南の廊下
穏やかな空気が流れる明るい午後。廊下には足音がひとつ響いています。足音は向こうの廊下で、部屋の扉をひとつずつ開けてまわっているようです。
ここはもっと奥の廊下。扉で仕切られている、私がいるだけの甚く短いお気に入り。足音は三つ向こうの部屋を開けると立ち止まり、ゆっくりと中に入っていきました。
部屋の中央に立ち、窓から入ってくる風を感じている様が見えるようです。レースカーテンがやわらかに揺れています。
一呼吸おいて、また足音が聞こえ始めました。部屋に何かを運び込んでいるようです。上機嫌そうに、足音は軽やかにステップを踏みます。私もその楽し気なリズムにつられて鼻歌を刻みます。カーペットに落ちた木漏れ日がきらきらと揺らめいています。こんな奥まで人が来るのはいつぶりでしょう。しばらくして作業がひと段落着いたのか、忙しく動いていた足音は止みました。日は少し傾いていました。
今日もまた、あの足音がします。今日は部屋にこもりっきり。座って作業をしているようです。たまに席を立っては水で何かを洗っています。
青い空の下、私は今日もぼんやりと窓の外を眺めています。昨日やってきたばかりの人が出す音はなんとなく心地がいいのです。目をつむって、耳を澄まします。何だか懐かしい、楽し気な音です。脳の奥で、ぱたぱたと足音が聞こます。そうです、あの子によく似ているのです。この廊下に遊びに来ては、そこのソファで眠っていた。初めて私を褒めてくれた子。
遠くの方でドアの開く音がします。気が付くと太陽は高く昇っていました。単調な音を聞いているうちに寝てしまったのでしょう。
まだ聞きなれない足音がこちらへ向かってきています。まだとろんとした頭を振るいます。ドアが開かれ、ぱっと新鮮な空気が廊下に入ってきました。遠くの方で聞こえていた足音がすぐそこでするのがなんだか不思議な感じです。
私と同じくらいの歳でしょうか。白いシャツを着た少年が廊下に入ってきました。少年は私に気が付くと、そっと近寄ってじっくりと眺めます。近くで見ると、シャツは所々絵の具で汚れているようです。
「こんな日光の当たる場所に絵を飾るなんて、どんなに常識のない人なんだろうね」
少年が不意に呟きました。
いいの。私はここから庭を眺めるのが好きなの。
私の口からは自然と声が漏れていました。何となく、この子と話せたら楽しいだろうと思ったのです。突然どこかから返された言葉に少年は驚き、さっと当たりを見回します。しかし、誰の姿も見えません。
「……誰かいるのかい?」
少年が恐る恐る、誰もいないはずの廊下に声をかけます。
ええ、ここに。
と、私はまた返します。
少年はまた周囲を注意深く観察しました。今度はカーテンの奥から、戸棚の裏まで念入りに調べますが、どうにもこの廊下には自分以外の人は見つからないようです。ソファの下を覗いているとき、今度は少しおどけたような声で少年を呼びました。
ほらここよ。あなたの目の前に。
少年はゆっくりと顔を上げます。目の前にあるのは絵が一枚だけ。
「今しゃべったのは君なのかい?」
少年は目を丸くして私をまじまじと見つめます。
「驚いたな。しゃべる絵画があったのか」
存外、少年は取り乱した様子もなく話しました。
私の声が聴けたのはあなたぐらいなものよ。
ふふふと私は笑って見せます。
「僕は疲れているのかな」
そうかもしれないわね。でも、私とても嬉しいの。人と話したのは初めてだから。
そうだろうねと少年は笑います。
ねえ、ところであなたは最近こちらにいらしたのかしら。
「ああ、そうだよ」
少年はまだ私をじっと見たまま返します。
やっぱりそうなのね! 聴きなれない足音だったんですもの。
「足音?」
そう、足音。私は長らくここにいるけど、ほら、動けないでしょう? だからじっと耳を澄ませるの。屋敷の住民たちの音は大体聞き分けられるようになったの。ここに人はあまり来ないからみんな姿は見たことがないんだけれど。
なるほどねと少年は感心します。
ねえ、あなたはいつまでここにいるのかしら。
「そうだね、しばらくはいると思うよ。最近ここの主人が無くなっただろう。それで仮の当主に、一時的にだけど、僕の兄さんがなったんだ。でも兄さんはもとの屋敷を気に入ってるからね。あまりここには来ないんだ。それで、僕がちょうどアトリエが欲しかったから、この屋敷の部屋を使ってもいいことになったんだ」
まあ、フローレンが。そういえばあの子の楽し気な音をしばらく聞いていなかったわ。この前、家中が騒がしかったのはそのせいね。
「もう半年も前のことだよ」
そう、まだもっと暖かかった時期ね。庭の花壇にいっぱい花が咲いて、優しいあの子はそんな時に逝ったのね。
「前の当主と知り合いなのかい?」
ええ。従兄妹のローランのひ孫のお嬢さんだったかしら? いえ、ルイスのお孫さんかもしれないわ。だめね、もう誰が誰だか。
「君は僕が思うよりずっと昔の人みたいだね」
そうねえ。もう何回季節が廻ったのかしら。
「君はずっとここに居て退屈しないのかい?」
退屈だなんてとんでもない! 毎日が驚きと喜びで満ちた新鮮な日々だわ。春に新しく来た双子のメイドたちのにぎやかな声を聴くのが最近の楽しみなの。それから、そこに窓があるでしょう。そこから週に一度来る庭師を見るのも好き。彼、とっても丁寧に仕事をするの。花弁の一枚一枚をそっと撫でて、咲きかけのつぼみにキスするのよ。ねえ、あなた確かここにアトリエを作るって言ったわね。
「ああ、そうだよ」
ということは、あなたは画家様なのかしら。
「画家だなんてそんな、趣味でやっているだけだよ」
そう。私あなたの絵が見てみたいわ。
「ええと、今日は持っていなくて……」
あら、残念。今度来るときは絶対持ってきてね。約束よ?
「……わかったよ」
何かバツが悪そうに眼を逸らす少年を私は不思議に思いました。
無理にとは言わないわ。ごめんなさい、気に障ったかしら。
「いや、いいんだ。約束しよう」
そう言って少年は部屋を出ていきます。廊下にはいつの間にかオレンジ色の光が差し込んでいました。
メイドには双子が多いのかしら
双子にはメイドが多いのかしら
今度屋敷に来たのも双子らしいわ
メリアとハンナも双子なんですって
少なくともあたくし達には及ばないわね
あたくし達以上に素晴らしいのはいないわ
少年が次に来たのは一週間が過ぎてからでした。屋敷には来ていたのですが、この廊下の近くまで来ては、いつも手前で引き返してしまいます。そのたびに少しがっかりして、私はまた耳を澄まします。少年はあの部屋に入るとしばらく出てきません。おそらくあの部屋がアトリエなのでしょう。たまに水の入れ替えのために出てきて、筆の水を切ってまた部屋へと戻っていきます。
少年と話ができたのは夢だったのではないかと思い始めた矢先、少年は廊下を訪れました。
少年はそろりと廊下に入ってきます。後ろに何かを持っているようです。
「やあ」
こんにちは。
「遅くなってしまって申し訳ないね。実は前に描いた絵は全部捨ててしまっていてね。新しく描いていたんだ」
少年は後ろに持っていたキャンバスを胸の前に持ち直します。
まあ、綺麗!
それは青い鳥の絵でした。枝にとまった二羽の小鳥が、楽し気に話しているようです。
幸せを運ぶ青い鳥ね。明るくて、本当に生きているみたいだわ。すごいわ。
ありがとう。
少年は照れくさそうに笑います。
それから少年は、絵を描いては私に見せてくれました。それはこの窓からは決して見れないようなものばかりでした。ヤギが登る高い崖の絵、大空を望む大鷲の絵。自然の風景を描いたものが多くありました。しかし少年はいつも自信なさげで、大したことはないと自虐していました。あくる日、私はそのわけを尋ねます。
「そうだね」
少年はソファに腰掛けて話し始めます。
「僕には三つ上の兄さんがいてね。それはもう素晴らしい人なんだ」
ええ。
「でもなかなか馬が合わなくてね。特に絵のこととなるといつも喧嘩ばっかりさ」
お兄さんがあなたの絵に嫉妬したり?
「まさか! 逆だよ。兄さんの方がよっぽど絵が上手くて、僕なんか足元にも及ばないよ」
そうかしら。私はあなたの描く絵が好きよ。
「ありがとう。でもきっと兄さんの絵を見たら驚くよ。まるでこの世のものじゃないみたいに綺麗なんだ」
そう。
「ただ、僕はその綺麗さがたまに嫌に目につくときがあってね。そんな時は自分の絵がものすごく拙い、幼稚な落書きのように見えるんだ」
そんなことないわ!
「うん。でも、兄さんがすごいのは確かなんだ」
少年は諦めたように目を伏せました。しかしすぐに顔をあげて、兄さんの絵が嫌いなわけじゃないんだよと、どこか寂しそうに微笑みました。
「君にも兄弟はいたのかい?」
今度は少年が私に尋ねます。
ええ。私にも兄さまがいたわ。同じように絵を描く人で、〝私〟は兄さまが描いてくれたそうなの。
「へえ」
本当のわたしは年端もいかないうちに亡くなってしまったのだけれども、兄さまはわたしが大きくなったらきっとこうなるだろうって私を描いてくれたの。
少年は興味深そうに私を隅から隅まで、嘗め回すように観察します。
なんだか恥ずかしいわ。
「ああごめん、君のお兄さんは君をとても愛していたんだね」
わかるかしら。
「わかるよ。この絵はなんだか愛情のこもった優しいタッチだ」
ふふ、ありがとう。
そしてまた他愛もない話が続きます。私たちは日が沈むまでそうしていました。しかし、この日から少年はあまり筆を進めず、ただのんびりと雑談をしに来るだけになりました。
あなたには兄弟がいまして?
あなたには姉妹がいまして?
私にはかわいい妹が
私には愛する姉さまが
双子は二人がひとり
二人でひとりなのよ
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