3-2 猫の行方は猫にもわからない。
事務所のドアを開けて中に入り、細くて短い廊下を進んで受付スペースに入る。
すると一月の容赦のない寒風が顔へと吹き付けてきて、思わず目を閉じた。
……ベランダの窓が開いている。
どうやらそこからお越しになったらしい依頼人は、テーブルの上にまるまったまま、ひょいと首を上げて僕の姿を一瞥した。
容赦なく猫だった。
真っ黒でつやめいた毛並みの猫だ。
黄金の瞳が印象的なそいつは、長い尻尾を不機嫌そうに左右に揺らしながら、
「君」
……少年にも聞こえる高さの声で、はっきりと、僕に呼びかけた。
「君は人間というものをなんだと思っているのかね?」
「……え?」
いきなり哲学的、というのか、生物学的、というのか、答えに窮する質問をされて、こちらとしては言葉に詰まるしかなかった。
猫はずりずりとしっぽをテーブルの上でワイパーのように動かしながら、
「いいかね人間。君たちには義務がある。それは、その便利な二本の前脚を用いて我らに奉仕すること――その内容はといえば、天候を管理すること。我らの前脚で作業するに及ばぬ作業を肩代わりすること。そしてなにより、ドアや窓の開閉だ」
「ええと……」
「我々の幸福で健康的な生活は、奉仕種族たる人間諸君の責務だろう? それを投げ出し、あまつさえ上位種たる私をこのような冷えた部屋で待たせるというのは、少々ばかり人間の自覚に欠けているものと思わないかね?」
部屋の中をぐるりと見回す。
魔女はいなかった。
……ああうん、なんていうか、そういう存在だ。
もうすぐ依頼人が来ると言っておきながら、思いつきでふらりといなくなる。
冷静になってくると猫に好き放題言われていることに苛立ちもあったが、苛立ちを上回るおかしさがあった。
猫がしゃべっている。
僕は僕の頭のおかしさを『魔女を頼ったことがある』という時点である程度までは認めているものだから、今さら『猫がしゃべっている』と認識してしまったところで、『まあ、魔女がいるぐらいだしな』と受け入れることができた。
なんて言えばいいのか、みょうな『慣れ』ができてしまったのだ。
ともあれ、猫は――彼女は依頼人だ。
僕はこの事務所で探偵助手をしているのだから、相手が子供でも猫でも、礼節を尽くすべき立場にいるだろう。
「申し訳ありません。窓を閉めて暖房を入れます」
「言われる前にやりたまえよ。だが、まあ、こちらも依頼をしようという立場だ。多少は忍耐しようか。君ね、猫が人間のために忍耐するというのが、いかに貴重でいかに尊いことなのか、きちんと理解したまえよ」
「ありがとうございます」
と、僕は窓側に行くために四つん這いになりながら述べた。
この部屋はテーブルが横切っており、向こう側にある窓のもとへ行きたいならばテーブルの上を越えるか下をくぐるかしないといけない。
組み立て式のテーブルを寸法も見ずに買ってしまったツケを住人は延々支払わされているということだ。
だから僕が猫の乗るテーブルの前で四つん這いになったのは必然で。
その僕の背中に、当然のごとく猫は飛び降りてきた。
「ぐえっ⁉︎」
「殊勝だね。それでいいのだよ。この部屋はどこもかしこも足場が冷たい。そこを察して自ら
「いや、あの、乗られると立てない……立てないと窓を閉めることも、暖房を入れることもできないんですけど」
「そこは君がなんとか方策を考えたまえ。君ね、猫の額を見たことがないのか? 君らよりだいぶ小さいが、それでもこれほどの知能があるのだよ。ならばもっと頭の大きな人間が、その容積に見合うであろう大きな脳みそを活かそうとしないその生き方は、怠慢だとは思わんかね?」
猫、言いたい放題。
僕はちょっとだけ猫と戦闘になった時に勝てるかどうかを考えた。
しかし障害物の多い室内で猫に勝てるヴィジョンがまったく浮かばなかったため、一瞬だけ脳裏によぎった暴力的な選択肢を消した。
ずりずりとテーブルの下をくぐり、背中の猫を落とさないように片手で背負いながら立ち上がり、窓を閉めて暖房をつけた。
というかなぜ毎回、あの魔女は依頼人が来た時に席を外しているのか……
巡り合わせというものを神様が担っているのなら、あえてその加護を外されているということは、ありえそうに思えた。
魔女、神様の対立存在っぽいし。
「ええと、それで、猫探しということですが」
猫は暖房がつくとその温風をもっとも受けられる位置に移動した。
僕はテーブルに乗ったそいつと視線の高さを合わせるように膝をかがめて問いかける。
「探し猫の特徴など、うかがってもよろしいでしょうか?」
「君には昨日もすべて話したと思うのだがね」
「ああ、その、昨日、お話をうかがったのは、この事務所の所長です。僕は従業員なんですよ。つまり、別人です」
「……ふむ? まあ、私とて人間の見た目についてさほどの観察眼を持っているわけでもない。君と同じような大きさの別人だった可能性までは否定しないよ」
「ありがとうございます」
僕はなぜお礼を述べているのだろう……
だんだん猫のペースにはまっている気がする。
「ともあれ、探してほしいのは我が友人だ。正しくは、友人の友人、というところかな」
「見た目の特徴などは」
「青みがかった灰色の毛と、同じような色の瞳が特徴的だね。ああ、しっぽは長いよ。奉仕のために専業の人間を雇っているので、首輪をつけている」
つまり飼い猫だということだろう。
飼い主、奉仕のための専業の人間扱いされている。
「……えーっと、その専業の人間さんにもお話をうかがった方がよさそうですね」
猫よりは話が通じるだろう。
そして。
そして、これが重要なのだが……
猫、たぶんお金を持っていない。
魔女はマニュアルにあったことを話したと述べた。
そのマニュアルは僕が作成したもので、それには色々と『依頼人がもしも来たら話しておくべきこと』などが載っており、当然ながら料金形態の説明についても載っている。
だが。
魔女は『話した』と述べただけで、『承諾された』とは述べていない。
普通『依頼料について話しました?』『話したよ』というやりとりがあり、前提として依頼を受諾しているという情報があれば、それは『依頼料の支払いを相手が承諾した』と読み取れる。
だが、魔女に『普通』を期待してはいけない。
その期待を抱くのは、魔女と付き合う者としては怠慢と言わざるを得ない。
しかも、依頼者は猫だ。
ほとんど確実に、この依頼には料金が発生しない。
ならば人間の方に猫探しを持ちかけて依頼にしてしまおうというのは、僕なりの知恵だった。
僕は魔女を信頼していないし、好んでいるとも言えないが……
魔女には恩がある。
このまま業績不振で朽ち果ててしまえとは、思わない。むしろ、きちんとした依頼ならどんどん受けて、社会性と実績を積み上げてほしいとさえ思っている。
だが。
「さっそく、その大きな頭蓋骨の中身がちゃんと詰まっていることを証明できたではないか。しかしだね、その知恵は、知識の不足によっていかんともしがたく、活かされる機会を逸してしまっている」
「ええと、つまり、なんです?」
「君が事情聴取を目論んだ人間から話を聞くことは不可能なのだよ」
猫はしっぽでペシンとテーブルを叩き、
「なぜなら、その人間は死んでいて、我が友が最大の容疑者なのだから」
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