21話 性欲処理機の販売

(……………………うそ)


 意識の存在だけになった紅秋の前に、信じられない光景が広がっている。

 場所は目を閉じる前にいた草原で、木の下に、ふたりの人間が立っていた。


 ひとりは、恐らく川口獅子だ。顔かたちが同じである。ただし面構えは今よりもずっとあどけない。見た目の年齢が若いわけではないのに、こんなに違うのだと思わせた。しかしそれ以上に、一瞬別人だと思った理由は髪の毛のせいだろう。うっすらと生えることすら許さないほど毎日完璧に剃り上げている現在と違って、おかっぱのようなロン毛だった。坊主を見慣れているせいで、まるで変なかつらを被っているように見えてしまう。


 だが、紅秋が呆然とした理由はそれではない。

 もうひとりの姿が、四年ぶりに見る懐かしいものだったからだ。


(蕨、ちゃん)


 化粧映えする顔立ちに切れ長の目。紅秋の知る蕨とほとんど同じだった。ただし、髪の長さだけが全く違う。ショートカットの紅秋よりさらに短く、少年くらいしかなかった。記憶の中の蕨は、括っていてすら腰の下まで伸びるほど長かったのに。


 ふたりは見つめ合い、両手を握り合っている。

 ややあって、どちらともなく手を離し、身体を寄せ合った。互いの背に手を回し静かに目を閉じる様は、誰がどう見ても大切なものを壊さないように触れる優しさに溢れているのに、何故か紅秋には、ふたりがこれから別れるのだと解った。


 ごめんなぁ、と蕨の唇が動いた。川口の瞼が薄く開き、自嘲する。


「……愛想を尽かされても仕方がない。世間の目も厳しい。川口獅子はなりふり構わぬ手段に出た、と。これからさらに、そうなるだろう。君が僕から離れる選択をするのは、正しい」


 十七年しか生きていない紅秋でも知っている。川口獅子は今でこそ多角的な事業を展開するグループ企業の創業者だが、成功までにはとても長い道のりがあったと。幾度も失敗を繰り返し、借金を増やし、寿命を減らし……土壇場で、とうとう事業を軌道に乗せた。


 その事業は、『性欲処理機』の販売だった。


 ふざけた話でもなんでもない。第二次生命革命直前まで、動画視聴機器を含むアダルト関連の電子機器は、男性を中心に凄まじいニーズに支えられていた。しかし規制により、他の電子機器同様、電脳創衣プログラミングがなければ使えないものだけが販売、使用を許されるようになった。表立って語ることをはばかられる内容であったこともあり、第二次生命革命後はニーズが棚上げされたまま、とてつもなく巨大な市場のホワイトスペースができた。


 川口の出した商品は、極限まで簡易化されたコードで使うことができるVR機器だ。

 多くの人間が諦めざるを得ないほど複雑な電脳創衣プログラムの、ほんの基礎概念だけを習熟すれば、VR空間で望みのシチュエーションを体験できるというものであり、数々の事業失敗経験を蓄積した川口だからこそなし得たものだと言われている。


 人々は、その商品に飛びついた。

 川口獅子はそれによって一気に富裕層、言い換えれば長寿命層への仲間入りを果たした。ただ経済的に成功しただけでなく、そこには『世界のプログラミング能力の底上げ推進』という成果が加えられた。本能的な欲求である性欲と、多少の努力でそれを満たせるという商品は、習熟を諦めかけていた者たちを真摯に学習へ向かわせたのである。


 だがやっかみもあり、川口に対する世間的な見方はお世辞にも良いとは言えなかった。


「違う」しかし蕨は首を横に振る。「そんな理由やないよ」


 身体をゆっくりと離し、川口の胸に両手を置く。


「これまで、成功しようと互いに頑張ってきたやろ……あんたの苦労は一番解っとる。悪いことしたわけやないもん。世界中の人間があんたを笑っても、あたしは笑わん」

「だったら、どうして」

「あたしはまだ、鳴かず飛ばずや。今のあたしやったら、あんたの邪魔になる」

「そんな。そんなことは」

「けどあんただけ長寿命化しても、。やろ?」


 川口が絶句し、目尻が震える。それがふたりの共通の夢なのだと、聞かずとも解った。


「……僕が事業を分割して、君がそこの社長になれば。そうすれば」


 川口の言葉を、蕨はひと差し指で止めた。軽く首を横に振る。


「そしたら、確かに、あたしも成功できるかもしれんね。けど、それだけは、死んでも嫌や」


 解るでしょう? というように笑う。


「……すまなかった」


 川口が申し訳なさそうに肩を落とす。蕨が触れていなければ、くずおれてしまいそうな顔をしていた。


「ううん。あたしこそ。くだらない意地かもしれんけど……あたしは、あんたのにいたい」

「うん」


 泣きそうな目をする川口の頬を両側から掴んで、蕨は愛おしそうに笑った。


「そうや」悪戯を思いついたように、笑い皺を深める。「願掛けしよ」

「……願掛け?」

「あたしは必ず、成功してまたあんたのところに戻ってくる。それまで、この髪、切らんわ」


 見ていた紅秋が息を呑む。


「そうやな……どんなに遅くても、地面に付く前に戻って来んとな。邪魔になってしまう。

 ま、もちろん待たんでいよ。これはあたしの勝手な」

「なら」言葉を遮り、川口が瞳に意志を灯す。「僕は、逆だ」

「……はあ? どーいうこと?」

「君が戻るまで、僕はこの髪を全て剃ろう。いや、髪だけじゃない。全身の毛を剃り続ける」


 大真面目な口調に、蕨は一瞬あっけにとられ、爆発するように笑った。


「あ、あはははっ、はは! あ、あんたなに言うとんの!? あ、あほかっ! ハゲなんてもう物語の中くらいにしかおらんよ? め、目立ちすぎるわ。し、しかもっ、全身て」

「ああ。君が見つけやすいくらい、輝き続けるよ、ぴかぴかに」

「トナカイか! ま、真顔で言うのやめてっ! は、腹が苦しいっ!」

「良かった」

「い、いいことあるかっ!」

「湿っぽくならなくて済みそうだ。僕はきっと、君のその笑顔をずっと覚えている。そしてもう一度見られることを、いつでも待ち遠しく思うよ」


 どこまでも真面目に言う川口に、蕨の笑みが止み、くしゃりと歪む。


「……本気?」

「ああ。僕が冗談の言えない堅物だということは、君が一番よく知っている」

「……戻って来んかもしれんよ?」

「ばかだな」川口は蕨の額に口づける。「僕は知っている。君は必ず戻ってくる」


 零れかけた涙を蕨は乱暴に拭った。悲痛になりかけていた表情を、無理矢理笑顔に変える。


「愛しとるよ獅子。行ってくるわ」

「ああ、愛してるよ蕨。行ってらっしゃい」


 交わした言葉は、紅秋がこれまで聞いたことがないほど晴れやかな声同士だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る