らない誰かが、自分の秘密の世界を見つけてくれたような気がした。

 明らかに女子が書いた文字だった。しかも丁寧な文字で、ハートマークまで添えられている。裕太の心臓は、机を叩くほどの勢いで脈打ち始めた。裕太の教室は定時制の教室と共用している。定時制の誰かが、自分の絵を見てくれたのだと思うと、どこか不安と嬉しさが入り混じった気持ちになった。自分の世界を外に出してもいいのだろうか。


「どうした?」と山田が覗き込んできた。


「あ、いや……なんでもない」


 裕太は慌てて教科書を取り出し、文字を隠した。その瞬間、心臓が一瞬止まったような気がして、彼は息を呑んだ。誰かに見られることがこんなにも怖いとは思わなかった。


 でも、その文字は頭から離れなかった。放課後まで、何度も何度も見返してしまう。


「返事……書こうかな」


 昼休み、学食で素早く食事を済ませてきた裕太は、教室の黒板横にある定時制用の掲示板を眺めていた。昔ながらのシンプルな画鋲で座席表が貼り付けられていた。


「田中……さん、でいいんだよな」


 そこに書かれていたのは苗字だけで、それだけでは女子であることは確認できなかった。


 放課後、裕太は勇気を振り絞ってシャープペンシルを握った。消しゴムで簡単に消せる程度の力加減で、おそるおそる文字を綴る。


「ありがとうございます。実は……僕、イラストや漫画を描くのが好きなんです」


 近所に同学年の男子が住んでいなかったせいで、小さい頃からアニメを見てはキャラクターの絵を描いていた。自分ではまだまだ満足していないし、まだまだ他人に見せられるレベルには達していないと思う。



 翌日、新しい返事が書かれていた。


「漫画ですか! 素敵ですね。どんなジャンルが好きなんですか?」


 その言葉が裕太の胸を温かくした。まるで、遠くにいる誰かが、自分の心を見透かしているかのような気持ちになった。


 それから毎日、机の上に残された文字を読むたび、裕太は不思議な温かさと胸の高鳴りを感じていた。相手の名前も顔も知らないまま、好きな漫画の話や、描きたい物語の話で盛り上がった。相手は定時制の生徒だということは分かっていた。でも不思議と、それは裕太にとって重要ではなくなっていた。


「最近描いた作品を見せてもらえませんか?」


 ある日、そんな言葉が机に書かれていた。裕太は躊躇した。自分の漫画やイラストを誰かに見せるのは、いつも怖かった。でも、この見えない相手には、少しだけ見せてもいいような気がした。


 その日、裕太は下書きの入ったスケッチブックを机の中に忍ばせた。「よかったら、見てください」という言葉と共に。


 翌朝、スケッチブックには付箋がびっしりと貼られていた。裕太はその付箋を目の前にして、心臓が高鳴るのを感じていた。果たして、自分の絵がどう思われているのか、恐る恐る目を通す。


「キャラクターの表情が本当に魅力的です」

「このコマ割り、すごくドラマチックですね」

「ここの背景、もう少し暗くするともっと雰囲気が出そう」


 裕太は胸が熱くなるのを感じた。これまで誰にも見せられなかった自分の作品を、こんなに真剣に見てくれる人がいるなんて。


 その日の帰り際、裕太は机に新しい言葉を残した。


「本当にありがとうございます。実は……将来、マンガ家になりたいんです」


 この告白が、裕太の人生を大きく変えることになる。それはまだ、誰にも分からなかった。




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実は、この作品……筆者自身が経験を元にアレンジしています。

この出会いも、現実にあったことだったりします。


計四話、七千五百字ていどの作品です。

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