第10話:ギオン

「ギオン、ですか」


 乾いた唇を舐めて湿らせながら捻り出した声があまりにも小さかった。自分で言っておきながら、弱々しさに目を見張る。

 ギオンというのは北の山間部に住む魔獣だと本で読んだことがある。体は大人の腰ほどまでの大きさで、猫に似た風貌。群れで行動する。

 一体一体はそこまで強いものではないはずだが、男の動揺ぶりを見れば暴走しているのは明らかだ。


「お前、ヴィスの何なんだ!あの野郎はいつ帰ってくる!?」

「お帰りがいつになるかはわかりません」

「なんっだよ!じゃあお前はどうなんだ!?魔法師か?」


 肯くべきか図りかねてリゼットは俯いた。それを否定ととったのだろう、男はまた一つカウンターに拳を叩きつけた。


「仕方ない。他所者に頼る時点でどうかしてんだ」


 話は終わりとばかりに男は背を向けて扉に手をかける。

 どうする。

 自分はどうすべきだと逡巡する。

 男は困っているからここに来たのだ。助けを求めて、ヴィスメリオールがきっと全て解決してくれるだろうと考えて。

 でも、彼は居ない。

 リゼットが彼を怒らせたからどこかへ行ってしまった。もし、自分が不用意な発言をしなければ、すぐに飛んでいって手を貸したかもしれないのに。

 捻り出した答えに思い至ったときには、自然と口は動いていた。


「ギオンは何体です?」

「あ?」

「群れで降りてきたのかって聞いてるの」


 ぐっと拳を握りしめ、男を見据えた。目が合った瞬間、相手は微かに後ずさる。


「じゅ、十七」

「そう。……魔法兵団へ通報はした?」

「済んでいる」


 リゼットは頷くと、すうはあとひとつ深呼吸をした。そして、薄暗い店内を見回していくつかの薬草を毟り取る。トランクからは大切にしている短剣を取り出し、スカートのウエストに挿し込んだ。

 油灯の火を部屋の隅に置かれていた古びたカンテラに移し、しっかり灯っているのを確認してから男に向き直った。


「準備は整った。……役に立てないかもしれないけれど、わたしを連れて行って」



 ◇



 周りの音は聞こえなかった。聞こえてくるのは、やたらと速い自分の鼓動だけ。

 屋敷を出たときには落ち着いていたはずなのに森を駆け抜けてギオンがいるという方向に向かい始めた途端、体が震え始めたのだった。カンテラを握る手はいくら力を込めても両手を擦り合わせても温もりがなかなか戻らない。

 正直、自分ならできると思えるほどの自信はなかった。今だって転んでしまいそうなほどに体は震えている。

 帰ってしまいたい。知らんぷりをすればいい。自分には関係ないことだと逃げ出したい。

 けれど____。


「もうすぐだ!」


 前を走る男が声を張り上げるのと、村が目に入るのは同時だった。

 昼間のような明るさに、村の状況が瞬時に入ってくる。すでに何人かが地面に伏しているのがわかった。あちこちから悲鳴や怒号が聞こえては消えていく。男もよもやここまでひどいとは思っていなかったのだろう、ひゅっと息を飲む音が聞こえた。


「あなたは村の人を遠ざけて安全なところへ!わたしのそばにいると危ないから」


 立ち尽くす男に半ば怒鳴りつけるように声を掛ける。

 笑う膝を叱咤して、リゼットは建物の間を縫って走り出した。数秒もしないうちに自分の胸辺りまである黒い塊と遭遇する。鼻が曲がりそうな臭気が顔を撫でた途端、不思議と震えは止まっていた。


「さあ、お前はこっち!」


 カンテラに持っていた薬草を突っ込むと、ぶすぶすと微かに音を立てて火が燃え移った。振り回して煙がたなびくと、くらくらするような甘い匂いが広がっていく。

 見向きもしなかったギオンがぴくりと耳を動かし、こちらの方へ振り向いた。そして見つけたとばかりにじりじりと距離を詰めてくる。

 十分引き付けなければ。

 近づいてくるギオンを睨みつけ、リゼットはだっと来た道を戻った。


 初めて通る道を全速力で走り抜ける。燃え盛る家々の間は熱くてたまらない。

 ふと振り返ると、一匹だったはずのギオンが増えている。数えられないが、十匹あまりはついてきているだろう。

 ぞわりと背筋を冷たいものが走ったけれど、ここで止まれば全てが無駄になる。リゼットは死んでしまう。

 足を精一杯動かして、前は前へと転がるようにして進んでいった。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫……!」


 まだ追いついてこない。走り続けなくてはならない。

 焦ると途端に足が縺れそうになるのを、自分に言い聞かせるように繰り返し呟くことで防ぐ。

 小さい村とあって息が上がる頃には最後の一軒に辿り着いた。その先は月明かりに照らされた畑が広がっている。ここまでくれば村人はいないだろう。

 どれくらい走ったのかはわからない。一瞬のようにも永遠のようにも思える。


 と、横から何かが飛び込んできてリゼットは咄嗟に右腕で顔を庇った。そして、あっと思った時にはもんどり打って倒れ込んでいた。


「……ッ!!!」


 声にならない悲鳴が、噛み締めた歯の間から漏れた。全身の毛がぶわりと逆立つ。


「グガァッ!!!」


 追いかけるように全身に痛みが走る。逃れたい一心で手足をバタバタさせるが、見上げた景色に映るギオンは減るどころか増していく。


「れ……っ、レーゼッ!」


 がっちりと咥え込まれて動かせない右腕を盾にし、リゼットは無我夢中で左手をなおも迫ってくる相手にぐっと押しつけた。ごく短い詠唱と同時にありったけの力を込める。体が内側の奥底から燃やされるような感覚がして、その熱が左手に走ったかと思った途端、眩いまでの光が迸った。

 熱波が顔を舐めて遠ざかっていくと、すっと体が軽くなった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 上体を起こし、リゼットは立ち上がった。目の前に広がった景色はぐらぐらと揺れている。自分がちゃんと立てているのか、それとも曲がっているのかわからない。それでも、眼前に揃った黒い塊はどうしてかしっかりと目に映った。


「さすが、賢者の薬草……」


 よく効くという話は嘘ではなかったらしい。

 それはそうと、二千アドネはいくらなんでもぼったくりすぎるだろう。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、またもや何かが迫ってくるのが見えた。


「レーゼ・アーロ……!」


 頭に浮かんだ言葉を詠唱すれば、体からせり上がった熱がどこかに消えていく。ギャン!と短い悲鳴が聞こえた気がする。でも狙ったわけではないから当たっていないはず。

 寒い。

 熱が全てどこかに行ってしまったように震えが止まらない。

 黒い影が眼前を覆う。生臭い息に気が遠くなる。今度は庇う力もない。痛いのは嫌だが、もう腕が上がらなかった。

 リゼットはそのまま意識を手放した。

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