第6話:ロレンシアへ
だだっ広い草原の中を、赤く塗装された車体を持つ馬車が走っていく。一面緑の中、唯一違う色で且つ目の覚めるような明るい色のそれは嫌でも目を引いた。
大小の石が埋まり、雨に降られることで起伏のついた道を走る馬車はガタガタと容赦なく揺れる。それでも揺れを物ともせずに、すやすやと寝息を立てて眠っている少女がひとり。窓から吹き込む優しい風が柔らかい髪を巻き上げると、あどけない寝顔が露になる。
突然、がったんと馬車が一際大きく揺れた。
馬車に乗るまだ幼い女の子は小さく叫び声をあげて母親の腕に縋りつく。他の乗客も、手すりや椅子の背もたれに摑まって揺れをやり過ごした。
しかし、トランクを抱え込むようにして眠りこけていた少女の体は、耐えきれずに椅子からころりと転がり落ちた。そのまま、車輪が大きな石を越えるたびに体がぽんぽんと弾む。
「嬢ちゃん、危ないよ!しっかり捕まらなくちゃ」
見兼ねた他の乗客が、深い眠りについたまま床をごろごろ転がり続ける少女の襟首を引っ掴んで隣に座らせた。何度か揺すられて、ようやく明るい黄色の瞳がぱちりと開く。
「んん〜……、もう着いたの……?」
「まったく。こんなに揺れてんのに全く起きやしないんだから、大したもんだよ」
目的地に着いたのかと、まだ重たい瞼をこすりながら周りを見回す彼女を見て、乗客たちが堪え切れずに笑い出した。
◇
リゼットが魔法学院を休学すると決めてから今日で四日が経つ。
学院一の迷惑学生と陰で噂されていただけあって、彼女が学院を暫し去るという話はあっという間に広まってしまった。
だが、一生徒を十賢者の弟子にするということは贔屓と見られかねない。そう危惧した学院長の配慮もあって、メリオールに弟子入りするという話だけは知られていないようである。
友人であるタチアナとクオラリカも、リゼットが退学処分ではないことに安堵しつつも学院を去るということを頻りに残念がっていた。
約束は一年間。リゼットが復学する頃には、彼女たちは進級してしまう。魔法が使えるかもしれないという期待や賢者のもとで学べるという喜びもあるが、二人と離れなくてはならないという現実から目を背けたくなる。最後にお茶をした時には、あまりの寂しさから三人で大泣きしてしまった。文通をしようという約束をしっかり取り付けて彼女たちと別れた。
王都に住む兄たちや彼女が世話になっていた孤児院にもそれぞれ手紙を出して学院を離れることを伝えておいた。詳しいことは伏せて、北に住む学院長の知己に魔法を教わることになったとだけ知らせただけだが。
トランクに私物を詰め込んで、リゼットは夜も明けきらぬうちから学院を出発した。近くの村まで歩き、目的地行きの乗合馬車に乗る。国土の小さなミグ=アヴェスタには色んなところへ向かう馬車が出ているから、何処にでも手軽に行けるのだった。
この国の国土は三日月のような、円弧状の島である。メリオールの話によると、彼は内海の中心から見て北北西にある小さな村に住んでいるという。
そこまでの短い、だが長閑な旅が始まった。
◇
「クォークスに到着。ロレンシアはこっからずっと真っ直ぐ行けば着っからな!」
「おっちゃん、ありがとう!」
草むらの中に一本走った道を指差した馭者に向かって人懐こい笑顔を浮かべたリゼットはお礼を言って運賃を渡す。
ここからは徒歩。村を二つ経由した先に、彼が住む村がある。
然程大きくはないが、全財産が詰まったトランクをしっかりと握り、がたがたの道へ踏み出した。
「お姉ちゃん、気をつけてねぇ!」
まだ先へ進むらしい子どもが手をふりふり、遠ざかっていく。その可愛らしさに思わず表情を緩め、リゼットも大きく手を振った。
くるりと道へ向き直り、ひたすら歩き続ける。
いくらか歩くうちに、じっとりと汗ばんできた。腕まくりをして、額の汗を拭ってはでこぼこした道をずんずん進んで行く。
途中、馬車や家畜の綱を引いた人とすれ違った。畑があり、そこで一生懸命鍬を振るう男の人やその手伝いをして回る子どもたちの姿が遠目に見える。
「こんなに歩くのも、いつぶりかな」
よく晴れた広い空を見上げて、リゼットは独り言つ。
学院に入ってからは一度も街へ出ていない。年端のいかない子どもに会ったのも、乗合馬車を使ったのも、一年半以上前のことだ。
昔は普通のことだったはずなのに、なんだかとても新鮮な気がして少女は笑った。
毎日学院内を移動していたとはいえ、歩く距離は知れている。お日様が真上に来る頃には、リゼットの息はすっかり上がっていた。土地の起伏が激しく、上ったそばから下ったりと忙しいせいもある。
ふと魔が差して、トランクをほっぽって草むらに飛び込んだ。誰かが通るかもしれない、と掠めた思いは青臭い植物の香りを嗅いだ途端にかき消えた。
「あはははは、きもちいー!」
小さな羽音が耳元で聞こえ、踊るように揺れる草がさわさわと囁く。リゼットは明るい笑い声を上げて大の字になった。まるで子どもの頃に戻ったように、体が軽い。火照りは、通り過ぎていく風に撫でられるうちに段々と静まっていった。
突然、腹の虫が鳴き出したかと思うと、リゼットはほっぽったトランクに這いずり寄って勢いよく中身を漁った。買っておいた昼食の包みを見つけるや否や、もどかしそうに破いて豪快にかぶりつく。
今朝は乗り換えに手間取ったせいで食事をとり損ねてしまった。腹が減るのも無理はない。
昼まで抜いては敵わないと、近くにあった露店で目についたものを取ったのがこれだ。
「ん、おいひい!」
リゼットはもぐもぐと咀嚼しながら思わず感想を漏らす。
小麦粉を練って発酵させたものを茹でてからこんがりと焼いたものが、このシクサである。むっちりとした食感と、甘辛く味付けされた鶏肉がたまらない。
ボリュームのあるそれをあっという間に食べ終えて、もう一つの包みを開ける。
ミグ=アヴェスタの伝統菓子ロカリカ。幼い頃からリゼットはこれが大好きだ。さくさくとした生地の中に、甘い蜂蜜が入っているもので、大人に隠れて沢山食べようとしては大目玉を食らったものだ。懐かしい思い出にリゼットは小さな笑いを漏らす。
甘いものを食べて、心なしか疲れが取れたような気がする。包みをトランクに仕舞った。まだ残っているが、それは後での楽しみにとっておこう。
立ち上がり、スカートについた草を払う。大きく伸びをしてからトランクを持って歩き出した。
長い丘を超えると、下には小さな村が見える。あれが目的地、ロレンシア村。これから彼女が一年間過ごす場所である。
跳ねるようなステップで、リゼットは坂を下りた。昼過ぎとあって、畑に人は見当たらない。どこの家の人もまだ休んでいる時間だろう。
キョロキョロと視線を彷徨わせながら歩いていく。向かう先は村の先にある森だ。その中に彼の家があるらしい。
きゃあきゃあと追いかけっこをしながら脇を通り過ぎていく子どもたちを見ながら、リゼットは歩き続ける。すると、突き当たりに鬱蒼とした森が広がっていた。
暗い森は立ち入り難い。まだ暑いくらいの日差しのはずなのに、葉や枝に阻まれてひんやりとしている。木の根に躓きながらも歩き続けると、急にぽっかりと開けた場所に出た。
赤い屋根の大きな屋敷。蔦が絡まっていてやたらと雰囲気がある。表にはきっちりとした文字で“注文承ります”と彫られた看板が置かれている。何やらお店のようだ。店の名前らしいものが書かれた看板もあるが、所々掠れていて読めない。
「ごめんください、リゼット・ラーングレイです」
ノックをしても返事がない。呼び鈴のようなものもないので扉に手をかけて引いてみる。すると、ギッと音を立てて不思議な匂いがふわりと香った。
薄暗い部屋の中には誰もいない。戸惑いながらも中へ滑り込むと、独特の香りがリゼットの体を包んだ。色んなものが混ざったような、兎に角不思議な匂いである。嗅ぎ慣れないが嫌悪感は湧かない。
「賢者様?……誰かいらっしゃいませんか?」
名前を呼んでみるが、狭い部屋はしんと静まり返っていた。トランクを置き、汗を拭いながらあたりを見回す。
干した薬草が、部屋の端から端まで渡された縄に結び付けられている。壁を取り囲むようにたくさんの棚が設えられ、カウンターの奥には沢山の本が乱雑に積まれていた。タイトルはどれも小難しい。
「ここ……薬問屋?」
匂いといい、天井にひしめき合う薬草といい、そんな気がした。リゼットはぽつりと呟き、部屋を彷徨く。ふと、端に置かれた丸テーブルの上に透き通るように綺麗なベルがあることに気がつく。半ば無意識に引き寄せられるようにして、ぼんやりと輝くような青いそれに触れようとしたその時____。
「ヴィスさーん!」
「わっ!?」
突然、入り口が勢い良く開いたかと思えば、一人の少年が飛び込んでくる。リゼットは両手を上げ、全身の毛を逆立てて飛び退った。
「あれ、アンタ誰?」
固まったリゼットを不思議そうに眺め、少年は聞く。
よほど大急ぎしたのか、前髪はすっかり上を向いている。よく日に焼けた小麦色の肌が健康的だ。
「あの、」
ふうふうと息をつきながら、リゼットは全身を撫でた。激しくなった心拍が落ち着く頃には逆立っていた毛も元どおりになる。
「ヴィスさん居ないのか?アンタ、どんくらいここで待ってたの?」
「ついさっき着いたんですけど」
「そっか、じゃあまだ呼び鈴も鳴らしてないよな。……ヴィスさあああん、俺だ、ソジュンだ、薬が欲しい!」
少年が徐にテーブルに乗っていたベルを手にしたかと思うと、振りながら奥へ向かって大声で呼びかけた。しゃらんしゃらんと耳触りの良い音色が部屋の中で響く。
「ソジュン、そんなに大きな声で叫ばなくても聞こえるよ」
すると、ガコンと音がして奥の壁が一斉に動き出した。人一人通れるくらいの穴ができると、頭をぼりぼり掻きながらひょろりと長い男が出てくる。
リゼットはあんぐり口を開けて男を凝視した。当の本人は此方に目もくれず、少年に近づく。
「それで、ご用は?」
「昨夜からハヨンが高熱を出してる。解熱剤と、痛み止めが欲しい」
「おれが診なくていいのか」
「ヴィスさんに頼るのは薬が効かなかった時だよ」
「じゃあ診なくていいな。効かない筈がない」
ふっと柔和な笑みを浮かべた男は、自分の背丈以上もある棚に向き合った。男らしくないすらりとした指は小さな傷や緑色、紫色の染みがついている。その指先で一つ一つ辿りながら、棚を開けては紙袋に詰めていく。
不思議な透しの入った紙は先程のベルと同じ模様をしている。この薬問屋の紋章なのかもしれない。
男とソジュンという少年がやり取りをするのを、リゼットは惚けて眺めていた。
「はい、締めて二千アドネ」
「にせ……っ!?」
男の提示した金額に、我に帰る。
二千アドネはぼったくりもいいところだ。下手をすれば六日分の食事ができる。薬は高いものだが、それでももっと安く手に入るはずだ。
思わず部外者のリゼットが吹き出すがそれを意に介さずに、少年は肩に下げていた鞄からじゃらじゃらと硬貨を取り出してカウンターに広げた。男は素早く金額を確かめるとずいっと薬の入った紙袋を渡す。
「アンタ、ヴィスさんの薬ならこんくらいの価値あるよ。……じゃ、あんがとね!」
鞄に薬を大事そうに仕舞い、ソジュンはそう言い残して店から飛び出した。ばたん、と勢いよくしまった扉を放心して見つめる。急いでいたからかもしれないが、嵐のような少年だった。
「まいど」
先程の爽やかな声色と異なる、低くて掠れた声。少女はギョッとして振り返る。
そこには先程の、優しげな面差しをした男は居なかった。
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