3-4 いちいち常識を説いてくれる人はなかなかいない。

 とりあえず事件の起こった時の詳しい事情を聞こうとしたら、


「君、客人になにか出すぐらいの社会性はないのかね?」


 と言われたので、コンビニに猫缶を買いに行くことにした。


 ただ、ひとつだけ僕の名誉を弁護させてほしい。


 この事務所、そもそも客人を座らせる椅子さえなかった。

 そこに来客用パイプ椅子という文明をもたらしたのは僕の功績だ。


 この事務所の文化はそこまでで止まっていて、お茶だとか茶菓子だとかいう文化ツリーはまだ育っていない。育てるべき事務所の主が育成をさぼっているからだ。


 というか魔女はマジでどこに消えたのか?


 あの魔女は思いつきでふらりといなくなるのだけれど、せめてこう、猫用のおもてなし缶詰でも買って帰ってくれば僕からの評価がある程度のところで下げ止まる。

 だが、マジで帰ってこない上に、帰ってきてもそういう配慮は絶対にないだろうことがありありとわかってしまう。


 猫は言いたい放題だが、猫に言われる側にも問題があるということだ。


 さて、コンビニを訪れた僕は、まず、昼食をとっていないことを思い出した。


 購入経験がないためどこに置いてあるかわからない猫缶を探すかたわら、自分の昼食も見繕う。

 ついでに牛乳でも買って帰ろうかと思ったが、猫に冷たい牛乳はよくないという話をどこかで聞いた気がして、やめた。

 代わりに紙皿を買って水でも出すことにした。


 そのように買い物をしてコンビニを出ようとした僕は、自動ドアの向こうに魔女の姿を発見する。


 僕が視線をやると、魔女もこちらに気付いたように視線を向けて、なにをするでもなく、いつものニヤニヤ笑いのまま、その場に突っ立っていた。


 みょうにムカつく。


 自動ドアが開くのももどかしく感じながら、このドアが開いたら可能な限りの速度で魔女に詰め寄ってやろうと決意する。


 一秒もせずに開く、ガラス製の自動ドア。

 しかし、開いたドアの向こうの魔女の姿が消えた。


 どこに逃げたのかと思って探せば、細い路地のところから半身だけ出して、こちらを手招きしていた。


 ほとんど走るような早歩きでそちらへ向かう。


 と、魔女は路地の中に立って、いつものように笑っていた。


「やあ、依頼者とは会えたかな?」


 虹色の瞳がこちらを捉えている。

 その声のどこまでも楽しそうな感じは、みょうに僕の心を逆撫でした。


 ……今日の僕は、朝から少しおかしい。


 この魔女の言動に苛立つのはいつものことだが……

 いつも以上に、魔女の一挙手一投足が気に食わないように思える。


 たぶん、原因はこちら側にある。

 朝から遠出していたのが、よほど心身に堪えているのかもしれない。


 自分の気持ちがおかしいと感じたので、深呼吸をして、いったん落ち着ける。


「……依頼者には会えましたよ。本当に猫だったんですね」


「私が君に嘘をついたことなんか、今までにあったかい?」


「ありませんけど、あなたの存在が嘘くさいもので」


「ひどいなあ、君は!」


 魔女は楽しそうだった。


 僕は、つまらなさそうに言った。


「今回の依頼、お金になりませんよね?」


「まあ猫だしね」


 それがなにか問題でも? という様子だった。

 いや、大問題だろう……


「あの、あなたは探偵業を糊口ここうをしのぐ手段としてやっているものだと思っていたんですが……お金にならない依頼を受けたところで、お金にはならないんですよ」


「そりゃあわかるけどさあ」


「困っている人を放っておけない、とでも言うつもりですか?」


「猫は人じゃないよ」


「人と呼称するに問題がないらしいですよ。猫のお墨付きです」


「いいや、猫は人じゃあないんだよ」


 そこは絶対に外せない、とばかりの態度だ。

 顔には相変わらずニヤニヤ笑いが貼りついているのだが、声だけは断固とした調子なもので、表情と声音の乖離かいりがひどい。


 魔女は仕方なさそうに肩をすくめて、


「だいたいさあ、君、本気で猫が依頼してきたと思っているのかい?」


「……どういうことですか? 猫の依頼に黒幕がいるとでも?」


「いやいや。猫はしゃべらないんだよ」


「…………」


「しゃべらない動物が探偵に依頼とか、あるわけがないだろう?」


 いや。

 まあ。

 それは。

 そうなんだろうけれど。


 急にまともなことを言われると、こちらがフリーズしてしまう。

 ドラゴンに『ドラゴンなんかいるわけないじゃん』と言われたかのような、なんとも飲み込み難い大きさの拒絶感があった。


「……というか、猫の依頼だって言ったのは、あなたじゃないですか。そして僕は部屋に戻って、そこには猫がお越しで、今はその猫をもてなすための猫缶を購入したところなんですよ。猫直々じきじきの要求で」


「そりゃあ我々には想像力があるからね。猫を見て、『そんなような要求をしている気がする』というのを想像することぐらいはできるだろう。お腹が空いているとか、機嫌が悪いとかね。連中のしっぽは雄弁だから。豊かな想像力を持つ者であれば、しゃべっている言葉まで捏造ねつぞうしてしまうかもしれない」


「猫の発言が僕の捏造だとでも?」


「猫と会話できたら、まず疑うべきは自分の正気だろう?」


「じゃあ殺人猫の捜索依頼について、どう説明するんですか。そんな要求、しっぽの振り方じゃあわかりませんよ。だいたい……だいたい、スルーしないでください。最初に猫からの依頼だと僕に告げたのは、あなただ」


「魔女が正気だと思うなんて、君もこっち・・・になじんできたね」


「わからない。あなたはなにが言いたいんですか? 思わせぶりに話を引き伸ばすのはよしてください。依頼者がお待ちかねなんですから」


「いやあ、君が目的を見失ってそうだと思ってね。ちょっと正気度のチェックをしてあげたのさ」


「目的?」


「君が引き受けたのは、猫の捜索だよ」


 魔女は、そう断言した。


 そして、


「殺人事件は、どうでもいい」


「……」


「思わせぶりなのは、私ではなくて、君のほうだ。あるいは、猫のほうかな? 君がやるべきは猫から殺人の様子をつまびらかに聞き出すことではなくって、その足を使って猫を捜すことだ。うちの事務所に人死にの事件が引き寄せられるのではなくって、君が関係ない事件に人の死を絡ませようとしているだけだ」


 ……かつて交わした血の魔法はいまだ健在らしく、魔女は見聞きしていないはずの僕のことを知り、可視化できないはずの僕の考えまでを読み解いていた。


 なにもかも、魔女の言う通りだった。


 殺人事件はどうでもいい。

 いや、そもそも、それは、僕と関係のない場所で起こった事故――事件ではなく、事故にしかすぎない。


 猫の申告を信じて『実はあれは、猫が起こした殺人なんだ』と思うというのは、なるほど、ちょっと自分を外から客観視すれば、まったく正気には見えない。


 猫の判断より、警察の判断が正しいに決まっている。


 探偵ものの物語ではしばしば無能のそしりを受ける警察ではあるが、現実の警察は優秀だ。

 少なくとも自分がもし殺人を――被害者の死を誰からも観測できて、完璧なアリバイなどない状態で殺人を犯したならば、どのようにしたって逃げ切れるヴィジョンが浮かばない。


 警察が事故と判断したなら、事故なのだろう。


 新しい情報が出て判断が覆る可能性は皆無とは言えなかろうが、それを僕が警察よりも早く解き明かす可能性は、猫が人の転落死をもくろみ、それを成功させる可能性と同じぐらいと言える。


 その判断こそが、正気だ。


 そして僕は自分を狂気に陥っているとまでは思わない。


 狂態をさらすのは一種の才能で、僕にはそこまでの才覚がない。

 そしてもう、狂態をさらす必要性も、今の僕にはない。


 だから僕は、


「でも、殺人事件を解き明かすことが、猫の行方を知る上で重要な手掛かりになるかもしれないじゃないですか」


 朝から感じている、魔女に対するみょうな不快感を吐き出すように、反論した。


 魔女は変わらず笑って、虹色の瞳で僕を見たまま、


「君は、猫がその野生によって気まぐれに行方をくらましたのではなく、殺人事件を起こし、その罪の意識、あるいは罪からの逃亡の結果として行方をくらましたのだと、そう考えるわけだ。猫がそんな人間的な事情で行方をくらましたと。動機を紐解けば猫の行動がわかるのだと!」


「……いけませんか?」


「いいやあ? 私が君に『否』を突きつけたことが、今までに一度でもあったかい? 私は君を肯定するよ。それが私の役割だもの」


「……」


「だから私は、君が今にも崖の下に突き落とそうとしている『常識』というやつの命乞いを代弁するだけさ。『常識』は、五指を崖のふちに引っ掛けて、どうにか落下をまぬがれている状態だ。その指を一本一本はがしていこうか」


 魔女は僕の目の前に手をかざすと、その指を奇妙にたわめて、


「小指。猫が人間のように思考するか?」


 どうやら僕の回答を待っているようだ。

 僕は意地になっていることを自分でも理解しつつ、


「そういうことだって、ありえると思います」


 と述べる。


 すると魔女は、たわめていた小指を伸ばした。

 続けて、


「薬指。猫が人間の定めた罪から逃れるなんていう行動をとるか?」


「猫の世界にも、罪はあります。罪から逃亡するのは、生き物として不自然ではありません」


 魔女はたわめていた薬指を伸ばし、


「中指。そもそも、物理的に、猫は人間を落下死させられるのか?」


「不可能ではありません」


「人差し指。大前提。猫はしゃべるのか」


「魔女がいるんだ。しゃべる猫がいたって不思議じゃない」


「親指」


 そこ以外の指はすでにまっすぐに伸ばされ、『常識』というやつを崖下に突き落とすのは、残った最後の一本を引き剥がせばいいだけとなっていた。


 他の指に比べて太く強いその指を、魔女はことさら僕の眼前に突き出して、


「猫も人のように思考し、猫も罪から逃れようと行動し、猫にも人を突き落とすことは可能で、猫はしゃべるとしよう」


「……はい」


「なるほど、殺人事件は実際にあり、その事件の解明こそが、猫の行方を判明させる上で最重要だと君は考えている」


「そうです」


「では、親指はこういう力で崖に食い込んでいる。『君に、この依頼をそんなに一生懸命にこなす動機はあるのか?』」


「……」


「高層マンションで起こった落下事故だ。現場はおそらくオートロックで、たぶん警備員が常駐し、監視カメラなんかもあるだろうね。調査のために入るのも難しく、伝聞ではネットニュース以上のことはわからないだろう。そういった障害を乗り越えて事件解決を目指すほどの動機が、君にあるのか? 警察であれば令状なり捜査権なりを駆使してできることを、民間の探偵がやろうとすれば、住居不法侵入などの違法行為になる」


「……」


「君、猫への無償奉仕に社会的生命を懸けるのかい?」


 …………親指が、あまりにも固く、崖のふちに食い込んでいる。


 魔女へのくだらない反発、ここまで『常識』を殺そうとしていた意地。そんなもので捨て去るには、あまりにも大きなものが、そこにはあった。


 ここで降参したくないという思いはある。


 けれど。


 ここで意地と反発心で突き進めるほど狂っていたなら、僕はおそらく、今の立ち位置にいないだろう。


「いや、そもそもね?」魔女は困ったように笑って、「君、助手じゃん」


「……はあ、まあ、そうですけど……?」


「探偵業にかんして、君が主導的立場をとることはないんだよ」


「……」


「君のお姉さんはたしかにいなくなってしまったけれど、君は別に、それをきっかけになんでもかんでも自分の力と意思でやっていく必要はないわけだ。探偵の仕事中ぐらい、私に委ねたっていいじゃないか」


「いや、あの、そうするには、あなたはあまりにも頼りないんですが」


「育てれば強くなるよ」


「スマホゲーの低レアキャラみたいですね……」


「まあ、私は貧相な力で生じたあやふやな魔女だからね。それでも猫探しぐらいは、やってみせようじゃないか」


「……どのぐらい待てば、あなたを信じるに足る結果が出ますか?」


 その問いかけに魔女はちょっと悩むそぶりを見せたあと、僕がわに突き出した手を見てから、


「五日で」


 魔女は笑いながら最後に崖のふちに引っかかっていた親指を伸ばした。


『常識』が落下していく悲鳴が聞こえた気がした。

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