意外とよく笑うよね
目を開けると、窓から光が差し込んでいた。それが月明かりだと理解したのは、スマホの画面を見てからだ。
見慣れた通知に数件の着信、時間はとうにいつも帰る時間を越えていた。友達の家で寝ていたと一言だけ返してプレハブ小屋を出る。まだ少し冷たい風に身震いしながら家路を急いだ。
近道をしようと路地に入った。このあたりは古い家が多くて、地元ではお化け屋敷と呼ばれている家もある。
「やっ……」
入り組んだ路地をまっすぐ進むと、か細くて高い声が耳に入った。
「………だ……っ」
まさかそんな、いくらお化け屋敷みたいだと言われているからって。背筋が冷えて、毛穴から汗が噴き出るのがわかった。
思わず止まった足は声のしたほうにゆっくりと動いていく。やめておけばいいと自分でもわかっているのに、好奇心が抑えられない。
「待ってって、こんな外で」
そっと覗いた道に広がっていた光景は、幽霊だった方がましかもしれないと僕に思わせた。
「奈美、ちゃん……?」
よく知った彼女が、髪を下ろしていた。ツインテールをやめて、ゆるく巻いている。それだけで、知らない女の人みたいだ。薄暗い道だというのに僕の脳はすぐに彼女の顔を識別した。壁に腕を押さえられて大人の男にキスをされている。
僕に気付いた奈美ちゃんが化粧で大きくなった瞳をさらに大きくして、小さく首を左右に振った。彼女の瞳が潤んでいる気がして、先ほどまで冷えていた体がカッと熱を持った。
「なにしてるんですか」
片手に携帯を持って声をかけると、男の人は一瞬肩を震わせて僕の方を見た。年齢は父さんと同じくらいだろうか。バツが悪そうな顔をして奈美ちゃんの手を離す。その隙に彼女の手を引くと、その勢いで小さい体が僕にもたれかかってきた。
「こんなところで、なにをしていたんですか」
何かを言おうとした男の人が僕の手に携帯が握られているのを見て、慌てて逃げていった。
「余計なこと、しないでよ」
僕から離れた奈美ちゃんが、震える声でそう言った。
「あれ誰?」
「別に誰でも良いでしょ」
「なにしてたの?」
「キス」
詮索するなと言いたげなぶっきらぼうな返事だったが、拗ねている子供のように見えて放っておけない。これが他のクラスメイトなら、助けたのになんだその態度はと怒って帰るかもしれない。そもそも、助けに入ることもないだろう。
男がいなくなったというのに、胸の奥が煮えるように熱い。奈美ちゃんの髪の毛を一房持ち上げると、彼女は驚いたように肩をふるわせた。
なにをされるのかと身構えて怯える様子がいつもの奈美ちゃんと重なる。いくら化粧をしていても、大人びた態度でいても、髪の毛を巻いていても、彼女の本質は変わらない。
「……ツインテールの方が似合うね」
僕がそう言うと、彼女は顔を覆って泣き出した。静かな住宅街に押し殺したような嗚咽が響く。しばらく彼女の背中を撫でていると、無言でその手を取られた。路地をでても手を離さない彼女に合わせて歩いていくと、一件の家の前で立ち止まった。
家と言うよりは、お化け屋敷といった方が人に伝えやすいかもしれない。昔ながらの日本家屋で、雑草が好き放題生えている。
僕の手を離した奈美ちゃんが門を開けて僕を手招きする。
「入って」
「入ってって、ここに……?」
「私の家だけど」
多分今のは、彼女と出会ってから今までで最大の失言だ。
奈美ちゃんの家は中に入れば綺麗、と言うこともなかった。外から想像できる通りだった。出されたスリッパや家具だけが新しい物で、家の内装とギャップがある。玄関から見える階段の手前に詰まれたたくさんのバッグは、僕でも知っているようなブランド物ばかりだ。
布団の外されたこたつの前に用意された座布団に座ったけれど、おそらくお尻に伝わるかたさは畳の上に座るものと変わらないだろう。
「あ、おかまいなく……」
僕に出したマグカップと奈美ちゃんが持っているマグカップには統一性がない。よく見れば、どちらもポイントを集めると貰える景品の類いだった。
「引いたでしょ?」
「えっと、なにに?」
「家」
「いや、個性的だとは思うけど」
僕がそう言うと、彼女はやっと笑顔を見せた。
「個性的って、フォロー下手すぎ」
僕の携帯が震えて、母さんからの着信を知らせる。ディスプレイを盗み見た彼女が、もう少し付き合ってよといたずらっ子のように言った。
「連絡だけさせて、心配するだろうし」
テキトーな言い訳を打ち込んで、母さんに送信する。きっと怒られるだろうけれど、今はそんなことどうでもよかった。
「心配してくれるんだね」
彼女が寂しそうにそう言って、やっと家の中が静かすぎることに気が付いた。
「ご両親は?」
「パパはいないの。ママは……まあ、いないみたいなもんかな。私に興味ないだろうし」
「えっと、ごめん」
「ううん、死んだとかじゃないし別に。パパは会ったこともないし。ママはたまに帰ってきて、彼氏のとこに戻ってくの」
気まずくなってマグカップに口を付けると、正面に座っていた奈美ちゃんが僕の隣に移動してくる。
「どうしたの?」
「ねえ、ツインテールが似合うって本当?」
僕の質問には答えずに、彼女が両手でツインテールを作ってみせる。そういえば最初は、ランドセルが似合うかどうか聞かれたっけ。
「似合うよ。すごく可愛い」
あのときには言えなかった言葉を付け足すと、奈美ちゃんは僕の頬を両手で掴んだ。
「私ね、ママみたいにはなりたくなかったんだけど」
その続きは、僕が吸い込んでしまった。奈美ちゃんからされたのか、僕からしたのかはわからない。彼女の唇から漏れる吐息に顔を離すと、思い切り抱きつかれた。
「ずっと、子供でいたいよ。少女のまんま、大人になんてなりたくない」
抱き留めた奈美ちゃんの背中をゆっくり撫でる。ドキドキするとか、嬉しいとかそういう気持ちよりも先に、彼女を守らなければという考えから変に冷静になる。
「奈美ちゃんは少女だよ」
「そんなことないの。こんなに汚れてたら、少女なんて言えない」
「綺麗だよ」
「汚いよ。だって私、さっきのおじさんみたいな人たちと……!」
それ以上は聞きたくなくて、奈美ちゃんの体を離す。驚いた彼女は、うちって貧乏に見えるでしょと口を開いた。
「でもね、ママはお金持ちなの。貧乏なのは私だけ。明日暮らすお金にも困ってるのは私だけなの」
階段の前に放置されていたブランドバッグを思い出しながら続きを待った。
「私には値段がつくから、大人の女としてお金を稼ぐしかないの。汚いでしょ」
僕は静かに首を振る。
多分、奈美ちゃんには大人の女としての値段がついているわけではない。少女としての彼女を買われているのだろう。それはきっと、彼女自身もわかっているはずだ。それでも、汚れているのは大人の自分だと言い聞かせているのだろう。
「普段はせめて少女でいたいからね、ツインテールもやめられない。みんなが馬鹿にしてるの、知ってるわ。高校生にもなってって」
「そんなこと」
「いいの、知ってるから。森山くんだけだよ、似合うって言ってくれたの」
実際に、彼女にはよく似合っていた。高い位置のツインテールも、ランドセル姿も。気が付いたときには目で追っていた。いつも一人で外を眺めているから、澄ました表情と頭痛に耐える苦しそうな顔しか見たことがなかったけれど。
「奈美ちゃんは、意外とよく笑うよね」
突然そんなことを言った僕に、彼女は不思議そうな表情を浮かべる。
「驚いたときは目がまんまるになるし、わかんないときはわかんないって顔する。すごく顔に出ると思うんだよ」
そんな彼女を知ったのは、つい最近のことだ。
「なに? なんの話?」
あの表情が変わる所が見たいと思ったのは、多分もっと前だけれど。
「ちょっとだけ、少女っぽいことしちゃおっか」
これは、ただの思いつきだった。
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