西の廊下

夕時は不可思議なことが起こるのよ。

強い夕日で世界は真っ赤に染まるわ。

ほらカーテンを閉めて。

ナイフに反射するわ。

眩しくて目が潰れそうよ。

仕方ないわここは西向きの部屋よ。


もうすぐ日が落ちる。少し前まではあの絵画の少女のもとへ通っていたが、町の大富豪が大々的に絵画コンクールを開くと聞いて、製作に専念していた。筆はあまり進まなかったが、なんとか一枚の絵を仕上げた。

僕は兄を探している。もう違う棟で開かれているパーティーに参加してしまったのだろうか。しかしあの人はそういうものには興味を示さない性分だ。きっとまだ、この屋敷のどこかにいる。

兄は西の廊下にいた。図書室から戻ってきたところのようだ。

「兄さん」

 兄は僕に気が付くと、足を止めた。

「なんだ。お前もパーティーにはいかなかったのか」

「あれは騒がしすぎるよ。誰とも話さないのなら行く意味がない」

「同感だな」

兄は僕が手に持っているものに気が付くと途端に顔をしかめる。遅かれ早かれどうせ兄に見せるために持ってきたのだ。

「ねえ兄さん。新しく一枚描いたんだ。コリニスカ公のコンクールに応募したいんだ。出来を見てほしいんだよ」

僕は兄を何とか引き止めキャンバスを無理やり押し付ける。

 しかし兄は一瞥しただけでそれを突き返す。

「ダメだな」

 兄はそう吐き捨てる。僕は必死に自分の心をなだめて兄に詰め寄る。

「よく見てくれ。やっと書き上げたんだ。此処を見て、湖畔の水面が上手く描けたんだ」

「せいぜい自然学者がありもしない植物を気にするだけさ」

「そんな、これは実際にある植物なんだ。兄さんが見たことないだけ――」

「いいか。こんなものを世に出してみろ。今にあの家は子息の躾もできないかと言われるだろうな。それに前も言ったろう。僕はお前に付き合っているほど暇じゃない。」

 兄は僕の言葉を聞かずにそれだけ言い捨て、部屋に戻ろうと背を向けた。

「ねえ、兄さんは僕が嫌い?」

 つい、そう呟いていた。しまったと思ったが、ふつふつと心の奥からあの感情がこみあげていた。兄は振り返って立ち止まる。

「そんなことはない。だが家の名を傷つけるのは」

「それって」

 叫びにも似た大声で兄の言葉を遮る。

「僕よりも大事なことかなあ?」

 兄は心底悲しそうに、哀れなものを見るようにして、何も言わない。

 やっぱり、わからないんだと、そう思った。僕がいくら努力しようが兄には届かない。

身体が動いてしまっていた。手元に置かれたフルーツナイフを掴んで、そのまま兄の方へ。顔を、眼を狙って。きっと目が見え無くなれば僕の絵にとやかく言うこともない。きっと、きっとそうだ。この渇きから解放されるはずなのだ。

 銀のナイフはカーテンから漏れ出た西日を強く反射して、僕の視界を一瞬眩ませた。

 カランとナイフが床に落ちた音でふと我に返る。眼下には左目のあたりを抑えた兄がいる。目の奥に強い光が残っている。赤いものが溢れている。瞳の下の頬から。数センチずれた頬から。

西日は弱弱しいものに変わっていた。うずくまった兄が苦しそうに顔をあげる。僕と目が合って。そして僕は駆けだした。あんなに大事だったキャンバスも捨て置いて。僕はどんな顔をしていただろう。きっと酷く怯えた、だらしのない顔をしていた。


 小さなころから、自分の前には兄がいた。それは強く眩しい存在で、僕はずっとその背中を追っていた。しかしある時、気が付いてしまった。その光は一向に僕の方を向かない。いくら追いかけても、その背に指先が触れることさえ許されない。

それから僕はその光でどんどん渇いてしまって、目を背けようとしても、一層それは眩しさを増して、四方八方から僕を枯れさせてしまう。


 僕は真っすぐあの廊下へ向かう。駆け足で。一刻も早くあちらの屋敷から離れなければならない。あの廊下ならきっと人は来ない。使用人たちも何も知らない。まだ熱は冷めない。惨めな自分を見るあの目が頭から離れない。全部が妬ましい。アトリエを通り過ごして、狭い廊下のドアを開け放つ。

 どうかしたの……?

ソファに座ると、少女が心配そうに尋ねてくる。

お兄さんと何かあったのね?

兄のことを思い出すとただいらだちだけが出てくる。

「また、」

ぽつりと話し始める。

「また、言い合いになったんだ」

 お兄さんはまたあなたのことを侮辱したのね。

「そうだ」

でもあなたの描く絵なら平気よ。だって素晴らしいんですもの。

少女の言葉がいやに引っかかる。

コンクールだってきっと一番よ。

いつもは自分を励ましてくれるはずの言葉が、どうにも薄っぺらく感じてしまう。

「そんなわけないだろう」

 言葉は堰を切ったように溢れてくる。

何も知らないくせにわかったふうに言うなよ。なんで僕がこんな仕打ちを受けなくちゃいけない。毎日毎日自分を惨めに思ってどれだけ努力しても、兄さんは見向きもしない。自分の筆が生む線があまりに汚くて嫌いでどうしようもないんだ。

もう思いも声に出すこともぐちゃぐちゃだ。

少女もだんまりになってしまった。ただ僕の目をじっと見て、見て、哀れんだ目で。

人にやさしいあなたにもきっとわからない。この渇きはきっとわからない。

少女は口を開く。

きっと仲直りできるわよ。

そんな無責任な言葉が、見捨てるような言葉が、一番聞きたくなかった。

僕は我を忘れて、いつもおいていた絵の具と筆をとりだして、少女のその眼を隠そうという思いで必死だった。どうせ自分が作り出した幻想なのだから。もう誰にも見られたくない。そんな哀れんだ目で。何も持たない僕を見ないでほしい。

自分の絵が好きになりたかった。

そしたらどんなに楽だったか。


「兄は名前を隠して応募しろとと言った。名声を貸すつもりはないんだとさ」

 はなから借りようとも思ってないけどね。と付け足した。

 どうして自分の名前を使ってはいけないのかしら。

 絵画の少女は言う。

「泥を塗ってほしくないってことさ」

 彼女はわからないという風に首をかしげた。

「兄の意見など気にせず勝手に応募してしまえばいいんだろうけどね。どうにも幼稚な気がしてならないし、実際あの人の弟ということを知られて一番恥をかくのは僕なんだ。」

ますますわからないわ。兄弟そろって絵の才能があるなんてとても素晴らしいことよ。

「……僕に才能は無いからなあ」

そんなことを言わないで。この前私を描いてくれたでしょう。私、一目見ただけであの絵が大好きになったの。あなたは明るい午後の木漏れ日に私を描いてくれたわ。草花まで細かく描かれているのを私は知っているのよ。クローバーもあったわ。私が手にしていたあの白い花はなんて言うのかしら。

「あれはエーデルワイスというんだ。山の頂によく咲いている多年草で、花弁に見えるのは実は葉の一部なんだ。古くから薬草として使われていて、別名はエトワール・ダルジアン、ルールクロイテル、ステラ・アルピナ……あ」

どうしたの?

「ごめん。つい夢中になっちゃって」

 気まずそうに僕は頭をかく。

ふふ、大丈夫よ、私が聞いたんだから。他に描かれている植物のことも知りたいの。もっと話して。

「じゃあ、えっと……」

心地の良い夢を見ている。ああこれは夢だ。僕は知っている。だってこれは昔のこと。君に出会ってから一か月が過ぎた頃だろうか。

そういえばあの花は兄が見つけたような気がする。家族で出かけていた時だ。兄が岩場の陰に隠れて咲いているのを、教えてくれたのだ。僕たちは、いつからそういうことをしなくなっただろう。

 


傷ついているあなたになんて声をかければいいか、わからなかったの。

本当は大丈夫と言ってあなたの頬を撫でて、あなたが全てを話し終わるまで手を握っていて。

決して笑ったりしない。あなたにとってとても大切なことなんだから。それが言えていればよかった。もっと大切なことが言えた。それからそっと抱きしめたかった。隣で寄り添う手があるだけでよかった。

それが無理でも、いつかあなたに手が届くうちに言葉が出ていれば。

あなたはいつの日か話したわよね。本当はお兄さんの描く絵が大好きなんだと。いつもそれが一等輝いて見えて、それで自分も筆をとったのだと。ええ本当に。あなたのお兄さんは素敵な方だわ。あなたはもっと素敵だったわ。そうだったのよ。昔の話。

私は私なの。あなたの空想の産物ではないのよ。ごめんなさいね。

切なる願いはたった今叶えられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る