三章 天秤の外側(5)

 俺たちはずっと溺れていた。

 海より深く、陰鬱な世界で。

 父さんが死んだ後、まだ小学生だった俺と母さんは近所のぼろアパートに引っ越した。父さんと過ごした痕跡が少しでも残っているところに、母さんは行きたがらなかった。転居を選ぶのは当然のことだ。

 ハイツ浦安の二○一号室。間取りは2Kで、キッチンと繋がっている一室がリビング兼母さんの寝床。俺は隣の四畳半をあてがわれた。

 食事は毎日トミマの弁当。母さんは朝から晩まで缶ビールやパック酒を呑み、ぼうっとテレビを眺めている。つまみの代わりに興味のない週刊誌をぱらぱらとめくることもあった。部屋に酒や煙草がないと酷いことになる。泣きながら父さんの名前を叫んだり「殺して」と言って首を掻き毟ったりする始末だ。

 入院させるべきだ、と親戚のおばさんがむりやり病院に連れて行こうとしたことがある。でも俺は母さんを引っ張るおばさんの腕に噛みつき、それを拒否した。母さんは病気ではない。誰よりも悲しんでいるだけなのだ。そしてその悲しみの元凶は——父さんの死を招いた俺だ。

 俺は責任を感じていた。

 なのに何もせずただ母さんと暮らしているだけだった。

 壊れた母さんと暮らすことで、自分の罪が軽くなるとでも思っていたのか。

 愚かだ。

 未だにセブンスターの臭いを嗅ぐと気持ちが悪くなる。

 風呂に入っても煙草の臭いが取れた気がしない。目覚ましは母さんの呻き声だ。カーテンのない窓から入り込む朝の光が嫌いだった。その光はちょうど猫のひっかき傷に似た跡の残っているふすまを照らし出していた。まるでその奥で苦しんでいる母さんが舞台上の喜劇女優であるかのように——外のみんなが馬鹿にして嗤っているんじゃないかと思えた。

 俺の顔にはやはり父さんの面影があるのだろう。

 深夜に父さんの名前で呼ばれながら襲われそうになったことがあるし、幽霊だなんだと悲鳴を上げて逃げられたこともある。

「おはよう」

 部屋を出て挨拶をして、返事はやはり呻き声だけ。母さんの万年床には酒が染みこみ、炬燵の上では煙草の吸い殻が山を作る。炬燵は年中スイッチがオンになっている。「冷え性なのよ」と母さんは言う。

 ——そろそろ風呂に入れてあげないとな。

 俺は部屋や廊下の至る所に置かれているゴミ袋から比較的中身の少ないものを探す。そしてその中に床に散乱した缶ビールや煙草を入れ、また元の場所に戻した。コツは最大限汚さを維持すること。ゴミ袋の数を変えないこと。掃除をしすぎると母さんの精神状態はより不安定になる。部屋の状態と心の状態はリンクしているのだ。部屋がゴミで埋まっていれば、母さんの心も満たされている。部屋に隙間が出来ると、母さんの心に穴が出来る。

 あまりにも長くそういう生活をしていたせいか、俺はもう何も感じなくなっていた。中学を卒業して就職する。俺は俺の生活費を自分で稼いで、母さんは父さんの残したお金で食いつなぐ。母さんのお金がなくなった頃には、俺もそれなりの稼ぎがあるんじゃないか。二人で死ぬまで生きていく。死んで父さんのところに行く。

 でも中学二年の時、賢志とトイレで会ってから俺は、自分の人生がそうやって沈んでいくことにわずかな疑念を抱きはじめた。

「考えたんだ。父さんは愛で、呪いだよ」

 賢志とはたまに学校のトイレで話すようになっていた。

「お前、中二病って言葉知ってるか? 俺たちはまさに中二だけどよ——お前のそれは俺たちでも言わねぇ中二病的ボキャブラリーだぜ」

「好きに言えよ。母さんは父さんを愛している。愛している限りあんな風な抜け殻で生き続ける。俺は父さんに生かされた。その呪いが俺にまとわりついてる」

「親父もひどい言われようだな。必死になって息子を助けたのによ」

「俺が」

「俺が死ぬべきだった、なんて高二病的なことは言うなよ」

「……んだよ高二病って」

「ちょっと世の中わかった気になったやつが自己犠牲精神満載の俺って超カッケー的なクール発言かますこと」

「中二のお前が言うなよ」

「俺の球速は高二レベルを超えてるぜ?」

「俺の受動喫煙量も高二レベルを超えてるはずだ」

「くっせー! お前煙草くっせー!」

「うるせぇ」

 体育祭から一ヶ月が経ったが、俺はまだ母さんに煙草を辞めろとは言えていなかった。

「お前さ、親と喧嘩したことあんの? 親父でもお袋でも良いけど」

「ない」

 俺は即答する。

「なんで?」

「理由がないから」

「飯不味いとか口煩いとか門限とかテレビのチャンネルを巨人戦にするか阪神戦にするかとか鼻歌が下手くそとかダサい服買ってくるとか同じ部屋で息すんなとかオナニーしてるときに部屋入ってくんなとかあるだろ!」

「どれも経験がないんだよ」

「むかつくなおい! これだからぼんぼんはよ」

 賢志が個室のドアを殴る。

 そこには確かサッカー部のやつが入っていたはずだけど。

「とにかく早くおばさんに煙草やめさせろよな」

「なんでそこにこだわるんだよ」

 俺の質問には答えず、賢志はトイレを出ていく。個室からサッカー部の高濱たかはま——嫌々キーパーをやらされてるやつだ——が出てきて俺を一瞥する。汚いものを見るかのように。

 お前のその手よりはマシだよ。

 心の中でそう言ってやる。個室と小便用便器を両脇に抱えた壁の窓から光が差している。俺の顔にスポットライトを当てて。

 チャイムが鳴る。

 いつか俺でも、この音が自分のためにも鳴ってくれていると思える時が来るのだろうか。


 あまり知らない朝が来た。アルファのことで眠りが浅い。

 普段ならもう一度目を閉じるが、今日の瞼は頑固だった。

 今日も、か。

 どれだけ怠けようとしても、背中を押してくるものがある。

 やる気。父さんに満ち満ちていたもの。

 ベッドを出る。

 時間が経つのをただ待つことが出来ず、外をぶらつくことに決めた。

 一時期住んでいたハイツ浦安まで歩いていく。錆びた手すりも、歪んだ階段も、住んでる人数のわりに多すぎるゴミ置き場のゴミも相変わらずだ。郵便受けを見ると二〇一号室の名札だけが新しくなっていた。

 夏の朝は早く、明るい。

 それでもこの朝は夜に近すぎる。

 もうここにはゾンビのようになって父さんの姿を求め、俺を一緒に海の底に沈めようとしていた母さんはいない。一緒になって底に沈もうと思っていた俺も。

 昨日俺を家に迎え入れた母さんの憔悴した顔は、ここに暮らしていた時のものとは違っていた。俺を打ち、叱り、事の経緯を細かく説明させた。そして自分の手で生姜焼きを作り、二人で遅い夕食をとった。テレビは点けなかった。ご飯を口に運びながら、母さんの目から涙がこぼれるのを俺は見た。

 俺は苦しかった。母さんに語れる真実を持たなかったから。紅とは夕方別れたんだ、彼女は予定より一日早く鳴居を出ることになったよ。あの子の体の傷? 昔、義理の母親に虐められたんだってさ。でも離婚してるし、今はお爺さんの家で暮らしてるから大丈夫。もちろん、連絡先は交換したよ。また近いうちに山口に行けるといいな。それから? 学校の友達に会って、立ち話してたときに悲鳴が聞こえて。周りの人がテロだ毒ガスだとか騒ぎ始めたんだよ。みんな一斉に駅のほうに走り出したんだけど、そのときぶつかられてスマホを壊された。ごめん。こういうとき警察に行ったら犯人見つけてくれるかな? ぶつかったやつ。すぐただの煙だってわかったんだけど、たまたま近くにいたせいで警察に捕まっちゃって。あ、一緒にいた友達? 隣のクラスの高濱。サッカー部のキーパーだよ。ああ、それで時間食ったんだ。むかつくから解放された後二人でドムドムバーガー食べて、帰ろうとしたら電車止まってるし。鳴港なるこう線、テロの対象なんだって? めちゃくちゃ遅れてるバスを乗り継いで来た。酷かったよ。混んでたから高濱を先のバスに乗せて、俺は後のに乗ったんだ。けどこれがまた……。

 高濱なんて、まともに喋ったこともない。

 こういう嘘を俺は柳井の車の中で考えた。でも右肩の傷だけはどうしようもなく、スマホを落とした時に転んだだけと言い切って誤魔化した。幸い、ガーゼの裏の縫い糸まで見られてはいない。怪訝そうな母さんの顔は、生姜焼きを食べる頃には消えていた。

 どうして俺は、誤魔化したのだろう。

 本当をことを信じてもらえない?

 普通はそう思う。

 それほどまでに現実離れした経験をしてきたんだ。

 でも、俺はまた、諦めていただけだ。

 あの時みたいに。

 母さんをやっと目覚めさせたあの時みたいに、ぶつかっていく強さがないんだ。

 繰り返す朝と夜。

 巻き戻せばまた違う景色。

 十四歳の、冬。

「母さん!」

 ハイツ浦安。

 珍しく鳴居に雪が降る日。

 肩に雪を乗せながら、俺ははじめて母さんに怒鳴ったんだった。

「もう止めろよ!」

 家にいたくなくて、沢山の本を読んだ。

 家にいるときも、何も見たくなくて、沢山の本を読んだ。

 なのにどうして、肝心な時に言葉は出てこないのだろう。

 どれだけ感動的な物語を読んでも、人が死ぬ物語を読んでも、俺に合う言葉が見つからないのはなんでだろう。

「なぁ、父さんの墓参りに行こう。死んだ後の父さんに、まだちゃんと会いに行ってないだろ?」

 俺はしゃがみ込み、不思議そうな顔を俺に向けている母さんを抱きしめる。

 折れてしまいそうなほど、細い。

 どれだけ寝ても、くっきりと残る目の下の隈。

 乾燥した唇。

 木造の部屋をまるごとゴミ箱にして、自分自身ゴミになってしまおうとする。

 母。

「俺は父さんに助けられて、嬉しかったよ。でも母さんは、俺が助けられて悲しいだけなんだね」

 風呂に入ってない体の臭い、セブンスターの臭い、生ゴミの臭い、全てを俺は抱きしめる。

 母さんの体は震えている。

 どれだけ温めても寒い体。

 心も。

 俺の熱は伝わるだろうか。

良典りょうすけ……」

 弱々しく俺の背中を掴む手。

「父さんじゃない。俺は晃太だ」

 母さんが全力で俺の体を突いた。

 ゴミ袋の中に隠れるように、部屋の隅で丸くなっている。

「俺のことがわからないの?」

 暗い。

 死にかけた電球が、俺たちに似合い過ぎている。

「母さんがどれだけ父さんを好きだったかはわかったよ。だからってどうしたら良いのかはわからないんだ。俺は父さんの代わりになれない。父さんが生き返ることもない。母さんが父さんを忘れることもない。母さんには俺が見えない!」

 母さんを馬鹿にするやつに殴りかかったことはあるけれど。

 俺は親との喧嘩の仕方を知らないんだ、賢志。

「死……良典のところへ行けば……」

 澱んだ顔が、台所へ向く。

 死ぬ?

 母さんが、父さんのところへ?

 弱々しく立ち上がる母さん。

 亡霊。

 ふらつきながら洗面台に手をつく。

「包、丁、」

 俺は。

 その腕を掴む。

「あんたみたいなやつが、父さんと同じところへ行けると思うなよ」

「やめて! 離して!」

 振り解かれないよう、力をこめる。

 骨の感触。

「天国がもし在ったとしても、死んだような人間が暮らすところじゃないのは確かだ!」

 そのままもみ合いになり。

 ゴミ袋の中に倒れた。

「このままじゃ、俺も、母さんも、無意味だよ……」

 俺は母さんを床に押しつける。

「せっかく父さんが残してくれた家族なのに。俺は、母さんと生きたいよ……」

 涙があふれ出す。

 緩んだ蛇口から悲しみの分だけ。

 歪んだ生活を堪えてきた年月全てを含み。

 父さんの死の苦痛と。

 母さんの絶望の量だけ、流れていく。

 落ちくぼんだ母さんの瞳の、虹彩が見える。

 濁ったオーロラ。

 そこに鏡映しになった泣きべそをかく俺。

 こんな俺が見えてるのか?

 今度こそ見てるのかよ……。

「晃、太、」

 何年ぶりだろう。

 名前を呼ばれたのは。

「晃太。ごめんなさい……」

 その瞳に映ってるのは、俺の涙と。

 母さんの涙。

 そして、俺は息子として、強く抱きしめられた、人生で最も力強く。


 やがて——。

 中学三年の春、ゴールデンウィーク直前。家に帰るとゴミ袋が根こそぎなくなり、炬燵布団は片付けられていた。

 灰皿も見当たらない。

 俺は驚きのあまり台所の前で立ち尽くす。母さんは伸ばしっぱなしだった髪を切り、白髪を隠すよう赤茶色に染めている。

「戻るわよ」

 唐突に母さんが言った。

 はっきりとした声だ。

 前の家は持ち家で、売らずにまだ残っている。

「どうして……」

「あなたが言ったんじゃない。煙草やめろよ。酒なんて麻薬と一緒だ。町中の人間が俺たちのことを臭いって言って馬鹿にしてる。ゾンビ、亡霊、社会の廃棄物……俺たちは人間だと思われてない」

 そこまで言っただろうか。

「でも」

「私たちは誰よりも人間よ。悲しみ、苦しみ、悩んできた。ふん、目にもの見せてやるわ。平々凡々不即不離、そんなに自分たちの舞台に立って欲しいなら立ってやろうじゃないの。他の自称人間たちが暮らしているやり方で生きてやるわよ。もう、むかつくわ!」

 その口調——その顔は父さんと一緒だったときのものと同じだった。

 飾らない、自己主張全開の、良い女。と父さんの言う。

 俺は。

 俺はその場で立ち尽くし、手に持った学生鞄を強く握りしめる。

 母さんはそんな俺を抱きしめてくれた。

「ごめんなさい。私は、父さんを、ちゃんと死なせてあげなきゃいけなかった。そしてお墓に会いに行くべきだったのよ。あなたのことを、見るべきだった、あなたは私の家族で、息子で、こんなにも愛してるのに……」

 俺の目元を拭き、母さんは荷造りに戻った。

「ほらあんたも準備しなさい。それとあんた、まさか就職するなんて本気で言ったんじゃないでしょうね? 私が教えてあげるから、何としても高校には行きなさい。行かなきゃ勘当よ」

 自分のこれまでを棚に上げて、なんて暴君だ。

 そう俺は思った。

 思って、とても、嬉しかったんだ。


 これが感傷ってやつなのかな。

 散歩を終えて帰ると、眠たそうな声で母さんに呼ばれた。リビングの受話器を手にしている。パジャマ代わりにしているスウェットのままで、寝癖が酷い。

「女の子から電話よ。何、あんたいつの間にたらし込むようになったの?」

 本気とも冗談とも取れない声音だ。母さんは俺に受話器を渡すと、二階に上がらず洗面所へ向かった。

「えーと。俺だけど」

 休日の朝、家の電話に掛けてくるような友人を俺は持たない。女どころか男でさえ。

「二〇一九年。この時代でもまだ俺俺詐欺は有効な金銭略取の手段の一つと見なされており、一部の収益は反社会的組織に流れているとも言われています。誤解を避けるため、始めに名乗ることを推奨します。出来ればあなたらしい一言も」

 俺はすぐに正体を見抜いた。

「波木晃太。君とは死線を共にくぐり抜けてきたばかりだろ、エナ」

「あなたが波木晃太本人であることを確認しました」

 受話器越しにデジタルな声が届く。

「よくこの番号がわかったな」

「タカキの時と異なり、固定電話の番号を調べるのは容易いのです。住所さえわかれば、お喋りなオペレーターが教えてくれますから。私はこの時代の個人情報に対する危機感の欠如を憂慮します」

「ハローページみたいなものか? まぁ、そういうのもあれば便利だろ。こうして話すきっかけにもなる」

「否定できませんね、それは」

 ところでどうして、紅じゃなくエナが掛けてきてるんだろう。

「紅はどうした? そこで一緒に聞いてるのか?」

「彼女は隣で眠っています。昨日は遅くまでタカキと訓練を行いました」

「そうか。どうだ、上手くいきそうか?」

「そのことで相談があってあなたを探していたのです」

「思わせぶりだな。どうした」

 紅に何かあったのか?

 いや、もしあったとしても柳井が助けてくれるだろう。

。彼をベニから引き離し、あなたがパイロットとしてアルファと戦ってください」

 ……え?

「これまでのタカキの言動、そして対アルファ用ARMシミュレーター内の疑似ESMで集められたデータから確信しました。彼はARMでアルファと戦う意志があるように見せかけ、本当はタイムリープ機能を使って過去に戻るつもりです。おそらくARMに乗り込んだ後、ベニを脅迫するのでしょう。このままではARMが彼に奪われ、アルファは日本を破壊します——そして私たちの時代と同じく、人類は敗北の谷へ落ちていく」

「ま、待ってくれ。柳井が裏切る? どうしてそんなことを」

「妻を救いたいからです」

 エナの抑揚のない声がリアリティを持って伝わる。

「本当にそうなら紅もわかってるはずだろ? 彼女はそんなに馬鹿じゃない」

「人は思い出を守ろうとします、コウタ。あなたも身に覚えがあるのではないですか?

 ベニは元いた世界で出会ったヤナイタカキ像を守ろうとしている。その気持ちが、彼女の正常な判断を妨げています。並のガーディアンでさえ、一緒に搭乗したパイロットの本心を見抜くことは容易い。それだけの訓練を受けていますし、死線もくぐり抜けています。彼女はただ真実に目を背けているに過ぎないのです。

 コウタ。シミュレーター内のサブモニターにははっきりとこう表示されていました。〈analysis result=偽〉と」

「でも、俺のときもその表示はあった。あれは俺が自分に嘘をついてたからで……」

「欺いている対象が誰なのか、わからない私ではありません。? もしタカキという男が欺くのであれば、誰に嘘をつくでしょうか。自分か、隣人か」

 俺は唾を飲む。

 まさか、それじゃ。

 それじゃ、日本は……。

「コウタ、助けて。私はあなたを信じています。そしてベニも、本当はあなたを一番信じているのです。あなたがベニとARMに搭乗していたとき。ESMにはもう一つ、別の分析結果が現れていました。それが何かわかりますか?

〈Analsys result=義〉ですよ。

 コウタ。この世界を救えるのは、あなたしかいません。旧鳴居港で待っています」

 電話が切れた。

 ツー、という虚しい音が耳に残る。

 受話器を持つ手が汗を掻いていた。


 繰り返す朝。

 早送りするだけの時間は、もう残ってないのかもしれない。

「五国ヶ原のケーキ屋さん、行こうと思ってたのになぁ。テロとかどうせ誰かの悪戯でしょ? 避難勧告なんて大げさよねぇ。お店閉めちゃってるかしら。ね、晃太も様子見に行ってみない?」

「母さんは危機感なさ過ぎ」

 鳴居市内の三カ所で予告通りの煙が上がった後、メディアはこぞってその事件を取り上げた。〈政令指定都市のお荷物〉だなんて自虐的に住民が語る鳴居市は一夜にしてあらゆるSNSでホットワードとなり、検索ランキングのトップを取り、そして朝になるともう人々の関心は急速に失われていた。テロ騒動を夜の夢の中に置いてきてしまったかのように。

 テレビでは最近人気の韓流男性アイドルグループが女子アナの質問に流暢な日本語で答えている。

「新曲のこだわりポイントを教えてもらえますか?」

「そうですねー、GEMが初めて日本語のラップに挑戦しています。これまでも、アルバム収録曲には英語ラップの入ったものがあったんですが。初めての挑戦ですね」

「作詞も僕なんですよ。ぜひ日本の皆さんに、僕の日本語が正しいかチェックして欲しいです」

 テレビの中で笑いが巻き起こる。GEMと呼ばれたメンバーは金髪で目にかなり濃いメイクをしていた。女子アナはその局では毎日見る顔だ。

 今日はどの星座の運勢が一番だろうか。

 嫌なニュースがなければ良い。

 昔は家族でソファに座ってテレビを観た。

 右に父さん、左に母さん、真ん中に俺。

 父さんの死後、ずっと空いていたソファ。

 次にそこに腰掛けたのは、未来から来たタブレット端末だった。

 ああいうのを運命って言うのかな。

 湿気た味付け海苔が舌にくっつく。

 味噌汁の表面がお吸い物のように透明だ。

 喉を通るはずがなかった。やっとパイロットが見つかったというのに、柳井はアルファと戦うつもりはまるでないという。このままだと紅の目的は達せられない。鳴居はアルファに好き放題破壊されて、俺も母さんもここを追われるだろう。

 日本人は皆、日本を追われるのだろう。

 エナが言っていることは正しいのか。彼女はただのAIだ。AIの意見を真に受けて良いのか。AIに人間のことがどれだけわかるっていうんだ?

 そうやってエナを否定しようとしても無駄だった。彼女は優秀なAIだ。そして、AIだからこそ——客観的な分析も可能になるんじゃないか。少なくとも、柳井への先入観を持つ紅よりは。

 助けに行かないと。

 助けに行かないとどうなる?

 俺は母さんと鳴居を出て行く。生き延びるだろう。アルファが出てきてからでも間に合うって紅は言ってた。それから日本は戦場に変わる。なら先に海外に飛べば良い。ニューナルイが将来出来るはずだから、アメリカで暮らすのが一番だ。賢志だって平野さんだってこの近くに住んでる。みんな逃げるさ。

 俺が助けに行かなかったら?

 柳井は過去に戻り、自分の愛する奥さんを助けることが出来る。紅はこの世界を救えなくて残念がるだろう。でもタイムリープした世界を救うチャンスはあるんじゃないか? 難しいことはよくわからないが、この宇宙には同じような世界が沢山あって、俺が暮らしているこの世界はその内の一つでしかないらしい。だったら別の世界だって彼女にとっては構わないはずだ。そこにも鳴居市があってアルファが来る。優秀なパイロットとして、柳井は今度こそ協力してくれるかもしれない。

 そもそもアルファが来て、日本を戦場に変え、ニューナルイが作られ、ARMを開発する。それがあるべき姿なんだ。俺が助けに行かなかったからと言って、その正当な未来が悪化するわけじゃない。引かれたレールに正直に、未来が続いていくだけ。

 何を頑張る必要がある?

 命をかけて、危険をおかしてまで?

 そうだ、そうだ、そうだ、そうだ、そうだ。

 そうじゃないか。

 俺は母さんとともに逃げる。

 それが最善だ。

 だけど、俺は、そんな想いとは相反することを口にしている。

「母さん。もし俺が——俺が、父さんみたいなことをしようとしたらどうする? 誰かを助けるために、危ない海に飛び込むんだよ」

 海には俺を待ち受けている濁流がある。

 どうしてこんなことを話さなきゃいけないんだ。俺は、さっさとこの朝飯を食べ終えて母さんと一緒に安全な場所に避難すべきだ。時計の針は七時四五分。アルファの出現まであと十五分ある。早めに動いておくほうが良い。そのためには、本当のことを話さないと。

 母さんは俺の言葉を待っている。

「紅がさ。彼女は本当は、未来から来た人間なんだよ。自衛隊の人。世界を救いに来たとか言うんだ、びっくりだろ? でもそれは本当のことだった。

 あと十五分で、マリモとナマコのあいのこみたいな気持ち悪い化け物が鳴居に現れるんだ。そいつは地球を侵略するためにやってきた地球外生命体で、どんどん進化して人間の手には負えなくなる。でも二〇五二年に作られたすごいロボットで戦えば、勝てるかもしれないんだ。だから彼女は未来から来た。そして今日までずっと、そのロボットを操縦してくれる相棒を探してた。

 俺はそんな彼女を手伝ってた。役に立ったとは自分でも思えないけれど、とにかくパイロットは見つかってさ。さあ決闘だ、ってなった今になって、そのパイロットが裏切ろうとしてるらしいんだ。とんでもない悪党だよな。でも、どうしようもない。紅だけじゃアルファと戦えないし、他のパイロットなんていないんだ。

 俺以外には。

 意味わかんねぇよ。たまたま出会って、助けて、巻き込まれて、痛い目みて——結局俺にかかってるなんて。世界を救えなんて。

 別に俺じゃなくて良かったじゃないか。

 俺が、どうして、なんで俺しかいないんだよ。

 他にもっと適任がいるだろ?」

 日めくりカレンダーの表記は、二〇一九年八月二十五日、日曜日。

 紛うことなく、日本が侵略される元日。

 俺は、武器になり得ないひと揃いの箸を持ち、椅子に腰掛けているだけ。

「——私のせいね」

 母さんが茶碗を置く。

「あなたが今ここでこうして朝食を取っているのは、私のせいね。ごめんなさい。もしもその化け物を倒せなかったら、私のせいね」

「ち、違……」

「私は偶然とは思わない。晃太は図書館に行く途中、苦しそうな声を聞くと無視出来ずにその声の元を辿った。そして紅ちゃんが倒れているのを見つけて、私の元に連れてきた。彼女が困っているから協力した。その選択は全てあなたの意志よ」

「成り行きだよ」

「あなたは父さんの行為も成り行きだと言い切れるの?」

 母さんの声が、痛い。

「目の前の海が危険かどうかなんて関係ないのよ。助けたいという想いがあるのなら、ね」

 ——命と命の天秤じゃないのよ。

 ——想いは、それとはまったく違うところで人を動かす。

 紅の言葉が蘇る。

 俺はなんて弱いんだろう。

 母さんの顔色を窺って、やっと動ける。

 父さんには全然及ばない。

「母さん、逃げて」

 席を立つ。

「とにかく南へ。あいつから離れないと」

 そして俺は、家を飛び出した。

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