22話 あたしの心は最期まで、あんたを目指した

 川口と蕨が別れを告げ合った後、視界から色が抜けた。

 時が止まったように、草木を含め動きが一切なくなる。


 世界の中で、蕨だけが色を保ち、動き出す。紅秋のほうに、ゆっくり歩いてくる。

 その姿が、一歩歩くごとに少しずつ変わる。若さは変わらないが、徐々に髪が伸び、面構えに疲れが混じっていく。そして眼前で立ち止まったときには、紅秋の知る蕨になっていた。


獅子れお


 蕨が情感を込めて呼びかける。その目は紅秋に向いているが、紅秋を映してはいない。


(ああ……そっか)


 ようやく紅秋は理解した。

 これは、蕨から川口への最期の手紙……蕨が紅秋に残した紹介状だ、と。

 気付いて、この先を見ていいのか躊躇する。しかし、やめる気にはなれなかった。

 紅秋は、決して合わない友人の目を見返す。蕨は見たことがないほど優しい目だ。


「ごめんなさい」


 その後に、ひとつも理由は続けなかった。代わりに口にしたのは、


「お願いがあるんや」


 だった。


「虫のいい話や。今さらどの面下げて、と思う。あんたはあたしを恨んどるかもしれんし、忘れとるかもしれん。長い、長い時間が経ったもん。

 なんてな……あたしは、ずるい。獅子がお願いを聞いてくれるって確信しとる。どんなに時間が経っても、あんたの根っこの部分が変わるはずないって、知っとる。

 この手紙を運ぶ子のことを誰かに託そうと考えたとき、あんたの顔しか浮かばんかった」


 そこで蕨は酷く複雑な表情をした。決して愉快ではない、笑うしかないのだという悲痛さと愛しいものに向ける甘さが混じり、深い諦めが丸ごと覆い尽くしていた。


「彼女を……紅秋を、頼みたい」


 声にはなんの混じりけもなく、真っ直ぐだった。


「もちろんただとは言わん。世にも希少な《大いなるグレイト術式コード》を記録したメモリーブックを同封するわ。内容は、《解魔》……応用効きそうやろ? ま、あたしごときには効力を読むのが精一杯で、使えそうになかったけど。売るなり、解読してビジネスに活用するなりして。


 紅秋は劣等人や。具体的な寿命は知らんけど……あと十年か、長くて十五年か。

 紅秋がINO値を増やす機会を掴めるように、チャンスを与えてほしい。その子はきっとそれをものにするし、あんたの役に立つ。


 その子は、魔術に愛されとる。まるで遊ぶように術を組む。きっと、紅秋の辞書には努力なんて文字はない。努力をしないって意味やないよ。むしろ誰よりも打ち込んで……けどそれを、本人は努力だと思っとらん。ただ、やりたいだけや。


 な、獅子。


 内緒やよ? あたしは、紅秋みたいになりたかった。息を吸うように努力ができて、それに伴う感性があって……素直で。あんな風に真っ直ぐなら、まだ……いや、なんでもない。


 細胞が老いなくても、ひとは経験によって変化する。上向くこともあれば、どうしょうもなく行き詰まりもする。紅秋を見て、自分がどんなに凝り固まってしまったのかを思い知らされた。だからあたしは紅秋の傍にいると毎日しんどかった。


 それでもな……距離を置こうとは一度も思わんかった。なんでやと思う?


 だって、可愛いの。


 初めて会ったときはまだこーんなちっちゃかったのに、どんどん成長していくのを見てると……しんどいの以上に、自分のことみたいに嬉しくなった。親っていうのはもしかしたら、こんな感じなのかもしれんと思った。あ、これも絶対本人には言わんといてや?


 …………あとな、ひとつだけ。

 あんたはふざけんなって言うやろけど、自分を認めてやってもええと思うことがある。


 あたしの心は最期まで、あんたを目指したよ。

 それだけは、やめんかったよ。結果が伴わなければ無意味やって言われても……結果の伴わんかったあたしには、それが全てや。

 笑うなら、笑って。


 あたしは……尽きるけど。

 笑っとれる自信がなくて、その子に直接別れを告げることもできんかったけど。

 紅秋に、あたしの分まで生きてほしい。


 どうか……どうか、獅子。あたしの最期の我が儘を聞いて。

 大好きな友達を、お願いします」




 映像は唐突に遮断された。

 紅秋は現実の瞼を開く。


「……どうだった?」


 間近から尋ねる林胡の声が、やたらに遠い。

 風が草を撫でる音が耳をくすぐる。紅秋の髪も撫でられていく。


「……蕨ちゃん」

「え?」

「蕨ちゃん……蕨ちゃん、蕨ちゃん……っ!」


 呼び始めたら止まらなくなった。錆び付いていた水道の元栓が壊れたように、腹の底から感情がせり上がってくる。喉を通って嗚咽となり、眼球からは涙となって零れた。


「えっ、えっ!? どした」


 林胡は戸惑っている。説明する余裕はなかった。紅秋は子どものように泣き声を上げる。


(不思議だよ、蕨ちゃん)


 しゃくり上げながら、心の中で話しかける。


(蕨ちゃんはもういないのに……旦那様が仕事をくれたり、毎日魔術を使ったり……色んな経験をする度に、どんどん、どんどん、蕨ちゃんのことを解っていく気がしてたんだ。どんどんどんどん、好きになって、必要になってくんだ。それってさ)


 紅秋はかつて、蕨が何気なく口にしたひと言を思い出す。


『理解ってのは、絶対的なものと、相対的なものがある』

(蕨ちゃんが、生きてるってことなのかな)


 わたしが、生きてく限り。

 そう思った瞬間、全身が震えた。紅秋は目を見開き、自分の身体を両腕で強く抱き締める。


(……わたしが、?)


 昔、蕨に向かって口にした自分の言葉が浮かんだ。


『いつ死ぬか解ってても、別に怖かぁないんだよね』


 ぞくり、と背筋に寒気が走った。全身に、小刻みな震えが走るのを止められない。


「こわい」


 涙の波が落ち着き、かすれ声が地面に落ちた。林胡が肩を軽く揺すってくる。


「大丈夫? どうした。一体なにが書かれてたんだ」

「……死にたくないです」

「は? どういうことだよ。呪いの言葉でも」

「わたし、シンクと一緒なんです」

「……え?」


 顔を上げて叫んだ。


「明日が、寿命なんです!」


 たった今まで、死に対する実感も拒否感もなかった。蕨がいなくなったとき、『長生きするよ』と手紙に応えてはみたものの、虚ろな願望に過ぎなかった。新しい環境での三年半はあっという間で、このまま死んでしまうことを残念には思っても、どこかで受け入れていた。蕨の手紙を忘れたわけではなかったが、結局駄目だったな、と思う程度だった。


「全く解ってなかった。わたし……蕨ちゃんが、そこまで思ってくれてたなんて。わたしのために、旦那様に、そこまで……っ!」

「……おい、ちょっと待って。今なんて言った」

「解ってなかったんです。自分の命の重さも、誰に、なにを託されていたかも!」

「そこじゃないっっ!!」


 恫喝するような剣幕に、紅秋は言葉を失って見返した。

 林胡が、深刻な静けさで訊き直す。


「シンクの寿命が、いつだって言った?」

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