26話 そもそも世界は、中古品

「…………え?」


 もう開くことはないと決め、一度は閉じた瞼を林胡が開くと、シンクの顔があった。


「殺してくれとか、マジ引くわ……」


 深刻な口ぶりを茶化さなかったシンクは、極めてライトな口調で半眼になる。


「どうしても殺してほしきゃ、俺を倒して脅せよ。言っとくけどな、さっきは不意打ちされただけだし、あそこからちゃんと逆転するつもりだったんだ。それを、お前が勝手に短剣を投げ捨てた。今から仕切り直したら、百パー負けねーよ?」


 微妙に負け惜しみっぽい声色なのは、本心か、挑発か。

 逡巡の後、その誘いに林胡は乗った。

 左右一対の、銀色に光る短剣を両手に持ち、もう一度立った。軽く、ステップを踏む。


「……あたしが勝ったら、殺すって約束する?」


 ああ、と頷いてシンクも立ち上がり、電脳創衣のリングに指を通して、手を広げる。


「来いよ」


 林胡は跳んだ。

 死ぬために、殺されるために、これまで身に付けてきた技術を全て解放した。

 そして、それにも関わらず……全てを、受けきられ、返り討ちに遭った。

 仰向けに倒れ伏し、シンクに見下ろされた林胡は、右腕で額と目を覆った。


「……なんなの」


 手加減などしていない。シンクの言葉は負け惜しみではなかったと知る。全力が、通用しなかった。


「あたしに、どうしろってんだ」

「お前の事情は解ったけどさ」


 シンクはそこに至ってもまだ、平然としていた。


「自己暗示かけてまで生きたいとか、なにも悪くないから。お前がやってきたことの罪の有無は俺には決められねえけど……いいよ、組織のこととかは気にすんな。いっぺん、普通に生きてみろよ?」

「普通」


 思わず、笑い声が漏れる。


「なに、それ。『普通』なんて解らない。それに……そんなあたしですら解るよ。こんな、顔も身体も傷だらけの女が普通に生きられるはずない」

「そうか?」


 シンクは心底不思議そうな声を出す。


「なら、異常でいいから生きろよ」

「だから……話聞いてなかったの?」


 あまりに無神経に次々と声を投げつけてくるシンクに、林胡は苛立つ。


「もう、ないんだよ。あたしには、寿命自体が」

「やるよ」

「…………は?」

「この俺にかかれば、INO値を他人に譲渡することすら可能だ。ま、本当はぽーんと百年、とか言いてえけど、制限されてっから五十日に一度、百日な。」

「……何様だよ」


 あっけに取られた後、じわじわと言われたことの理解が広がると同時に、林胡の心を支配したのは感謝とはほど遠い、純粋な怒りだった。


「自分がなんでも持ってるからって! 寿命も感情も失って……っ、能力すら敵わないあたしを……酔狂で生かす!? 馬鹿にすんな! 同情されて生きるくらいなら自分で」

「死なないでくれよ」


 そのひと言は、これまでの声と全く違う質量を持っていた。

 全身が震え、頭が真っ白になるほど重く、切実な響きだった。


「……なんだよ」


 林胡の声が震える。涙が目尻に溜まっていく。そんな台詞を他人に向けられたことは、記憶の中に一度もなかった。


「お前のどこが、感情を失ってるって?」


 困ったように笑うシンクに、林胡は「もっともだ」と思った。とっくに枯れ果てていたはずの感情が、壊れた蛇口からだだ漏れする水のように溢れ出しているのを自覚してなかった。


「もう……いい」


 林胡は涙を堪えながら息を吐き、言った。


「殺さなくていいから、行って。あたしに関わらないで、放っておいて」

「やだよ」


 シンクはしかめ面をする。


「そっちから来といて、なんて勝手な女だ」


 しゃがみ込み、倒れる林胡の左手を取った。


「気に入った。お前みてえにふてぶてしく、強く、綺麗な女は初めて会った」

「ふざけんな!」


 林胡は手を振り払い、衝動的に自らの服を破り、上半身をはだける。

 雪のように真っ白な肩も胸も腹も……模様のように広がる傷跡で変形した皮膚だった。


「頭おかしいんじゃない? これでも綺麗とか言えるもんなら言ってみろよ」


 林胡は目を見開き、シンクを睨み付ける。

 シンクは目を細め、手を伸ばす。まるで雲の形をなぞるように、林胡の肌の上に指の腹を載せ、傷跡に沿って動かしていく。


「綺麗だよ」

「…………な……!?」


 その声にも、目にも、嘘は一切ない。


「だってお前は生きてる」


 酷く生真面目な低い声が、林胡の身体に落ちた。


「まっさらな白さを美しいとする価値観も解る。

 だが……考えてみろよ? そもそも世界は、中古品だ。にもかかわらず日々刻々と、あるいは出来事により変わる有り様に、俺たちは当然のように感動する。

ひとも同じだ。傷なんて、見える見えないに関わらず、生きてりゃ誰にでも、いくらでもできる。それは言い換えりゃ、生きてきた道程、歴史の証だ。

 俺は今日までお前を知らなかった。だが、この傷が、お前という人間を教える。

 これほどの人生を負いながら、今日まで生きてきた。

 それだけでもお前は、十分に綺麗だ」

「あんたに……なにが解る……っ 」


 もう、耐えられなかった。林胡の声は嗚咽にまみれ、これまで溜めに溜めてきた涙は頬の傷に沿って川のように流れてゆく。


「あんたに、なにが、解んだよ……!」

「さーな」


 シンクの声は軽さを取り戻す。


「解ってねーかもしんないけど、だったらなおさら、俺が理解する前に死ぬんじゃねえよ」


 声を上げて泣く林胡から目を離さず、シンクは傍らに胡座をかく。


「いいか? 俺に負けた以上、お前は生きるんだ。いつでも寿命を譲渡できるよう、すぐ傍で。俺が生きる限り、お前を寿命じゃ死なせねえ。それ以外でも、俺の力が及ぶ限りあらゆる脅威から守る。どうしても死にたきゃ、俺を負かせ。勝負はいつでも受けてやる。

 言っとくけど、これはこれで相当苦労すっからな? お前はさっき俺に『なんでも持ってる』って言ったが……そうでもねえさ。むしろ、知ってのとおり世界中の奴に恨まれてる。その覚悟はあるはずなんだが……やっぱ、ひとりで対峙してると堪えるんだ。だから、俺を付け狙っても罵倒しても構わねえけど、近くにいて、話し相手になってくれ」

「ふざ……けんな……」


 林胡はしゃくり上げながら、精一杯の声を出す。


「いつか……ころして、やる……」


 絞り出した殺人予告は、林胡のそれまでの人生で最も甘い響きを纏っていた。

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