8話 家政婦 VS 《大災害》②
(……な、なにが起きた!?)
床に両膝をつきながら、シンクは呆然とした。
苦痛はなかった。気が付けば、いつの間にか身体が崩れていた。
「えへへ」
顔を上げると、紅秋は悪戯を成功させた子どものように、のんきな笑みを浮かべている。
「舐めんなっ!」
シンクが立ち上がって両手を広げる。電脳創衣のリングに指を通し、キーを入力、
「……っ」
し始めた瞬間、また膝から力が抜け、立っていられなくなる。
「あ、あんた……俺になにをした?」
見上げると、紅秋は笑顔のまま平然と答えた。
「膝かっくん」
数秒、あっけにとられる。それから半眼になり、
「……あぁ、なぁーるほど」
深く納得して頷いた。それなら苦痛がなくて当然だし、コードは限りなくシンプルだろう。
「だが!」
シンクは膝をついたままキー入力を行う。
「このままならかっくんできねえだろ!」
シンクの頭上に突如水の塊が現れ、鉄砲水となって紅秋を襲う。
紅秋は画面を見ずにキー入力をしながら水に向かって口を開けた。水の塊は紅秋の口の大きさに合わせるような細さになり、吸い込まれていく。
「な」
同時にシンクの胴体がくの字に曲がる。額から床に倒れ込んだ。
「う、はは、はははぁっ、や、やめっ」
今度は脇腹をくすぐられていた。
「やめろっ!」
半ば本気で怒気を向けると、紅秋の入力が止まった。
荒い息を吐き、うつ伏せに倒れながらシンクは紅秋を睨み付ける。
「……い、言うほどのことはあるな。た、確かにシンプルなコードなら詠唱速度は関係ねえ」
「帰ってくれます?」
やや腹がたぽたぽに膨らんだ紅秋が、にこやかに言う。
「まだまだ!」
シンクが本気の速度で指を動かす。指先大の氷の玉が数え切れないほど生み出され、紅秋を取り囲む。そして一斉に襲った。
紅秋の指が素早く動くと、氷は紅秋の身体に当たる寸前で光りながら蒸発していった。透明の、高温の膜を張ったのだとシンクは理解する。だがもうその程度では驚かない。続けてコードを打ち込むと、床から氷の仁王像が二体生み出される。三メートルは下らない巨体が動き、紅秋に向けて頭上から開いた手を伸ばす。
風が吹く。
強い温風が立ち上ると同時に、紅秋が床から高く飛び上がって仁王像らの手をかわした。片手でスカートがめくれ上がるのを押さえる余裕すらある。空中でコード入力をすると、仁王像たちが一瞬で分解され、水蒸気と化した。
(なんだと……っ!?)
シンクはこの数分の中で一番驚いた。この事象だけは、一瞬で詠唱できるレベルではない。
楽しげな笑みを恐ろしく感じた。
が、次の瞬間紅秋のその顔は衝撃を受けたように固まる。
「くけっ!?」
ように、ではない。
事実衝撃を受けていた、天井に頭をぶつけて。
紅秋が三階分はある吹き抜けのてっぺんから自由落下する。呆れて半眼になりながら、シンクは短いコードを入力して風を起こす。衝撃なく、紅秋の身体は仰向けに床へ着地した。
「痛たたたぁ……」
涙目で頭を押さえ、続けてシンクを見た。
「あ、ありがとうございます」
「ああ、うん」
先程から欠片も緊張感のない態度と、常識外れの能力とのギャップにシンクは上手く感情を処理できない。思わずうつ伏せに転がったまま無防備になる。
「あ、でも、恩を売ろうとしても駄目ですよ? 帰ってもらわないと、怒られちゃうんで」
思い出したように紅秋が上体を勢いよく起こす。そしてまた頭を押さえた。
「いたい……」
「……く」
その子どものような見た目と仕草に、思わず笑いが漏れる。
「く、ははは」
「……なんです」
馬鹿にされたと取ったのか、紅秋は半眼で唇を尖らせた。
「侮ってたことを謝る。コードを想像できねえ術を見たのは、随分久しぶりだ」
「ですか?」
褒められたことを自覚して、紅秋は一瞬で尻尾を振る犬のような顔になる。
「こんなときじゃなきゃ、もっと色々試したいとこだが……生憎そう時間もねえ」
「奇遇ですね。実はわたしも、できれば早めに終わらせたいんですよ」
「ほう。なら、『セッション』で決着をつけねえか? 俺が勝ったら通してもらう。あんたが勝ったら、仕方ねえ。今は素直に引く」
「セッション?」
「ルールは簡単。同じ題材で同時に詠唱を開始し、片方が実行した段階でもう一方も実行する。より破綻なく美しいコードを書いたほうが、強く具象化される。速いだけでも駄目、表現力だけあっても相手の構築までに組めなきゃ駄目ってわけだ。題材はあんたが考えていい」
「面白そう!」紅秋が目を輝かせ、丁寧語を忘れたことに気付いて加える。「ですね」
「なら決まりだ」シンクは勢いよく立ち上がって構える。「お題は?」
ゆったり起き上がってから、唇に折ったひと差し指を添えて紅秋が目を伏せる。
数秒してから、シンクによく光る瞳を真っ直ぐ向けた。
「『春』で」
「ほう? いいけど、なんでだ?」
「いやあ、できればもう一度見たかったなあって思って」
含みもなく、軽い口調で言うので、シンクは特に深掘りせず頷く。
「よし。ならこの屋敷を対象範囲として、春にする、でいいか?」
「はい」
「なら、こいつが」シンクはポケットから硬貨を出す。「床に落ちたらスタートだ」
紅秋が電脳創衣を握り締め、頷く。先程までよりずっと、集中する顔だった。
「投げるぞ。五」
四、三、二、一……と、ゆっくり数える。そして、
「零」
コインを指で高く弾く。シンクも両手を広げて構える。
床板が硬貨を弾く音が響いた。
同時にシンクと紅秋が詠唱を開始する。
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