北の廊下
薄暗い廊下にはいくつもの絵画が飾られていた。私はそこが小さなころから苦手だった。北側にあって、窓のひとつもないから昼間でも薄気味悪かった。でも、角にある私の部屋に行くにはそこを通るしかなかった。
ある日、私は廊下に続く扉をほんの少しだけ開けて、中を覗き込んだ。近くにいた小間使いたちは気付いていなかったようだけれど、私は確かにこの扉の奥から話し声を聞いた。私は恐る恐るドアノブを手に取り、十センチほど扉を開いてから暗い廊下を覗き込んだ。
廊下には光が差し込むだけで、誰かがいる気配もない。ほっとして扉を閉めようとしたその瞬間、何かが光ったのを私は視界の隅で捕らえた。部屋から差し込むわずかな光に反射したのか、一瞬だけ猫のような二つの目が見えた気がしたのだ。
手汗でドアノブがじわりと湿り、吐き気さえもしてくる。
閉めるに閉められなくなったこのたった数センチの隙間から、黒い手が出て、私の腕を強く握り、暗闇に引き込まれるとも限らない。
もしくは、ドアを閉めたところで、振り返ればそこにはあの緑色の気持ち悪い眼球がまた私を見つめているのかもしれない。
じっとドアノブと隙間を見つめていると、後ろでガチャンと何かが割れる音がした。。どうやら小間使いの一人がソーサーを落してしまったようだ。彼女は周囲にいた人たちにぺこぺこと頭を下げ、私とも目が合うと申し訳なさそうに一礼して、床に散らばる破片を片付け始めた。私は驚いていつの間にか手を放してしまっていた。廊下にはこちらの部屋の明かりが入り、幾分か明るくなっていた。絵画が数点と小さな戸棚、その上にのせられた小さなランプ。先ほど見たものはどこにもいなかった。私がその場で棒立ちになっているのに使用人が気付き、廊下のランプを灯しに行ってくれる。
廊下の壁紙は落ち着いた暗いワインレッドを元地に、銀色で東洋風の蔦があしらわれている。全体的に落ち着いたトーンで、余計な明るさは一切用意されていない。それが一層私の鼓動を早くさせるのだが。
壁には一定の間隔ごとに大小様々な絵画が飾られている。どれも画風が異なるが、同じような金の額縁に入れられている。この屋敷の家系は代々絵描きが多いようだ。これまでに描かれてきたうちの、数万点に上るであろう中から選りすぐのものがここに飾られていると聞いた。私は全てのランプが灯された廊下に足を踏み入れ、その一点一点を眺めながら歩き出す。
『双子の使用人』レイモンズ=オーガスト作。
一人は夕日が強く差し込む部屋のカーテンを閉め、もう一人は主人に出すフルーツの皮を剝いている瞬間が描かれている。フルーツナイフは夕日を受けて強く反射している。二人は楽し気に会話をしているようだ。
『トゥルゾ伯爵のパーティー』モルディシェリ=オーガスト作。
一昔前のパーティーの様子が描かれている。周りが楽し気に輪を作って談笑している中、中央でひとりワイングラスを手にするトゥルゾ伯爵はしかめっ面だ。
『剪定をする庭師』エリック=オーガスト作。
『居眠りをする侍女』エリック=オーガスト作。
この二枚は同じ作者が描いたものか。確かに二枚を見比べると、客観的な構図や明るい色使いがよく似ていた。
『湖畔の朝』
一目見て、息を呑んだ。湖畔に佇む一隻のボート。淡い早朝の藍と紫が柔らかなグラデーションがキャンバスを埋めている。空には大きく傾いた白い半月と、手前にはぼかされているが確かに描かれた無数の種類の草花。廊下の奥に飾られたその絵は、私の心にすっぽりと納まってしまった。
そうしてその絵に見惚れながら、ゆっくりと角を曲がろうとしたその時、不意にすぐ後ろから大きなあくびが一つ聞こえた。とうに忘れていた恐怖の心がじわじわと、ものすごい勢いで底の方からはい寄ってくるようだ。
小間使いがいつの間にか廊下に入ってきたのだろうか。それともまた私の聞き違いだろうか。そうだろうか。誰もいないはずの廊下で、そんなはずが。
一瞬のうちに思考をめぐらせた後、私は速足で歩きだした。一刻も早くその場から離れて。視線をあげてはいけない。決して振り返ってはならない。カーペットの模様のみを数えて私の部屋へ。角を曲がって奥の部屋へ。隅に置かれた棚のランプがチカチカ点滅していたような気がするけど、それも気のせいだ。きっと気のせい。話し声も暗闇に光る目も、視線も、誰かのあくびもみんな全て気のせいだ。そうだ。あともう少し。私の部屋の扉はもう目の前。あと一歩。冷たいドアノブを掴んで。
私は扉がしっかりと閉まっていることを確認してから、大きく息を吐いた。緊張が解けたのか、一気に冷や汗が溢れはじめた。私はカーディガンを床に放り捨て、ぐっしょりしたシャツは着たままにベッドにもぐりこみ、部屋の明かりを付けたまま気を失ったように寝てしまった。
いつだったかこの廊下に来た子がいたわよね。
それはもう怯え切った様子でしたわ。
でもマルデリータがうっかり。
寝起きの彼女の欠伸がひとつ。
あれは愉快だったわね。
私の笑い声も聞こえてしまったかしら。
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