Scarlet

伊島糸雨

Scarlet


 放課後、真夜中の教室で、その真白い肌が蛍光灯に照らされているのを、私は見つめている。

 彼女は椅子を私の方に向けて座りながら、私の机に頬杖をついて、グラウンドを駆ける運動部員たちをガラス越しに眺めている。時折「あー」とか「おー」とか呟くのは、何を見ての反応だろう。サッカー部だろうか、野球部だろうか。私は手元で記入されているのを待っている空欄を放置して、彼女の横顔と、艶やかな黒髪の合間に覗く素肌を盗み見ている。

 教室に私たち以外の影はなく、彼女の発するささやかな声以外に、はっきりとした音は存在しなかった。他にあるとすれば、たまの衣摺れと、紙の擦れる音くらい。

「あのさ」

 不意の言葉に身体が揺れる。慌てて視線を下ろして、見ていたことがバレてはいまいかと焦りを募らせる。居残りと憂鬱の根源であるプリントを凝視して、誤魔化せていることを願う。

 シャーペンの芯を白紙に軽く打ち付けて悩むふりをしながら、「うん」と聞いているサインを返す。彼女はすぐさま、続きの言葉を口にした。

「人間はいいよね」

 顔を上げると、彼女はこちらを見てなどいなかった。焦点は遠く、ガラスに映る私たちもグラウンドも透過して、ここではないどこかを見つめている。

 これまでも何度か、そんなことを言うときがあった。なんてことない日に、ぼんやりとしていたと思ったら突然言い出すから、私はいつもびっくりする。

 どうして、と質問するまでもなく、彼女はゆったりとした調子で、そのわけを口にする。

「普通の食事だけで済むし、居住地広いし、たくさん選択肢あるし。昼間でも目痛くなんないし、肌もみんな弱いわけじゃないんでしょ? なんか、自由って感じ」

 はぁ、とため息をついて、その薄い唇を尖らせる。私は「そうかな」と言って、外を見るふりをしながら、ガラスに反射する彼女の顔を見る。私は、あんまりそんな風には思わないけれど。

 でも、人間だったらこんな気持ちにはならないのかも、とは思わないでもない。見た目は似ていても、私たちは決定的に生き方の差異がある。

「で、それはいつ終わるのかな」

 トントン、と机を叩かれて、現実に引き戻される。彼女を見ると、ちょっと呆れたような表情で、真っ新な進路希望調査票に目を落としていた。

「まだ何も書いてないみたいだけど」

「あ、えっと……もうすぐ、終わるよ」

 その場しのぎで言ってはみたものの、私の頭は焦るとてんでダメで、なんだかぐるぐるして、まとまらない。私が終わるのを待ってくれている彼女の存在も、それを助長する。一緒に帰りたい。でも、こんなに待たせてしまって申し訳ないとも思うのだった。

 大学の数はさほど多くない。加えて、勉強できることの種類もあまり多くはなかった。私は自分がどんな風になりたいかというのがまるでわからなくて、この一週間ずっと、家の机で紙と向き合いながら悩み続けていた。それで本来なら今日提出のところを、明日まで伸ばしてもらっている。

 高校を出て働きたいかというとそうではなくて、やりたいことが何もないというのが本当のところだった。家と学校を往復する日々の中で、私が見つめているものと言ったら他のひとの肌くらい。

 そう考えると、自分のいやらしさが自覚されて、一気に恥ずかしくなる。赤くなった頬を見られてはいないだろうか。私たちは色素が薄いから、皮膚の下の血管の色がすぐに出てしまう。

「なんか適当に書くんじゃダメなの? ほら、すぐそこの国立大学とか」

「えぇ……? ダメだよ、ちゃんと考えないと……」

「ちゃんと考えてそれかね……」

 私の手元を指差して彼女は呆れ顔。「まったく真面目だし不器用だし……」とぼやいてから、「しょうがないから私も手伝ってあげる」と椅子を近づけた。

 私はその分少しだけ椅子を引きながら、かすれた声で礼を言う。

「いいよ別に……。で、そこに書けることと言ったらアレでしょ、就職、進学、ニート」

「ニート……」

 言われて、昼に外に出ないどころか夜も出ない自分を想像して、ぞっとする。やりたいことがないあまりその状況に甘んじる可能性がイメージされて、焦る。もちろん、両親は許さないと思うけれど。

 私が不透明な未来の鮮明な想像に震えていると、彼女はあっと思いついたように声をあげて、人差し指を立てた。

「結婚もある」

「けっ」

 こん、とまでは喉に詰まって言い切れない。むせていると、「なんで動揺してんの……」と彼女が背中を摩ってくれた。私たちは生来色素が薄いということを彼女は理解しているのだろうか。人間に憧れるあまり忘却しているのかもしれないと私は密かに心配した。

「ご、ごめん。ありがとう」

「いやいいけど。それで? 就職進学ニート結婚どれが一番マシなの」

「ま、マシ? それでいいの?」

 あまりにも適当な物言いに不安が募る。みんなはどうしているのだろうと思うけれど、参考にできるのは目の前の彼女だけで、その彼女はたった今私を手伝ってくれている。

 私がまごついていると、彼女はくわっと口を開けて、その綺麗な犬歯を見せながら叫んだ。

「決められん奴がごちゃごちゃ言うでねぇ!」

 正論な上に問答無用という風で、私は言いなりになる他なかった。

「はい就職! どうなの!」

「えっ、あっ、いやだ! です……」

 働きたくはない。

「進学!」

「やりたいことないけど、まぁ……」

 無難であるような気はする。

「ニート!」

「ダメだと思う……」

 やりたいやりたくない以前の問題なのではないだろうか。

「最後、結婚!」

「えー、と……」

 思わず、言い澱む。嫌なわけではないけれど、誰でもいいわけでもない。両親を見ていると、血の相性と同じくらい、好きかどうかの大切さを思うからだ。あの人たちはいつも仲がいいように見える。

 だから、彼女の言葉には息が詰まった。

「なんだ、私と結婚でもするか?」

「けっ、え、は?」

 むせなかった。けれど、その不意打ちに対処できるだけの肝は私にはない。動揺するし、私たちを生かす心臓も、深紅の血の供給を一瞬止めたような気さえした。

「なんてね、冗談」

 彼女が笑うから、私も笑った。きっと不自然になっただろう。だって、その言葉は銀の杭のように、私の心臓を射止めるから。

 時間の流れが苦手だ。すべて、私も彼女もすべてが、その波に押し流されていくから。

 キラキラしているのも苦手だ。その光は、私を照らして焼き尽くすから。

 鏡も苦手だ。自分の浅ましさが写るたびに、消えてしまいたいと思うから。

 祈ることも苦手だ。だって、祈ったところで救ってくれる神様は私たちには用意されていないから。

 ぐるぐると頭の中で煮え滾るものがあって、けれど私たちは色素が薄いから、私は俯いて、見られないようにする。

 彼女が頭上で嘆息して、「ああ、そうそう」と言い忘れたように言った。

「ちなみに私は進学する」

「えっ……」

 顔を上げると、その隙に彼女が紙を奪い取って、同じく奪ったペンで「進学」という文字と、すぐ近くの国立大学の名前を書いた。私は混乱して、口を開いたり閉じたりして、何もできない。「はい終わり」と元の位置に戻された紙には、私のこれからの設計図が、ぼんやりと形を持っていた。

「一緒に勉強しようぜ」

 彼女が笑うから、私も笑う。

 私は涙腺が緩いから、やっぱり下を向くのが、ちょうど良い。

「ありがとう」


 最終下校時刻ぎりぎりに調査票を提出して、彼女と一緒に帰路に着いた。彼女は道すがら色々と文句を言っていたけれど、その声は優しくて、私は何度も礼を言った。

「勉強して大学出て目指すは人間社会!」

 別れる直前、月に人差し指を突きつけて彼女はそう宣言した。私はただ頷いて、彼女とは別れた。

 彼女との日々を空想すると胸が踊った。この身体中を巡る深紅の血も、酸素を増して一層鮮やかになるように思えた。

 けれどその先は、と考える。彼女の行く先は、ここではないどこか、遠い別の世界で、私はきっと追いつけない。彼女の皮膚をこの歯で破ることも叶わぬうちに、彼女は行ってしまうのではないかと考えると、不安で嫉ましく、憎いとも思えて、堪らない。

 時間の流れも、キラキラしているものも、鏡も、祈りも、ぜんぶ苦手だけれど、それよりも何よりも、人間が嫌いだ。その存在は、彼女の視線を釘付けにして、遠くへと誘い連れ去ってしまうから。

 彼女が指差した満月を見上げて、考える。それなら、だとしたら。

 勉強をして大学を出て、それで。

 彼女を奪うもの、それ自体がないのだとしたら。存在しないのだとしたら。

 彼女は、歩みを止めるだろうか。

 あの艶やかな黒髪の合間に覗く素肌を貫いて、その深紅を飲み込めるだろうか。

 私は、この首筋に、その温かさを、痛みを、感じることができるだろうか。

「勉強して、大学を出て、目指す、のは、」

 彼女に倣って、人差し指を控えめに上げて、宣言する。

 どこにも行かせない。奪わせない。私の前から、消えさせない。

 赤い月と、この血の色に、誓って。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Scarlet 伊島糸雨 @shiu_itoh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ