第2話 初恋の秋
自ら幽霊と名乗る少女に、夏樹は初めて出会った。
ひょっとしたら、それは冗談かもしれない。
だけど、夏樹はすんなりと彼女の言葉を信じる事が出来た。
いきなり沼に浮かんでいて、それでいてこの世のものとは思えない美しさ。
夏樹には、疑うという選択肢がなかった。
目の覚めるような蒼さに、少女の白い身体が水面から透けて見えた。
「私ね、10年ぶりにこの世に落ちてきたの」
少女は岸辺に腕をつき、胸から下は水に浸かっていた。
小さな丸いお尻が、水を滴らせながら時折ぷかぷか浮き上がってくる。
夏樹は、ゴクリと唾を呑んだ。
顔が火照っている感じがした。
水に浸かったままの少女は、夏樹の顔を上目遣いで眺めた。
「私、この沼から上がる事が出来ないんだ」
「どうして?」
「不完全だから」
夏樹は目を凝らした。
どこが不完全なのか、外見からは分からなかった。
「人間の体の6割が、水で出来ているのを知ってる?
私が死んで、身体が焼かれた時、私の中にあった水分は自然に還った」
夏樹は頷いた。
親戚の叔父さんの葬式で、叔父さんが煙になっていく所や、納骨に立ち会ったのは覚えている。
この女の子も、同じ事をしたのだと思った。
「ほら、地球の水は循環しているでしょ?
10年かけて少しずつ、私の魂は私の中にあった水分をかき集めたの。
そして昨日、秋雨になって降りてきた」
夏樹は、ポカーンと口を半開きにしていた。
よく分からないが、昨日雨が降り続けた事だけは確かだった。
「散らばった水分をかき集めるのって、結構大変な事なのよ。
だから10年に1度しか、この世に戻って来られないの」
「うわー!じゃあ、君って凄いんだ!」
夏樹に褒められると、少女は恥ずかしそうに目を逸らした。
「私ね、この世に降りてくるのは、いつもここって決めてるんだ。
1番好きな場所だったから」
「わー、僕もだよ!僕もこの沼が1番好きだ!」
「一緒だね」
少女は、ふわりと微笑んだ。
それだけで、夏樹は胸が締め付けられるような心地がした。
「ねぇ、幽霊も人間も関係ないよね?
君と友達になりたい!!」
夏樹はずっと込み上げていた思いを、ようやく言葉にする事が出来た。
少女は俯いた。
「でも、私なんかといても楽しくないよ?」
「うーうん、今お話してるだけで、すっごくワクワクするんだ。僕、夏樹!君の名前は?」
「紅音」
「あかね」
夏樹は、噛み締めるように復唱した。
「紅音は、いつまでここにいるの?」
「秋が終わるまで」
「そ、そんなぁ」
あまりにも短すぎる。
夏樹は素直にショックだった。
「それにね、私は6割しか体にあったものを取り戻していない。
とても脆いから、陸地に上がったら崩れちゃうの。
あなたみたいに自由に遊べないのよ?」
ほんとに人魚みたいだな・・・・・・。
と、夏樹は思った。
「だからさっき言ったじゃない。
私なんかといても、楽しくないって」
紅音は、悲しそうな目で静かに言った。
「うーうん、そんな事ない。
僕だって、この場所が好きなんだ。
君とこの青沼があれば、僕は・・・・・・
こんなに素敵な事ないってくらい、満ち足りてるよ!
もしも紅音が欲しい物があれば、僕が取ってくる。見たい場所があったら、僕が代わりに行って見てきてあげる」
紅音はゆっくりと目を見開き、心底驚いたような顔をした。
それからというもの、夏樹と紅音は毎日一緒に遊んだ。
青沼に、真っ赤な紅葉を浮かべてみたり、
紅音の好きだった金平糖を、夏樹が持ってきて2人で分け合ったり、
夏樹が連れてきた野良猫とじゃれたり、
野草で船を作って競走したり、
2人で交互に思いついた言葉を言い合って、
へんてこな物語を作ったりもした。
「いつも秋になる頃に降りてくるの?」
「そう。私は秋に生まれて、秋に死んだから」
「そっかぁ」
「夏樹は、夏に生まれたから夏樹?」
「うん! 僕、いつも夏休みが終わるの嫌だなーって思ってたけど、今年は紅音がいるから。秋が好きになっちゃった」
夏樹がそう言うと、2人は笑いあった。
そんな風にして過ごす秋は、あっという間だった。
10月の終わり、夏樹は紅音と最後の時を過ごした。
夏樹は寂しくて仕方なくて、ほとんど何も話せなかった。
紅音がいなくなってしまうなんて、嘘だと思いたかった。
真っ赤な夕暮れのなか、青沼に背を向けた夏樹に、紅音は声をかけた。
「十年後、また逢いに来てね」
夏樹は涙をボロボロ零す顔を見られたくなくて、振り返らずに頷いた。
それっきり、青沼に紅音は現れなかった。
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