三章 天秤の外側(6)

 自転車に乗って港を目指す。

 焦る気持ちが足を混乱させ、ペダルから外れてしまう。

 落ち着け。

 落ち着いて、急げ。

 アーケードを抜けるとまだ就学前の子供たちが公園で騒いでいた。

 遠く一点に視線が集まる。

 悲鳴を上げる母親たち。

 周囲の建物を凌駕する高高度の山。想像の埒外にある大きい黒い鳥の巣。この世界の全人類が初めて目にする地球外生命体——〈異界獣アルファ〉がそこに存在していた。

 何の前触れもなかった。

 まるで始めからそこにいたかのように、アルファはすっとこの鳴居市に現れた。

 その存在そのものが、天変地異の。

「——急がないと! みんな早く逃げるんだ!」

 公園の人たちに声を掛ける。ようやく正常な判断が出来るようになったのか、それぞれが自分の子供を抱え駆け出す。

 よし。

 俺は気を引き締め、改めてペダルに足を掛ける。

 けれどすぐ傍の角を曲がる時に、軽い地震に襲われバランスを崩してしまう。

 地震は断続的に続いている。リズムを刻むようでそうなりきらない、奇妙な揺れだ。

 この揺れを俺は知っている。

 普通の地震じゃこんなのはあり得ない。

 どこで、どこで……。

 VRだ。

 シミュレーターで感じた揺れと同じ。これはアルファの体が心臓のように脈打つせいで発生している異界獣由来の地震。あの時はARMに乗っていたから大したことはないと思っていたが、意外に強い揺れだ。

 進行方向から轟音がする。

 次は何だ?

 あっちにはトミザワマートがある。

 まさか。

 嫌な予感がした。ハンドルを持つ手に力がこもる。駆けつけるとそこには、車が突っ込んで半壊したトミザワマートがあった。

 今日も平野さんがシフトに入ってたはずだ。助けないと!

「平野さん!」

 車は一台が店の奥のほうへ、もう一台は手前の書籍コーナーに半分めり込む形で止まっていた。入り口の自動ドアは粉々になっている。中身をぶちまけ辺りに散乱しているパンや弁当。

 俺は祈る思いでレジへ向かった。

「……晃太くん?」

 平野さんはレジ裏で頭に手を被せ、縮こまっていた。

 体の上に煙草の箱が落ちてきているが、怪我はなさそうだ。

「危険です。早く出ましょう」

 平野さんの手を引き、店を出る。奥に突っ込んだ車から煙が立ちのぼり、ガソリンが漏れているのがわかった。

 爆発するかも。

「急いで!」

 外に出ると、手前側の車にトミマの制服を着た人がいた。店長だ。車の中から傷を負ったお爺さんを引っ張り出している。もう一人パンツスーツを着た女の人が店から少し離れたところで座り込んでいた。奥の車の運転手だろうか。

「波木、どうしてここに? まあいい、平野も無事だな。走れ!」

 四人で出来るだけ遠くに離れる。

 しばらくして足を止めたけど、まだ爆発音はしない。

 取りあえずは安心、だな。

「平野さん、大丈夫ですか? すみません、俺のせいで……」

 アルファの副次的な被害。

 出現場所、アルファの大きさ、腕の長さ。そして戦闘によってARMが吹き飛ばされたりすることで生じる、より広範な地域の損壊。

 それだけじゃないんだ。

 異形を見たときの、人間のイレギュラーな反応。

 同じような事故はどこででも起こりうる。

 狼少年だと思われたって良い、とにかく危険を叫び続けることも出来たのに。

「どうして晃太くんが謝るの? 私は平気だから……え……きゃっ!」

 平野さんが突然腰を抜かす。

 その視線は空を——いや、アルファを見ていた。

「な……何あれ……うそ……」

 声が震えている。

 距離はあるけれど、その規模、そして不気味な青白い光から、ありえない巨大生物であることは明らかだった。

「平野さん、しっかりしてください! あれは地球外生命体——ETですよ! いつも話してくれたじゃないですか、平野さんがよく知ってる、宇宙から来た怪獣です!」

「イー…………ティ? あれが、そうなの……? う……あ……」

 駄目だ、声が届いてない。

 店長が彼女を抱える。

「くそっ、こいつは俺が運ぶ。あんたら二人もさっきので足なくしただろ? 俺の車に乗せてやるから付いてきてくれ。波木の家はすぐそこだったな? 母親が心配してるはずだ、自分で戻れるか?」

「いえ、俺はこれから行くところがあるので。母さんは大丈夫です。平野さんをお願いします」

 本や映像で得られる情報と、実物はこうも違うのだろうか。

 俺はアルファに首を刎ねられた時の感覚を思い出し、同じように震えた。

 でも、こんな恐怖は。

 これから始まる決戦に比べれば、大したことはない。

 気合いを入れろ、俺。

 ARMに乗るのは俺と紅だ。

 柳井には乗らせない。


 まだアルファは出現していないのに、体の中に畏怖が流れ込んでくる。

 地震の直前に暴走するナマズも、こういう予感に突き動かされているのだろうか。

 私は孫娘を助手席に乗せ旧鳴居港を目指していた。

 存在するはずのない孫。

 使い捨てられた港。

 どちらも今の私にお似合いだ。

「一つ聞きたいんだが」

 豊崎紅と名乗った孫は、驚くほど妻に似ている。

「何かしら?」

「私は未来でもずっと独り身なのか?」

 あるときから、この世界がとてもつまらなくなった。

 つまらない中でも使命を見つけ、どうにか私が生きていく意味を作ってきた。

 それももう終わりだ。

「独りよ」

「どうやら君は感情を抑制することは出来るが、嘘をつくのは苦手のようだ」

「知らないほうが良いと思うの」

「命がけの戦いの前だ。気になることは今のうちに消しておきたい。どうせ今の私には関係のない話——そうだろう?」

 彼女は時間をおいて答えた。

「そうね。お爺ちゃんは再婚したわ。ニューナルイ市長になった時に」

「そうか、私が再婚とは。どんな女性だ?」

「とても優しい人だった。絵本の読み聞かせをよくしてくれて。お爺ちゃんと喧嘩しているところを見たことがないわ」

「……じゃあ未来の私は幸せだったんだな」

「ええ。きっとそうだった。そう信じたい。私の大好きだったお爺ちゃん……」

 孫は窓から遠い景色を見た。

 君は本当に気づいていないのか。

 大好きだったお爺ちゃんはここにはいない。

 私が幸せ、などと。

 そんなことは許されない。


 旧鳴居港。

 役目を終え、今は永い眠りの最中にある。

 本来の鳴居港はかなり大きかったと聞いているけれど、現在旧鳴居港と呼ばれる、当時の姿が残る場所は限られていた。自転車に乗って片っ端から探していると、放置されたコンテナの隣に柳井の車が止まっているのを見つける。中を覗くが二人はいない。

 車からやや離れたところ、海を目指す二人の姿があった。

「紅! 駄目だ!」

 全速力でペダルを漕ぎ、二人に追いつく。自転車を放り投げて行く先を遮った。

「波木君。突然どうしたんだね」

「あんたの仕事はここまでだ。俺がパイロットをやる」

 紅はこんな時でも顔色を変えない。

 その心の中を知りたい。

 柳井ははっきりと驚いていた。けれどすぐに考え込むような仕草を見せ、そして鷹の目で俺を射貫く。

「心変わりか。急にヒーローになりたくなったのかな? 気持ちはよくわかるが、これは鳴居市民だけじゃない、日本の、ひいては世界人類の未来も掛かってるんだろう。だから私が適任だ、と声かけてくれた。君も」

 彼は俺の意図に気づいているだろう。

 相手は大人だ。それも頭も腕っ節も図抜けた男。

 でも戦わなければいけない。

 鳴居湾から吹き込んでくる風が俺の背中を押してくれる。

 柳井が背後に現れた怪獣——アルファの方を振り向く。

「とんでもない化け物だね。本物を見ると私でも身がすくむよ。君には自らの命を掛け、人々の未来を掛けた戦いに挑み、その勝敗による全ての責を負う覚悟があるのかい」

「ある」

 俺は即答する。

 もう迷いなんてない。

「だそうだ。紅、君はどう思う」

「波木。あなたの気持ちはとても嬉しいわ。でも私はあなたを巻き込んでしまったことを後悔しているの。私たちはあの日出会うべきではなかった。全てが終わってから会うべきだったのよ。だから、私とお爺ちゃんに任せて。私たちは必ず勝つ」

「お願いだ紅。俺を選んでくれ」

 彼女の意志は固いんだろう。

 何も言わず、選んでくれれば。

 それが一番良いと思うのに。

「駄目よ」

 紅は揺るがない。

「コウタを信じて」

 エナだ。

 彼女がこちら側についてくれているとしても。

 紅は首を横に振った。

 だとすればやはり、言うしかない。

「俺を信じてくれ、紅。柳井はアルファと戦うつもりなんてこれっぽっちもないんだ。君を脅迫して無理矢理タイムリープしようとしてる。奥さんを助けるために」

 柳井が嘆息する。

「心外だね。私が以前、妻を助けたいと言ったことを覚えていたようだが。あれはもう実現不可能な選択だよ。妻とその他大勢の人々、どちらを選ぶのか。私は一人の警官として、人間として、いや、妻の夫としても——この世界で今を生きている人々を救うことを選んだんだ」

 そんな偽物の言葉には騙されない。

 

 はじめからこいつは嘘つきだった。

 俺は、俺を動かした言葉を告げる。

「命と命の天秤じゃない。想いは、それとはまったく違うところで人を動かす」

 俺は、今、その想いの強さを知っているんだ。

「あんたが本当に奥さんを愛してるなら、何億人だって犠牲にするさ」

 柳井は周囲を見回し——人影の有無を確認したのか——紅の手を軽く取った。

「君に愛はわからないよ。子供にはね。だから愛が何億人かを犠牲にしても成り立つかどうかなんて、理解の外側だろう。紅、彼に構っている暇はない。早くARMを呼んでくれ。あの化け物と戦おう」

「お爺ちゃん……」

 紅はわずかに逡巡した。

 しかし空いた左手でスティック状の機械を操作すると、意を決したように柳井の顔を見上げた。

「呼んだわ。お爺ちゃん、戦ってくれるわよね?」

「もちろんだとも」

「ベニ、あなたの目は節穴です。失望しました。コウタ、無理矢理でも良いので止めてください」

 エナが言い切る前に、俺は動き出していた。

 柳井に掴み掛かる。

 掛かろうとした、はずだった。

 けれど俺の手は彼から離れていく。

 鳴居湾のほうへ体が飛んでいた。

 鼻から血が流れている。

 逆に顔を殴られていたんだ。

「済まない……鳴居を救うためなんだ。今の暴力については、戦いが終わった後で訴えると良い。私は責任を取る」

「下手な演技だな」

 どうにか立ち上がったけれど、頭がぐらつく。

 まっすぐには立てなかった。

「紅、ガーディアンってのは人の心の動きに敏感なんじゃなかったのか? それって嘘も簡単に見抜けるってことだと思ってたのに、違うのか。エナは見抜いたぞ、そこの糞野郎の猿芝居に」

 頭に血が昇る。

 その血が鼻から流れ出ていく。

「やめて波木。お爺ちゃんはそんな人じゃないわ」

「それは紅がちゃんと分析した結果なのか?」

 鼻血ってのはこんなに気持ち悪いものだったんだな。

 めちゃくちゃ苦い。

「分析? 人が人を信じるために本当に必要なのは心よ。私にはお爺ちゃんと過ごした時間がある」

「人を救うために来たってのは嘘だったのかよ。それは、その男一人を救うって意味だったのか?」

「違うわ」

「違わねぇよ!」

 叫び声が廃墟となった港に響いた。

「じゃあ聞くけれど。私とエナのどっちを信じるの?」

「何だって?」

「どうせエナが吹き込んだんでしょう。お爺ちゃんが嘘つきだとかどうとか。でも彼女はAIよ。人間らしい受け答えをする機械でしかない。最終的に人を理解し、判断できるのは人だけよ。だからガーディアンが存在する」

「ベニは私を貶めるのですか」

 エナの言葉に合わせて、タブレットが激しく振動するのがわかった。

「黙ってて、と何度言えばわかるの? あなたは所詮出来損ないよ。ガーディアンを人間ではなくAIに担わせる、その計画のために私を模して生み出された試験的AI。なぜあなたがガーディアンの採用試験に一度も合格しなかったかわかる? あなたには人間が理解できないから、それが全て」

「がっかりです、ベニ」

 そう言ってエナは沈黙した。

 諦めたのかいじけたのか、どちらにせよ彼女はとても人間らしい。

 今の紅よりも。

「俺には君のほうが機械に思えるよ」

 紅に近づき、その肩を掴む。

 柳井が引き離そうとするけれど、彼女自身がそれを止めた。

「紅が見ているのは紅にとっては過去の——もう死んでしまった柳井貴樹だ。君がその男を信じてるのは、記憶と協力者リストに記された情報だけに頼っているから。それこそAIにだって出来る簡単な仕事だ。

 目の前の男を見て欲しい。この柳井の仕草、息遣い、わからないのか? なぁ、おっさん、言ってやれよ。私は君の知る柳井貴樹とは違うってさ」

「まぁ私はまだお爺ちゃんではないからね」

 柳井はこの空気の中でおどけてみせる。

 嫌なやつだ、と思うこの気持ち。

 紅とは共有できないのだろう。

「波木、私はあなたに感謝しているわ。感謝の気持ちを持ったまま、あなたの強い想いを背負って戦いに挑みたい。だからそこを退いて欲しいの」

 無駄なんだ。

 俺は悟った。

 彼女にはもう俺なんて、障害物の一つでしかない。

「君の熱意は私の心にも響いた。正直驚いたよ、君のような少年がいるなんて。約束しよう、必ずアルファを倒すと」

 俺は諦めたくなかった。

 俺にはやるべきことがあった。

 そのためには無茶も承知で大人に挑まなきゃいけないこともある。

 公安、というのは銃を持っているのだろうか。

 だとしても関係ない。

 俺は柳井の胸ぐらを掴んだ。そして考えつく限りの非難を浴びせ、いかにこの鳴居が俺にとって大切な場所であるかを語り、紅がどれだけの覚悟でこの場所にいるのかを突きつけた。けれどそれは俺の頭がちゃんと考えて話しているものではなく、胸の内から湧き出る雄叫びみたいなもので、自分自身その真意は理解できてもどんな言葉が口から吐き出され続けているのかは把握し切れていなかった。止めどなく放たれ続ける声、そのうち俺は柳井をその場に押し倒した。間違ったやり方だとわかっていても柳井を殴りつけたい気持ちでいっぱいだった。柳井は反撃してこない。冷めた目で喚き散らす俺を見ている。そうして見られている俺自身を遠目で見ている俺がいる。でも俺はそんなずるい自分とはもう決別する。母さんを絶望から救うのを諦めて、悲劇の主人公みたいな自分を慰める、そんなカッコつけなもう一人の自分。父さんの命掛けの行動を否定し、他人のための行動がダサいもんだって決めつける逃避症な自分。そういう自分からはもう決別する。

 俺は強くなりたい弱い人間だ。

 弱いとわかってても戦いたい人間だ。

 そのために守りたいものだってある人間なんだ。

「波木、もうやめて!」

 命懸けで戦ってきた紅の力は強い。

 抵抗しても簡単に柳井から引き離される。

 彼女は失望しただろう。

 俺は俺自身のわがままで柳井に喧嘩を売ったのだ。

「子供だな」

 嘘つきの大人は立ち上がり、ネクタイを直す。

「子供だよ。でも誰よりも本気でアルファをぶっ倒したい子供だ」

「そのために人類に敗北というリスクを冒させるのかい」

「俺は勝つ」

 紅が俺を抑えている腕の力を弱める。

「波木……大丈夫、私たちはうまくやるわ」

 そうだ。

 紅はうまくやる。

 そう言ってるんだから、信じてやれば良い。

 柳井じゃない。紅に託す、それで良いはずなのに。

「紅にとっては、柳井の方が才能のある良いパイロットなのか」

 俺はまだ諦めない。

「柳井が裏切るとか、嘘をついてるとか、そんなのはもうどうでも良い。ただ、柳井の方が俺よりも紅の任務のために相応しいと、紅自身が思っているのかが聞きたい」

「なにを……」

「俺がこの世界を救いたいって想い、紅の役に立ちたいって言う想いの大きさが、アルファを倒すことはないのか。頭が切れる上に鍛えられた肉体を持つ公安の大人より、正義とかいう形のないものを振りかざす一介の高校生の方が、ARMの力を引き出せるってことはないのか。俺じゃ、やっぱり、アルファに勝てないのか?」

 紅の腕の力が弱まる。

「愚かだね。幻想イメージでは相手に傷一つ付けられない」

 柳井が口から唾を吐く。

 そこには僅かに血も混じっていた。

 その時、海面が急に荒れたような音がした。驚いて音の方に顔を向けると、湾岸に人型の巨大ロボット——ARMが立っている。

 紅が俺の体から離れた。

 ARMはその場で跪き、右手を俺たちに向けて差し出す。

 この手に乗ったやつが、パイロットだ。

「——エナ、二人の分析を」

「断ります。あなたが決断すべきです」

 紅の表情は見えない。

「エナ」

「私が分析出来るとすれば、あなたの状態だけですよ、ベニ。現在のあなたはARMの搭乗者として相応しくありません。ですが、これからするあなたの選択如何によって、未来は変わる」

 俺はARMに背を向けて自転車を拾い上げた。

 もうここに居ても意味がない。

「私は、」

 紅の小さな呼吸音が、耳の傍で聞こえるようだった。

 分析がどうとか、論理的にどうとか言う前に。

 自分がどうしたいか。それが想いというものだ。

 だから、俺がその想いをぶつけて勝負を仕掛けた時から。

 もう答えは決まってるんだ。

 紅の想いは、はじめに聞いてたんだから。

 彼女は——。

「私は、波木と共に戦いたい」

 ——どうして。

「私にもその想いがある。あなたとともに戦って勝ちたいという想いが。それが、その力が私たちを勝利に導くでしょう。信じるわ、あなたをこそ」

 俺は立ち止まり、自転車のハンドルから手を離した。

 しかし背後で柳井が動く。

「波木君。君が私に襲い掛かってきたとき、もしかするとそういう選択はあり得るかもしれない、と思っていた。君は——妻が生きていた頃の私に似ている。吐き気がするほどにね。ある種の情熱に人は、自分自身でさえも、惹かれてしまうものだ」

「お爺ちゃん……」

「まったく奇天烈な世の中だよ。そうは思わないか。未来の人間がタイムトラベルしてきて、それは私のいるはずのない孫であり、ロボットで地球外生命体と戦えという。私は妻を亡くして数年、忘れることも出来ず腐っていたところを——ああ、救世主が来た——そう思ったんだよ——だが私をタイムトラベルはさせてくれず、この妻なき世界を、人類のためだけに救ってくれと。

 これは悲劇なのか喜劇なのか。

 それにマクシム——あの小心者まで関わってきた。そう、彼の言うとおり、私には美学がある。それは今でも、形を少し変えて、ある」

 柳井がジャケットの内側に手を入れる。

 紅が彼に駆け寄る。だが間に合わない。柳井の左手から黒い銃身が——。

「紅、危ない!」

 撃たれる。そう思い俺も足を動かした。手を伸ばしても到底届かない距離、それでも手を伸ばして、叫んで……。

 駄目だ。

「君たちの選択が楽しみだよ」

 銃口は柳井自身のこめかみに当てられていた。

 俺と紅はその場で固まり、呆然となる。

「そのAIはできすぎているくらいだね。紅、君は彼女に謝ったほうが良い」

「やっとわかって頂けましたか。私は人間を理解することに特化していますから。あなたの演技は私より上手いですが、私は騙せません」

「だが淡泊でうんざりする声だ。君も、自称私の孫娘も。愛という感情を知らないせいか」

「あなたをそんな行動に駆り立てるものが愛だというのであれば、私は学ぼうとしないでしょう」

「ならば一生君は機械のままだ。人間とは感情に奉仕する生き物のことを言う。愛のためにどれだけの犠牲が払われようとも、愛そのものに尽くすことが出来るのであれば良いんだ。紅、今君がそこの少年に触発されたのも同じ。であればお爺ちゃんの望みが正しいとわかるね?」

「そんな……本当にそのつもりで……」

「自分の身の危険と引き換えに大勢の人を救う、という行為を当たり前だと思えるのは機械だけ。そこに数字以上の理由を求めるのが人間だ。だから波木君、君の想いは正しい。そして紅。君の想いも正しい。人の数が君たちのその選択を促したわけでは決してない。ましてや種の保存なんて高尚な考えなんて、あり得ない。私も君たちの選択を支持するよ。その上で私たちの選択は反発し合う——なぜなら、私には私の想いがあり、それは私にとっては君たちの想いよりも重要なものだからだ。

 私にも美学がある。私と同じ想いの強さによって突き動かされている君たちをこの手で殺すことは出来ない。だが、私はもうこれ以上妻のいない世界で飯を食っていくことにも耐えられない」

「お爺ちゃん、駄目!」

「動くな!」

 柳井の口から、これまでの静謐なイメージを覆す怒号が響く。

「私は私の命を持って君たちに選択を突きつける。君たち二人がARMに乗り込んだなら、私はこの引き金を引く。もしも私の想い、妻への絶えることなき愛に同情してくれるのなら、私を過去に連れて行ってくれ。妻を救った後で私は、その世界がアルファとの戦いに勝利出来るよう全力を尽くすことを誓おう」

「私に……私に、お爺ちゃんを殺させるつもり? そんなことができると?」

 柳井は口を閉ざす。

 人差し指は一切の迷いなく引き金を捉えている。

 ——母さんと同じだ。

 失ったものが大きすぎたんだ。そしてその穴を埋める何ものかを常に探している、けれど手に入る何かは全て輪郭だけの空っぽなシャボン玉で、触れるとすぐに無に還る。それでも縋るものを求めてシャボン玉を追いかけ続け、その先にあるのは——。

 何もないんだ。

 何もない。

 失ったものを埋め合わせられるものなんて、初めから何もない。

 だから母さんは最終的には自分から無に落ちていこうとした。死だ。

 柳井は今、妻を取り戻して穴を埋めるか、自分が穴に落ちていくか、どちらかしか選択肢を持っていない。

 止めないと。

 どちらでもない答えを与えないといけない。でも俺が母さんにやったことは——俺は、やっぱり母さんにすがりついて、がむしゃらに変わって欲しいと、父さんという空白の外側にも世界はちゃんとあってそこには俺がいて、俺には母さんと繋ぐ手があって、こうして一緒なんだと伝えただけだ。

 想いを心で伝えただけだ。

 他人の俺が、柳井に出来ることがあるのか?

 ——考えろ。

「紅がここに来たのは、何故だろう」

 俺は慎重に言葉を選んだ。

 頼む、引き金を引かずに聞いてくれ。

「あんたが、彼女の故郷を作ったからだ。ニューナルイシティ。あんたが、人生を賭けてアルファと懸命に戦ったからだ。奥さんの死を乗り越え、その心を引き継ぎ、生き続けたからだ」

 それは妻を失った男が現実逃避のために行ったことじゃないはずだ。

 ——どうすれば。

 どの言葉が良い?

「あんたの孫——紅がいる世界は——紅が来てくれたこの世界を裏切ることは、奥さんの死を裏切ることだ。タイムリープしたとしても、この世界で奥さんが死んだことは変わらないんだよ」

 俺は唇に力をこめる。

 まだ何か、何か伝えないと。

 伝えたいことに、言葉が追いつかない。

「鳴居作戦にはパイロットとガーディアンの二名が参加していたわ」

 紅が口を開く。

 流れつつある涙を拭って。

「作戦はアルファを倒すことでは終わらない。私たちはこの世界で生きていくことを選んだ。望んだから、ここにいる。

 パイロットは死んでしまったけれど、彼は、日本文化を愛していた。だから戦いが終わったら、大学に行って、日本を学びたいと言っていたわ。

 私は、全てが終わったら、お爺ちゃんと一緒に暮らしたい。

 それを含めたものが、私にとっての鳴居作戦なの。

 お爺ちゃんにとって、そんな世界は、意味がないの?」

 紅が一歩前に出る。

 柳井は動かない。

 もう一歩。一歩。

 一歩。

 ——一歩。

 そして紅の左手が。

 柳井の左手と重なる。

 ふたつの手は彼の頭から離れていき。

 柳井貴樹は銃を落とした。

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