読むべきエッセイがあります。への応援コメント
切ない作品ばかり作ってきたので
最近は面白い物を作りたいと思うけど
楽しんでもらうのも
自分が楽しむのも
創作って難しいですよね(>_<)
その苦悩自体が楽しいのかもしれない
日々精進であります(; ・`д・´)/
作者からの返信
創作って、やっぱり苦悩が付き纏うものですけど、その苦悩も「楽しめる苦悩」じゃないと、続かないと思うのですよね。
つまり、変なしがらみ的な事を考慮しながら、苦しんで書くというのはプロとして、お仕事として書いている人の話だと思います。
素人なら、そこでの苦しみは生み出す時の判断と言うのでしょうか。
こういう風に書いていいのかな、とか、この表現で伝わるかなとか。
そして、文章の表現自体に一定のスタイルを与えると、自分の文章の味になっていくのです。
自分が最初の読者になってみるには、やはり数日は最低でも寝かせてからですね。
どんどん書いていってストックがたまっていきます。10話分くらいでしょうか。
ここで1回通して読んでみて、おお、これは面白く書けた。
とかになればいいなと、私は思うようにしています。
この時にストーリーの見直しもできるので、漢字の間違いを直したりはしますけど、勢いがあるなと思う部分は誤字脱字訂正だけにしています。
矛盾が出ていないか、前に書いたものも1度参照しています。
自分が勘違いしていないかな、話はつながっているかな。とか。
間違いがあれば、そこは訂正したり。
そしてまた、ストック分を通しで読んでみる。
そんな風にして、自分が楽しめるのなら、きっと読んでくれる人も、波長が合う人は楽しんでくださるのではないかと、私は思っています。
長くなりましたが、私のこの拙い文章が伝わればいいのですが。
楽しんで書いていければ、長続きしますし、きっと上手になれると思います。
雨実さまも無理なさらず、続けられますことを。
感想をありがとうございました。
読むべきエッセイがあります。への応援コメント
ふと個人的に思ったことは、「楽しむ」という事に対する捉え方の違いです。
実際にいくつか作品を書いた経験から言うと、創作にはある程度の忍耐も避けられないと感じます。つまり、ストーリー作りや設定などを楽しんではいても、いざ文章に落とし込む段階においては、展開に矛盾が生じないよう頭を使ったり、頭を悩ませる事が多々あります。
それを乗り越えた達成感というのも「楽しさ」のひとつだと思いますが、手軽な快楽や刺激ばかりを追い求める書き手の中にはそういう苦労や努力から逃げることしか考えない人もいるように思えます。
これは読み手も同じで、自分の想像力を駆使して読書する人なら当たり前の表現や文体も、そうでない読み手には邪魔で難しいものに感じる。その先にある感動や感銘を知らずに、単純で浅い快楽だけを「楽しみ」と捉える人が増えたように思います。
ただ、こういったことは全て、素人の物書きだから言えることかもしれませんね。プロの世界では、自分が楽しめるものだけを書けるのは一部の限られた人たちだけ。そういう話はよく耳にします。何ともやりきれない話ですね。
作者からの返信
私は長い間、プログラムを開発する仕事をしていたので、詩や小説ではなく、コンピュータ言語によって、「何か」を創作する仕事をしていました。
ほぼすべてを手作業で書き上げていく時代です。今の時代のようなテンプレートを選んで穴埋め問題のようにプログラムを埋めていく時代ではないです。(特に機械語ならば、猶更ですが私がよく使ったC言語でもそうでした。)
そんな時でも、書く事そのものが楽しめた瞬間と言うのは、「いいプログラム」が書けている事が結構ありました。
「楽しむ」という行為の相手が「創作」ならば、私は忍耐だとか、試行錯誤してみたりだとか、頭を悩ませつつ、設定そのものを掘り下げ直したりとか、設定に沿った矛盾の無い展開だとか、伏線の回収だとか、そう言う事すべてが含まれていると思っています。
如何にして、頭の中に思い描いた風景そのものを文章にして行くか、想像力が試されます。それも楽しむ行為の一環です。
読む人がその文章から風景とか光景が想像できたらいいなと思いながら。
そうそう毎回はうまく行ってないので、長い話の中で、上手く書けた話とそうは言えないグラデーションはあるのですが……。
小説のプロの方々は、漫画もそうであるように、編集者なり出版社なりの意向が大きく働くものでしょうし、その中で「今若手に売れる物を書け。」と言われたら、ものすごく浅い、考える必要もない小説を書かされているのかもしれません。
それは確かに商業主義的な需要と供給の問題でしょう。
私は小説は素人であり、プロ化を目指していないから、こんなエッセイが書けたので、プロを目指している人に当て嵌まるとは思ってはいません。
プロでも自由にやれるのは、本当はメジャー雑誌などにはいない人達かなと思っています。メジャーな所に出れば、その場を支配しているルールや空気がありますから。
メジャー雑誌で”自由にやれているように見える人”と言うのは、本当のストーリーテラーだと思います。たぶん数えるほどしかいない人々です。
今思えば、このエッセイには書き足りなかった事がいっぱいあるようです。
感想をありがとうございました。
読むべきエッセイがあります。への応援コメント
こちらにも失礼します。
売れるために書くのか、自分の書きたいものを書くのか。
この議論もたまに目にしますが、私は。そもそもの順番が違うと思っています。
目標や夢としては最終的に、売れる! 書籍! (一部の人は)アニメ化!
だと思うのですが、実際は自分の書きたいもの(テーマや伝えたい事があるならそっち優先)を書ききった結果に、売れ“た”! 書籍! があると私は。思います。
「好きこそものの上手なれ」
好きな事、思う事を文章に出来てこそだと思います。
その先で、プロになる事が出来ればその時に初めて、売れる!(書籍!)を書けば良いんじゃないでしょうか。
私は順番が逆だと常々思っております。
ですから、おっしゃる通り売れる事だけを考えた作品はハッキリ言って、言葉でどれだけ飾ろうが、中身は大したことないです。
※だから活字業界はラノベを筆頭に、もう崩壊が始まっています。
私も全くと言って良いほど読まれないので苦しむ事も多いのですが、どうしても伝えないといけないテーマがあるので、誹謗中傷の嵐だとしても、応援して頂ける読者様の心に少しでもお届けできるように書き綴り切るつもりです。
ですので、ご自分の書きたいもの、こちらにも乗せて頂ければ、呼んでみたいなって思いました☆
作者からの返信
長く返事も書かずすみません。無視していたわけではありません。
プロではない自分の書きたいもの、というものが、何なのかを見つめ直して、こんな文章を書きました。
セミプロすら目指していない自分は、上手く言えないのです。
商業主義を否定するつもりはないです。
ただ、自分はそういう方向には向いていないな。とはっきりと思ったのです。
その事を、このエッセイに少し書いているんだとは思います。
ただ、自分の信じて書いている、大衆娯楽小説と言うものが、果たして誰にも読まれないものなのかと、思っていましたが、見る人は見ているんだなと思いました。(スコップして読む方々には感謝しかないです。)
それの方では固定読者が付いたらしく、新しい話を投稿するたびにアクセスがありその事に勇気づけられて、書き続けています。
作風が作風であり、こちらに載せる事はないだろうと自分では思います。
(今見直すと、以前書いた部分は表現が稚拙な部分も多々あります。)
完結したら、いや、それも気力が残っていればですね。
感想、本当にありがとうございました。
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心に刺さりますね。
愛宕も肝に銘じて綴り続けようと思います☆
作者からの返信
感想をありがとうございました。
結局は自分の想うところを物語に紡いで行く。
自分が納得して愉しまなければ、何の意味もない。
やたら、流行りに迎合するのは、早すぎる。
受けを狙うのはプロのやる事。
そう思えば、アマチュアの私は何も怖くない。
そう思って書き続けて行きます。
愛宕さんも、身体には気をつけて、綴り続けて下さい。
m(_ _)m
読むべきエッセイがあります。への応援コメント
一縷 望さん、こんにちわ。
確かにその通りだなぁ、やっぱり楽しいが一番だよなぁ、と思いながら拝読させて頂きました。
そして、それでもやはり僕は、いつか自分の書いた物を書籍にしてもらいたいと思うので、受けるものを書かなくてはいけない、とも思うんですよね。
いつも通り、僕はなんとも矛盾していますが、将棋の話だと、例えば、藤井聡太さんはきっと楽しいばかりではないはずです。辛い練習の先に、自分の好きではない指し口の先に勝利という楽しさがあるのかもしれない。
プロの中には、血を吐くほどの努力の先に、胃を壊しながら、泣きながら努力を重ねた先にタイトルを取られる方もいると聞きます。
僕はあるプロスポーツの卵をしていたのですが、やっぱり一流の選手は試合の後でも1人残って練習をしていました。
その選手の話だと、1人で練習を始めた頃は先輩達に何か言われたり、周りから煙たがられたりしたそうです。だけど、やり続けて一流になったら言われなくなった。と言っていました。
それに、練習はいつも楽しい訳じゃないとも言っていました。サボりたい時もあるし、いつも楽な方に流されたくなる。と言っていました。
ではなぜ辛い練習を続けているのか? それは、その先に掴む勝利に楽しさや喜びがあると知っているからだそうです。
そうであるなら、やはり読んでくれる方が楽しいであろう物を模索し、苦しいほどに悩み、コンテスト落選を泣くほど悔しがり、その先に僕の楽しいを見出したいと思うんです。
それから、最近は痛烈な強い言葉で主張して、人気を取ろうとするエッセイが流行っているようですが、あまりおすすめ出来ないと思います。
なぜならそれらのエッセイはあくまでも成功者の言葉ではないからです。どの方も、それらのエッセイはたくさん星が付いているのに、小説の方はついていない様に見受けられます。
もちろん星が全てではないですが、やはり結果を出していない方の言葉では全く説得力がない。
エッセイはあくまでもそういう考え方もあるよね、程度で楽しむものとして流し読みした方がいいと思いますよ。そういう僕も結果を出していないので、人の事は言えませんが。
長くなりましたが、僕の作品を応援してくださった方が、あの様な類の物に惑わされて欲しくないなぁと思って書かせて頂きました。
最終的には何を言おうが、誰かが面白いと思ってくれる物を書けばいい。それが大勢ならなおいい。と思います。
お互いにそういう物が書ける様に日々頑張りましょう(*´ー`*)お邪魔しました。
作者からの返信
とても丁寧な感想をありがとうございます。
私が小説を描くプロだったのなら、甘えは許されないのでしょう。
あの将棋の話は、知っている方はご存知だと思いますが、とあるコンピュータAIの将棋ソフトに、ある穴があって(バグではない)その手に誘導すれば必ず勝てる。
しかし、ガチでぶつかれば勝てる気がしない。
そこで、プロ棋士の方は、その穴のある方向に誘導させてコンピュータAIに勝つという実話を映画にしたものですが、その時にプロとしての矜持と勝たなければならない現実を天秤にかけて、彼は勝つ方を選んだ。
あのAIソフトの制作者も、それはプロの棋士の選ぶべき手じゃないと語ったという実話があるのですが、理想(綺麗に勝ちたい)と現実(今のAIに自分は勝てない)と自分の志(嵌めてまでは勝ちたくはない、あくまでも実力で行くべき)と矜持(将棋指しとしての誇り)と、そしてプロとして、どうあっても勝たなければならない大会。
そういう状況をあの言葉が、表していて、私の胸に刺さりました。
ただ勝つ手を発見したから、それを使って嵌め手で勝つのが当たり前なんだ、と思うアマチュアならば、こんな葛藤は生まれていない。
ああ、将棋プロだからこそ、こんなにも胸が痛いんだ。苦しいんだと。
将棋のプロは棋譜を残しますが、いい棋譜、美しい棋譜を残したいと高段者の殆どの方が仰います。
AIソフトを嵌め手で勝っても、まったく美しくも何とも無い。
将棋は深くは解らなくても、仰っていることは良く判ります。
プロならば、そこに誇りがあるのですから。でも、まずは勝たなければならない。
それはどんなプロでも同じです。
スポーツの人たちは肉体を鍛えなければならないから、大変だと思います。
そして結果を出さなければならない。
プロとしてお金を戴いている以上は、それは当たり前の事であって、言い訳は通用しないのです。
私もコンピュータソフトの技術者として、プロの矜持と共に仕事をしていました。
綺麗事では済まない世界です。
睡眠時間など、ナニソレというほど追い込まれて、自分はなんでこんな仕事をしているんだ。と思う事もしばしばでした。
それでも、出来上がった時の喜び。そして何より、受け取ったお客さんたちがそれを使って喜ぶ顔。
自分のソフトのプロとしての矜持はその為にこそあると、信じていました。
なのでプロとして、迎合しないといけない時や、長い物には巻かれよ。と言う時も勿論経験してきました。
そういう指定がお客様の方からあれば選択の余地が無い場合も多々あります。
お金を貰ってやっているプロである以上、これじゃ出来ないとか、言い訳はできません。
そういう物であっても、ベストは尽くします。
そして翻って、小説。
自分がまず、「アマチュア」ならばこそ。
受けを狙いに、やりたくもない「柳の下の泥鰌」を掬いに行ってどうする。
自分が書きたくもない、虫唾が走るようなエロしか頭にない主人公だのおバカチート主人公だの、チーレムやってどうする。
アイデア一発だけの、お約束の展開の先が無い物を書き飛ばしてどうする。
そう思いました。
それで、チラシの裏に書いていた原稿をかなり破り捨てました。
自分の心が思うまま、命ずるがままにまずはボールペンを走らせよ。
自分が読んでまずは楽しい物を書け。そう思って開き直って書き始めたら心が楽になったのです。
それでも、言葉はこれであっているのか?、緩急がついてないように見えるけど、読者の方は大丈夫だろうか。
こんなネタでいいのか?悩みは尽きません。愉しんではいても、生み出す部分に苦しみはあります。
それが、たとえ表面上軽い設定の「異世界転移」小説であっても。
それはプログラムを書いてきた自分にとって、書くのが楽しいばかりで、まともに動くプログラムは1つも無い事を知っているので、小説はもっと大変だ。といつも思います。
プログラムならば、動けばひとまずは正解。でも小説には正解が無いから。
そして、時代に受けるだけの「なろう」の恐ろしく長いタイトルで内容の薄い、ざまぁ+もう遅いという、ああいう小説を描きたい訳では無いはずだ。と強く思っていました。
自分は自分の書きたいように書くべきだ。たとえ星が付かなくても。
「なろう」ならばブクマが0でも、評価点数0でも。感想が0でも。そう思って、今も「なろう」で書いています。
結果を出していない方の中でも、自分を信じて書こうぜ。というエッセイは、励まされました。
結果を出している方のエッセイも読みましたが、残念な方が多かったです。
ですが、長く読んでいくと、みんな論点が外れていく気がしました。
もう、ああいう強い言葉の非難ばかりのエッセイも、結果を出しつつも高所から見下ろしているかのようなエッセイも、あまり読まないと思います。
自分の心がまた漂流してしまうから。
自分が進みたい方向は、もうライトノベルの軽いノリじゃないのだろうけれども、始めてしまったし「なろう」のほうで50人位は確実に読者がついた事は分かっているので、完結まで描き続けるつもりです。どれくらい掛かるのかは分りません。長編です。
書き始めた時は、こんなにも新しい話を待ち望んで読んでくれる人がいるなんて、夢にも思いませんでした。
自分が面白いと思って書いている物が、誰かにも「面白い」と思ってくれる物になっていれば、それに越した事はありません。
大勢でなくてもいいです。面白いから、先の話をよこせぇ、読ませろぉと、思ってくれる人が僅かでもいるなら。
こんなに喜ばしい事は無いと思います。
その人のためにも。自分のためにも。書き続けるつもりです。
本当に感想ありがとうございます。
読むべきエッセイがあります。への応援コメント
はじめまして。
コメント失礼致します。
夢(プロになりたい)と現実(アマチュアとしての楽しみ)の狭間において、書く上での悩みは尽きず、苦しくともそれでも、それすら楽しんでゆこうと思いました。
まずは、自分自身が胸を張って己れの作品の一番の読者と言えるような話を書けるように、努力をしたいです。
作者からの返信
読んで下さりありがとうございました。
迷った時は、自分が愉しめているかなと、確認しながら書くようになりました。
その気持ちは文章に現れると思いますし、時間を置いて読み直す自分が、最初の読者。
その読者が期待している展開になったのか、数話まとめて読んでいたら時間を忘れていたか。そんな事を意識する様になりました。
この拙いエッセイが石濱様の心になにかしら、響くものがあったのなら、幸いです。