三章 天秤の外側(4)

 二〇一五年十月三日、秋。

 鳴居第二中学校体育祭。

 グラウンドではクラス対抗の棒倒しが盛り上がっている。一年生の試合が佳境に入っており、もみくちゃになっているクラスメイトたちを俺は教室の窓から見下ろしていた。

 手には文庫の『伊藤静雄詩集』。特に読みたい小説がなく手に取った萩原朔太郎の詩集が気に入り、図書室にある近代詩を漁り始めたところだ。

 俺が出なければならない個人競技はもう終わった。

 後は他のやる気があるやつに任せておけば良いと思い、一人読書に励んでいる。

 上から体育祭を他人事のように眺めていると、「見ろ、人がゴミのようだ!」と嗤う某悪役の気分を味わえた。

 本当は俺が一番ゴミなのに。

 ——小便でもしに行くか。

 読書の箸休めとして、俺はさほどしたくもないのにトイレに向かう。廊下を出て左手にある男子便所に入ると、家に帰ったかのような錯覚を覚えた。

 煙草の臭いだ。

 誰か隠れて吸う生徒がいるんだろう。そういう噂は入学したときから聞いていた。俺は関わり合わないよう一番近くの小便用便器の前に立つ。用を足し手を洗おうとしたとき、後ろから思いがけず声を掛けられた。

「お前、こっち来いよ」

 無視すれば良いものを、反射的に振り返ってしまう。

 奥の個室から顔を出している男には見覚えがあった。同じクラスの、笠原とか言うやつ。

 野球部のピッチャーで、かなり上手いとこれまた噂で聞いていた。

 友達のいない俺には、他人が話す噂話しか耳に入ってこない。

「何だよその顔は」

 笠原の右手には短くなった煙草が挟まれている。細く整えられた眉がいかにもやんちゃな野球少年といった感じだ。

 絡まれた。面倒臭いな。

 そう思って逃げる言い訳を考えていると、笠原は急に顔をほころばせた。そして左手でポケットから煙草の箱を出すと、器用にその中の一本だけを持ち上げ、俺に向ける。

「ほら、これ。お前もやるんだろ?」

「え?」

 箱は全体が紺色で、中央に金の鳥が描かれている。ナスカの地上絵に似ていた。

 俺が戸惑っていると、笠原は顔をしかめる。

「なんだ違うのかよ。お前いっつも煙草臭いからよ」

 それは何人かの先生にも指摘された。制服が煙草臭い。鞄に焦げ跡がある。けど服が臭いのは母さんがろくに換気もせずに家で喫煙しているからで、鞄の焦げ跡は吸いながら寝てしまった母さんが押しつけて出来たものだ。

 うちの事情は瞬く間に全教員に知れ渡り、今では誰もが見て見ぬふりをする。

「俺は吸わない。母さんがヘビースモーカーだから、臭いがつくんだよ」

「ふうん。晃太、だったな」

 もう半年も一緒のクラスなのに、まともに話すのは始めてだ。

「色々聞くけどさ。マジなわけだ」

「さぁ。誰が俺の何を話してるのか、よく知らないし」

 父さんが死んでから散々この手の話題の相手をしてきた。説明しても無意味だ。母さんは悪くない、母さんは被害者だ、吠えてもみんなが俺に同情するだけ。そして他人に同情してる自分自身に満足し、悦に浸るだけ。俺が虐待の被害に遭っていると通報するお節介な人もいた。でもそんなことは一切ない。母さんは一人で悲しんでいるだけ。誰にも——俺にさえ——邪魔できないだけなんだ。

「どうせお前の親父はぴんぴんしてるんだろ」

「は?」

 次は笠原がきょとんとする。

 聞こえなかったはずはないが、どういう意味か咄嗟にわからなかったのかもしれない。

「なんだよ。俺の話してんじゃねぇ、お前の話してんだよ。なぁ、お前、それで良いの」

 笠原は俺のために出した煙草に火を点ける。

「煙草はさ、いっつも一階の職員用便所でやるんだけどよ。さっき数学のタクローが入ってったからわざわざここまで来たんだ。でも同じサボり見つけたし、まぁ当たりだよな」

「俺は出番が終わっただけだ」

「クラスのみんなが必死になって棒倒ししてるのに?」

「俺は〈みんな〉の中に入ってない」

「そう思ってるのはお前だけだって。香步かほちゃんとか、お前のこと格好良いって言ってたぜ」

「——もう行く」

 背を向ける俺の手を笠原が掴んだ。

「待てって。返事がねぇよ。

 俺は振り向きざま睨めつけてやる。

 けれど笠原は煙草の煙を噴かしながら。

 にやついていた。

 嘲ってる感じはしない。

 俺を同志だと思って、楽しんでる?

 理由なんて考えてないだろう。

 怒ってる俺が馬鹿みたいだ。

「まぁ、良くはないな」

「だろ? 俺もそう思ってたんだよ。煙草ってのは体に良くない。そのせいで俺は9イニング投げ切る体力がないし、試合中にヤニ切れしてコントロールはぼろぼろ。ひでぇ有様だ」

 こいつは何を言ってるんだ。

 話が繋がらない。

「そうだろ? だから俺は煙草をやめる」

「一人芝居なら勝手にしてろよ」

「だからお前も親に煙草やめさせろ」

 ——何だって?

「煙草、やめさせろ」

 一度離れた視線が、もう一度交差する。

 今度は真剣勝負、野球選手の目だ。

「どういう理屈だ」

「お前が煙草の臭いしてたら、俺が吸いたくなるだろ? 俺が煙草を吸えば吸うほど、野球選手としての能力は失われてく。そしたら野球界の損失だぞ! この豪腕賢志様は、いずれはメジャーで一六〇キロの直球とスプリットで三振の山を築く史上最高のストッパーになる男だからな」

「今から抑え狙いかよ」

 さっきの体力云々の話はどうした。

「うるせぇ、とにかく約束だ! ちゃんとしねぇと日本野球機構NPBの連中がお前んちに乗り込むからな」

「むちゃくちゃだ」

「お前の母ちゃんほどじゃねぇよ」

 平気で人の傷口を抉ることを言う。

 なのに何故だろう。不思議と苛つかない。

「さらに今なら出血大サービス。香步ちゃんをお前にくれてやる」

「欲しいとは言ってない」

「要らないのか?」

「要らなくもない。……お前の彼女?」

「いや? これからそうなる予定」

 吹き出してしまった。

「んだよ。マジだっての」

 笠原は二本目の煙草を吸い終え、便器で流す。俺も体操着に臭いがついてるだろう。制汗スプレーで誤魔化そうか。

「お前はなんで煙草なんか吸ってるんだ?」

 俺が中学で誰かに質問することになるなんて、思わなかった。

「覚えてないな。かっこ悪いだろ? だからやめたいんだよ。晃太、協力しろよ、頼むぜ」

 笠原が俺の肩を叩く。

「ったく。どういう理屈だよ」

 かなり、久しぶりに。

 悪くない日だ、と思った。

 賢志は本当に煙草を止めたかったのだろうか。本当に喫煙者だったのだろうか。偶然二階のトイレで隠れて吸っていたのだろうか。

 今さら本人に聞こうとは思わない。けどあのピース・ライトの箱にはぎっしりと煙草が詰まっていた。そしてあいつはマラソン大会でぶっちぎりの一位を取る、学校一のスタミナお化けだった。


 ——賢志と初めて話したことのこと。

 ずいぶん昔のことみたいだ。

 とっくに受付を締め切っていた院内は静謐を極めていた。二階から上は入院患者がいるらしいが、まるで気配がしない。夜の病院は一層陰鬱な雰囲気を醸し出していて、平野さんならやれ幽霊だ怨念だと駆け回るだろう。

 いや、彼女はホラーは苦手だったんだっけ。

「中谷さんのお願いなら仕方ないねぇ。しかし東京行きも急だったけど戻ってくるのも急だし、怪我人連れてきて助けてくれなんて……相変わらず規格外の仕事してるよ」

 白髪の医者は柳井と話しながら俺の右肩の傷口を縫った。麻酔はとんでもなく痛かったが、おかげか針と糸の感触はない。ぬいぐるみになった気分だ。

「やりがいのある仕事ですよ」

「本気で言ってるなら同情するね。足洗いたいんだったら仕事は斡旋するからさ。声かけてよ」

「定年退職した後で検討してみます」

「何言ってんだいインテリヤ……いや、冗談のセンスは良くなったみたいだね」

 インテリア? 以前仕事の関係で偽名を使って接触した医者だと言っていたけれど、北欧家具でも売り込んでいたのか。

「はい終わり。非公式の仕事だから、糸抜くときは他の病院行ってね。私の名前は出さないように。縫った医者がとんだヤブだったとか適当なこと言っといてよ」

「は、はい……」

 体を縫ってもらったのは初めてだ。何日か入院するものだと思っていたが、すぐ動いても問題ないらしい。試しに歩いたりペットボトルを持ち上げたりしてみる。糸が切れるんじゃないかと心配だったが、意外と強度が高いみたいだ。

 診察室の外で紅が待っていた。

「あら、思ったより元気そうね。自称普通人のわりには頑丈じゃない」

「分析中、分析中……ベニは安堵しています。あなたが無事であることがとても嬉しい」

 紅がタブレットを裏返す。

「調子に乗りすぎよ。今後は私の指示以外の行動を禁じる」

「その命令は受け付けられません。現在管理者権限は豊崎紅、波木晃太の二名に設定されています。一方の管理者の権限を、もう一方の管理者が奪うことは許可されていません。詳しくはマニュアルをご確認ください」

「だってさ」

 紅はタブレットから目をそらし、腕を組んだ。

「診察室内の会話を聞いていました。タカキは私たちと違って演技が上手いですね、コウタ」

「出よう。ここはあまり長居するところではない」

 柳井が駐車場に向かって歩き始める。

 その後ろを紅とエナがついていく。

 俺は去り際に診察室の扉をもう一度見て、目が離せなくなった。

 父さんもこんな部屋で働いていた。大病院の勤務で忙しいのに、俺は転んで擦り傷を作る度に父さんのところに行きたがって駄々をこねていたらしい。

「波木。行きましょ」

 言われてはっとする。

 慌てて二人の背中を追いかけた。

「見た感じ普通の病院みたいだけど、さっき非公式って言ってたのは?」

 俺は疑問を口にした。

「指名手配犯が警察の手を逃れるために整形するという話は、聞いたことがあるだろう?」

「ああ。テレビで」

「大けがをしていたはずの犯人を逃避行の末に逮捕してみると、傷口がやけに綺麗に塞がってる、というのもある。そうでなくとも日本には反社会的組織の人間、無戸籍の人間が一定数いる。そんな訳あり人間の駆け込み寺として、こういう病院が存在するんだ」

「犯罪者を治療するなんて、納得いかないな」

「罪人は傷を癒やす権利を持たないのだろうか。死にかけていたらそのまま死なせてやるのが罪人に対する正しい対処法なのか。難しい問題だが、どのような人間でも平等に治療を受ける権利があると考える医師もいる。ま、ここでは偽装のためだけの整形は受け付けていないが」

「お爺ちゃんも訳ありなの?」

「私の目的はここに通う患者のほうだよ。仕事柄、表に出てこない人間の情報を得られるこの場所は抑えておきたい」

「これでベニは優秀な内科と外科の知人を得ました。安心してアルファとの決戦に挑めますね」

 エナが音量を落として話す。

「内科?」

 次は柳井の声。

「俺の母さんが内科医なんだ」

「ほう。では君も医者の卵なのかな?」

 医者の子は百パーセントこう聞かれる。そして実際に、かなりの割合で医者の子は医者を目指す。

 だけど俺は違う。

「柄じゃないですよ、そんなの」

「そうか、なら警官はどうだ? 君は向いているよ」

「俺がか?」

「本気さ。正義を貫く者は数多いが、正義を為す方法を考えられる人間はそうはいないものだからね」

 正義を為す方法、か。

 柳井が運転席側のドアに背中を預ける。

「これからのことだが。ここに来る時に話した通り、君を家まで送っていく。私と紅は明日に備え私の家でロボットの操縦訓練を行う。それでいいね?」

 俺は頷く。

 紅は何か言いたそうだったが、黙って後部座席に乗り込んだ。

 車通りの少ない夜の道を滑らかに進む。街灯を一つ通り過ぎる度に時間が進み、それは、近づきつづある終末へのカウントダウンという気がする。パイロットを見つけ、紅と柳井が全てを終わらせてくれるはずなのに。

 俺はそれを信じていないのだろうか。

 鳴居市に近づくにつれ、反対車線を走る車が増えてきた。

「君たちの目論見より範囲は狭いが、避難勧告が出ている。強制力はないからどれだけの住民が従うかは未知数だ。マスコミがかなり騒いでいるから、相当な効果がありそうだがね」

「それは良かったわ。波木のおかげね」

「良い計画だ。私も危機感を煽るため、警察内部に裏で手を回しておいた」

 対向車のヘッドライトが眩しい。

 この状況下で鳴居市に向かう俺たちは、自殺願望者のように映っているのだろうか。

 やがて車は大通りを離れる。

 俺も免許持ってればな。

 夏休みのうちに、教習所に通っておけば良かった。

 そんなことを考える。

 考えているうちに、目的地に着く。

「ここで良いかな?」

 俺は返事をするより先に車を出ていた。

 家の明かりは点いている。

 避難勧告の対象外のため、辺りは静かだ。

「紅。この辺はアルファが来てからでも間に合うんだよな?」

「あの腕のリーチを考慮しても、アルファから直接攻撃を受ける場所じゃないわ。でも戦闘による副次的な被害は避けられない。出現してから二時間の猶予で、出来るだけ遠くに逃げた方が良いわね」

「わかった。じゃあ、紅、頑張れよ。応援してる」

 紅が車を降りてくる。

 うちのシャンプーの匂い。

 彼女はふいに俺の体を抱き。

 さっと車内に戻った。

「また会いましょう。戦いが終わっても、あなたにはまだまだ協力者として頼みたいことがあるんだから」

 謝りたかった。

 一番危ない橋を渡る前に逃げ出すこと。

 俺には、紅みたいな想いなんて何一つないのに。

 たくさんの誰かを守るための手助けを、させてくれたこと。

 俺は、俺が唯一守りたい家のドアを開ける。

 憔悴した母さんに抱きしめられ、右肩の傷が痛んだ。

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