三章 猫の殺人は誰にも検挙できない。
3-1 『まとも』という言葉の意味は人によって異なる。
『まともな依頼が来たよ!』
雇い主である探偵からこんな電話が来ても、僕は素直に喜べなかった。
なにせ『魔女の探偵事務所』だ。
そんな看板を堂々と掲げるあの人のセンスはズレているし、常識は知らないし、社会通念は理解できていない。
そんな感性の人の語る『まともな依頼』など額面通りに信じられるわけがなく、僕は探偵事務所への道を重苦しい気分で歩きながら、ついつい述べてしまう。
「まともかどうかの判断は僕に一任してもらってもいいですか?」
『信用ないな、私!』
電話の向こうで魔女はおどろいたようだった。
信用があると魔女が思っていたことに、思わずこちらがおどろきそうになりながら、探偵事務所に着くまでの所要時間を計算する。
現在は駅を出たばかりだ。
一月の人混みはみな一様に分厚い上着をまとっていた。
道ゆく人々はどこか体を固くしているような感じがして、足音は苛立ったように硬質な感じがする。
僕はこのあとファストフード店でお昼でも買っていこうかというところで、それをふまえると探偵事務所への到着には多めに見積もって三十分ほどの時間がかかるだろう。
電話で軽く話を聞いておく時間はありそうだ。
「まあ、信用については別途ご相談させていただくとしましょう。十二月ぶんの僕の給料が振り込まれてからね」
『いや、それは、まあ、そのー……はい。詳しい事情をご説明します』
どちらが『主』でどちらが『従』かわかったものじゃないな、と思った。
どうにも今日の僕は言い方がとげとげしいようだった。
これは魔女という存在のうさんくささに対する不満が言葉の端々ににじんでしまった――というだけではない。
……朝から所用で母方の実家へ顔を出していたせいで、疲れているのかもしれない。
反省して、眉間を揉みほぐして、店の外まで伸びるハンバーガー屋の列に並んで。
極めて穏やかなふうを心がけて、問いかける。
「まあ、そんなに萎縮しないでくださいよ。『まともな依頼』が本当にまともなら、喜ばしいと僕も思っています。なにせ『魔女の探偵事務所』なんていうものに手を出すほどの人は、たいてい、値段に釣られた軽い気持ちの人か、響きに釣られたどうしようもない状況の人なんですから」
『うう……トゲがある……でもね、今回の依頼は、百人が聞けば百人が間違いなく太鼓判を押すぐらいに、普通の、まともな依頼なのです! なんと……猫探し!』
「おお……」
思わず感嘆の息がこぼれる。
まともだ。
健全に探偵らしい。
おどろきのあまり行動を停止してしまった僕は、背後の人の『おい、列が進んだぞ。さっさと進め』という圧力に押されて慌てて前進してから、
「それで、魔女の探偵事務所に猫探しを依頼してくださったお客様は、どんなお方だったんですか?」
『昨日の夜に来たんだけどね。ずいぶんな美女だったよ』
夜に『魔女の探偵事務所』を訪れる美女。
なんだろう、それだけでとてもとても嫌な組み合わせに感じる。……昨日の夜なら僕も家にいたし、見に行けばよかったなとなんとなく思った。
「美女であることが印象に残っているのは察せられましたけど、僕が聞きたいのは、容姿というよりはその、立場というか……事情というか。もっと捜査に関係ありそうな情報をお願いします」
『うん。お友達の猫が唐突に姿を消してしまってね。それで探してもらえないかという話だったんだけれど――まあ、これは、あくまでも私が簡単にまとめたらこうなったというような感じで、本人の口調はもうちょっと婉曲というか、ひねくれていたというか、そういう感じかな。会話には少しコツがいると思う』
変人度は許容範囲だ。
そういう普通の範囲で変な人ならいっこうに構わない。
なんだか妙に楽しくなってきた。
事務所で待つ魔女にもお土産を買って行こうかなという気分にさえなってくる。
あの人、放っておくとコーヒー牛乳と菓子パンかプリンしか口にしないから。
「それで、依頼料についての説明などはしましたか?」
『したよ! ちゃんとマニュアル通りにやったとも! ねぇ君、私のことを留守番もできない子供だと思ってないかな⁉︎』
「気に障ったなら謝罪します。いや、それにしても、すみません。まさか猫探しなんていうまともな依頼が来るだなんて思っていなかったもので……その依頼、先生の妄想というオチはないですよね?」
『ないよ! でも疑うだろうなあと思って、今日、君に依頼者を引き合わせるために、また来てもらうことにしてるんだ。そろそろ来ると思うよ』
「それは是非とも昨日のうちか、朝一番に言ってほしかったですね……」
食事を求める人たちの列の進みは微妙なところだ。
自分が注文するまでにあと五分、注文の品を待つうちにあと五分というところか。
「……わかりました。急いで向かいます」
昼食を求める人たちの列から抜けて、店を出る。
多少の未練はあったが、僕はいちおう探偵事務所の所員ということになっている。お客様をお待たせするのも、悪いだろう。
ほとんど駆けるような早歩きをしながら通話を続ける。
「もし、僕が到着する前にいらっしゃったら、依頼人には少々お待ちいただけるように伝えてくださいますか?」
『いやあ、どうだろう。伝えたところ聞くかなあ? 猫だし』
「そこをなんとか――猫?」
セリフの中にありえないノイズがまざったかのような感覚。
きっと言い間違いだろう、とか。
おそらく比喩表現だろう、とか。
そういう『まともな解釈』を脳みそががんばって捻り出そうとしている時点で、『もうダメだ』と確信した。
でも、一応、最後の望みを込めて、聞いた。
「依頼人は人間ですよね?」
すると魔女はこともなげに、どこかきょとんとした声音で応じる。
『ううん。猫だよ。黒猫』
だから魔女探偵は信用ならない。
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