Monstess
伊島糸雨
Monstress
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
喪う人々は、幸いである、その人たちは救われる。
* *
彼女と過ごしたたくさんの時間。彼女と交わしたたくさんの言葉。互いの秘密を明かし合ったたくさんの夜。つないだ手の温もりと、双眸の内にきらめく色彩を、わたしは覚えている。
彼女との記憶は、ビデオカメラで撮った映像みたいに主観と客観の間を揺蕩って、わたしはじっとそれを眺めている。本を読んでいる時の真剣な眼差しと横顔も、可愛らしい服を着たマネキンを見てわたしに微笑みかける彼女の仕草も、すべてが早送りで流れていく。断片をかき集めて離すまいと胸に抱いても、少しずつ少しずつ、確かな感覚をもってわたしは喪失していく。記憶も愛もなにもかもは砂粒でしかなく、わたしはその容れ物を失くしたのだと知っている。繰り返してきたことの証として、わたしは知っている。
涙は止め処なく、頬を伝って地面に落ちる。わたしは目を瞬かせることなく、ただ一点を、凝視している。
斜陽が差し込むコンクリートの廃墟で、それは蠢いている。歪な巨体を揺すり、その影で多くを覆いながら、それはわたしを見つめている。
わたしは見つめている。
心から愛した人が、怪物に貪り食われていく様を。全身を自らの血液で赤く染め上げ、地面の灰色を斑らに汚しながら、痙攣する身体を揺らしているその惨状を。
わたしは覚えている。その異形を前にした彼女の顔、恐怖の表情、混乱に歪んだ瞳、引きつった頬、喉から出る掠れた音。数秒の硬直の後に助けを求めるようにわたしに手を伸ばし、何かを懇願した直後に彼女の頭は鋸状の歯が並ぶ口に挟まれ、いやだいやだたすけてと駄々をこねて叫びかけたところでミシミシミシと頭蓋が軋み顔が歪んで、奇妙な声でなきながら潰れていったのを、わたしは覚えている。
そして今、彼女の身体は震えている。彼女の魂を食ったそいつは、わたしたちが一緒に選んで、彼女が今日のためにおめかししてきた服を意に介することなく、腕に噛みつき咀嚼する。蟷螂のような腕で肉を固定し腹に歯を立てて、その柔らかな皮膚を突き破り、湧き出る血液とともに内臓を啜る。この手で触れて愛撫したあの滑らかな腹に秘されていたものが、わたしの目に触れていた。彼女の胃も膵臓も肝臓も小腸も大腸も心臓に至るまでもが、艶めかしい光をもってこぼれ出る。彼女、彼女だったもの、愛した人の肉であり臓器であり、喪われるもの。あの愛らしい装いも、もはや意味を失って赤く沈んでしまった。
ただ喪失だけがそこにあった。
けれど、わたしにあったのは、悲しみだけではないのだった。
わたしは、心から愛した人の魂の残骸が消えていくのを眺めている。悲しみと、涙と、胸の苦しさと……おそらくは陶酔と呼ばれる類のものと。
わたしは、彼女の血に酔っている。血管の束からごぽりごぽりと液体がせり上がり、腹腔を満たしていく音に、その真新しい死の臭いに。茜色に染め上げられた粘膜の色に、ぷりぷりとしたその柔らかさに。わたしはきっと、酔っているのだろう。
彼女と過ごした半年間は、なにものにも代え難い美しさがあったと確信している。互いの愛を囁き合うことの甘さを、愛というものの真実を、わたしは尊いものとして大切にしていた。彼女という一人の人間を、わたしは愛していた。ただそれは、喪うための愛だったけれど。
喪失に伴う悲しみは、わたしにとっての救いだ。あの痛み、苦しみがもたらす潤いを、わたしは愛している。誰かを愛し、誰かから愛されて、そしてそれが劇的に喪われている様をわたしは愛している。わたしからこぼれ落ちていくものをわたしが掬えない事実に救われている。眼前で巻き起こるカタルシスによって、わたしという存在は浄化されていく。心地良い諦観に、身を任せている。
化け物、怪物、異形、人外。わたしを満たしてくれるモンストレス。彼女は孤独であって、わたしが覚えた彼女への共感こそが、すべての始まり、すべての間違いの根源だったと理解している。
姿形は違えども、彼女はわたしにとってかけがえのない友達だった。何をするでもなくわたしたちは同じ時間を同じ場所で過ごし、彼女は何も言わず、わたしも何も言わなかった。わたしたちは互いの孤独を分け合って、それで穏やかに、静かな微睡みの中にいたのだと思う。彼女はきっとそれだけでよかったのだ。
それが、よかったのだ。
わたしはそれを、過ちと罪だと記述するだろう。彼女の存在を明かしたことを、愛する人に理解を求めたことを。
きっと理解してくれる、それだけのことをわたしたちは話してきたはずだと、そう信じていた。
わたしの想像は概ねその通りになった。彼女は受け入れられた。そして彼女は、わたしが心から愛した人を受け入れた。
口の中で大好きだった愛していたあの人は原型を失い拡散して、魂は消え失せた。わたしは何もできなかった。ただ失われていく様を無力に眺めていただけだった。あの人だったものがわたしの足元に転がってきて、わたしは揺れる視界で身体の震えを知った。あの化け物の視線を受けながら、わたしはあの人だったものを抱いて涙して、その中で自分がとりこぼしていく砂粒が、夕焼けに美しく輝いていることを知ってしまった。美しいものは、容器の中で愛でていても、ガラスを叩き割って散りゆくのを見ていても、ただそれだけで美しくあれるのだと知ってしまった。
わたしの友達。大きくて、醜くて、寂しいわたしのモンストレス。
あなたがどうしてここにいるのか、わたしにはわからない。あなたがどうしてわたしを食べないのか、わたしにはわからない。けれど同時に、あなたはどうしてわたしがあなたといるのかわからないでしょう。どうしてわたしがあなたの元へ人間を連れてきて、涙を流すことを繰り返すのかもわからないでしょう。もしかしたら、涙というものも、わたしがどんな分類の生き物なのかもわかっていないのかもしれない。
だって、わたしはあなたがいったい何なのか、まるでわからないのだから。
わたしは彼女に歩み寄って、たくさんの体液にまみれたその頬に口づけをする。愛した人の味、わたしが愛したこの吐き気。彼女の内にあったこの耐え難い悪臭を、わたしは愛していた。臓物と人間性の、この臭いを。
もう二度と彼女は笑わない。なぜなら、その顔が張り付いていた頭部は脳漿とともに溶けてしまったから。
もう二度と、彼女がわたしに触れることはない。なぜなら、その繊細な指先は神経の伝達を絶ってしまったから。
頭と思しき場所を、滑る手のまま撫でさする。彼女は目のようなものを細めて、愛らしく、わたしに頬を寄せる。ねぇ、とわたしは呟いてみる。彼女にはきっとわからないだろうけれど、わたしはそっと問いかける。
こんな喪失を繰り返して脳みそを震わせるわたしを、あなたは愛してくれるだろうか。その顎で、わたしの魂を砕いてくれるだろうか。
彼女は答えることなく、わたしは沈黙する。
こんなことは、永遠には続かないだろう。いずれ来る終わりを、わたしは見つめている。だからいつか、どうかお願い。わたしが救済の手を待てなくなった時には、どうかお願いだから、わたしを、喪わせて欲しいの。
わたしはわたしを喪失していくのを、いつものように、悲しみと、涙と、胸の苦しさと、そして陶酔をもって眺めるに違いないのだから。
だからこそ、わたしの生は、喪失のためにある。
醜悪で可哀想で愛おしい、わたしというモンストレスのために。
Monstess 伊島糸雨 @shiu_itoh
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます