田宮椿の憂鬱

砂鳥はと子

田宮椿の憂鬱

 河合かわい課長が好きだった。

 今の部署に異動になって五年。私はずっと上司である河合課長を密かに思い続けてきた。

 河合課長はいつもクールで凛としていて、バリキャリを絵に描いたような、かっこいい女性だった。顔も文句のつけようがないくらい整っていて、でも本人はそこには無頓着で。仕事だってできるし、部下への気遣いや優しさも忘れない。

 気づけばいつも課長のことを目で追ってた。

 だけど、課長にはきっと素敵な相手がいるのだろうという諦めと、いつかチャンスが回ってくるという謎の期待。

 いつか、いつかと思っているうちに五年が経っていたのだから笑えない。

 課長と結ばれない寂しさを遊びで誤魔化してはいたけれど、それで満たされることはなかった。

 やっぱり、私は課長に愛されたい。

 でも相手は職場の上司。

 どうすればいいか悩んでいたら、同性の後輩に取られるという無様なことになった。

(課長が女性を愛せる人だと分かってたら、もっと攻めたのに!)

 それで上手くいくかは別として、何もしないままに取られたのはとんだ失敗だった。 

 私がろくにアピールもせずにいる間に、後輩の由茉ゆまにかっさわれてしまった。相手が男ならすっぱり諦められるのに。

 河合課長と由茉が付き合ってる確証などない。私の勘だ。

 去年の秋頃から明らかに二人の様子が変わった。これも私の何の根拠もない勘だけれど。

 由茉はうちの部署のマスコット的な娘だった。明るくて無邪気で、どこか抜けてるところが愛嬌になっていて。でも仕事はきっちりこなす。

 常に笑顔を絶やさない由茉だけど、ある人の前だとその笑顔の質が変わった。

 その相手とは、もちろん河合課長だ。

 課長に向ける眼差しの生き生きとして輝いてる様は、私じゃなくても分かったはずだ。本当に課長相手の時だけ、瞳が輝いていた。完全に恋する目だった。

 一方、課長は普通に部下に対する態度を取っていた。「由茉ちゃん」なんて下の名前で呼んでいたけれど、特別に贔屓している様子はなかった。

 端から見ていると、由茉の片想いに見えた。

 しかし二人の雰囲気はいつしか変わっていった。

 課長の由茉を見る目が変わった。

 それはもう、片想いしている私が羨ましいくらいに慈愛と愛おしさに満ちた顔で由茉を見ている。

 彼女に対した時のさりげない仕草から、大切に想っているだろうことは明白だった。

 だが、これはあくまで私の勘だ。私の妄想とも言える。

 だから、全くもって望みがなくなったわけじゃないと自分に言い聞かせていた。

 しかしそんな小さな希望もあっさりと打ち砕かれた。

 あれはいつだったろう。多分、クリスマスも間近に迫る冬のことだった。

 私は友人たちと行うクリスマスパーティー用のプレゼントを買いに、一人デパートに赴いた。

 たまたま通りかかった女性用下着売り場。クリスマスらしい赤い下着を身に着けたマネキンが並んでいた。

(河合課長に似合いそう)

 なんて邪なことを想像していたら、店の奥に本人を見つけた。横に由茉を伴って。

 普通、上司と部下が下着を一緒に買いに来るだろうか。なくはないだろうが、少なくともただの上司と部下ならないだろう。たとえ同性同士だとしても。

 二人で下着を選ぶ様子は、単に仲がいいとか信頼してるなんて雰囲気じゃなかった。恋人同士にしか見えなかった。

 私は少し離れたところから二人を伺っていた。店を出た二人は仲睦まじく去って行く。私は事もあろうに後を追っていた。

 気づかれないように距離を置きつつ、しかし気づかれたら偶然を装って挨拶できるように気も抜かない。

 二人は雑貨店の前で足を止めた。

 課長は抱き枕に興味を持ったのか手に取る。

理子りこさん、それ買うんですか?」

 由茉は少し拗ねたように、課長の腕を引っ張る。

「買わないよ。でも抱き枕って使ったことないから一度くらいは使ってみたいなって」

「だめですよ。抱き枕なんか寝る時に邪魔です」

「そう?」

「そうですよ。私で我慢してください! 抱き枕は禁止です!」

「はいはい。まぁ、私には由茉ちゃんがいるから、いらないかな」

 課長は抱き枕から手を離し、お店から去って行く。

「理子さん、今日お家帰りたくないので泊まっていいですか?」

「今日? どうせ明後日から家に来るじゃない」

「私はなるべく理子さんと長く過ごしたいんです」 

 聞き捨てならない会話をしている二人の背中が遠くなっていく。 

(やっぱ、できてるんだ。課長と由茉)

 この時、私の片想いは終わった。       

 憧れのあの人は手が届かないままになってしまった。

    


 

 失恋が決定的になって四ヶ月が過ぎた。

 春が訪れたのに、私の心にはまだ冬が居座っている。

 日曜日の今日、晴れ渡る青空に暖かな陽気。お花見に出かけている人も多いだろう。

 私も少し気分を変えようと、リビングの東側のベランダへと出た。

 小さなマンションの三階。真横は公園になっており、さして遊具もないが立派な桜の木が三本も植えられている。

 おかげで春になると部屋からお花見が楽しめた。

 ちょうど見頃となった桜はたわわに薄紅色の花を咲かせ、辺り一帯を華やかにしている。

 私は窓を開けたまま部屋に戻る。

 そろそろお昼だ。何か食べようと思って冷蔵庫を開いたが目ぼしいものがない。昨日の夜に大方使ってしまった。

 途端に気持ちが萎れていく。

 私はリビングに寝っ転がり、桜の花を見つめる。

(私の桜は咲かなかったなぁ)

 そよそよと吹き込んで来る風に当たっていると、眠くなってくる。

 どうせ起きていても心はもやもやするだけなのだから、寝てしまおうか。

 うつらうつらしていると、インターホンを鳴らされ目が冴える。

(どうせ何かの勧誘だろうから無視しよ)

 オートロックだからこちらが応対しなければ、さっさと帰るだろう。

 再び目を閉じると、今度はスマホが鳴り出す。

「あー、めんどくさっ」

 私は近くのテーブルにのせていたスマホを手に取る。着信は後輩の冬華ふゆかだった。

「一番めんどくさい奴か⋯⋯」

 私はスマホを側にあったクッショに放った。

「今日は冬華の相手する気分じゃないの。ごめんね」

 しばらくすると着信が止まる。諦めたのだろう。

 ほっとしていると、またもやインターホンが鳴る。それと同時にスマホが着信音を奏で始めた。

 どっちも私を静かにしておいてくれないらしい。

 仕方なしに電話に出る。

「もしもし」

 なるべく嫌気全開で。

椿つばき先輩、やっと出た。ねぇ、今家にいますよね? ベランダの窓開いてるからいますよね? さっきからインターホン鳴らしてるのに何で出ないんですか? いるなら開けてください』

 どっちも冬華だった。

「悪いけど今冬華と会いたい気分じゃないんだよね。帰って。ていうか帰れ」

『嫌でーす。せっかく家まで来たのに可愛い冬華ちゃんを追い返すなんて鬼ですね。鬼畜ですね。最低ですね。さっさと開けろ、バカ』

「⋯⋯⋯⋯⋯」

 これだから冬華と話したくなかったのだ。特に今日みたいに感傷的な日は。どうせ明日会社で会うのだから、わざわざ日曜日に会わなくてもいいではないか。

『ところで椿先輩、ご飯食べました? そこのコンビニでお昼買って来たんですけど一緒に食べません?』

 私が食べるものがなく寝転んでいたことを知っているかこいつは。

 タイミングいいのか悪いのか腹の虫が鳴る。

 私は黙ってオートロックを解除した。

 冬華が家にやって来た。

「椿先輩、何で居留守使うんですか。もー、ありえない。本当にありえない。私を無視するなんて」

 玄関に顔を出すやいなや、私の腕をつねってくる。

「痛っ、何すんのよバカ」

「バカは先輩です。私、椿先輩が心配だから来たんですよ。何か年明けからずーっと、どんよりしてるし。せっかくお花見に誘っても断るし。ふてくされると思って気にかけてたのに」

「余計なお世話」

「え〜、じゃあ椿先輩お弁当いらないですか? 二つも買っちゃいましたよ。食べ物を粗末にすると罰当たりますよ。食べますよね? あ、お茶用意しますね!」

 冬華は言いたいことを言い捨てると、靴を脱いで上がり、お弁当をリビングに置いて勝手知ったるとキッチンに向かう。

 私は袋の中を覗いた。私が好きなタイプのお弁当が入っている。

 こういう所が憎めないから嫌になる。

「お茶でいいすか? コーヒー切れてたから後で買いに行きません? 冷蔵庫もろくなもの入ってないですし。取り敢えず食べましょう、椿先輩。お〜、やっぱこの部屋いいですね。窓が桜いっぱい」

 こちらを無視して一人で話している。冬華は昔からこうなのでもう慣れている。

「いただきます〜! 椿先輩も食べて、食べて」

 私もせっかくなのでお弁当に手をつけた。

「ところで先輩、まーだ、おばさん課長のことふっきれてないんですか?」

「おばさん!?」

「えー、だって椿先輩が好きな河合課長さんおばさんですよね」

 確かに課長は三十九歳だし、私よりも九つ年上だからおばさんかもしれない。世間的にはそうなのだろう。だが、私にとっては憧れの女性だ。そんな言葉で片付けて欲しくない。

「私が好きって知ってて、そんな言い草するな」

「でも私からしたら普通のおばさんですから〜」

「まぁ、もう失恋したし。次はもっと若い人好きになろうかな」

「いいですね。いいですね。さっさと椿先輩を振ったおばさんのことは忘れましょう」

「だからおばさん言うな。そもそも振られてすらいないし」


 

 上永うえなが冬華。

 こいつと出会ったのは私が大学二年生の時。一つ年下でサークルで知り合って以来、よく遊んだり、一緒のバイトをしたりして仲良くなった。

 私も冬華も女が好きで、恋愛の相談もお互いによくした。同士であり、友人だった。

 私が就職すると、後を追うように冬華も同じ会社に入社して、私が異動になるまでは同じ部署で働いていた。

 だから私が課長を好きになった時も、冬華に打ち明けた。特に応援するわけでもなく、かと言って反対するでもなく、成り行きを見守るスタンスだった。ただ口は出す。どうも相手が年上すぎて、冬華には理解し難いようで、ことあるごとに私の好きな女をおばさんだと言う。

 年齢的にはそうでも、課長レベルでおばさんなら、相手が女優でもないかぎりどうしようもない。

「ごちそうさまでした!」

 冬華はさっさと食べ終える。

「椿先輩、お茶のおかわりいりますか?」

「いる」

「はーい」

 カップを持ち去った冬華はキッチンに消えた。口は悪いけど、気は利くのが冬華だ。

「椿先輩、熱々のお茶をどうぞ。ところで、次の候補ってもう決まってるんですか?」

「次の候補?」

「そうです。次に好きになる候補」

「そんなの簡単にできたら、失恋でいつまでも凹むわけないでしょ。誰か紹介でもしてくれるの? あいにくいらないんだけど」

「いないですよ。椿先輩にぴったりの人がいたらいいんですけどねぇ、この世に」

「あの世にでも行かないといないって? 一生独りでいろってことですか」

「そこまでは言ってなーい。でも椿先輩って毎回変な人好きになるし、現世で探すのも大変かなって」

「あんまりうるさいとその減らず口塞ぐよ」

「どうやってですか?」

「さぁ、縁を切ろうかな。二度と話すことなくなるように」

「え〜、同じ会社なのに無理ですよ。バカですね、椿先輩は」 

 いつものノリの冬華にため息をつきつつ、食べ終えた私は、空き容器を片付ける。

 冬華は何を思ったのか、開けておいた東側のベランダの窓を閉めた。カーテンも閉めている。

「ちょっと冬華、何してんの?」

「寒いから閉めてるだけですよー」

 リビングに戻ると、南側の窓のカーテンまで閉めている。

「もう、冬華。暗いじゃない」

 私がカーテンを開けようすると腕を掴まれる。

「何企んでるの?」

「椿先輩を癒やそうと思って」

「癒やす?」

「取り敢えず、ここに座ってください」

 ついうっかり言われるままに、私は座ってしまう。

「黒魔術でもするつもり?」

「そんなことしないですよ。暗くしたのは雰囲気作りと、念の為。外から見えないように」

 冬華も私の向かいに座る。

「椿先輩、私を抱きしめてみてください」

「はい?」

「今の日本語難しくないですよね? ほら、早く抱きしめて」

「何で?」

「つべこべ言わない!!」

 冬華は強引に私の腕を自身の体に沿わせると、抱きついてきた。

「あのさ、私と冬華ってこういう関係じゃないじゃん」

「それなら今からこういう関係になればいいじゃないですか」

 私の腕の中の冬華は、ぴったりと身を寄せている。温かくて柔らかなぬくもり。

(そういえば、冬華を抱きしめるなんて初めてだ)

 長い付き合いだけど、こんなに密着したことなんてない。大学生の時に仲間数人と遊園地に行ってお化け屋敷で抱きつかれたことがあるような気はするが、それくらいなら誰にでもあることだ。

「どうですか、椿先輩。私の抱き心地は?」

「⋯⋯あったかい」

 久しぶりに人のぬくもりに触れたせいか、少し安心感が芽生える。自然と私の腕に力が入り、強く冬華を抱きしめた。

「課長にこうされたかったな」

 つい本音がこぼれる。

「他には?」

「他に?」

「椿先輩は他に課長さんにどうされたかったんです?」

「どうって⋯⋯」

「もっとされたかったことありますよね? ハグだけですか? たとえばキスとかは?」

「それはしたかったけど⋯⋯」

「ですよね。私にしてください。課長さんにされたかったこと全部してみてください。そうやって、昇華させましょう。先輩の想い」

「そんなこと⋯⋯」

「できないですか? できますよ」

 冬華が唇を重ねてきた。なのに私は抵抗もせずに、されるがまま。

 薄暗い部屋は外の喧騒から隔たれ、ここだけ世界から切り離されたような感覚になる。

 冬華のキスは優しい。すぐにでも壊れてしまいそうな儚いものに触れるかのごとく。それに少し物足りないと感じている私がいる。

「冬華、私が課長としたかったのはそんなキスじゃない」

「違うんだ? それならどうしたかったかやってみせてください。今の椿先輩は課長で、私が椿先輩です」

 訳が分かんない展開になったなぁと、うすんぼやりともう一人の私が困惑している。

 それでも私は冬華の頬に手を伸ばしていた。

(私が課長で、冬華が私⋯⋯。私がしてほしかったことを冬華に⋯⋯)

 薄い暗がりの中で、冬華の目が光る。

 それはまるで魔女のように怪しげでもあり、突き放された子供のような寂しさをたたえてもいた。

(こんなことするってことは冬華は好きな人はいないんだろうし、遊びの延長だと思えば⋯⋯。冬華だって特定の人がいなくて遊んでるわけだし、それと変わらないはず)

 ごちゃごちゃと考えていると頭が混乱しそうだったので、私は勢いのまま冬華を押し倒した。 

 

 

 

 翌朝、だるい体を引きずりながら私は洗面台の前に向かった。鏡にはくたびれた女が一人。

 昨日、惑わされたというか、うっかりというか、冬華に手を出してしまった。

 十年近い付き合いの中で、私たちがそんな関係になる気配など微塵も無かったというのに。

 いくら失恋して心がまだ弱っていても、判断力がなさすぎる自分をひっぱたいてやりたい。

 冬華は図々しいし、こっちの話なんかろくに聞かないし、生意気だし、でも大切な同士だったのは確かだ。冬華に誘われたからって、どうして私ははねのけなかったのか。

 今から会社で冬華と対面することを考えると憂鬱だ。

『椿先輩、意外と女抱くの上手いですね』

『意外とって失礼な。こちとらあんたなんかよりよっぽど女を抱いてるし抱かれてますから!!』

『えー、それ自慢することです? でも結構いい思いできましたし、よければまた相手させてあげますね』

『させてあげますって、あんたねぇ⋯⋯』

『で、椿先輩。どうでしたか? 少しは慰められましたか』

『こんなんで慰めになると思う? いや、まぁ、ちょっと楽しかったし夢中になったけども』

『なぁんだ、椿先輩も満更じゃないんですね。また寂しくなったら今日みたいにすればいいんですよ。良かったですね、いい後輩を持って』

『自分で言うなバカ』

 昨日の会話を思い出す。

 関係を持った後でも私たちは変わらなかった。少なくとも表面は。

 冬華が何であんなことをしようとしたのかは分からない。遊び相手にでも振られて、退屈していたのか。

 ただいつもの私たちであったことに安堵する。

「はぁ⋯⋯。何か冬華と顔合わせづらい」

 振り払わずに手を出した自分を呪いたい。

 失恋した憂鬱と、冬華と関係を持ってしまった憂鬱を抱えたまま、私は家を出た。

 駅を出て会社に向かっていると、後ろから人が走って近づいて来る音がした。

 勢いのいいその足音は私の真横で止まった。

「椿先輩、おはようございます!」

 見慣れたいつもの冬華の笑顔があった。

「おはよ」

 でも私は後ろめたくて目を逸らす。

 そして冬華を置いて足早に会社へ向う。

「ちょっと待ってくださいよ、椿先輩!」

 冬華は私の腕に自身の腕を絡めて来る。

(妙に距離が近いな)

 腕を組んで歩くなんて大学生以来じゃないだろうか。

「鬱陶しい、離して」

「嫌なら自力で振り解け」

「⋯⋯⋯」

 私は諦めて放置した。

「はい、本音は鬱陶しくないんですね。さぁ、今日も頑張って仕事しよう!!」

 やたらに明るい冬華に、私は憂鬱さが増したのだった。

 

 

 仕事を終えて、私は冬華に見つかる前に急いで会社を出る。廊下や外で待ち構えていたらと、少し焦ったが冬華はいなかった。

 私はある目的地に赴くために、いつもとは違う駅を目指す。

「椿先輩! つーばーきーせーんーぱーいっ!!」

 信号を渡ろうとしたところで遭遇したくない奴のでかい声で、足止めされる。

「ちょっと、椿先輩!! 何私を無視して帰ろうとしてるんですかっ!」

「別に冬華と帰る約束なんてしてないでしょ」

「そういう問題じゃありません。どこ行くんですか? 駅はあっちですよ。ボケちゃいましたか?」

「ちょっと用事があんの」

「ふーん。どんな? そういえばあの課長さんはそっちにある駅使ってましたっけ。追いかける気ですか?」

「そんなことするか。遊び。遊びに行くの。だから邪魔しないで」

「何の遊びですか? 私も行っていいですよね」

「なんでよ。残念ながら今日は冬華と遊べないの」

 私は冬華の耳を引っ張って、そこに囁いた。

「女と遊ぶの。だから今日は冬華はパス」

 信号が青になったので、私はさっさと渡った。

 逃げたい。冬華から。

 私は冬華と関係を持ってしまったことを後悔している。

 遊びの延長なんて、やはり無理だったのだ。冬華とは昨日今日知り合ったわけじゃない。この先も昔から変わらないままでいられる自信がない。そんな予感があったにもかかわらず、私は冬華を抱いてしまった。失恋の寂しさを紛らわすために。

 後ろめたい。冬華にも。課長にも。

 振り返ると赤信号になった横断歩道の向こうで、冬華が立ち尽くしていた。

 何か言いたそうにこちらを見つめている。

 私たちの間を何台もの車が通り過ぎて行く。

「椿先輩なんか大っ嫌い!!」

 冬華はそう叫ぶと踵を返して走り去って行く。

(ほら、やっぱり。だめなんだ。『友だち』と関係を持つなんて)

 私は冬華が去ったのとは逆の道へと進んで行く。

 駅に到着する。何故だろう。駅から溢れる明かりが眩しくて、涙腺を刺激される。

 構内に入ったところでスマホが鳴ったので、カバンから取り出す。

「冬華⋯⋯」

 私は少し迷ってから電話に出た。

『椿先輩』

 いやにドスの効いた冬華の声。

『何で追いかけて来ないんですか!? バカなんですか? こういう時は追いかけて来るものですよね!? 会社の近くの喫茶店の前にいますから、今すぐ来てください。来て。早く来て!! 走って走って、心配そうな顔して来て!! 迎えに来てよ。⋯⋯迎えに来てよ⋯⋯⋯、椿先輩』

 終いには涙声になった。

 一度も泣いたところを見せたことがない、冬華の涙声。

 私は駅から飛び出していた。

 あいつが言うとおり走って、走って、信号に足止めされて、息を切らしてまた走って。

 躓きそうになって体勢を立て直して走って、人にぶつかりそうになって謝って走って。

 そうして私は喫茶店の前まで来てしまった。  

「⋯⋯はぁ、はぁ」

 息があがって何も話せない。そんな私を冬華が見ている。

「本当に心配そうな顔してくれるんだ。椿先輩って単純だなぁ」

 泣いていた様子もなく、けろりとしている。

「⋯⋯だ、だましたな冬華」

「何がですか?」

 私は冬華にしてやられたことに気づいて、その場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫ですか、椿先輩」

「あんたってやつは⋯⋯」

「そういえば、遊びはいいんですか?」

「そんな気なくなったわ。どこかの誰かさんのせいでね」

「それはそれはすみませんでしたね。じゃあ、私と遊びましょうか。そうしましょう、椿先輩。本気の遊びをね」

 同じようにしゃがんだ冬華が私の顔を覗き込んで微笑む。

 

 

 私はまたも流されて冬華を連れ帰り、抱いてしまった。

 私の横で満足げな顔をしているこいつが憎らしくなってくる。愛しさあまってなんとやらだ。

「ふーちゃん、あのね」

「その呼び方、久しぶりだ」

 大学時代はふーちゃんと呼んでいたのだが、社会人になってからは子供っぽい気がして呼び捨てにしていた。

「椿先輩、もう一回ふーちゃんって呼んで」

「⋯⋯ふーちゃん」

「今のは零点です。やり直して」

「呼べって言ったのはそっちでしょ」

「こういう時は、私を抱き寄せておでこにキスしながら『ふーちゃん』って呼ばなきゃ」

「するか」

 私は冬華に背を向けた。

「怒る? 怒んないでください。椿先輩〜、もう一回ふーちゃんって呼んでください。ダメ出ししないですから」

 私はため息をつきつつ、冬華のお望み通り、抱き寄せて、キスはしなかったが名前を呼んだ。

「ふーちゃん」

「椿先輩!」

「そうじゃなくて。あのね、ふーちゃん。私たち友だちでしょ」

「うーん、どうかな。友だち同士でこういうことはしないと思います」

「そうね。うん。私はふーちゃんが大切なの。数少ない何でも話せる友だちだし、正直失いたくないの。だから、その⋯⋯。こういう関係になるのって良くないっていうか、やっぱだめというか。元の私たちに戻るべきなんじゃないかって思うの」

「二回も抱いておいて言うことですか!?」

「それもそうなんだけど、私はふーちゃんを失いたくないから。それは分かってほしい」

「分かりました。でも何でこうなったら私が失われるんですか? 私はいつだって椿先輩の側にいるし、椿先輩の味方ですよ。今の会社だって、椿先輩がいるから選んだのに。私は椿先輩に嫌われたりしない限り、ずっと一緒にいます。今まで通りこれからも」

「ふーちゃん⋯⋯」

 冬華は私の手をぎゅっと握りしめる。

「もういい加減気づいてほしいなぁ。私が何年椿先輩に片想いしてると思ってるんですか。やっとチャンスとタイミングが巡って来たと思ったら、異動して別の部署になっちゃうし。あげくに『上司を好きになった』とか言われるし。正直、椿先輩が失恋した時は嬉しかったです。今回は誰のものにもならないんだなって」

「ふーちゃん⋯⋯!?」

「そんな呆けた顔しないでください。私は椿先輩が好きです。だから、いいですよね。これからも隣りにいて」

 突然の告白にどくんどくんと体中が脈打つ。

「もうこの流れは完全に付き合うあれですよね、椿先輩」

「いや、あの、待って」

「待ちませーん。今日から私たちは彼女と彼女。いいですね、椿先輩?」

「あのさ、私確かにふーちゃんのこと好きだけど」

「好きだけど何なんですか? ところで私を抱いた後に課長さんのこと思い出しましたか?」

 言われてみれば考えてなかったかもしれない。

「⋯⋯思い出してない」

「やった、私の勝ち。ということで椿先輩は私と付き合うってことでいいですよね」

 こちらが何か言う前にキスされる。

「こんな形で付き合うって」

「いいじゃないですか、どんな形でも。椿先輩、一回じゃ物足りないのでもう一回しませんか」

「⋯⋯⋯うん」

 学習能力がない私はまたしても流されてしまった。

 

 

 

 会社に行く道すがら、またあの勢いよく近づいて来る足音が聞こえて来る。

「おはようございます、椿先輩!」

 振り返らずとも冬華だと分かった。

「おはよ」

「今日は終わったら一緒に飲みに行きませんか? 聞かなくてもいいか。どうせ『私と一緒に』行きますもんね」

 冬華は相変わらずだった。

 失恋の憂鬱はどこかへ落としてしまった。

 変わりに後輩がちゃっかり彼女になるという憂鬱が発生してしまった。

 だけど、そんなに悪いとは思ってない。

 その内、いい感じに幸せに転換されそうな気がしている。冬華が言う通り、私は単純なんだろう。

「ふーちゃん」

「何ですか?」

「何でもないよ。行こうか」

 恋愛に決まった終わり方も始まり方もない。ないなら、きっとどんな形でもいいに違いない。

 お互いに幸せになれると感じられたなら。

 私と冬華が上手くいくとはまだ断言できないけど、私はできるならちゃんと今度は花を咲かせたいと思っている。      

      

           

                     

       

    

         

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