湖の屋敷
遠い記憶の中にある兄さまは泣いています。私を抱きしめながらごめんねと何度も繰り返しています。いいのよ。私はいいのよ。だってしょうがないじゃない。私たちは二人きりだったんだもの。
この季節になると思い出します。湖から吹いてくる風が冷たくなってきたころです。
私たちは湖の近くの屋敷に暮らしていました。母さまは私が生まれてすぐ死んでしまったそうです。屋敷の中には父さまと兄さまと私の三人だけ。使用人は父さまを怖がって皆逃げてしまったのです。
父さまはよくお酒を飲む人だったそうです。朝から晩までずっと酒瓶を片手にして、いつも不機嫌そうでした。父さまは私をぶって、兄さまが止めに入ってまた頭をゴツン。それは毎日のことでした。
母さまが病気になってしまうまでは父さまは優しかったそうです。しかし母さまの病状が悪化するにつれて、父さまはどんどん私たちの目を見なくなっていったそうです。いつだったか、父さまは言いました。俺が愛していたのはお前らじゃないと。よく覚えています。どんなに強くぶたれるのよりも、ずっと痛かった気がします。
私はよく耳を澄まします。自分の部屋で、浴槽の中で。父さまが不機嫌そうな音を出していないか、注意深く聞きます。機嫌の悪い時は大概、大きな音がします。乱暴にドアを閉める音、荒々しく歩き回る音。近くでそれを聞くと怯える時もありますが、大抵は兄さまが父さまを遮るように私の前に立って、父さまをなだめてくれます。だから平気なのです。
季節は移ります、落ち葉も風に流された冬のころです。食事の支度をしている時、兄さまが小鬢を取り出すのが見えました。母さまの部屋にあった青い小さな薬の小瓶です。とても強い薬だから決して舐めたりなんかしてはいけないよと、兄さまが強く言っていました。薬は毒にもなるそうなのです。それを、ああ父さまのシチューに入れるのね。
お皿を運ぶ兄さまの手は震えていました。父さまの前に料理を出すときも、視線はおぼつかないままでした。
父さまはいつもと違う兄さまの様子に気が付いてしまって、そのシチューを私の口に押し込んできました。兄さまはすぐさま父さまを引き剥がして、私にシチューを吐かせました。父さまはこちらを一瞥した後、また酒をあおって部屋に戻りました。
なんだか視界がくらくらして、ずっと体がしびれたように動きませんでした。でもね、兄さまのせいじゃないのよ。だから泣かないで。私は大丈夫。
風の強いある日の夜です。その日は父さまの機嫌がとくに悪い日でした。風はうなり声のような音を立てて家を震わせます。木々は大きく体をうねらせ、外に置いてあったバケツが跳ねて飛んでいく音がします。兄さまは私を先に部屋へ帰していました。下の居間にはまだ二人がいるのでしょう。いつものように父さまの罵声が聞こえてきます。
大きな雷が近くに落ちたようです。一瞬、その衝撃の中で誰かが呻き声をあげたような気がしました。きっと気のせいです。
それからしばらく経って、ずっしりと重い雲は過ぎていきました。まだ風は強いままですが、雷雨は収まりました。しばらく、静かに風の音だけを聞いていました。一階の居間は静かです。
湖の水かさは大丈夫だろうかと窓の外を見ていると、兄さまが部屋にやってきました。兄さまは私に毛布をかぶせてこう言いました。「兄さんと父さんは湖の方を見てくるからね。また風が強くならないうちに寝てしまいなさい」兄さまは痩せこけた頬を無理に上げて笑顔を作っているようでした。私はまだ体のうちに薬の影響が残っていたようで、やっと起き上がれるようになったばかりでした。
兄さまは黒いケープを羽織ると、ランタンを手に取って軽く手を振りました。私が手を振り返すと、兄さまはドアの手前で引き返し、「愛しているよ」とおでこにキスをして部屋を出ていきました。
私は兄さまが遠ざかっていくのを窓にはりついて見つめていました。柔らかいランタンの明かりが遠ざかっていきます。思えばその時からもう会えないような気がしていました。私は言われたとおりにそのまま横になって眠りにつきます。
ねえ兄さま。父さまは一緒じゃないのね。どうしてずっと右腕をさすっていたのかしら。きっと明け方には帰ってくるわよね。きっとそうよね。
ねえ。こんな大きな屋敷に私だけ残して、静かすぎるのは怖いわ。
私が次に目を覚ましたのはとても狭くて暗い場所でした。ずっと厚いカーテンがかかっていて、まだあの夜にいるようでした。私は暗闇が怖くて、声も出せずにじっとしているしかありませんでした。
久しぶりに日の光を浴びたのはそれから暫くしてからです。重いカーテンはおろか、窓が開け放たれ、廊下の空気が入れ替えられます。鳥の声が聞こえる。木々を揺らす風の音も。視界は明るく、目の前に少女が立っているのに気が付きます。私にそっくりな瞳に毛色。
少女は言います。
ねえ。私、将来あなたのようになるわ。ええきっとそうなの。兄さまが描いてくれていたのよ。部屋から見つけ出したの。エリーは目元が母様にそっくりだから、きっと綺麗になるって。わたし、あなたのようになるのよ、きっと。
その子は眩しそうに笑っていました。私はその時やっと気が付いたのです。私はわたしではなかったことに。遠い記憶はあの子のものでした。
それからあの子は毎日私のもとへ通い詰めました。
兄さまはあれから帰ってこなかったそうです。その上父さまも居ません。あの子は途方にくれました。しかしすぐに兄さまが手配していた親戚の馬車が屋敷を訪れました。〝私〟はあの子がこの屋敷に引っ越す際に、兄さまの部屋から見つけたそうです。
あの子はまだあの薬の作用から脱していないようでした。食事が喉を通らないそうです。使用人たちがあと何ヶ月生きれるものかとひそひそ話していました。
あの子もそれがわかっているようでした。しかしその反面、どうしても兄さまが描いた私が頭から離れないようでした。結局あの子はそれから数週間後に亡くなってしまいました。遂に私もひとりぼっちです。こんな奥の廊下に通うもの好きは居ません。それでも私は幸せです。今日も、あの子が用意してくれた窓の外の景色を眺めるのです。よく耳を澄ませて、明るい屋敷の音を聞き分けるのです。
無邪気に笑うわたしはとても幸せそうでした。だから泣かないで。
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