25話 あたしの中には誰もいない
「……林胡さん?」
紅秋の大きな瞳に見つめられ、林胡は怒鳴りつけたことを恥じ「ごめん」と絞り出す。
「でも……教えて。あたしにとって、とても大事なことなの」
血が出そうなほど拳を強く握り締める。
「あ……」紅秋は自分が口走った言葉を自覚し、口を押さえた。「わたし……」
「シンクからなにを訊いたの?」
「あ、あの、わたし……誰にも言うなって」
「お願い」
林胡は紅秋の肩に手を載せ、思い切り掴んでしまわないように気をつけながら、その分唇を強く噛み締めた。その端から赤い血が滴る。
「……林胡さん」
驚きで、紅秋の目からは涙が引いていた。しかし先程とはまた別の悲痛さで頬が震える。
「わたし……知らなくて。林胡さんも知らないことだなんて」
林胡は言葉を繰り返さなかった。じっと、待つように見つめる。
その目に、紅秋は負けた。独り言のように、シンクの言葉を明かす。
明日が、俺の死ぬべき日だ、と。
聞いた林胡はほとんど閉じかけた目で「あの馬鹿……っ」と漏らす。
「あ、あの」
「もちろんシンクの旅の目的は知ってる……けど、『そのとき』がいつなのか、決して言おうとしなかった。だからあたしはそれが十年後なのか一ヶ月後なのか解らないまま、ずっと……ずっと、一緒にいたんだ」
「林胡さんは……シンクと、どういう?」
放心するような顔から出た質問に、林胡は軽い自嘲を漏らす。
「あたしは……『シンクに生かされているだけの人間』だよ」
○
弘前林胡にとって、大和シンクは『標的』だった。
林胡の初期設定寿命は百年を超える優等人だったが、物心ついたときには親はなく、非合法活動組織に属していた。組織の説明は「借金のカタに売られた」というものだけだった。そこにはそういう、長寿命だが行き場のない子どもが集められていた。
そして朝から晩までひたすら訓練を施された。
自在に感情を殺し、心から完全に害意を消しあらゆる行動を行う訓練。
人間の急所を把握し、様々な武器で的を素早く正確に突く訓練。
対峙した人間の気を逸らし、動作の後までなにが起きたか気付かせない不意打ちの訓練。
永遠に続くのではないかと思うほど毎日毎日反復し、それらを呼吸と同じように意識せず行えるようになったころ、一人前の証だと、とある魔術をかけられた。
それが、相手を傷つけると同時に同等のダメージを自動で受ける《応報》だった。
その日から林胡は『指令』を受け、遂行するようになった。
内容は、主に要人を痛めつけて脅すことだ。
原則、他人を傷つけることができなくなった世界に於いて、それを代行するサービスは引く手あまたなのだと組織の人間は説明したが、当時林胡にはその意味が解らなかった。世の中の仕組みを全く理解していなかったし、そうさせないことが組織のやり方でもあった。
それでも、ひとつだけ林胡は決めていることがあった。
『絶対に相手を殺さない』
記憶の片隅に、「ひとを殺すな」という言葉がこびりついていた。それが、実際誰かに言われた台詞なのかどうかすら解らなかったが、暗示のように心の奥底にあった。
実際、指令の中には時折殺害もあった。しかしそれを果たせば当然、術により死ぬ。林胡と同じく訓練された者の多くは、その指令を果たして徐々に減っていった。
林胡は殺人の指令だけは遂行しなかった。ただし、相手に大怪我を負わせ、自らも大怪我をし、それでも戻った。
感情を消しても、淡々と指令をこなす日々でも、それだけは守った。
組織が林胡を見放さなかったのは、ひとを殺せない、という点を除けば林胡の任務遂行能力が並外れて優秀だったからである。むしろどんな困難な状況からも生還する能力を惜しまれ、やがて殺しの指令を与えられることはなくなった。
成長し、見た目が固定されてからも、季節は数え切れないほど巡り……気が付けば林胡の顔と身体は、傷跡のないところを探すのが難しいほどになっていた。直接受けた傷もなくはなかったが、ほとんどが《応報》によって、つまり相手を傷つけたことによる返り傷だった。
そしてそのころには、同時期に訓練を受けていた仲間は、ひとりもいなくなっていた。
そろそろ使い切るか、と、あるとき組織の人間が林胡に言った。
林胡が身に付けた技術は、システムの誤認識を突き、本来なら大幅に寿命が減るところを十分の一程度で済ませるものである。逆に言えば、僅かずつであっても寿命は減っていく。組織の中で最も長い間指令をこなし続けた林胡だったが、いかに初期設定寿命が長かろうとも、いつか尽きるのは必然だった。
終わりが近くなった林胡は、最後に、殺しの指令を受ける。
その標的が、大和シンクだった。
そして、一度は不意を突いて追い詰めた。
が、刃を突き立てることができなかった。
「ひとを殺すな」
という言葉が、強く頭に響いた。はっきりと、それを発する人間の顔が初めて浮かんだ。
自分自身だった。
林胡は気付いた。それは、生き延びるための自己暗示だったのだと。
全身から力が抜けるほど、衝撃を受けた。
(あたしの中には……誰もいない……っ)
親の顔も解らず、大切な人間もいない。自分を、屑だと知ってる。
殺さない、という信念に近い思いすら、自分の命を守るためのものだった。
その間、同じ境遇の者は殺人を犯し、罪と引き換えに死んでいったのに。心を痛めることもなく、見て見ぬ振りをし続けた。
「……殺して」
林胡は刃を捨てた。
本当はもうずっと前から、寿命がじわじわと減るのと同じように、心もすり減っていたのだと、ようやく気付いた。消したはずの心は、あったのだと。
「あなたは……ひとを殺しても死なないくらいの寿命を持ってるんでしょ? あたしはどうせ……放っておいても、もう、死ぬけど。今までしてきたことを考えれば、誰かに、殺されて終わりたい。そうすることが……せめてもの償いになる気がする」
訝しむシンクに、最期だと全てを投げ出した林胡は、これまでのことをぶちまけた。組織の機密も自分がやってきたことも、自分の思いも、まるで懺悔をするように洗いざらい吐き出した。呆れられ、罵倒されればいいと望んですらいた。
最後の一片まで綺麗さっぱり出した後、林胡は全身の力を抜き、目を閉じて首を晒した。
「さあ……お願い」
しかしシンクは、途中一度も遮ることなく聞いていたくせに、
「え……やだよ。なに言ってんの?」
普通に、拒否った。
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